※日々、延々と落下する、燃え尽きることなく、速度だけを増しつづけ。


2231:【めんてなんす】
何事もメンテナンスにはお金がかかる。メンテナンスは事業として安定していると言ってもよい。メンテナンスを行える者はどんな社会でも稼ぎに困ることはないだろう。あべこべに、メンテナンスが不要になっていく分野はどんどん淘汰されていくはずだ。自動でメンテナンス可能か否か、が淘汰される職業とそうでない職業の境目だと言い換えてもよさそうだ。たとえば家の外装のメンテナンスは自動化するにはまだ当分かかりそうだ。機械の手入れや、掃除もむつかしいだろう。機械をメンテナンスする機械の開発もまた、実用化にはあと十年はかかりそうだ。家の掃除などは、汚れにくい素材が使われたり、ゴミを溜めずに済むような工夫がされたりと、掃除をする必然性が生じない方向に技術が応用されていく、と考えられる。たとえば家のなかの掃除であっても、丸まる水洗いできてしまったり。そうしたほうが、掃除をするロボットを改良するよりもずっとスムーズなはずだ。文章のメンテナンスはどうだろう。これはあと三年もかからずに自動化されそうな気がするが、さてどうなるだろう。


2232:【5G】
出版社関連で5Gを見据えた事業を想定しているところはどこがあるのだろう。すくなくともいま目にできる企画を眺めてみても、5Gが社会に普及したら淘汰されてしまうものばかりに思える(その点、大手印刷会社は積極的に5Gを見据えた事業を推し進めているように見受けられる)。読者と作品が直接結びつく時代がやってくるのだ。しかも、潜在需要者に直接である。現在出版社が保有している装丁や文字組みの技術も、5Gが社会に普及すればボタン一つで誰もが手軽にカスタマイズできる時代がやってくる(そうしたサービスを提供する者は莫大な利益を手にするだろう。その点、出版社がその事業に着手しているとは思えない)。画質のわるいマンガや書籍のデータも、きれいに補正してくれるなんてのはどのサービスでもデバイスであろうと標準装備されていくはずだ(文字のレイアウトから、彩色ですら自動で一括変換できるようになるだろう)。職人としての技術をいかにシェアできるカタチでツール化できるかが今後十年の企業の命運を分けていく。コンテンツ会社のなかでは、ゲーム会社がこのさき生き残り、成長していきそうだと妄想しているが、さてどうなるだろう。(本文とは関係ないが、自律式ドローンと5Gの相性がよすぎて、はやいところ本格的な規制を設けたほうがよろしいのでは、と考えている。盗聴から盗撮などプライバシーの問題だけでなく、違法薬物の取引など、犯罪行為に利用されることは想像にかたくない。誰もが安全地帯にいながらにテロを起こせる時代に突入する。飛行制限だけでなく、購入や販売に関しても何らかの制限や制度を導入すべきではないだろうか。小型の虫型自律式ドローンが販売されるようになったら危険信号だと前以って指摘しておこう。蚊取り線香のようなドローン撃退グッズが売れる社会にならないとよいが)


2233:【不足】
圧倒的に読書量の足りないいくひしさんであるから、常時出涸らしのような文章しかつむげないのだが、皮肉なことにいくひしさんは出涸らしが嫌いではなく、むしろ好きだというから始末がわるい。水だし茶にはじまり、緑茶、コーヒー、うどんやそばのツユも薄いほうが好みである。とはいえ、薄いことと出涸らしはイコールではない。そんなことを言いはじめたら、重油は原油の出涸らしのようなものだが、ガソリンよりも高温で燃える。火力が強いうえに、燃費がよい。言ってしまえば、燃料として濃いのだ。だからというわけでもないが、濃い出涸らしも嫌いではない。とはいえ、この場合、重油は、最後まで残った茶葉やコーヒー豆に値するので、比喩としては不適切だったかもしれない。論点をズラしたり、正しい比較をしなかったりするのは詐欺師の常套手段である。純粋無垢な一番出汁がごとく読者諸君は注意されたし。


2234:【なまけもの道を極めよ】
影響力はないほうが好ましい。周囲に著しく影響を及ぼしてしまうということは、じぶんのほうでも周囲から影響を受けやすくなっていることの裏返しでもある。作用を働かせれば反作用を受ける。世に流れる抗いがたい法則だ。自由に動き回りたくばなるべく周囲に影響を与えぬようにしておくとよい。がんじがらめに縛られ、自由にサボることもできないようではたいへんだ。よほど仕事が好きなら構わないが、さほどに好きでもないのなら、わざわざ影響力をまとってじぶんの首を絞める必要はないはずだ。もちろん、揺るぎがたい何かになりたいのならば、がんじがらめに縛られるのも一つだ。プロとはおおむねそういうものであろう。確固たる地盤を固め、そこに自らの軸を打ちこみ、カカシがごとく、分野という名の畑を守る。カカシにはカカシの役割があり、やりがいがある。否定したいわけではない。ただ、いくひしさんはそういうものにはなりたくない。影響力などほしくはない。人から必要とされたくはないし、求められたくもない、ましてや選ばれたいなどとはつゆほども思わない。いつだって何かを必要とする側でありたいし、求める側でありたいし、選ぶ側でありたい。好きなときにはじめ、好きなときに休み、好きなだけつづけ、好きなときにやめる。そうしたわがままを描きつづけるには、影響力はないほうが好ましい。


2235:【死滅をかける】
環境を変えることがむつかしい時代には、人間のほうを教育し、矯正し、みな似たような規格を備えた駒にしてしまうほうが効率がよかった。しかし時代は進み、技術を発展させ、社会を豊かにした人類は、環境のほうもある程度自在に整える術を手にした。個々人を一律に同質の規格にする必要はなく、ばらつきがあっても秩序が崩れないように環境のほうを整えることができるようになった。そんななかで、環境を整えるのが容易くなった分、だったら個々人への教育ももっと楽に、効率よくできるのではないか、もっと容易く駒とすることができるのではないか、と国全体を巨大な人間部品工場にしようと企てている国がでてきてもふしぎではない。他方で、例外を許容する懐の深さは、どんな分野、どんな思想、どんなカテゴリーでも有効だ。何に対して有効かと言えば、一つ一つの個を尊重し、全体のための部品(犠牲)にしてしまわないために、である。むろん、この主張そのものにも例外は存在し、それを許容する姿勢を示さねばならない。よって、一律に同質の個を量産しようとする国が現れても、それを外部が強引にねじ伏せるような真似はしないほうが好ましい。もっとも、相手側がほかのコミュニティに対し、そうした同質化を強制しようとするのならば、これは見過ごすにはいささか大きすぎる奇禍の種と言えそうだ。自然界にウィルスが存在してもよいし、そうした微小な生物が個々の生物を正常に生き永らえさせる成分にもなっている一面は否定できない(※)。しかし、だからといって身体を蝕むほどに増殖してもらっては困るのだ。これは視点を変えれば、ウィルスのほうでも、抗生物質で殲滅されては堪ったものではないので、耐性をつけたり、感染する宿主を変えたりと、工夫する余地が生まれる。双方にとってそれが、つぎの進化のきっかけにもなり得る。いずれにせよ、人類はすこしずつ環境を整え、争うことなく問題を解決する術を磨いてきた。それでも競うことから抜けだせてはいない。けっきょくのところ、生物とは、生存をかけ――自身にとって好ましい環境を築くべく――競うようにとプログラムされた何かしらでしかないのかもしれない。単なる生物でないと否定したければ、ときには、死滅をかけ――自身にとって好ましくない劣悪を守るべく――手を差し伸べるのも一興かもしれない。(※2019年現在においてウィルスは生物ではないと区分けされているが、いくひしさんはウィルスもまた生物であると考えている)


2236:【ひとはみな例外なく差別をしている】
差別主義者を差別してはいけない。すくなくとも、差別を否定したいならばそう考えるのが道理となる。よい行いには感謝の念を示し、よいと思う表現には好ましいとの意思表示をする――どんな属性を帯びた人物に対してであろうとそれは変わらないはずだ。差別主義者のつくった料理だから食べられない、捨ててしまえ、なんて姿勢は乱暴にすぎる。それこそ差別を肯定しているのと変わらない。スイッチみたいに物事をすぐに割り切ってしまう者が多すぎないだろうか。自戒を籠めて並べておこう。


2237:【増税と減税】
消費税率引き上げには消極的賛成ないくひしさんであるけれど(増えた分の税金が何に使われるのかを明確にするのが前提に立つとした上で)、株や為替など投資や投機ビジネスへの税の引き上げはもっと積極的に行なっていくほうが好ましいとも考えている。消費税率を引き上げるというのなら、一般市場に出回らない莫大な資本からも税を徴収すべきだろう。世界的に投資や投機ビジネスへの課税は減少傾向にある。本当かは定かではないが、世界人口1%に満たない富裕層の資産は、残りの人口99%の合計資産よりも多いのだ。単純にこれだけのデータで富裕層にばかり負担を強いるのはおかしいとも思うが、「あるところからもってくる以外に税収を増やす術はない、だから消費税率を引き上げるのだ」とする理屈が通るのならば、まずは投資家や資本家から税を集める施策を政府が進めてもよいはずだ。これは単なる妄言であるが、世界的に格差制限を設けてみたらどうだろう。トップの富裕層と最下位の貧困層との格差がある一定以上に開いたら、富裕層はその資産を、格差が規定内に納まるまで国に徴収される仕組みだ。富裕層がお金を貯めつづけたければ、貧困層もまた豊かになりつづけなければならない(この理屈であれば権力者が富を独占することもなくなる)。国に資本を徴収されようとされなかろうと、富裕層はお金を「稼ぎつづけること」はできるのだ。ただ、稼いだ分のお金を保有しつづけるには、格差が広がらないような仕組みを社会につくっていかねばならない。とすると国への援助も自発的に行なっていくようになるのではないだろうか、それこそ格差が広がらないようにするための施策への援助を。


2238:【誤謬の塊】
じぶんの頭で考える、ということをほとんどしていない。考えるというよりも組み合わせているだけだ。他者の考えや、見解や、主張を、積み木遊びのように、または貼り絵みたいにして「じぶんなりの風景」を描いているだけなのだ。良し悪しでいえば、あまり上等ではないだろう。考える、というのは、いまここにはない何かを再現可能な筋道を辿りながら編みだしていくことであるはずだ。だから閃きや発想は、どちらかと言えば「考える」とは違った脳の機能だと言えそうだ。その点、いくひしさんは「考える」ことをしていない。閃きや発想にちかい脳の使い方ばかりをしていて、そのくせ、閃きや発想と呼ぶには稚拙にすぎる言葉の羅列をただ並べているだけだ。素材を組み合わせて、それっぽく出力しているだけで、摂取できる素材が粗末であれば、そのまま出力される文章も粗末になる。外部の情報に左右される。じぶんで「考えて」いないからだ。インターネットの情報がもし間違ったものばかりになったら、いくひしさんの並べる文章のおおかたも間違ったものばかりになる。本にある知識が間違っていても同じだ。けっきょく、考えていないから、間違えに気づけない。考えたところで間違えに気づけないこともあるだろうし、往々にしてそうだと言ってしまってもよいかもしれないけれど、あまりに「間違えを検証する術」を知らなすぎる。情報の出典を探るなんてのは、「考える」とは言えない。その出典が間違っていない保証はどこにもない。基本、記録とは加工された情報であり、どこかしらに齟齬や誤謬が混じっているものだ。では、正しい情報など存在するのか。より正しそうな情報しかないのではないか。そして正しさとは、あらゆる方面から見ても解釈の幅が大きく揺らぐことのない情報のことなのかもしれない(ゆえに、より現実を憑拠とした考えであると正しい確率が高くなる)。球形にちかい情報こそ、正しく、そうでないものはどこかしらに齟齬や誤謬を帯びてしまう。そう、間違いとは「帯びてしまうもの」なのだ。情報そのものが間違っている、なんてことは、そもそもないのだろう。情報は情報だ。それを読み取り、「間違える者」があるだけなのだ。そして間違えないためには、「考える」ことが前提条件としてあり、いくひしさんのようにただ情報を組み合わせているだけでは、「間違える種」を量産しているようなもので、はた迷惑このうえないと言えそうだ。間違えの申し子と呼んでいただきたい。


2239:【格差制限】
裕福層と貧困層の格差がある一定の値以上に開いたら裕福層から資産を徴収すればどうか、と「いくひ誌。2237」で述べた。単なる思いつきでしかないので真に受けてほしくないのだが、たとえばこの案において想定される懸案事項としてだいいちにあがるのが、格差の開きをどれくらいの比率に規定すべきか、である。国によって格差は異なる。貧困層を比べてみても、ある国ではその貧困度合いであれば充分に「裕福層」に値するいっぽうで、ほかの国ではそんなレベルの貧困など存在しない、とするレベルの貧困層を抱えた国もあるだろう。これは国だけでなく、時代によっても変わってくるため、格差の比率を定めてしまうと社会全体の発展を阻害する方向に働いてしまう懸念が拭えない(ある意味で、ものすごくお金持ちには絶対になれない仕組みでもあるからだ)。また、この派生問題として、裕福層ばかり集まる国をつくってしまえば、その国にいるかぎり、稼いだ分を稼いだだけ保有しておくことが可能となる。すると貧困な国からはどんどん裕福な者がいなくなっていき(より裕福層率の高い国に移住するため)、貧困に拍車をかけてしまう問題が浮上しそうだ。そうした負のサイクルが生じてしまった国では、せっかく貧困層から脱した「相対的には裕福だが、国際的にはまだまだ貧困層」に位置づけられる者の蓄えた資本が国に奪われてしまう、という悲劇もでてくるだろう。いちがいに、貧富の格差を制限すればいいというわけではない。これら懸念を払しょくするためには、裕福層と貧困層の格差だけでなく、国家間の格差もまた制限する制度をつくっていくと一定の効果をあげられそうだ。裕福な国と貧困な国の格差が一定以上に開いたら、裕福な国は貧困な国に援助をする。その際、貧困な国は裕福な国の技術やシステムを取り入れなければならない、とする制約もついていると好ましい。どのように好ましいかと言えば、貧困であるというだけで無条件に援助してもらえるとなると、民をほったらかして好きなように国を扱う独裁者にまで援助を施してしまうことになり兼ねない。むろん、独裁者が国を治めていようとその国の民に罪はない。救える命は救ったほうが好ましい。となると、独裁者の国に、「より民のためになるシステム」ごと供給してしまったほうが、長期的な援助として機能しやすくなるはずだ。援助してほしければ、独裁者の国であろうと、そうした外部の技術やシステムを受け入れざるを得ないため、けっきょく国を豊かにするには、友好的な外交関係を築くようにするよりなくなる。もっとも、優位な立場を利用して、貧困な国に劣悪な制度や不利な条件をつきつけたりできないように、裕福な国にもまた制約をつけておくのが前提となる。いずれにせよ、裕福な者や国のほうからそうした提案をし、貧困層への援助を工夫していくよりないのではないか。裕福や貧困という言い方がしっくりこないようであれば、余裕のある者、としてもよい。裕福であろうと余裕のない者などいくらでもいるはずだ。裕福であればよいというわけではない。余裕がなく、自由がない豊かさは、真実に豊かとは呼べないのではないだろうか。なんにせよ、こんな数分でつれづれと組み合わせただけの底の浅い妄言を真に受けないようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。


2240:【サナギって必要?】
進化が自然淘汰によって促されることは一般に知られている。ゾウの鼻が長いのは、鼻の長いゾウのほうが生き残りやすかったためであり、短い鼻のゾウもむかしはいたと考えられる。その点、昆虫はどうなのだろう。どういう進化を辿れば、幼虫からサナギを経て成虫になる、なんてまどろっこしい変態なる機能を備えたのか。考えられるとすれば、卵から成虫に孵る際に、未成熟で生まれてしまった個体のほうが子孫を残しやすい環境があったためだろう。幼虫がまずあったのではなく、成虫が基本形だったのだ。しかし、卵でいる時間が長いと、あらゆる外部の影響によって、孵ることなく卵が壊れてしまう確率が高くなってしまう。そういう環境下においては、未成熟であろうとまずは孵ってしまったほうが、生存戦略として生き残る確率が高い(人間の赤ちゃんがほかの哺乳類に比べてはるかに未成熟な状態で産まれてくるのも似たような理由であろう)。生き残れば子孫を残しやすく、結果、幼虫という過程を経て、成虫へと育っていく種へと進化していくと考えられる。では、サナギはどうだろう。なかなかどうして、サナギというのも自然淘汰だけでは体得できるような仕組みではないように思われる。しかし、たとえばカタツムリやある種の古代魚は、渇いた気候になると繭をつくって仮死状態になることが知られている。とすると、太古でも同じように、幼虫が環境の変化を乗り越えるために、繭にならざるを得ない時期があったのかもしれない。そのうち、繭のなかで成虫まで育つような個体が現れ、そうした種が結果として生き残っていったのかもしれない。しかし、現代では昆虫の多くは、サナギになっている期間はそれほど長くはない。サナギになってしまったらもう成虫になるよりない時点で、何らかの環境の変化を乗り越えるため、というのはいささか無理のある仮説と言えそうだ。たとえばサナギになった時点で、空気を乾燥させてみたり、冷やしてみたりした場合に、成虫に孵る時間がどのように変化するのかを実験してみたら意外な結果がでたりするかもしれない。常識的に考えるならば、サナギの状態で周囲の環境が著しく変化すれば、そのサナギはもうまともな成虫にはなれないだろう(まともな成虫であることがどれだけ生存に有利かは、これもまた環境による点には留意されたい)。下手をすれば孵ることすらなく死滅するかもしれない。その公算が高そうだが、じっさいにやってみなければ分からない。案外、サナギの状態で長期間をそのままに過ごせたりするのかもしれない。定かではないが、仮にそうした結果が観測されれば、「サナギは幼虫が厳しい環境を乗り越えるための一時的な繭だった説」が説得力を帯びてくる。いずれにせよ、昆虫がなぜああした変態なる機能を進化の段階で獲得したのかを、いくひしさんはまったく知らない。そしてすこしだけ気になっているが、それに関した書物をわざわざ取り寄せて読むほどの興味ではないので、いましばらくは、こうしてあーだこーだと妄想して楽しむことにする。


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参照:いくひ誌。【351~360】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882683609