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いくひ誌。【1441~1450】

※日々人であることを忘れていく。


1441:【外皮】
かれは性格がゆがんでいる。なるべく腐臭が漂わぬようにと、きれいな外皮を被っている。皮の種類はさまざまで、ときに猫であったり、牛であったり、狼であったりする。おおむねは、相手の姿カタチを真似て、そのときどきで被る皮の種類を見繕う。鳴き声も皮によって変わる。オウム返しのときもあれば、サル真似であるときもある。さいきんではAIの真似をするようになり、たしょうは会話といって差し障りない言葉の応酬が可能だ。相手によってはたくさんおしゃべりをします。本音を聞かせてください、とせがまれることも、ごくごく稀にですが、ある。そんなときは、そのとき被っている皮の性質によって、秘奥を垣間見せることもある。その後、皮を脱ぎ去ったかれを覗き見た者の多くは、金輪際、かれに関わろうとはしなくなる。だから言ったのに。思うが、学習しない我が身を省みるよりほかはない。世に七つの大罪と呼ばれる人の業がある。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲である。もっとも本質にちかいかれの業は傲慢であるが、じつのところそうではない。かれは言う。「なぜ七つの罪に殺意は含まれないのだろう」素朴に首をかしげるところがとびきりチャーミングだ。かれは、いいひとであろう、いいひとになりたいと、つねづね喉の渇きを訴えている。そうしていないと、すぐにでも誰かの息の根で喉をうるおさんと駆けだしてしまうのだ。ゆえに、皮を被り、肥大する衝動をぎうぎうと抑えつけようと躍起になる。かれは性格がゆがんでいる。バネを縮め、チカラを溜めこむように、うちなる衝動の解き放たれる瞬間を、今か今かと待ちわびている。むろん、そのように欲する心根そのものもまた淀んでいる。唾棄すべき衝動だ。したがって、かれはあすもまた、幾重にも外皮をあたまから被り、ときにネズミに、子ヤギに、ウサギがごとく、びくびくと窮屈な身体を震わせている。


1442:【人脈がだいじ】
人脈がだいじだという話を聞いた。地方にいると情報が遅れて入ってくる、都心にいるときとはまるでちがう、繋がるべき人と繋がっていないと不利になる、そういったニュアンスであった。インターネットを利用して情報は得られるが、やはりその筋の人に会わないと得られない情報もある、そちらのほうが重要ではないか、という話である。なるほど、そういう面もあるかもしれない。ネットに出回っている情報もまた元を辿れば人が発信している。ネットを介さずに、信用のおける相手から話を聞ければそれがもっとも効率が良いように思われる。なにもふしぎはない。そのとおりだと思う。が、インターネットなどの集合知の利点の一つは、情報が蓄積され、すぐさま掘り起こせる点にある。時間が経過すればするほど、新たな情報から古い情報まで、ずらりと沈む。検索の仕方さえ知っていれば最新の情報にアクセスするのも手間はいらない。企業の保有する秘匿情報はさすがに閲覧できないが、その手の情報は、誰かに直接会ったところで知ることはできない。もし知れたとすれば、相手は信用のおけない人物である確率が高い。なるべく会わないほうが余計なリスクを負わずに済む。人脈がだいじ、というとき、たいがいその裏側には、恩の貸し借りのようなものが介在している。アイツには貸しがあるから、こんどこちらの優位になるように配慮してもらおう。そういった関係性を、みなは人脈と呼んでいるのだ。接待も同じだ。飲み会を仕事だと言い張るおとなが多いが、仕事ではなかろう。遊びで交流を図るのは構わないが、だとすれば、そこに仕事の領分を持ちこむべきではない。持ちこむのならば、就業時間内に、会社の行事として盛りこむべきだ。接待が仕事でない証拠に残業代はでない。せいぜいが飲み代が経費で落ちるていどだろう。経費で飲み会を開くのは横領として罪に問われる時代がもう間もなくしてやってくるのではないか、と想像するしだいだ。同様の理由から、そうした恩の貸し借りという名目での交流関係は、若い世代には受け入れられなくなっていくだろう。いまの二十代より下のコたちはもうすこし合理的だ。ビジネスと身内びいきの区別をつけられる最初の世代となるかもしれない。残業代のでない飲み会にしろ、パワハラにしろセクハラにしろ、上の世代と下の世代とでは、認識の差がはっきりと浮き彫りになってきているように概観される。接待を常識として押しつけられてきた上の世代は言うだろう、私たちがそうだったのだから、きみたちもがまんすべきだ、と。しかしもはやそうした論法は通用しない。不満があるのならば現状を変える方向に働きかけるほうが自身も得をする。現状に満足しているのならば、それは何かしらの利を、不当に誰かから奪っているからこそもたらされている愉悦だと自覚し、改善に努めていただきたい。そうでなければ、本当に価値のある人脈は育まれないだろう。基本的にビジネスパーソンの口にする、人脈は、その人物に付随して成り立っているわけではない。役職と役職の結びつきであり、それはパンダと客の関係性と等しく、パンダと飼育員の関係性にはほど遠い。もしそのパンダから名前がとれ、ブタに変われば、客の大半は見向きもしなくなる。しかし飼育員は、すくなくともパンダだろうがブタだろうが、同様に世話を焼くだろう。それが役割だからだ。そこには打算や恩は介在しない。人脈とは本来、そのていどの、殺伐としたものであったはずだ。特別、必要を説き、ありがたがるようなものではない。人脈があるから仕事がはかどる、というのも大いなる錯誤だ。それは仕事がはかどったのではなく、自分がすべき仕事を他人に肩代わりしてもらっただけである。報酬を支払っていないのならば、それはその人物の怠慢だ。自慢するようなことではない。報酬を支払ったのならば、単なる仕事の一環であり、支払いという名の損をした分、楽をしただけだ、べつだん得をしたわけではないのである。人脈があったところで、そのていどの楽ができるだけだ。わるいことではないが、楽をしたぶん、得られなかった苦労があるはずだ。それを情報と言い換えてもよい。もしくは、身分をかさに着せ、自身の負担を相手に押しつけただけかもしれない。そこまでいくともはや人脈というよりも災害じみている。閑話休題。現代のビジネスパーソンのすくなからずは、「楽」のやりとりを通貨代わりにしている節がある。安く仕事を請け負う代わりに、優遇されるような場を築いてもらう。或いは、尻拭いをする見返りにべつの仕事を紹介してもらう。もしくは、仕事を与える代わりに、不当な扱いを受けることを潔しとしろ、と圧力をかける。ここまでくるとハラスメントというよりも犯罪の臭いが漂ってくる。だが、現実に有り触れている日常の風景なのである。それをして、人脈がだいじ、という考えがおそろしく感じる。まったくもって近寄りがたい社会である。おそらく、本当に価値のある人脈は、人脈のなかに取りこまれずにいられる関係性のことだ。それでも繋がりが途切れずにいられる間柄こそ、価値があるのではなかろうか。人脈はだいじかもしれない、そういう場面もあるだろう。だが、人は鉱物ではないのだ。物扱いしたくはない。人脈がだいじ、を標榜する相手とは距離を置いていきたいものである。ちなみに、その「人脈がだいじ」の話を聞かせてくださった方は、平素よりたいへんお世話になっている方である。人脈の範疇には口が裂けても入れたくはない、かけがえのない方である。


1443:【ダウト】
はいダウトー!!! まんちゃんにかけがえのない知り合いなんていませーん、なぜなら知り合いがいないから! まじめな顔でうそぶっこくのやめてくださーい。


1444:【逆だばか】
茶化すのをやめろ。信用ダダ落ちだって気づかねぇのか。


1445:【あざーす】
落ちるほど信用があると思ってくれてるやさしさが、肌に身に染みいる、蝉の声。by夏の芭蕉は腐りやすい。


1446:【屋敷】
開かずの間の封印を解いてくれ、と依頼があった。屋敷を訪れると男爵が出迎えた。「よぉきたの。さっそくでわるいんだが、頼む」「急ぎか」「夜になる前に済ましておきたい」「中にはなにが?」部屋のまえまでやってくる。「さあな。先々代が何かを封じたらしいが、ずいぶん前のことだ。開けるな、としか俺は聞いとらん」「ならやめといたほうがいいんじゃないのか」「そうもいかねぇ。嫁がどうしてもこの部屋を使いたいんだと」「結婚したのか? いつだ」「いんや、式はまだだ」「こう言っちゃなんだが、気をつけろよ。おまえに嫁ぐなんざ、裏があるとしか思えない」「ちげぇねぇ」男爵は呵呵と笑う。「いいんだ。俺ぁ、どんな理由でもそばにいてぇって言ってくれる相手ならそれで。裏があってもそう言わねぇやつが大半だ。いままで一人だっていたためしがねぇ」「あんたがいいならいいけどよ」さっそく仕事にとりかかる。開かずの間は、一見すればふつうの客間だ。洋風の扉で、とくべつ南京錠や鎖で封をされているわけではない。鍵は失くしたようだ。体当たりするにはやや分厚いが、物理的に開錠するのはさほどむつかしい作業ではない。扉の中央と、さらに四隅にそれぞれ呪符が貼られている。見たところ、祓い屋の使う呪符に酷似している。黒く変色しているが、古いだけが要因ではなさそうだ。「コレ、いつからこうなってた」「あん?」男爵は首をひねるばかりだ。どうでもいいのだろう。万が一のことを考えてこちらを頼ったというよりも、便利屋の代わりに呼びつけただけといったほうが正確かもしれない。開かずの間は本物だ。何かが封じられている。運のいいやつめ。何も知らず開けていたら、タダでは済まされなかっただろう。「ちょっとのいてろ」男爵を下がらせ、扉のまえに【器】を置く。先日、魔女からもらいうけたものだ。扉の奥に封じられたモノを、こんどはこの器に移し変える。封印転移と呼ばれる高等呪術だ。本来は、祓い屋の専売特許で、調べ屋のなかでも使える者はそう多くはない。「時間かかるのか? 終わったら呼んでくれ、あっちで休んでる」「すぐ終わる、そこにいろ」男爵のこうしたマイペースさは赤の他人だったころは心地よかったが、交流を持ってからはいささか腹立たしい。扉や床に、専用の触媒で呪術誘導線を引きながら、「その嫁ってのはどこにいんだよ」なにともなしに話題を振った。「今はいないな」「見りゃわかる」だから訊いたんだ、と補足するのもめんどうだ。「夜にならんと会えないんだなこれが」「そうか。スケベな嫁でよかったな」「そういう意味じゃねぇよ。がはは」準備を終え、器を新しい呪符のうえに置く。開かずの間から抜けだしたナニカシラが呪術誘導線に従い、器のなかに入ると、呪符がぐるりと覆い、封をする。あとはうえから栓をすれば完了だ。端から封印されているモノを移すのだ、中身の強大さは関係ない。手法さえ知っていれば誰にでもできる。おおむねの仕事とはそういうものだろう、だからこそ知識は保護され、知恵が尊ばれる。「いくぞ」扉の呪符を一枚ずつ剥がしていく。呪術誘導線を引いてあるので、祝詞で結界を張る必要がない。最後に、真ん中の呪符をひっぺがし、扉を押すと、開いた隙間からかび臭い空気がゆるゆると流れ、頬を撫でるように抜けていく。息を止め、呪術誘導線のそとにでる。「どうなった、失敗か」「成功だ。見ろ」器の載った新しい呪符が、くるりと、食虫植物のように自ずからくるまった。うえから栓をし、無事終了だ。「簡単なんだな。俺でもできそうだ」「ならつぎは自分でやれ」報酬を口座のほうに振りこむように指示し、その場をあとにする。「それ、どうすんだ」男爵があごを振り、こちらの手のうちにある器を示す。「持って帰るよ。中身が何か気になるしな。物によっちゃ使役できるかもしれん」「高値で売り飛ばす気だろ。もとは俺の所有物だ、それは置いていけ」「んだよ、がめついな。いいだろ、あんたが持っててどうなるもんでもない」「いいから置いてけ」金は払う、と言った男爵の顔がいつになく真剣で、断る理由もとくに思いつかず、報酬に色をつけることを約束させ、器を手渡した。「開けるなよ」念を押すも、男爵は恍惚とした表情で、器をだいじそうに両手でつつみこむようにする。「呪符はぜったいに剥がすな。忠告はしたぞ」日暮れまでは時間があるはずだったが、なぜか窓のそとは暗く、玄関をでると雨の匂いが鼻をついた。振り返ると、屋敷全体が靄がかって視えた。男爵の姿はすでになく、むろん彼の口にした嫁の姿もついぞ目にすることはなかった。屋敷が見えなくなったところで、メディア端末を取りだす。メモリから男爵の情報を引きだし、しばらく眺め、すこし迷ってから、削除を押した。「結婚おめでとう」祓い屋へは、時間をおき、あす通達することにする。


1447:【インスタノベル】
7月からインスタグラムをはじめました(https://www.instagram.com/stand_ant_complex/)。きょうで17日目となります。だいたい、ふつかにいちどの周期で、写真をあげ、うそっこの文章を添えています。インスタノベルと個人的には呼んでいます(呼んでいません)。フォロワー数はさすがのいくひしさん、未だにゼロですが、なんと言いますか、いつもどおりだなぁ、の所感のほかに浮かべようがありません。哀しめたら、それを糧に、いろいろ工夫できるのですが、むしろほっとしてしまうのが、いくひしのよくないところだと思います。注目されるのがこわいのです。物理世界では、何もしなくても目立ってしまいます。自慢ではありません。哀しいことです。人はそれを、浮いている、と言いあわらします。意図もなく周囲から浮いてしまう人間って、生きづらいと思いませんか? 思わない? あ、そう。思って!!! げんざい、インスタには15件の投稿があります。一つの写真につき、だいたい平均で800字前後の文章をつけていますから、まとめると12000字くらいの分量になります。150件の投稿をすれば本一冊分の文字数が溜まります。そこまでつづけられれば、「調べ屋の日常」とかそんなタイトルで、電子書籍化しようと思います。写真を載せるかは悩みどころですが、いちおう、写真がなくとも構わない文章になるように意識しています。あとは、全体でなにかこう、一つの物語になるように工夫していこうと思います。細々連作短編集と呼べばそれらしいでしょうか(そうでもない?)。あまり身近な写真をあげると、生活圏を特定されそうなので、めったに足を運ばない場所や、居住区とは無縁の風景を載せるようにしていきたいです(こう言っておけば、万が一、生活圏の写真があっても、特定されにくくなるとの打算です)。あとはそう、調べ屋がなかなかいいキャラな気がしてきたところなので、短編から中編、長編と、シリーズにしていきたいです。短編は現時点で二つあります(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886316030)(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886427539)。世界観としては、既刊の「群れなさぬ蟻(http://p.booklog.jp/users/standantcomplex)(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9535212)(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9534881)」がちかいと思います。調べ屋シリーズは、それのスピンオフと呼べるかもしれません。世界観ができあがっているのでつくるのは簡単です。たぶんシリーズ化していくことでしょう。読者いないのはご愛嬌。これから読まれる方には感謝もうしあげます。あでぃがどぉー、うれじぃー!!!!!! はい。本日も、たいへん暑苦しい、いくひしまんでした。


1448:【作家の価値】
作家の価値は、作品をつくれるか否かです。それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、小説の価値とは、読者がいるか否かです。これは数が物を言います。読者の人生を変えるようなものである必要はありません。小説は、読まれることがすべてであり、そのあとの評価はほとんど些事と言えます。その前提として、作者と小説は別物だといくひしは考えているからです。一作目でつまらないと思われたらつぎからは読まれなくなる、だから読後の評価は重要だ、との意見もあるでしょう。否定はしません。そういった側面もあると思います。いっぽうで、作者と小説は等価ではありません。誰しも一作目は拙いはずです。つづけていれば駄作もつくるでしょう。それを目にし、読むのをやめるのは読者の自由です。読みつづけることもまた同様にして自由なのです。なぜ自由なのかと言えば、本質的に読者は小説そのものに関与できないからです。読者がいてもいなくても「小説」は生まれます(作品とは言っていません)。作者と小説が別物であるのと同じように、小説と読者は別物なのです。読者があり、小説があるわけではありません。飽くまで、小説があり、読者があるのです。そこを履き違えては、作家としてつづけていくのはむつかしいと思います。いずれどこかで引退する日がくるでしょう。わるいことではありません。いずれ死ねば辞めざるを得ないのですから。誰もが通る道を、自力で選べる分、引退そのものは望ましいことかもしれません。小説の価値がなぜ読者がいるか否かなのか。これについては、前述した、作家と小説と読者の関係性をより詳らかにしなければなりません。矛盾して聞こえるかもしれませんが、矛盾はしていないことをここに前以って断っておきます。前提として、小説の完成形とは、読者によって展開された世界です。文字の羅列そのものではありません。それによって新たに創造された世界のことなのです。ですから、本に印刷された文章は、未完成の作品だと呼べます。また、いちど展開された世界は、そこで永久に作品でありつづけるわけではありません。読まれている最中、まさに展開され、想像され、世界としての枠組みを構築されているそのあいだにしか、作品として存在できません。よって、読者が小説を読み終わってしまった次点で、作品としては存在していないことになります。未完成の状態にまた戻るのです。ふりだしです。したがって、つねに作品として昇華されつづけるには、読者が複数人、かつ連続的に存在していることが好ましくなってきます。小説の価値が、読者の数だというのは、ここに関係してくるわけです。必ずしも読者がいればいいというわけではありません。極端な話、一億人の読者が一日だけ誕生しても、小説が作品として昇華された日数は一日ということになります。それではまるで煮沸消毒寸前の雑菌です。可能な限り、継続して、より長い期間にわたって読み継がれていくことこそ、小説の価値と呼べるでしょう。反面、前述したとおり、作者と小説、そして読者はそれぞれ別物です。同じではありません。しかし、無関係ではないのです。作者が父とすれば読者は母です。読者という母体によって、小説という子種は、作品として誕生することができるのです。ここには生物種に似た神秘があります。根強い関係性と言えるでしょう。ただしやはりというべきか、作者と小説は同じではありませんし、読者と作品も等価ではありません。それは、父親と精子が同じではないように、母親と子供が等しくはないのと同じレベルで、作家と読者と小説と、そしてそれらの関連性の結晶とも呼べる作品は、それぞれに独立していながらにして、切っても切れない影響を互いに与えあうのです。ときに、作家が亡くなったあとでも、種子としての小説が遺ることもあります。そうしたとき、小説は新たな読者さえいれば、作品としていくども顕現できるのです。顕現した作品は、読者の脳内にて、影響という名の残滓を刻みます。それは、ときに、まったくべつの種子を生みだすべく、読者を作家に仕立て上げるのです。それはまるで感染です。物語は、読者という母体を求め、誕生と消失を繰り返し、そのときどきで新たな物語を生みだしながら、連綿と、人類の軌跡をつむぎます。それはまるで遺伝子です。物語とは、すなわち、遺伝子の模倣なのです。ゆえに、物語そのものが模倣という性質を備え、伝染し、さらなる模倣の組み合わせを、生みだします。物語には、作者と読者が必要です。それゆえに、人類は生殖を繰り返し、物語のために社会を築き、発展させ、繁栄を目指すのです。そう、まるで宿主に寄生するウィルスのように、利己的に働く遺伝子のごとく、人類はこれからも物語を編み、つむぎ、読み解き、想像し、展開しながら、新たな影響の連鎖を繋いでいくのです。作家の価値とはすなわち、繋ぐことであり、小説の価値とはゆえに、読者の、母体の、宿主の数だと呼べるのです。


1449:【よって】
上記の妄想を真と仮定すると、小説家にとっての実績とはどんな小説をどれだけつくったかであり、読者数でもましてや売り上げでもない。読者数や売り上げが実績になるのは、いわゆる編集者や版元である。或いは、編集者かつ小説家である者であろう。他者の協力を得て、「作品」を増産したところで、それは小説家自身の実績ではないのである。(むろん、仮定が真でなければ成立しない考えである)


1450:【遊び】
いくひしは何かを正しいと思って文字を並べたことがない。こんな考え方があるとき、こういった例外があるから、ここをこうしたらうまくいきそうだ。もしくは、こんな考えがあるが、こういった考え方もできる、こっちはこうだけども、あっちはこうだ、じゃあそれとこれは矛盾するけれども、どうしたらよいだろう。まるで積み木遊びのような感覚で、文字の組み合わせを楽しんでいる。矛盾を失くす文章もおもしろいが、ねじれがあったほうが楽しいこともある。新たな矛盾を見つけたときが、もっとも興奮する瞬間かもしれない。矛盾を失くすにはまず、矛盾がなければならない。それは、問題を解決するには問題を見つけなければならないのと同じ理屈である。上達するにはまず、欠点を見出さなければならない。同様に、文字を並べるにはまず、器となる空白、不足や不満が必要なのかもしれないが、それは必ずしも本心であるいわれはない。


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参照:いくひ誌。【1051~1060】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884873770

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