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いくひ誌。【1461~1470】

※日々弱さを溜めていく。


1461:【真夏と公園とベンチ】
どうしたんでさーだんなー。ネクタイを締めていると、マダラが鼻のあたまにしわを寄せた。「今は夏ですぜ。こんなクソ暑い中スーツなんか着こんで、ふだんは意地でも首輪なんぞと首につけるのを厭うていたじゃないですかい」「人と逢うんだ」「おめかしですかい。さてはコレで?」マダラは尻尾をくいと掲げ、ハートマークをつくった。「いしし、だんなにもようやく春が」「今は夏だぞ、マダラ。浮かれてないできょうのパトロールにでも行ってきたらどうだ」「このクソ暑い中でですかい? そりゃ虐待ってもんじゃ」「霊体の分際でなにを言う」「だんなは知らねぇからそんなことが言えるんでさ。この器だってね、あんがい快適ってわけじゃいかねぇんですぜ」「さいですか」「あらら。にべもねぇこって」「きょうのはな、おまえのことでもあるんだマダラ。相手に気に入られるようにしていって損はない」「はぁー、さいですか、さいですか」「どこ行くんだ」「ぱとろーるでさ。だんなが言ったんじゃねぇですかい」「そうだったな。ごくろう」黒猫は身をひるがえし、さっそうと窓のそと、蝉の声の飛び交う灼熱へと飛びこんでいった。近くにきたから顔見せな。彼女からの文(ふみ)をカラスが運んできたのは、きのうの夜のことだった。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886472803


1462:【言葉が消える】
あたまのなかから言葉が消えるときがある。否、消えるのではない。たくさんの言葉が折り重なり、錯綜し、干渉しあうがゆえに、一つの筋道をあたまのなかから引っ張りだせなくなるのだ。絡みあった毛糸のようなものであり、クレヨンでしっちゃかめっちゃかに塗りたくった画用紙のようなものでもある。嫌いではない。おそらく、そうしたダマになった思考がなければ、発想というものは生まれないのだろう。すらすらと言葉がでてくるときや、つぎからつぎに閃きが浮かぶとき、それはダマが薄まった状態であり、けっして豊かとは言えないのかもしれない。濃すぎる思考は絡みあい、名前をつけることもむつかしい、言の葉におさまりきらない、巨大ながらんどうと化し、つぎなる世界を築きあげる余地を形成する。言葉の消えるくらいに煮詰まった脳内にはきっと、「世界」という言葉に仕舞いこむことのできないほど深淵な海が広がっているのだ。


1463:【感情を言葉にしない】
いくひしの信条として、じぶんの感情をカタチにしない、というものがある。たとえば創作活動には怒りを原動力にするといい、といった言説をときおり目にする。否定はしないし、どんなものでも原動力にできれば、それはエネルギィ効率のよい行動選択だと呼べる。負の感情をべつの媒体に出力できるのだから、お得感がある。ただし、原動力を得るためにわざわざ負の感情を抱こうとするとなると、やや本末転倒感がある。が、それもその人が納得しているのならば他者がどうこう言うべき事柄ではないだろう。もっとも、いくひしはそうした創作活動をしない。何か言葉を並べるときは、なるべくじぶんから距離を置きたいからだ。じぶんのことを言葉にしたくないのである。とはいえ、どこまでいってもじぶんという主観から脱して世界を視ることはできない。他者から得た情報とて、けっきょくはじぶんの内側で消化され、いったん養分に分解されないことには、出力可能な形態には変化しない。それはいちど見たものを細部まで記憶できる人間でも同様だ。何を見るか、或いはどこを見るか、という意思も含めて自我であり、主観であるためだ。加えて、人間は映像として知覚するものだけではなく、見えない情景を脳内で補完している。それを含めて、視覚情報として処理される。ほかの知覚も同様である。人間はつねに入力された情報を、過去の記憶と照合し、現在という虚構を構築し、認識する。それはけっして、真実そこにある世界そのものではありえない。ひるがえっては、どんなに自我から距離を置こうとしても、どこかで自我に足を引っ張られることになる。ともあれ、その限界付近まで自我から遠ざかることは可能だ。じぶんという存在の軌跡を置き去りにし、他者の知覚に、視点に、人生に寄り添う。同化する。そうしたさきにしか、いくひしの求める物語はないのである。いくひしの感情に関係なく、物語の彼氏彼女らは、各々の人生を、視点を、知覚を通して、生きている。あなたがいくひしとは無縁の世界で生きているのと同じように。みながいくひしに興味がないのと同じレベルで。物語はいくひしから遠く、べつの時空を漂い、流れている。


1464:【がぁああ!!!】
テーブルの脚に小指ぶつけた! ヨッタむかつく!!!


1465:【フラスコのなかの渦】
ぼくはフラスコのなかの渦だ。あなたが見ているときにだけ生じる現象にすぎない。あなたがいてもいなくともぼくはフラスコのなかで渦を巻いているのに、あなたが見ていないとぼくはぼくとして存在できない。あなたはぼくを眺めて、ぼくを生みだす。ぼくはあなたの眼差しによってのみ、ぼくとしての輪郭を得る。あなたはぼくをそこからだそうとは思わず、言葉もかけず、ただ眺める。ぼくの居場所はフラスコのなかにしかなく、外界の変化など関係のないはずなのに、あなたの眼差し一つで、ぼくは、ぼくであったり、なかったりする。ぼくはぼくでないときのぼくをしることはできないけれど、ぼくが単なるフラスコのなかの渦であることはしっている。ぼくはあなたに生かされ、いくどとなく殺されているのかもしれなかったが、あなたにその認識はなく、フラスコのなかの渦を眺めては、ぼくを無闇に生みだし、そして触れることも、関わることもせず、ただぼくにぼくを意識させ、ぼくを意識するあなたを望ませる。ぼくはフラスコのなかの渦である。それ以上でもなく、それ以下でもないはずなのに、あなたの眼差しが、ぼくを単なる渦ではいさせない。ぼくはフラスコのなかの渦であったはずなのに、いまではもう、あなたの眼差しを待ち焦がれる渦ではない何かになってしまったのかもしれず、そうではないのかもしれなかった。ぼくはフラスコのなかできょうも渦を巻き、あなたの眼差しを浴びるまで、ただぐるぐると黒いモヤを巡らせる。ぼくはフラスコのなかの渦でした。あなたの眼差しがぼくに息吹をそそぎこむ。


1466:【競ってどうするの?】
現状、日本の出版業界は、主として大日本印刷(&凸版印刷)が要となって引っ張っていっている実情がある(憶測です)。大手出版社と楽天がそこに連携して、アマゾンや外資系企業に対抗しようと踏ん張っているが、対抗策のほとんどが、「少数部数の印刷出版サービス(プリント・オン・デマンド)」や「取次ぎを介さずに行う出版社と書店への流通の一本化」など、二番煎じである以上、すでにビジネスとして市場にサービス展開をしているアマゾンなどの先行企業に太刀打ちできるとは思えない(やらないよりかはマシであるが)。大日本印刷(&凸版印刷)は日本を代表する世界的企業だが、すでに経営方針はAI(半導体)や、透過スクリーン、電源(バッテリィ)を不要とするIoTの開発など、電子デバイステクノロジィへと転換している(憶測です)。本に依存する現行の出版社とは相反する企業方針であり、ビジネスとしての紙の本が立ち行かなくなれば容易に連携が破たんする未来しか見えてこない。連携がうまく機能すればよいが、すでに実用化されていておかしくないサービスが未だに、運用されていないことを思えば、なかなかむつかしいのではないか、とどうしても悲観的に見てしまう。たとえば、書店のPOSデータを用いるだけでなく、店頭に置いてある書籍検索端末のデータをなぜ有効活用しないのか(いくひしが知らないだけで、されている可能性もあるが)。顧客が店頭で検索した本を(検索回数が多ければ)、顧客が取り寄せを希望せずとも、多めに発行し、流通させるなどのサービスは、出版社が主導でやろうとすれば、二年前には実用化できたはずだ。そうしたプロジェクトが企画されたとしても、実施できない理由が何かあるのだろう。だとすれば他企業との連携のむずかしさが露呈して映る(仮定を前提とした強引な結論)。出版不況と嘆かれて二十年が経つが、出版業界の未来はこれからも明るいままだ。なぜなら以前よりも信用のおけるデータを担保するサービスの需要はあがっているからである。だが、出版社の未来はますます暗くなっていくだろう。大日本印刷(&凸版印刷)が、紙媒体の復興ではなく、電子デバイスの開発へとチカラを入れているように、これまで出版ビジネスに触手を伸ばさなかった企業が、容易に市場へ参入してくるようになるはずだ。現行の出版業界にまかりとおっている常識はいともたやすく覆されるだろう。攻める姿勢もたいせつだが、競合相手のほうがいくぶん先を行っている。本当の意味で守りを固める時期に差し掛かっているのではないか。書籍のモトとなる書き手の、出版社離れを防ぐ手だてをいまから打ちだしておいて損はない。財布のひもを固くしていては、いざ助けを求めたときに、多くのつくり手からそっぽを向かれるハメになる。改善すべき事項の優先度を見誤らないことが、今後の機運を左右する。出版社には運を手放さぬようにしてもらいたいものである(もう手遅れな気もするが)(つまり、数年後、いまの十代から下のコたちが出版社を通して紙媒体で本をだしたいと思うようになるのか、という話になってくる)。


1467:【焼き払え!】
イキってやがる! はやすぎたんだ!!! あのね、まんちゃん。そうやってかしこぶってばか晒すのはまあいいんだけど、がんばってる人たちの足引っ張るようなこと言うのやめよ? 出版社のひとらめっちゃがんばってるよ知らないの? 知ったような口たたいて、上から目線で、人の努力をあざけるようなこと言うの、イクビシ、すごいやだなー。すきくない。やだ。やめよ? ね? そういうの、もうやめー。


1468:【天盆】
王城夕紀さんの小説「天盆」を読みました。王城夕紀さんは初めましての作家さんで、順番としては「マレ・サカチのたったひとつの物語」のほうをさきに買っており、二冊目となります。文体に惹かれて買った初めての作家さんになるかもしれません。文章の圧縮加減は、恒川光太郎さんに並ぶ心地よさがあります。恒川光太郎さんの場合は、圧縮率が描写ごとに変化する傾向にあります。圧縮する度合いに合わせ、物語の高度があがり、俯瞰的かつ抽象度があがっていくのですが、 王城夕紀さんの小説では、時間の流れがそれほど飛び飛びにならないという特徴のちがいがあります(飛ぶにしても、場面がいち段落してからです。裏から言えば、恒川光太郎さんは、場面のなかでも飛び飛びです)。文章の圧縮率が全文通してほとんど均等なのにも拘わらず、描写の濃度がまだらであったりするため、読んでいて退屈しません。ただし、神視点よりの三人称一視点であるため、さっこんのライトノベルやキャラ文芸に慣れていると頭を切り替えるのにすこしだけ抵抗があるかもしれません。盗める技術の満載な小説で、掘っても掘っても未知の化石(宝石?)がジャラジャラでてくる、みたいな感覚があります。ひさしぶりに作家買いしてしまう小説家と出会えました。うれしいです。やったー。王城夕紀さんの短編集なんかも読んでみたいので、ぜひぜひ王城夕紀さんにはたくさん小説をつくってもらって、出版社さんには本にしていただいて、いくひしの手元にまで届くカタチにしてもらいたいです。おねがいしまーす!


1469:【ラップバトル】
ラップバトルで、ヘイトを撒き散らすな、といった批判を目にする。まあ、でてくるだろうな、と思う。ふしぎではない。そういう批判もあっていいし、たしかにそういう面もありますね、となる。ただし、そうした批判も、可能ならラップバトルでぶつけてみてはいかがだろう、といじわるにも思ってしまういくひしがいる(ラップでなければ批判を口にしてはいけない、と言っているわけではない)。なぜならその理屈は、悪口大会で悪口を言うな、と批判しているようなものだからだ。ボクシングを見て、暴力反対!と訴えるのと似た構図がある。批判としてやや的外れに映る。ラップ=悪口ではないが、ラップバトルに限定して言えば、ラップ=相手への精神攻撃、という側面が根強いので、悪口やヘイトは常套手段となっていく。だが本質は、それを言うことにあるのではなく、どんな悪口を言われても、ヘイトを撒き散らされても、私は私だ、おまえの言葉は何一つ響かない、なぜならおまえの突いたつもりの弱点も、私にとっては属性の一つでしかないからだ、なんら瑕疵でも汚点でもない、と毅然として戦う姿勢を保つこと、築くことをラップバトルはそれをする者につよく求める。悪口を言うな、ではなく、それを言われても物ともしないじぶん自身を求めていこう。築いていこう。そういう姿勢があることはぜひとも考慮していただけたら、もうすこし建設的な議論ができるのではないかな、と思うのである。議論(どちらかと言えば討論)もある意味、ラップバトルだ。批判するな、では成立しない。批判されても物ともしない確固とした理屈を構築しよう。(むろん、ラップバトルが市民権を得てきている現状、アンダーグランドでのバトルと、公衆の面前でのバトルとでは、そこに求められる「空気」は違ってくる。棲み分けによって、バトルの質をどう変えていくのか、は早急に議論されていくべき題材であろう。言い換えれば、「嫌なら聴くな」が成立するならば、「聴こえない場所でやれ」も反論として成立する。表現の自由と同様に、表現を目にしない自由もまたこれからの時代では、保護されて然るべき人権の一つとなっていくはずだ)(ラップバトルではなく、商品化されたラップという楽曲について述べるのならば、それは通常の企業倫理に照らし合わせ、商品として市場に流通させるに値する配慮をしてほしい、と望むのは妥当な意見に思える。だとすればそれは、ラップだから、ではなく、商品だから、と主語を変えて議論する必要がでてくるだろう)


1470:【本日の妄言】
SNSやブログは、あと五十年もすれば、いまあるアカウントの大部分は、なかの人(アカウント主)が亡くなっている。アカウント主の消えたアカウントはどうなるのだろう。長期間使用されなければ、運用元の企業が独自の権限で削除するだろうとの見立てが、いまのところ高そうだ。ブログなども同様に、サーバーを管理する企業が倒産したり、サービスを停止すれば、データとして残らなくなる。しかしいずれ、クラウドが普及し、個人でも無制限の情報を世界に散在するサーバーへとあずけられるようになれば、管理会社とて容易に個人のアカウントを削除できなくなる。そう遠くない未来、情報は一つの資産として見做されるようになる。クラウドは、データバンクとして機能し、或いはデータを貨幣価値に換算し、金融じみたサービスを展開する企業がでてくるかもしれない。じっさい現代であっても、ビッグデータは、企業買収や包括的業務提携といった名目で高値で取引されているはずだ。そうしたデータの売買を個人で、誰もが手軽に行えるようになっていく。そうなったとき、現在のSNSのようなものもまた、個人の資産として保護されるような環境が整っていくはずだ。著作権のように、一定の期間は、たとえそのサービスを運用する企業でも削除することはできなくなる。そうした法律が整備されるようになっていく公算が高い。言い換えれば、ネット上での活動もまた人権の範疇に取り入れられるくらいに、人々の生活に情報社会が深く根付いていくことの裏返しでもある。駅から切符はなくなり、現金を持ち歩く者もなくなる。人々は端末を所持することなく、生体認証で、生活の至る箇所に設置されたIoTを通じ、データをやり取りする。眼鏡やコンタクト型デバイスで、視界を仮想現実へと拡張し、イヤホン型の脳内電子信号制御装置を用いて、思考するだけで電子機器を操作する。指先に装着した機器で、仮想現実内の物体を操ることもできる。また、脳内報酬系を電気信号で刺激し、任意の能力の出力を高めることも可能だろう。健康に害が及ばない範囲で、人類は睡眠や性欲までコントロールできるようになる。あと百年もすればそうした生活が、夢物語ではなくなっているはずだ。ひょっとしたら、五十年後にはすでにそうした未来が到来しているかも分からない。情報が通貨と同じような働きをみせるようになったとき、アカウントは個人の尊厳と密接に繋がることになる。現在のようにアカウントから個人を特定できるような社会は、それまでのあいだに陰りを見せるだろう。人々も個人情報の取り扱いにはもうすこし慎重になるはずだ。ゆえに、現代のような、すこし調べればアカウント主がどういった交友関係を築いており、どういう人物なのかを特定できるSNSコミュニティは、未来からすれば相当な資産価値を有するデータとして、重宝されるようになるはずだ。孫の代に資産を残したい人物がいるのならば、現行のデータを保存する方向に尽力すれば、ひょっとしたら子孫や未来人たちから感謝されるようになるかもしれない。企業もまた、コストの無駄だから、といった判断をせずに、資産になると見込んで、データの保護を率先して行ってみてはいかがだろう。


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参照:いくひ誌。【781~790】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884167570

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