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いくひ誌。【2241~2250】

※日々、全盛期の半分のつもりで生きている、全盛期などあったためしがあったのかと、ありもしない幻想にすがりつき。


2241:【つばさ】
鳥の翼は進化の過程でどのように獲得されてきたのだろう。なんとなく想像がつくのは、飛ぶための翼ではなかっただろう、ということだ。前提として、翼の獲得と、羽毛の獲得は、別々の環境因子が関係していそうだ。分けて考えなくてはならない。鳥は恐竜から進化したと現代では考えられているが、羽毛を持たない翼竜も太古にはいた。そちらは鳥に進化せず、羽毛を持った恐竜が鳥へと進化したのである。この違いは、羽毛が、飛ぶために獲得された形質ではなく、むしろ体温調節など、環境の変化に適応するのに優位だったことと無関係ではないだろう(むろん、羽毛の有無とは別の因子によって翼竜が絶滅した可能性も否定できないが)。気温が下がっても羽毛があれば生きていける、反面、羽毛がない翼竜(プテラノドンなど)は生きていかれない。翼という機能を身につけておきながら、他方では鳥に進化し、他方は絶滅してしまった。羽毛の有無が命運を分けたと言えそうだ。では、翼はいかに進化の過程で獲得されていったのか。これは気候が大きく影響していそうだ。前提としておきたいのは、進化は段階的に進むということだ。空を飛びたいからといって、つぎの日から翼を生やすわけにはいかない。翼があったほうが生き残るのに適した環境がまずあったと考えるのが妥当だ。しかも、空を舞うほどに大きな翼を獲得する前には、空を舞うには至らないくらいのちいさな翼を獲得した種がいたと考えるほうがより自然だ。始祖鳥は鳥のように自在に空を飛んだりはできなかっただろう。ニワトリのようなものだったかもしれない。しかしニワトリよりも、もっと翼のちいさな恐竜もいたはずだ。なぜそうした翼のちいさな恐竜は、翼のない恐竜よりも生存に有利だったのだろう。考えられるとすれば、風のつよさである。風が常時、ごうごうと吹き荒れているような環境であれば、吹き飛ばされないように地面にしがみついておかねばらない。カギ爪はそのようにして獲得したのだろうし、同時に、風を受けて地面のほうに身体が押しつけられるような機構があると便利だ。飛行機は翼の角度で、大空に飛びたつが、同時に翼の角度を調節することで地面に降りることもできる。そして始祖鳥など、空を飛ぶには至らない翼を有していた恐竜たちは、空を飛ぶためではなく、身体を地面に固定するために翼を使っていたのではないだろうか。そう考えてみると、翼に羽毛が不可欠だった理由もうなずける。常時風を受けるのだから、体温は奪われやすい。凍えないようにするためには羽毛が必要だったのだ。同時に、風を敢えて受けることで、瞬時に場所を移動できる。風にあおられる凧のようにして太古の鳥の祖先は狩りをしていたかもしれない。また、風を受けつづけることで身体を地面に固定できるということは、木や崖にも比較的楽に登ることができたはずだ。風がないときは、じぶんで走って風を生みだし、地面に身体を固定しながら高い場所へよりはやく、安全に到達することも可能だったはずだ。とすると、外敵から逃れる確率が高くなり、翼のない恐竜たちよりも生き残りやすいと想像できる(獲物に追いつきやすくもあり、余計に生存には有利だったはずだ)。まったくのこれらは妄想なので、真に受けてほしくはないのだが、翼一つとっても進化の過程でどのように獲得されたのか、疑念は尽きない。一つの要因だけではないはずだ。いくつかの因子が密接に関わりあって、偶然に、翼があると生き残りやすい生態系――環境ができあがっていったのだろう。地球上からいっさいの風が失われれば、鳥類の大方は、またたく間に絶滅する。酸素濃度がいまとちがえば、人類だって生まれていなかった。進化は秩序があるようでなく、脈絡を辿っているようでその場任せのデタラメのように思える。しかし、そこには一定の法則のようなものも見え隠れして感じられる手前、なかなか妄想するのに都合のよい題材と言える。翼がそうであるように、意識もまた進化の過程で、獲得されてきた形質であるはずだ。なぜ意識があると生き残りやすいのか。どのような意識であるとこのさき人類は子孫を残しやすくなっていくのか。想像してみると、すこしだけ世のなかが違って視えてこないだろうか。わくわくしてきたところで、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2242:【無知なのです】
社会の仕組みについて、いくひしさんはほとんど何も知らない(社会の仕組みに限らないが)。税金にはどんな種類があって、どういう仕組みで徴収されるのかも知らなければ、国にはどんな組織があって、どんな仕事をし、一般に知られていない業務がどれだけあるのかもむろん知らない。たとえばアメリカには情報機関としてCIAがある。これは人を使って情報を集めたり、解析したり、ときには何らかの作戦をたて、実行したりするための機関だ。いわゆるスパイがここに属する。たほうで、似た組織に、NSAがある。こちらもアメリカの情報機関であるが、CIAとの違いは、電子機器の開発や応用にその主眼が置かれている点だ。いわば人相手ではなく、情報通信技術そのものが対象となる。セキュリティの開発や運営も管轄の範疇だろう。もはや時代はCIAではなくNSAが主力になっていくのではないか。話がずれたが、かようにいくひしさんは物を知らない(CIAやNSAという名前を憶えているだけで、実態を知らないのだから、知っていないのと同義だ)。NSAなんてさいきん見聞きしたので、ここで並べたが、似たようなアルファベット三文字の機関はたくさんあり、どれがどれで、なにがどんな組織なのか、まるで解からない。NATOとはどんな組織ですか? WHOはH2Oとどう違うのですか? 前者は世界保健機構で、後者は水ですか。そうですか。一般常識とはどこからどこまでのことを言うのだろう。いくひしさんはたいがいの一般常識を身に着けていないので、一般とは呼べないのかもしれない。美味しい紅茶の淹れ方も知らない。何度淹れてもコーヒーは薄くなる(何度も淹れているからだろ、とのツッコミはなしです。出涸らしではないのです)。しかしいくひしさんは薄味のほうが好きなので、問題はないのである。とても薄いコーヒーは麦茶と味がよく似ている。


2243:【欠落があるから埋められる】
無知を誇っているわけではないが、ことさら恥ずかしいとも思わない。どちらかと言えば、知的であることや知識が豊富なことを誇るほうが、恥ずかしく感じる。え、そんなことが誇らしいのですか、となるが、では何を誇ったら恥ずかしくないのか、と疑問を掘り下げてみると、案外に見えてくるのは、「何かを誇ることそのものが恥ずかしいのかもしれない」といういくひしさんの偏った琴線である。好きに誇ればよいのだ。ただいっぽうで、他人の誇る何かを、「そんなことを誇るなんて恥ずかしいやつだなぁ」と蔑んでおきながら、「私はこんなにすばらしいのだ」と誇らしげに振る舞う者もいて、そうした光景を眺めていると、他人のはずなのに恥ずかしくなってしまう。共感性羞恥というやつかもしれない(偏見だが、売れっ子の小説家に多いなぁ、と感じている。或いは、そういう作家が目立つ――目につく――だけの話かもしれない)。似た問題として、知らないことを恥ずかしいことだと思っている者ほど、他人の無知を責める傾向にあるような気がしている。知らないことは恥ずべきことではない。知らないからこそ人は物を知れるのだから、もっと「何を知らないかを知った」ほうが好ましい。言い換えれば、知識よりも自覚のほうが優先すべき事項にあり、集積よりも欠落のほうにこそ目を向ける価値があるのではないか、との疑念がある。ただし、「何を知らないかを知った」にも拘わらず、その未知を放置してしまうのは、もったいないな、と思いはする。無知を放置したせいでときには損をするだろう。ただ、どんなことであれ知らないことは無数にあるのだから、数えられる程度の「無知の種」を放置したからといって、即座に人命に関わるような危機に直面することは稀だろう。無自覚に受動している数多の損失に比べたら微々たるものと言えそうだ。無知であることを焦る必要はない。知らない状態が基本なのだと知っているだけでも、だいぶ日々を過ごしやすくなるはずだ。他人の無知を嘆く者ほど、じぶんの無知に無自覚であるとも言えそうだが、これはやや願望にのっとった皮肉であるかも分からないので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2244:【性格がわるい】
上の記事にて「誇らしげに振る舞う者」と述べた箇所がある。注視してほしいのが、「誇らしく振る舞う者」ではなく、「誇らしげに振る舞う者」である点だ。二重表現であることにお気づきだろうか。言うなれば、「偽物らしく演技する者」と言っているようなものであり、振る舞っている者が真実に誇らしく思っているかは観測者たるいくひしさんには判断できない。どちらかと言えば、本人はさほどに誇らしくは思っていないのではないか、とすら睨んでいるが、すくなくとも任意の何かしらを誇らしげに振る舞うことで、それを観測した者のすくなからずからプラスの評価を下されると見越したうえでそうした振る舞いをとっていると推し量れる。ややこしい言い方をしているだろうか? 言うなれば、ピカピカに磨かれた皮靴みたいなものだ。或いは高級ブランドのスーツのようなものでも、高級腕時計でも構わない。それを身に着けていたほうが、身に着けていないよりも人から高く評価される確率があがる。すくなくとも、そうした高級品を身に着けられる環境にいる人物なのだと見做されやすくなる。ただし、そうした偏見を逆手にとって、相手からの信用を得ようとする者もある。詐欺師と呼ばれる者はおおむね、そうした現代人の無自覚な偏見を利用する。他者の無自覚な偏見を利用する者はおしなべて詐欺師だと言ってしまいたいくらいだが、さすがにそれは言い過ぎだ。ビジネスパーソンはスーツを着るが、スーツを着ている者がおしなべてビジネスパーソンとは限らないのと同じ理屈だ。とはいえ、詐欺師じみているとは呼べるかもしれない。小説家もどちらかと言えば詐欺師じみている。人間に備わった偏見や盲点を利用し、それを以って物語にカタルシスを与えたりする。叙述トリックなどはまさにその典型である。偏見を自覚できていない者は騙されやすいとも言えるかもしれない。騙されないためには、偏見を自覚しておくとよさそうだ。また、敢えて高く評価されないような格好をしておくと、カモと見做して近寄ってくるような、他人を見た目や肩書でしか判断できない相手と接点を持たずに済むようになるかもしれない。ただし、あべこべに弱者と見做して近寄ってくる者もいるところにはいるだろうから、ケースバイケースと言うほかない。いずれにせよ、他者がなぜそのように振る舞うのか、を遠巻きから観察する癖をつけておくと、騙される確率を減らすことに繋がるのではないか。反面、安全が保障された状態で騙される分には娯楽となるので、いちがいに騙されるのがわるい、と言うつもりはないのだが。本日の「いくひ誌。」をまとめるとすれば、いくひしさんの並べる文章を真に受けてはいけませんよ、となる。もちろんこの「真に受けるな」との文言も真に受けてほしくはないので、「真に受けるな」も真に受けないでください。しかし、そもそも「真に受ける」とは、言葉通りに受け取ることの意ですので、言葉通りに受け取って真に受けないのであれば、それは言葉通りに受け取っているのと同じであり、あべこべに言葉通りに受け取らずにほかの文章ごと真に受けるようであれば、「真に受けるな」を真に受けていないことになり、人はどうあっても、「真に受けるな」と命じられてしまえば、結果として、真に受けないことしかできないのである。したがって、真に受けてほしくない文章と「真に受けないでください」なる文章は区切ってあると好ましい。よって、以上の文章を真に受けないでください、とすれば矛盾はなくなり、自己言及の迷路をさまよわずに済む道理となる。まどろっこしかったですか?


2245:【成果至上主義】
ほんの半年前(現在は2019年9月10日です)まではSNS上では成果至上主義がまかり通っていた(年功序列に対する成果主義と区別するため、ここでは「成果を得られなければ意味がない」とする世の流れを、成果至上主義と形容します)。編集者やプロデューサー、作家自身ですら、「フォロワー数」や「売上」や「知名度」がだいじだと、まるで正論であるかのように捲し立てていた。だが、いちど手に入れたそれら『成果』が継続して得られない(或いは、思ったよりも利益に結びつかない)となったと見るや、こんどは一転、「楽しくつづけたらいい」「まずはつづけることがだいじ」といった、手のひら返しを見せている。成果至上主義に疲れ果て、心身ともに病んでしまった作家が増加傾向にあるためだろう。手駒が消えてしまう、と焦っているように見えるのは、いくひしさんの偏った見方のせいだろうか。成果至上主義を掲げている者の末路を考えてみればいい。誰もが継続して成果をあげつづけるなんてことはできない。いつかはどこかで限界がくる。では、成果をあげられなくなったら、どうするのか。成果至上主義にのっとるならば、そこでやめるのが正解だ。成果がだいじ、成果がだいじ、と言っていた者たちはでは、成果がでなくなったらやめるのだろうか? 何を成果とするか、もまたハッキリさせておきたい事項だ。「フォロワー数」なのか「売上」なのか、それとも「知名度」なのか。もっと根本のところの動機を掘り下げて、それを基点に物事を選択するようにしたほうが、長期的には、功を奏すのではないか。初期衝動と言い直してもよい。なぜそれをしたいと思ったのか。真実に「売上」や「知名度」が欲しいのならば、成果があがらないと判った時点で、ほかの分野に移行すればよい。いまいる分野に拘る必要がどこにあるだろう。たほうで、それ自体をすることに価値を求めているのならば、「売上」や「知名度」などなくともつづければよい。何を成果とするかはじぶんで決められる。すくなくとも作家でありつづけたければ、それくらいのことはじぶんで決めたほうが好ましい(いったいいつの時点での成果なのか、といった点からも目を背けずにいたいものだ)。金儲けのために小説を書いている、なんて嘯いている小説家は、もう間もなく業界から去るだろう。お金を儲けることができなくなるからだ。単純な理屈である。商業作家もいい加減、きれいごとを言ってないで、もっと衝動に素直になればよい。業界の活性化のため? 生活のため? 文学のため? そんなきれいな動機で小説をつくるくらいなら、さっさとほかの業種に移り、全身全霊で仕事をすることを提案したい(ほかの業種で稼いだ金を、業界に寄付すればよい。わざわざ小説で貢献する必要はない)。編集者にしても同様だ。儲ければいいのか? だったら小説でなくたっていいだろう。いい加減に、きれいごとを並べるのをやめませんか?(斟酌せぬように言い直せば、儲けたいだけならさっさとやめれば?となります。口がわるかったですか? そこそこ深くお詫び申しあげます)(※儲けるな、と言っているわけではない点には注意してください。また、成果至上主義を否定しているわけでもありません。成果の内訳によっては、いくひしさんも充分に成果至上主義と呼べるでしょう)


2246:【タネ、独創、クリエイティブ】
クリエイティブは競争と相性がわるい。競争原理によって強化されるのは、クリエイティブな成果物に対する深化と応用であり、クリエイティブ(のタネ)そのものは、競争とは無縁であればあるほど生まれやすいのではないか、とここ数年は感じつづけている。どちらも必要なのだろう。ただ、独創を得たければ誰かと競わないほうが好ましいのではないか。ただし、独創的であればあるほど他者から評価される確率は下がる。タネを芽吹かせるには土壌が欠かせず、その土壌こそ、競争原理が耕し、肥やすのだろう。タネを芽吹かせるには、土壌にタネを運ぶ、媒介者が入り用であり、また水や養分も、別途に散布しておくとより好ましい。この場合、水は資金であり、養分は需要(市場からの評価)であろう。また、タネが芽生え、実をならす過程には、虫が寄ってきて、食い散らかす懸念もある。そうしたときは、法や利権などの殺虫剤を用いるのも常套手段と言えよう。なにはともあれ、タネは、耕された土壌でなくとも芽生えることはある。品種改良されるにしても、まずは芽吹き、実をならした事実があれば事足りる。実とはすなわち、タネであり、タネがタネを生めばそれでよい。クリエイティブがさらなるクリエイティブを生むサイクル――独創が独創を生む循環を築きあげること、それがタネにある本来のチカラなのではないだろうか。何かいいことを言ったようで、とくに何も言ってはいない典型であるので、何かを得た気にならないように釘を刺して、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2247:【解像度】
知識を得ることで世界への解釈の精度が増すことを、解像度が高い、と言い表すようだ。ニュアンスはなんとなく分かる。ただ、このようになんとなく分かるだけでは、解像度が低いのだろう。いくひしさんはどれだけ知識を得ても、解像度は一定のような気がしている。すくなくともいくひしさんは一定だ。得た知識をまんべんなく使っているわけではない。得た分、何かを失っている。記憶する量よりも忘却する量のほうがはるかに多いのだ。ただし、解像度は変わらないが、変わらないなりに、見渡せる範囲が広くなった、と実感することはある。基本的に、視える範囲は限られているのだ。ただ、知識を得ることで、これまで見逃していた範囲、視えなかった領域を視ることができるようになる。解像度は変わらない。視野が広がるだけなのだ。たとえば、どれだけ倍率の高い顕微鏡や望遠鏡を手にしたところで、裸眼の視力が低ければ、像は総じてボヤけて視える。この場合、解像度は一定だ。ただし、裸眼の視力が一定でも、顕微鏡や望遠鏡、双眼鏡や虫眼鏡、インターネットや書籍など、各種道具を用いることで、視野はぐっと広がる。いくひしさんにとって知識を得るとはそういうことであり、けっして解像度が高くなるわけではない。元々の視力が高くなることはないのだ。とはいえ、眼鏡を使えば解像度はある程度、高めることができる。コンタクトレンズにしろ、角膜移植にしろ、解像度を高める術がないわけではないだろう。これがいったいどんな比喩になっているのか、その対象を具体化することができないのは、いくひしさんの解像度が低いからだ。とはいえ、頭のよいひとの物の見方、解像度の高いひとの物の見方にちかづく術がないわけではないだろう。視力が人それぞれ違うように、解像度の高さもまた、人それぞれ異なるはずだ。世界一足の速い人間と同じ脚力を得ることはできずとも、それより速く移動することはできる。人間は道具を使えるからだ。ただ、それら解像度を高めるのに知識はそれほど役に立たないのではないか、といくひしさんは考えている。どちらかと言えば、不要な知識は目を曇らせ、解像度を落とす方向に働かせるほうが多いのではないか、とすら感じている。いずれにせよ、いくひしさんは解像度高く世のなかを視ることができないので、ぼんやりとした視界のなかで、ふわふわとした文章を並べながら、のほほんと生きていこうと思うしだいだ。


2248:【因果の数、情報量、伏線、プロット】
小説における情報量にはいくつか種類がある。情報の濃淡から、具体性、固有名詞の数から、動作描写の数など、一口に情報量と言っても、どんな種類の情報が多いかによって読み味は変わる。また、それぞれの情報量がすくなくとも総合して情報量を多くすることも可能だ。代表的なものが、因果の数である。描写の具体性を極力削り、小学生でもスラスラ読めるような文章であっても、因果を多く詰めこむことで、小説の場合は情報量を増やすことができる。因果とはすなわち、こうなったからこうなる、である。物語作品において伏線が重宝される理由の一つに、この因果の数と情報量の関係性が挙げられると想像できる。伏線とは、「こうなったからこうなる」における「こうなったから(因)」だけを描写しておくことだ。のちのち、「結果(こうなる)」を描くことで、あのときの「因(伏線)」はここに繋がるのか、と物語の裏側を読者は想像する。或いは、「こうなったから(因)」のほうを省略しても伏線として機能する。さきに「結果」だけを描写し、どうしてそうなったのだろう、と読者に引っ掛かりを覚えさせておけば、あとで「こうなったから(因)」の部分を明らかにすることで、だからそうなのか、とカタルシスを与えることができる。具体例を並べてもよいが、長くなりそうなので省略しよう。物語のリーダビリティを損なわずに情報量を濃くしたければ、文字数を多くしたり、具体的な描写ばかりにするのではなく、因果を多く取り入れると好ましい。そのためには、省略や圧縮が欠かせなくなる。なるべく筋となる、こうなったからこうなる、のみを抽出し並べておくと、SNSなどの短文に慣れたつぎの世代の読者にとっては読みやすい文章形態になるのではないか。もちろんこれを正解だと言うつもりはない。極論、この手法ではプロットと小説の区別がつかない。因果だけを圧縮して並べれば、それはどちらかと言えば小説よりもプロットに寄る。ただ、いくひしさんの希望的観測によれば、これからはプロットと掌編短編の区別はなくなっていくだろう、と妄想している。或いは、プロットというジャンルができてもふしぎではない。おもしろければよいのである。おもしろく読めることが第一だ。体裁は二の次でよい、と個人的な嗜好を漏らして、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、情報量が多ければよいわけではない。その物語――時代――に合う情報量を見定めることが優先される。要はバランスである)


2249:【わがまま】
「やさしいひとになりたい」と「つよくなりたい」はほとんど同じ意味だ。つよくなければ他人にやさしくしつづけることはできない。他者に寄り添い、支えてもつぶされないくらいにつよくなければ、やさしいひとでありつづけることはできない。他人に厳しくするやさしさもあるだろう。これもまた、つよくなければ抵抗や反発にあったときにつぶされてしまう。やさしくありたければつよくなるよりない。好きなことをしつづけたくば、稼がなければならないのと同じ理屈だ。まったくどうして、やさしくない世界だ。弱いままでもやさしくありつづけられる世のなかにならないものだろうか。


2250:【陰謀論】
人から嫌われるのも、好かれるのも、認識され意識されるという意味では、同じだ。認識されず、意識もされず、いっぽうてきに認識し、意識しつづけるほうがむつかしい。技術が発展していくにつれて、後者の優位性はますます増していくだろう。目立たず、認知されぬままに、観測しつづける側に回れるか否か。このさきの未来におかれては、透明人間が世のなかを動かしていく時代になっていくのかもしれない。或いは、ずっと以前からすでに、もう。


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参照:いくひ誌。【1761~1770】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887800209

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