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いくひ誌。【781~790】

※日々肉体の細胞のテロメアがすり減り、存在の枠組みに年輪が刻まれていく。


781:【フフーフ】
売り手の都合を読者に押しつけてるわるいこはだーれだ?


782:【作者】
つむがれた物語(虚構)が好きなのであってそれを生みだした作者を好きなわけではない(だいたい、会ったことがないのだからどんな人物かは判らないはずだ)。いくひしはいくひしのことを、いくひしのつむぐ物語を通して好きになってもらいたいけど、それと読者の所感はべつものであり、いくひしといくひしの並べる文章もまたべつものだ。貪れるだけ貪ってもらって構わない。無視しても酷評してもらっても一向によい。いくひしは、いくひしのつむいだ文章を、物語を、あなたのなかに産みつけたい。刻みたい。侵したい。こんな願望を抱いている時点で好かれるわけがないのだな。


783:【呪文】
読むだけで発動する呪文みたいなもので、それを読んでどう感じてもらうかは重要ではなかったりする。もちろん楽しんでもらいたいし、いい時間のつぶしかただったと満足してもらえるように工夫してはいるけれども、そんなのはいくひしの自己満足だ。すべては読んだひとの感じたことがすべてであり、同時に、読まれたことがいくひしにとってのすべてだ。いつ読まれるのか、それもまたたいした問題ではない。あなたにさえ読まれさえすれば。


784:【ちいさく見える】
じぶんがちいさく見える瞬間は、いまは圧倒的にツイターで流れてる絵描きさんの一枚画を眺めてるときで、描写力と画力の計り知れなさに胸をきゅんきゅん締めつけられながら、マジか、となる。世の中に天才が多すぎる。


785:【間もなく】
間もなく書店の過半数はある一つの企業の傘下に入るだろう。具体的には三年以内だ。なぜ解るかと言えば、いくひしがその企業の社長ならばそうした判断をとるからである。(ツタヤではないよ)


786:【戦略】
頭を潰したければまずは口を潰せ。口を潰したければ手足を縛れ。手足を縛られ、口を潰された頭にできることは、ただ言いなりになることだけである。


787:【二律背反】
作者としてのいくひしと読者としてのいくひしとでは、業界に対する見解は百八十度真逆だ。読者としては一生ついていきます、ワンワン、と尻尾フリフリだけれども、作者としては――いや、やめておこう。組織の構成員の大部分は良心的でとても良い人々である一方で、組織としては壊滅的な問題を抱え、放置されていることはままある話だ。出版社にかぎった話ではない。編集者一人一人は、これからも長く付き合っていきたいと思えても、組織として(或いは業界として)の欠点が放置されつづけているようでは困りものだ。物書きとして生計を立てている、いわゆる成功者たちの多くは未だに「デビュー」することが一つの到達点であり、そこからがスタート地点だと考えているようだが、もはや「デビュー」にさほどのメリットはない、といくひしは考える。WEB小説投稿サイトの手法――読者数を確保されたものを収穫する「牧畜(放牧)方式」を批判しながら、同時にポコポコ新人を量産し、返本分の不利益を新たな本でまかなう自転車操業の回転数をいまでは加速させている出版社や部署(レーベル)はすくなくない(憶測です)。いちどに刷れる本の部数が減っているため、作者の数を増やしているわけだが、そのツケは確実に数年後にやってくる(基本的にはまず書店にそのしわ寄せがいく)。どの版元も主力作品の映像化にちからをそそいでいるが、それも今では飽和状態になりつつある。事業を縮小させる方向に舵をとるほかに、出版社の生き残る道はないと言っていい(私見です)。では、そのとき、過去に量産された新人作家たちはどうなるだろう? 野菜を山盛りに積んだ器がその大きさをちいさくしていく。野菜はどんどん零れ落ちていく。いちど落ちた野菜には傷がつき、売り物にはならない。かつては、零れ落ちていく野菜を拾いあげるほかの器もあったが、数年後には、上から落ちてくる野菜を受け止めるだけの余裕はなくなっているだろう。どちゃどちゃと野菜は落ちつづけ、いつしか器への怨嗟を溜めこんでいく。器に載っている野菜を育てているのは、器に捨てられたかつて野菜だった者たち、そして野菜を夢見ては土に埋もれている多くの堆肥たちだ。そこから目の敵にされた器にはもう、新たな野菜は巡らない。いまある手持ちの野菜でしばらくは保つだろうが、そのさきはただただ不毛な飢饉が待っている。間もなくその兆候が見えはじめるだろう。おぼろげながらも視えている者は、すでに何かしらの予防線を張っているはずだ。読者としては、是非とも多くの新鮮な野菜ジュースをこれからも送り届けてほしいと望んでいる。しかし作者としては――いや、やめておこう。畑が崩壊するのだ、野菜もタダでは済まされない。畑をたがやせ。じぶんだけの畑を。


788:【うぅー】
安西先生……デビューが、したいです。


789:【アラサーあやしの湯いい子いい子】
2017年10/02の昨日はマンガ三冊お持ち帰りしました。「アラサークエスト1巻」「いい子いい子してあげる」「あやしの湯ももいろ美人」です。アラサークエストはいくひしみたいなアラサー女子がジタバタ人生をもがく話です。いやべつにいくひしはアラサー女子ではないけれども、性根の腐り具合はまぁ似てる。あとはね、いい子いい子してあげるはBLなんだけど、受けのコが可愛いな。BLに限定せずとも活躍できそうな作家さんだなぁ、と感じた。藤谷陽子さん。あした売り場を漁ってみよう。そんで以って今回の目玉はなんといっても「甘々と稲妻」で有名な雨影ギドさんの最新作「あやしの湯ももいろ美人」だ! 「甘々と稲妻」とはちがってBLなんだけど、いや、これはBLとか抜きでおもしろいぞ。BLが加わってさらにお得感割増だ。じつを言うといくひしがはじめてご購入したBL漫画は雨影ギドさんの「青年発火点」で、はじめて購入した百合漫画も同じく雨影ギドさんの「終電にはかえします」だった。すごくない? ぜんぜん意図してたわけじゃない。たまたま手に取った漫画の作者さんが同じだったわけ。あとで気づいたわけ。むしろイマ知った。あ、それとこれは雨影ギドさんの作品でしたのね、ってな具合だよ、びっくりしたなーおい。前にも書いたかもしれないけれども、いくひしの百合入門書は志村貴子さんの「青い花」で、これを読まなかったら今のいくひしはないと言ってもぜんぜんまったくこれっぽっちも過言ではないね。他言無用ですらない。いくらでも世にひろめてもらって結構。世界の常識にしたいくらい。いくひしの百合入門書、「青い花」。ちなみに「終電にはかえします」を買ったときにはいっしょに西UKOさんの「となりのロボット」もご購入して、たいへんよい買い物だと、すっごーく満足した覚えがあるよ。去年の話かもしれない。そう、じつはいくひし、百合歴はそんなに長くない。今が絶賛熟し中のドハマリ中。そういう意味で、おとといにはHEROさんの著書のほかに、くずしろさん著の「兄の嫁と暮らしています」一、二、三巻を買ってきていたのだ。まだ読んでないけど、くずしろさんだし、おもしろくないわけがない。作品を通して作者を好きになることはないと豪語するいくひしさんでも、作品を通して作者の腕に惚れることはぜんぜんあるよ、ありまくりだよ。くずしろさんの腕のよさは、いくひしのなかでは西尾維新さんに並ぶ信用度の高さを誇っているね。ひとよりもかなりズレているようでじつは誰より王道、みたいなところも似ている気がする。両者共におすすめするまでもないくらいのおもしろさですな。あとはねー、これは単なる愚痴なのだけれども、いくひしはほぼ毎日片道8キロ、往復16キロをキコキコ自転車こいで通っているのだけれども、きょうは帰り、まさに自転車に乗ろうとしたところで、うしろのタイヤがぺっちゃんこになってるのに気づいたわけ。あしたも必要だから置いてくわけにはいかないし、まあ引いて歩いたよね自転車。片道8キロ。ちょうどウーロン茶2Lを買ってしまったあとでね、家に着いたときにゃー足ぱんぱん。もうね、足ぱんぱんなわけですよ。タイヤにも是非とも見習ってほしかったね。なにかってにぺっちゃんこになってんだよっつって、この足のぱんぱん具合を見て学べと、その目に焼き付けろよと言いたいところで、はたと気づいたね。え、なにその目みたいなの。丸いなんか目っぽいのが後輪タイヤにくっついてるわけ。ゆびでつまんだらとれたよね。画鋲。刺さってた。タイヤに。そりゃあぺっちゃんこになっちゃうわ、空気だって抜けちゃうわ、でもさ、これ、しぜんに刺さるってこと、ある? なくなーい? 百歩譲ってあり得たとしても、パンクするほど刺さらなくなーい? だって画鋲よ? ここぞとばかりに、タイヤの側面、地面とは接しないところに刺さらなきゃタイヤに穴なんて開かなくなーい? じっさいタイヤの側面に刺さってましたよね。目みたいにつぶらな瞳を向けてたよ。目があっちゃったよ、トキメいたよ。もうね、ないね。久々の殺意が芽生えましたもん、芽が生えちゃいましたもん、トキメクどころか即抜いたよ、画鋲を抜いたし、目を剥いた。そんなことってあるー? 嫌がらせにしてもひどくなーい? イジメですかね。へこみます。ぺっちゃんこ。そういや数年前にも一か月で五回パンクを直したことがあったっけ……。遠い目をしながらきょうもいくひしは、残された時間で新作をつむぐのである。


790:【現場】
現場の人間が俯瞰的に業界の動向を把握していることは稀だ。たとえばEV(電気自動車)だ。某大手企業の自動車メーカーですら、現場の人間はEVの重要性をまったくと言っていいほど理解していなかった。エンジンに関して高い技術を持っているにも拘わらず、である(否、高い技術を持っているからこそ、かもしれない)。自動運転技術もまた、夢物語だと語っていた始末だ(いずれも去年の話ではあるが)。電子書籍にしてもそうだ。情報伝達技術の発展を経験として記憶している世代と、それがそこにあって当然という社会に育ってきた世代とでは、目のまえに現れた技術への所感はほとんど別物だと言ってしまっていい。本の読みやすさは、それに馴染んできた世代だからこそ判ることだ。仮にツイターの文章が本に印刷されたとして、スマホの画面より読みやすい、なんてことはあり得ない。いくひしですら、紙の本ではなかなか読み進められなかった小説が、ディスプレイを通して読むとスラスラ進んだ、といった経験をしたことが一度や二度ではない。あべこべに電子書籍ではおもしろかったのに、本で読むと目が滑る、といったことも経験している。これはいくひしの読書人としての経験の浅さが影響していると考えられる。いくひしは、本を読むよりも、ディスプレイで文章を読む時間のほうが通算で多いのである。そしてこれからさき、世のなかの大部分の人間が割合として「いくひし型」の文章への慣れ親しみ方をするようになっていく。本の利便性は、これからの社会では優位性とはならないのである。むろん本がなくなるとは思わない。ただしあらゆる面でコストがかかる。その点、電子書籍は、これからさき、技術が磨かれていくことはあっても、衰退することはまずないと言っていい(人類が過ちを犯さないかぎり)。本の需要と電子書籍の需要が逆転し、まず電子書籍をつくり、それから本にする、という図式が浸透すれば、いまある電子書籍の欠点は根こそぎ、殲滅されるだろう。しかし、それをするのは、いま現在、現場で最先端をいっている人間ではない。新しく、これからをつくろうとしている人々なのである。


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参照:いくひ誌。【711~720】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883985238

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