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いくひ誌。【1451~1460】

※日々、どうでもよくなっていく。


1451:【上達と成長】
上達するためには欠点を見出さなければならない。それはそうだ。しかし、成長するためには、必ずしも欠点が入り用というわけではない。ただただ好きなもの、取りいれたいもの、憧れや、羨望によって、新たな素材を継ぎ足していくだけでも成長はもたらされる。欠点に目を向けず、ひたすらあれこれと取りいれようと遊びつづけていられる人間のほうが、じつはずっと成長がはやい。ただし、どこかでつまずくことになるので、そうしたときに、上達という概念が欠かせなくなってくる。欠点を見詰めることもまた、ある種の訓練が必要だ。いきなり上達しようとしても、なかなかできるものではない。上達と成長、どちらかいっぽうだけに傾倒しているだけでは、歩みは止まってしまうものなのだろう。とはいえ、止まることも一つの動作である。ときおり、止まる練習もしておいたほうがよいかもしれない。


1452:【ぽかりすうぇっと】
いくひしでござる。やー、なんか、自転車キコキコって陽炎を蹴散らすじゃないですか、坂道もなんのそのって日差しになんか負けてらんねーですよ、勝って勝って勝ちまくりでござるよ、や、でも、さすがに上り坂は自転車を押して歩きますけども、きょうもきょうとて、えーんや、こーらさって、果てなき道を越えていった結果、行く先々で、おつかれさまでーす、って挨拶するたびに、「雨降ってたの?」って訊かれる。なんでや! これは、汗!!! だって暑いし! 自転車ですし! あんたらがエンジンぷんすかかけまわっとるから余計にわしが暑いんじゃボケー!!! 怒ったわけじゃないですけど、思ってもないですけど、汗を雨と間違われるくらいには発汗するいくひしですけど、きょうはポカリスウェットの1.5リットルがスッカラカンになってしもうた。飲まなかったら、いくひし死んでるで。このひと月で体重がどんどん減ってく。顔はでもむくんでるので、なんかバランスわるい。日差しがね、や、雨よりはいいですよ、ぜんぜんカッカしてほしい。でもね、さすがにね、負けてよくない? 負けてらんねーですよ、とか意地張って、張りあって、なんの得があるってんだい。なんもねーじゃねーか。あたまとかクラックラですわ。帰りはほら、陽が沈んでいるわけで、多少はね、多少は張りあえるかなって思うじゃないですか。坂がね、多いんですよ。帰りとかね、登山かって感じでござる。もうね、帰りとかね、滝に打たれてきたの?って訊かれてもおかしくはない、むしろ誰か訊いて、ちょっとそこのあなた!って呼び止めても、「なんかこのひと融けてるー!?」って逃げられるくらいの、汗だく模様でござるよ。せっしゃ、雪だるまでござる。ポカリスウェット、もう一本いけますわ。シュってなってるから。今いくひし、シュってなってるからね。水ルフィよろしく、ポカリスウェットでおなかをパンパンにして、ぽんぽこりーんって、しながら、ぽんぽん冷やさないようにバスタオルを腰にまきまきしながら寝ようと思います。あとね、ことしは蚊がすくないって言ったやつ誰や。ぜんぜん刺されとるやんけー! ポカリ!と蚊を叩き落として、スキッとしたいって、そこはスウェッとしとけやー。なんやスウェットってー。汗やー。おやすみー。


1453:【はいダウトー】
行く先々で誰がまんちゃんに訊くって? あいさつ? 幽霊でも視えてるのかな???


1454:【花】
調べ屋に入ってくる依頼の多くは、鑑定と仲介だ。鑑定は骨董商と変わらない。扱う代物がちょいといわくつきである傾向が高いだけで、基本は値踏みだ。その場で買い取ることもある。仲介は、結果としてそうなるだけのことであり、こちらでそうしたサービスを謳ったことはない。これこれこういった問題があるが、なんとかならんか、と相談を持ちかけられるわけだが、こちらの専門外である場合もすくなくなく、そうしたときは専門家を紹介する。依頼主の多くは、問題の根本要因を見抜けない。だからこそ、見抜ける目を持つこちらを頼るのだろう。言ってしまえば、調べ屋の仕事とは、原因究明だ。必ずしも問題を解決することではない。きょうの仕事は、依頼内容としては比較的多い部類の、「よくわからんので、なんとかしてくれ」というものだった。便利屋と勘違いされるのには慣れている。たとえば、屋根裏に何かいるようで足音がうるさい、なんとかしくれ、なんて依頼は十件に一件の割合で飛びこんでくる。庭の植物が急に枯れだした、変な病気にかかっているかもしれない、なんとかしてくれ、なんて依頼も珍しくはない。夜になると目が光る動物が駆けまわっている、罠を仕掛けても効果がない、なんとかしてくれ、だとやや対処に困る。真実に動物である可能性が高いためで、そうしたときはまずは現場を目にし、糞や足跡を見つければ、知人の猟師を紹介する。だが、動物の痕跡が見つからないときは、少々厄介だ。霊魔怪に素養のない人間にも視認できる存在は、十中八九、怪に属するアヤカシモノだ。事によっては人間が何人も、この世から消え去ることもある。扱いには慎重にならざるを得ない。反面、目撃談のない依頼の多くは、霊や魔に属する。境会が結成されてからは、魔に属するモノたちは無闇にこちら世界の領域に干渉しない。知能が高い分、取り決めを交わすことができるので、厄介さで言えば災害級の彼らだが、いまのところ大きな問題を起こしたといった話は耳にしない。知恵が回る分、噂の立たぬようにうまくやっているだけかもしれないが、割合として魔に属する依頼はめったにないのは事実である。よって、依頼の多くは霊に属する事案となる。きょうの依頼もご多分に漏れず、霊だった。「庭に植えた覚えのない花が咲いている。切っても、抜いても、またすぐに生えるので困っている、なんとかしてくれ」とのことだ。家主は齢八十で、独特な方言を使われるものだから、言葉の解読に難儀した。「ふしぎですねぇ。でもなぜ私のところに?」なぜわざわざ胡散臭そうな調べ屋なるものに依頼したのか。返ってきた言葉を解読するかぎりにおいて、ほかの店はカナカナばかりで、何を営んでいるのかさっぱりだから、であるそうだ。単純な商号も考えものだ。スーパー・シーラ・ベーヤーにでも改名したほうがいいかもしれない。問題の庭を見せてもらった。立派なオニユリが咲いていた。「これですか」家主は、うんみゃ、と口をもごもごさせる。否定のようで、これは肯定の仕草だ。通訳の才能があるかもしれない。炎天下のため、家主には家で休んでいるように言い添える。ちいさな背中を見送り、問題の花に向き直る。オニユリそのものは単なる植物だ。見れば判る。ただし、大きすぎる。ひまわりと比べても遜色ない大きさだ。夕焼けじみた色がどこか警戒色を彷彿とさせる。家主にも視えていることから、アヤカシモノかとも思われるが、呪符を近づけても反応がない。化けているわけではなさそうだ。魔族は日差しを苦手とする性質があるため、端から選択肢から除外している。稀にそうした盲点を突く魔族もいるらしいが、きょうにかぎっては、魔族の関与を否定できる。単なる花だからだ。だが、ふつうではない。とすると、ナニモノカが花を憑代にしているのではないか、と考えられる。憑依とそれを言い換えてもよい。そう、たとえば、妖精とか。懐から呪具をとりだし、ゆびに巻きつける。精霊の羽衣だ。霊獣が死滅するときに、ある任意の条件下で結晶化するそれは霊素の塊だ。薄く剥がれるため、こうして呪具として使用できる。精霊の羽衣を巻きつけたゆびで、花弁を弾くようにすると、光る花粉を宙に霧散させながら、大きな蝶が三匹、浮きあがる。つぶらな瞳がこちらを向く。背中から羽を生やしたうつくしい人型だ。足がなく、どことなく人魚を思わせる。「わるいが、ほかを当たってくれないか」言葉は通じないが、害意のなさは伝わったのかもしれない。三匹の妖精は、誰が先導するでもなく、ひらひらと螺旋を描きながら飛んでいく。間もなく、古い屋根の向こう側、山のほうへと消え去った。妖精は成長すると精霊になると言われている。真偽のほどは定かではない。精霊は、霊獣のなかでも極めて格の高い存在だ。発見されしだい境会が動く。そのため、無害なはずの妖精であっても、発見した場合は、境会への報告が義務づけられている。とはいえ、あれだけ無垢な姿を見せられたら、そんな気も削がれるというものだ。なんでもかでも人間が管理できると思いあがるそうした傲慢さが、精霊の怒りを買うのではないか。思うが、むろん、災害相手に恩も仇もない。今回のこれは、単なる、不精者の横着である。家主がお盆に麦茶を載せ、やってくる。花に目を留め、目じりをさげた。オニユリはいつの間にか、白く鮮やかなヤマユリに変わっている。


1455:【さつまいも】
さつまいも一本いま二百円するのね。びっくりした。バナナひと房と同じくらいだよ、すごいな。スーパーいくとモノの価値ってなんだろうって思っちゃうよね。高いな、と思っても、じゃあそれをぜんぶイチからじぶんでつくったとして、いくらで売ったら元とれるって考えると、ぜったいそんな店頭の値段なんかじゃ売れないわけで。や、ありがたいなぁって話。小説なんて元手タダみたいなもんですからね。プロやほかの作家さんたちがどうかはしらないけど、いくひしさんの小説はタダでぜんぜん元とれます。読んでくださるだけでうれしい。対価はそれにて充分しごくでござる。きれいごとに聞こえる? きれいごとだもの、あたりまえじゃーん。いくひし、きれいごとだいすき。本当はいっぱいお金ほしいけど、そういうの隠してきれいごと貫くのすき。ぜんぜん隠しきれてない? 言っちゃてるって? えー? ほんとだっっっ!? はい。売れても売れなくてもどちらでもいいのです。小説は読まれなければ意味がないけれども、いま読まれる必要もない。いくひしの基本的な考えです。読まれなければ読まれないほど、売れなければ売れないほど、埋没していた期間が長ければ長くなるほど、このさきいくひしの小説群にスポットが当たったとき、そこには付加価値が生じます。積立みたいなものです。もちろん、いっさいスポットが当たることなく、誰の目にも留まらず、記憶にも残らず、消えていく可能性もあります。そのときはそのときです。いくひしのつむいだ物語はそれにて水の泡になるかもしれませんが、だからといっていくひしの人生が無駄になるわけではありません。小説が売れようが、売れなかろうが損をしない生き方をしています。小説のように、うそを並べるのはただそれだけで得るものがあります。ありていに、楽しいです。ということは、誰にも読まれなくても、元はとれているのかもしれません。だとすると、読者の方に読まれている時点で、それはボーナスみたいなものではありませんか。棚ぼたですね。ていねいに言い直しますと、棚からぼたモチです。らっきーです。やったー。考えてもみれば、いくひしのつむいだ小説がさつまいもやバナナより価値があるとは思えません。同じお金を払うのなら、さつまいもやバナナを買いたいではありませんか。こんなことを並べていると、自己肯定感が低い、とかなんとか言われてしまうのでしょう。ほんと、嫌な世のなかになったもんだ。あ、うそです。いくひしは自己肯定感が低いです。認めます。でも自己肯定感が低くても、困ってません。これからも自己肯定感ゼロを目指していきたいです。それはそれとしてこれはいくひしの印象でしかありませんが、さっこん、さつまいもやバナナの価値も解らない人間が増えてきている気がします。価値は相対的なものです。それはそうです。餓死寸前の人間にとって、ダイヤモンドよりも点滴や芋粥のほうが価値が高いように、お腹いっぱいでベッドでぬくぬくしている人間にとっては、さつまいもやバナナよりもプロのマンガのほうが価値が高いのと同じように、価値はそのときどき、人や場によって変わるものなのでしょうけれども、なんというか、いやはや。さつまいもやバナナが二百円で買える世のなかって、すごいなー。ともすれば、文庫本が一律、千円以下で購入できる世のなかもなかなかどうして捨てがたい。とはいえ、そろそろ本の値段の高騰は加速していくころではないでしょうか。本一冊にさつまいも三本以上の価値があると捉える人間が、果たしてこれからもいてくれるのか。バナナ三袋分の価値があると思ってくれる読者が、あらたに生まれてくれるのか。いやはや。想像するだに、たいへんそうだなぁ、とアイスをぺろぺろしたくなります。いくひしはぜんぜん、さつまいもやバナナ以下でいいです。張りあう気はありません。タダで、好きなだけ、読んでいただけたら、それで満足です。贅沢でござる。わーい。ありがとごじゃいます。言うてもべつに、あんたのために書いてるわけじゃないんだからね///(←頬が赤く染まったことを示す記号なんだけど、若い子たちにも伝わる? もうムリ? 時代遅れなのかな)


1456:【ツイッター休止の効用】
二か月つづけたツイッターを一週間ほどやめてみました。新作のほう、すこしだけ進むようになりました。インスタグラムの細々連作短編集のほうも、三千字くらいのやや長めの掌編をつくる余裕までできて、ツイッターはひょっとして眺めているくらいがちょうどよいのでは?という思いに拍車がかかりました。ツイッターは休憩中にやるようにしていたのですが、以前はその時間で本を読んでいたので、今週はまた本を読めるようになりました。時間の使い方がへたくそになっていた気がしていたのは、やはり気のせいではなかったようです。現状の生産量ですが、この「いくひ誌。」を含めれば、いちにちに七千字くらいを並べています。多くても一万字を超えないように抑えています。油断するとすぐに間延びした冗長な文章をつむいでしまうので、いまこの瞬間もその傾向にありますが、意識して削っていこうと思います。ツイッターをやっていたときは四千字前後でしたから、三千字分の労力と読書の時間がツイッターに消えていたことになります。すくないとみるか、多いとみるかは、ひとによりけりでしょう。ツイッターをはじめてから自作小説のPVが上昇傾向にある旨は以前から繰りかえし述べています。宣伝効果はあるようです。ムダではないのですが、いかんせん、疲れが溜まりやすく、創作活動に差し障りがあるようなので、これからは意識して控えるようにしていこうと思います。リツイートやいいねを押していないだけで、眺めてはいます。誰かの視線や気持ちを考えると、それだけ消耗するということなのでしょう。こんなにたくさんいいねを押したら気持ちわるがられるのではないか、いやしかし、こんないるのかいないのかもわからない相手の評価を気にすると思うほうが失礼なのではないか、だいたいほかの方々はフォロワーがたくさんいるのだから、リツイートしたところで気づかれなくない? なんて悩みながらツイッターをやっています。やはり、たくさんリツイートやいいねをすると、執着している、不愉快だ、と思われることもあるようです。気をつけていきたいな、と思います。世のなかには、なんでこれほどのものが?と思う作品が、陽の目を見ずに埋もれていることがあります。ぜひ、掘り返し、多くのひとの目に触れてほしいな(そして必要としているひと、相性のよいひとの元に届くといいな)、と望むものです。(話は変わりますが、黒金魚さんのWEB漫画「うちの普通」がすごく、すきです。あれだけ濃ゆいキャラたちを描き分け、かつ内面を描写していくセンスは尋常ではありません。また、それぞれの関係性が絡みあっていく様は圧巻です。一話完結型の短編が多く、余韻のある終わり方は、学ぶべき技法の宝庫です。ぜひいちどお目通しねがいたいです。http://kurokingyokkg.web.fc2.com/)(「うちの普通」をかるく読み返してみて気づきました。無意識でしたが、おそらく拙作「局部怪奇譚~人造乙女は心臓を止め~」は、黒金魚さんの「うちの普通」に影響を受けています。意識できないほど、深く、他者の根幹に影響を与えられるのは名作の条件だと思います。すばらしい)


1457:【仮定の話】
いくひしが出版社から本をだすことは今後ないと思われる。だが、もし出版社から本をだすとしたらどのような内容で契約するだろうか。すこし考えてみよう。たとえば例外はあるにしろ、基本的に著者には、本の実売数ではなく、刷った分だけ印税が入る。極端な話、一冊も売れなくとも、一万部刷ったらその分の印税が出版社から振りこまれる。印税は本の定価の8~10%が多い。千円の本が一万部ならば、百万円が著者の取り分となる(そこからさらに税金をとられるわけだが)。とはいえ、このビジネススタイルはもう長くはもたないだろう。実売数による印税か、それとも著作権ごと出版社が買い取る方向にシフトしていくのではないか、と想像している。ともあれ、すぐに変わることはないだろう。どこかのちいさな出版社が実験的に取りいれ、上手く経営が回るようだったら、大手が真似をする、といった流れになるはずだ。もしいくひしが出版社と契約するなら、初版の印税はもらわない。重版がかかってから印税をもらうようにする。そのほうが出版社共に得をするからだ。たとえば、初版の部数はどうやって決められるのか。出版不況のさっこんの傾向としては、初版がすべて売れれば、元がとれる、といったラインに規定される(いくひしの偏見です)。よって、出版社が利益をだすには、重版(増刷)しなければならない。もっとも、出版社には委託制度がある。返本された分をとりあえず新刊でまかなっておけば、本が売れなくても困らないのだ。決算期までに赤字分をまかなえるくらいのヒット作をだせればいいのである。言い換えれば、出版社としては、さいていでも初版すべてが売れる文章を本にしたいのだ(そうすればさいあく、経営難に陥ることはない)。だが実情として、初版ですら売れ残る本が出版物全体の大きな割合を占めている(ゆえに、年々、初版部数は低くなってきている)。であるならば、最低限、著者もまたリスクを負うのが公平な契約となるのではないか。初版が売れないのならば、それは出版社の負債(赤字)となる。著者だけが利を得るのは割に合わない。むしろ著者は、出版社から本がでた、という宣伝や履歴を得られるのだから、二重に得をしていると呼べる。ならばまずは初版のうちだけでも、印税はもらわないでいたほうが、公平な取引と呼べるのではないか。ひょっとしたら印税分、部数を多く刷ってもらえるかもしれない。また、リスク管理という名目で、初版のコストがかからない分、つぎからの仕事が入りやすくなるかもしれない。いくひしのように、三十冊以上の自著(電子書籍)があるならば、物理本を出版社からだした、という履歴は、大いに宣伝要素となる。それだけで、ほかの本の売り上げにプラスの効果が働くはずだ。初版くらいタダで出しても、まだお釣りがくる。よって、いくひしがもし出版社と取引をすることがあれば、そうした条件を提示する。その代わり、連載や書き下ろしといった条件は呑まない。すでにある自著のなかから、好きなものを持っていってください、といったスタンスをとることになるだろう。ただ、こんなふざけた条件を呑む出版社はいないだろうし、そもそも、いくひしの作品群に注目するような編集者も、この国にはまだ現れていないだろうから、或いは、単品であれば、ほぅ、と思った方もいらっしゃったかもわからないが(そもそも読まれていない可能性が非常に高いが)、いずれにせよ、いくひしが出版社から本をだすことは今後ない、とここに述べておく。むろんそれは、いくひしが死んだあとでも同様だ。伊藤計劃氏や宮沢賢治氏のようには、死んでもならないので、ご安心ください(べつに心配はしていなかった? あ、そう。心配して!!!)。


1458:【天空迷園】
天空迷園なる遺物がある。そらに浮かぶ迷宮じみて、それはかつて霊獣を封じるために築かれた巨大な呪具であるという。真実そらには位置しない。縫合師と呪術師の共同でこじ開けられ、安定されたそれは、異空間だ。人工的に築かれた、魔界のようなものである。あちらとこちらが重なりあう場、それはそちらこちらに存在し、同時にどこにも存在し得ぬまやかしだ。実態を伴うまやかしはすでにまやかしではないとする意見は、正鵠を射っているが、射った的がすでにまやかしであるので、さほど意味のある正論とは見做せない。「境会の規則をずいぶん破っているそうだな、調べ屋」そいつはこちらの仕事を堂々とジャマをした。生け捕りにすべく、数日かけて追いかけたアヤカシモノをこれみよがしに踏みつぶすではないか。「蟲捕りごときで仕事なんてよく言えたもんだ」(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886458998


1459:【ひな鳥】
ひな鳥を拾った。正確には、となりの家の庭に落ちていたひな鳥を、まんちゃんなら判るんじゃない? といって鳥かごごと押しつけられた。羽が生え変わっている。巣立ちまでもうすこしといった塩梅だ。弱っていたようなので、まずはお湯で薄めたハチミツを箸さきにつけ、差しだした。ちょちょちょ、っとちいちゃな嘴でついばむ様子はかわいらしい。ただ、あまりに深く箸さきを呑みこむものだから、だいじょうぶ?という気にもなる。満足すると頑として嘴を開かなくなるところはいかにもヒナでござる!といった感じがし、いいよ、いいよ、となる。緊急の餌として茹で卵をすりつぶしたものをあげてもいい、とネットに書いてあった。ためすと、ちょちょちょ、と箸さきを勢いよくつつく。嘴の周りが白く飾りつけられ、きみオシャレじゃん、と頭を撫でる。目をつむり、なされるがままにじっとするひな鳥はやわらかい。餌が欲しくなると、ビビビー、とやかましい。窓際に鳥かごを置いておいたら、親鳥が餌を運んでくるようになった。うれしいのかなんなのか、ひな鳥はひと際、ビビビー、を連呼する。巣には戻せないが、もうだいじょうぶだろう。活力を取り戻したのか、ひな鳥は羽ばたくようになった。夕方、涼しくなってから、となりの庭に放してもだいじょうぶだと判断し、逃がすようにした。ダメなようならまた保護すればいいと考えた。朝、木の枝にとまるひな鳥を発見した。昼間になると、こんどは窓枠にとまっていた。親はどうしたの? 問うようにすると、ひな鳥はつぶらな目でこちらを見据え、高く舞いあがり、電柱を越え、いずこへと飛び去った。礼を言いにきたのかもしれない。からっぽの鳥かごにはフンがくっついたままだ。洗って返さねばならないが、いましばし、そのままでいよう。耳にはまだ、ビビビー、が貼りついている。


1460:【ほんとだよ】
ひな鳥を世話したのである。うそっこではないのである。親鳥の姿からするとシジュウカラのひなである。げんきに飛び去って、いくひしは、よろこばしい反面、すこしさびしいのである。


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参照:いくひ誌。【461~470】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883128841

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