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いくひ誌。【2221~2230】

※日々、消える準備を着々と。


2221:【なんとかの悪魔】
同じ分量であれば、40度と60度の水を混ぜれば50度の水ができる。そこからまた半分に分けても、50度の水が半分になるだけだ。しかし現代科学技術では、分子の運動量を測って、高い温度のはこっち、低い温度のはこっち、と分子を取捨選択し、40度の水と60度の水にふたたび分けることが可能なのだ(この理屈からすると、「10度と90度」や「100度と0度」に分けることも可能? つまり、水にはそもそも0~100度に値する熱運動をとっている分子が散在していて、それら分子の比率が全体の温度を規定すると考えられる? ただし、分子同士が衝突すれば運動は静止する方向に働いたり、エネルギィを分散する方向に働くので、時間の経過にしたがい、どの分子も似た熱運動の値をとるようになっていくことが想像できる。したがって、氷の分子に100度の熱運動をする分子はかぎりなく存在しないと考えて矛盾はしないように思われる。しかし、ゼロではないだろう。それはたとえば、満員電車のなかで大暴れする人間が必ずしもいないとは言い切れないように)。同じ技術を応用すれば、水に混ぜた絵具も、分子を選り分ければまた絵具と水に戻すことができるだろう(蒸留との違いは、加熱した際の科学変化を加味せずに済む点である。再結晶との違いは、分離にかかる時間を短縮できる点と、再結晶を期待できない溶液にも応用可能な点にある)。いわば、覆水盆に還らずを現代科学は否定できるのである。(思いつきを並べただけですので、真に受けないでください。本当にそんな技術があるのかも定かではありません。また、仮定が間違っている可能性もそう低くはないと思われます)


2222:【水の温度】
水は温度が高くなるにつれて膨張する。なので、100度の熱湯100リットルを1度まで冷ませば100リットルではなくなっている。(気体が固体になることを思えば何もふしぎではない。ただし例外的に、水は氷になると液体時よりも体積が増える点には留意しておきたい)


2223:【復元と時間遡行】
時間が巻き戻って見えることと、時間が巻き戻ることの違いを人類が見分けることは原理的にできないのでは?(たとえば、サイコロのカタチをした氷がとけて水になったあとで、また最初のサイコロのカタチに凍ったとしたら、時間が巻き戻ったのか、ただ復元されたのかの区別をどうやってつけるのだろう。原子の位置情報をつきとめるにしても、それを言いはじめたら、いずれは量子の重ねあわせに行き着いてしまうのでは?)


2224:【苦手】
興味があるだけで、物理は苦手です。学問全般苦手と言ってよいでしょう。


2225:【理想はなぜ必要なのか】
多様性という言葉を耳にする機会が増えた。一般名詞化していると言ってもいいだろう。ただし、いったい多様性とは何なのか、みなが言うようにさほどにもてはやすほどのものなのか、についてはよくよく吟味しておいたほうがよさそうだ。多様性には、生物多様性、種多様性、遺伝的多様性など、いくつかに分類可能な意味合いが含まれている。いちがいに多様性があればよいわけではなかろうし、土台をほじくりかえしてみれば、多様でない状態など存在するのかがまず以って疑問である。この世は種々相な物質でできあがっている。ブラックホールや中性子星でないかぎり、すでに多様性は担保されているようなものなのではないか。物質でなく、生物がたくさんいる状態が好ましいという話だろうか。ならば動物園が好ましく、数種類の生き物しか生息していない沼や池は好ましくないのだろうか。人間の多様性についても比較的耳にする機会が増えた。さまざまな属性や性質を許容した社会のほうが好ましいという話のようだ。いっぽうで、ではそこにルールを逸脱する人物や犯罪者、殺人鬼など、「存在を許容すると社会秩序が脅かされそうな属性や性質を帯びた人物」の介在も許容すべきなのか、といった議論は、さほど活発にされてはいないように思われる。そんな人物は端から排除されてあたりまえだと度外視されているのだろうか。しかし、多様性が好ましいのならば、どんな属性や性質であろうとも社会に介在する余地を残しておくのが前提になるはずだ。どの属性がダメで、どんな性質なら許容可能なのか、いったい誰がそれを決め、なぜ規定され得るのか、について多様性迎合主義の論理では語られていないように思われる。けっきょくのところ、多様性という言葉は、「私を排除しないでくれ」の言い換えにすぎないのではないか。だとすれば、それらしい用語でもっともらしく自己弁護などせずに、そのままを主張すればよいのではなかろうか。さまざまな可能性を内包していたほうが破滅への耐性を帯びている確率があがる。だから多様性が好ましい、という主張も耳にする。しかし、破滅の種そのものを無数に保有していれば、破滅する確率はあがるだけだ。何を許容し、何を排除するのか、は秩序やバランスを保つためには欠かせない。けっきょくのところ、環境をデザインするうえで多様性の重要性を説くのは、「好ましい環境が好ましい」と言っているようなもので、ほとんど何も言っていないに等しいのではないか。以前にも述べたが、多様性が重要なのではなく、極端に何かを排除する姿勢がいただけないのである。重視すべきは多様性そのものではなく、それによって保たれる均衡であり、バランスだ。どんな均衡を保ち、どんな回路を機能させていきたいのか。そこを煮詰めずに多様性の有無だけを取り沙汰しても議論は平行線をたどり、水掛け論を繰りかえすはめになるだろう。均衡を保ち、回路をなめらかに機能させるためには、多様性を制限し、流れの妨げとなる因子を排除する姿勢をとらねばならぬときもある。法を守らない者や人を殺す者が社会にのさばっていては困るのだ。だからといって無闇にそうした者たちの人権を蔑ろにするわけにもいかない。属性や性質を根拠にして、迫害したり命を奪ったりすることもまた制限すべき因子である。犯罪者や殺人鬼は「犯罪者」や「殺人鬼」だから罪に問われるのではない。法を犯したり、人を殺したという行為に対して罰則が科せられるのであり、存在そのものへの罰ではないのだ。だからたとえ犯罪者だろうと殺人鬼だろうと、社会制度のもとで裁かれれば、死刑にならないかぎり、生きていられる。完全に排除されることはないのである。ある意味では、多様性が保持されていると呼べるかも分からないが、自由を制限され、ほかの環境に介在できない点では、社会的な多様性は損なわれていると言えるだろう。ここで想定される反論の一つに、「犯罪者や殺人鬼はほかの個人を傷つけるために多様性を損なう存在である。ゆえに排除されてしかるべきである」とする理屈があがりそうだ。しかし、多様性を損なうことが罪だと規定すると、さきにも述べたが、多様性を損なう因子を排除することもまた罪になるため、けっきょくどんな存在も許容するしかなくなる。また、多様性を損なう規模に着目し、犯罪者や殺人鬼は多様性を著しく損なうので許容できない、とする理屈であったとしても、では「多様性を増すような犯罪や人殺しなら許容され得るのか」については一考以上の余地がある。混乱や混沌はときに多様性を増す方向に働きかけるが、それらを及ぼす犯罪行為や殺人は許容されるべきなのだろうか。結論から言えば、多様性そのものを物事の判断基準にするのは好ましくはない。大事なのは、多様性を保持することによってもたらされる均衡とバランスであり、多様性そのものではないのだ。どんな秩序を築き、どんな回路を機能させたいか。注視すべきはまず、そこなのではないだろうか。あなたは社会に、そして人類に、どんな回路を築いてほしいと望むだろう。(くどいようですが、ここに並ぶ文章はくれぐれも真に受けないようにお願い申しあげます)


2226:【あやふやでいい加減】
百年前の小説よりも、百年後の小説を読みたい。小説だけでなく、ありとあらゆる分野で未来のほうがいまよりも「進歩」しているのではないか、と個人的には感じている(そうあってほしい、との願望がつよい)。しかしそれでも、過去には過去で、不便であったからこそ秀でていた技術があることもまた知っている。失われた技術として、やがてはオーパーツ化していく道具や品物もでてくるだろう。技術が進歩していくにつれて、人間の行う作業は極端に減っていく。やがてはいかに消費し、消費させることができるかが人間に残される最後のよりどころとなるだろう。生みだすのではなく、生みだされたそれらをいかに他者に、そしてじぶんに、受動させるか。赤ちゃんに離乳食を食べさせる親のような存在になれるか否かが、技術力の極まった社会における人間の真価となるかも分からない。そうなった未来におかれては、より新しい技術や商品ではなく、過去にあったはずの、しかし失われた技術のほうに関心が向くだろうことは想像にかたくない。これだけじぶんたちは進歩したのに、それでも復元できない技術やシステムがあるのか、と知れば、それは人々の好奇心を刺激するだろう。オーパーツや古代文明と聞いてワクワクしない小説読みがいるだろうか。反面、これが百年前の出来事や品物であると、食指が動かなくなる読者もいるところにはいる。いくひしさんがそのタイプだ。歴史に興味がない。しかし未来であればそれがたとえ、十年後、二十年後であっても興味が湧く。この非対称性は何なのだろう。過去から学ぶことのほうが多いはずだ。未来は不確定であり、妄想する余地しかない。それなのにその妄想のほうに興味の矛先が向かうのだ。論文や教科書よりも小説などの虚構が好きなことと何か繋がりがあるのかもしれない。未来は現実ではない。虚構である。だからといって、虚構が未来であるとはかぎらない。しかし、人間の頭脳はそれを明確に分離して考えることができないのかもしれない。虚構と未来をイコールにして考えてしまう癖があるのかも分からない(あべこべに、論文や教科書はより現実にちかいと脳は錯覚しやすいのかもしれない。妄想の余地があれば、たとえ現実でもそこに人は虚構を――未来を幻視する)。妄想も、想像も、人間に備わった未来を予期する機能から派生した能力なのだとすると、それらしく聞こえる。人間は生活に困窮すればするほど、より短期的な未来を重視する傾向にある。お腹が減って死にそうな人間に五年後のじぶんがどうなっているかを考えて行動しろ、と言っても意味はない。そうした生活の苦しい社会では、より短期的な未来を据えた虚構が流行るのだろう。あべこべに、余裕がでてくるとより遠くの未来まで見詰めようと人々の視野が広がる傾向にあるのかも分からない。小説の需要が減ってきているのは、ともすれば生活が苦しくなり、短期的な未来にしか興味の向かない人々が増えてきているからなのかもしれない。或いは、未来そのものに興味の持てない現代人が増えつづけていてもさほどにふしぎではない。未来とはすなわち、可視化できていないことが可視化できるようになることだ。視えないものが視えるようになることが未来だと言ってもいいだろう。明日はまだここにはないが、それが訪れたときに「きょう」となって現れる。訪れた「きょう」は未来ではない。あすがきょうになる、といったこの流れこそが未来なのだ。過去を明瞭に分析できるようになることもまた未来であり、現代の問題をズバリここが問題点である、と指摘することもまた未来となる。虚構とは未来をどう描くか、という妄想であり、想像である。それがどれほど正確かは問題にならない。未来が不確定であるように、そもそも虚構とはあやふやでいい加減なものであるからだ。そうしたあやふやでいい加減なモヤをスクリーンとして、読者のほうでかってによりらしい未来を幻視してくれる。よりらしい現実と結びつけてくれる。そのさきに理想を描いてくれるのだ。虚構の効用とはすなわち、そこに要約できるのかもしれない。ここにはない何かを思い描くのが作家の一つの役割であるように。ここにはない何かが視えるようになることが未来であるのと同じように。虚構を――或いは情報を――読み解くことは、未来を思い描くことであり、未来を手にするのと同じことなのかもしれない。定かではない。


2227:【コネが苦手な理由】
コネクションや人脈があまり好きではない。ただし、それを使ったりする者を否定したいわけではないのだ。極論、新人賞なんかも広義のコネだろう。優れていると評価された者が、権威や資本のある者から援助してもらえる。これが縁故でなくて何なのだろう。コネそのものは有り触れた仕組みだ。社会はコネによって組みあがっていると言っても過言ではない。人と人との繋がりによって単独よりも選択の幅が広がったり、できることが増えたりする。何もわるいことではない。実力がないにも拘わらず、コネがあるから優遇される。これもまた何が問題なのだろう。選ばれるきっかけにコネが使われたとしても、その後に実力がなければ淘汰される。競争原理が働くならばそうなるのが道理だ。しかし、問題がないわけではない。たとえば競争率の激しい市場において、実力ではなく、誰と知り合いかによって選抜される確率があがるとすると、正常な競争原理が働きにくくなる。コネ優遇主義がまかりとおると、本来ならば芽がでていたはずの種が捨て置かれる確率もまた高くなる。才能ある者ならばいずれかってに登り詰めてくるだろう、といった一見正しそうな主張も、けっきょくコネがある者にはその理屈が適用されないのでは、妥当とは言いがたい。才能があればいずれかってに頭角を現すのならば、そもそも才能を発掘し、扱う事業など必要ない。繰りかえすが、コネを使う者を否定したいわけではない。じっさいのところ文化資本など、環境がその者の技量に繋がっていることはすくなくない。あらゆる分野を見渡してみても、たいがいの一流は、得意な分野以外の分野にも明るかったり、秀でていたりする。一流が目をかけたアマチュアがそのままスターになる例もさほどに珍しくはないだろう。言ってしまえば、それもまたコネの一種である。ただ、そうした「誰と繋がりがあるか」「誰から紹介されたのか」が何らかの選抜の基準になってしまうと、本来、そうした「才能を発掘する場」においてのみ陽の目を見るしかない「真実に才能しかない者」を見逃す確率が高くなってしまう。現代では、インターネット上における神の見えざる手が機能し、自然淘汰による純然たる実力主義が台頭しはじめている。しかし、そこから零れ落ちた「砂金」があることは否めない。そうした取りこぼされた才能を拾いあげるのが、本来の「才能発掘事業」であったはずだ。再三になるが、コネを使うのは何もわるいことではない。使おうが、使わなかろうが、残る者は残るし、残らない者は残らない。それでも、資本やシステムを有する者(や組織)から選ばれたほうが選ばれないよりも、才能の芽吹く確率はあがる。そしてコネがない者にも同等の可能性が残されるならば、いかようにもコネを重視すればよいだろう。しかし、現状、そうはなっていないように見受けられる。椅子取りゲームのようなものだ。座れる椅子は限られている。そんななかで、端から椅子に座れる者が限定されているゲームに参加せざるを得ない「才能しかない者」を取りこぼさぬようにするには、コネを重視する姿勢は妨げになる。我々はつぎの世代から「種を芽吹かせる土壌」を奪ってはいけないのではないか。断るまでもなく、いくひしさんはそうした取りこぼされている「才能しかない者」ではない。いくひしさんには才能がない。また、ほかの者たちよりもコネがあるほうだ。苦手なので使っていないだけであるし、使っていると思われたくないので、誰と知り合いだとか、そういうことを極力、どこにも並べていない(言い換えれば、知人を人脈扱いしたくない)。それら相手にも小説をつくっているとは話していない。いずれ、いくひしさんの実力とは関係がない。知り合いたちがいくらすごかろうが、いくひしさんがすごくなるわけではないのである。こんな当たり前のことが度外視されるのがコネだと思っている。苦手な理由を解かってもらえただろうか。


2228:【ダサい】
じぶんより若い世代に言いたいことなどないし、もっと言えば、誰に対しても言いたいことなんてないのだけれど、それはそれとして、10代のコたちには、「ダサい」が批判の根拠になっている言説は基本無視していいですよ、ということは言い残しておきたいですね。何かの是非を問うのに、対象を「ダサい」と貶めて評価する物言いは、単に「私がそれを気にくわない」と言っているだけであって、じぶんの価値観を相手に押しつけているだけです。言われたほうがわざわざ相手に合わせる必要はないのです。どうして10代のコたち限定かと言えば、ダサいを根拠に相手を腐すのは、それ以上の世代だと感じているからです。つまり、10代のコたちのほうが言われる立場にあるということです。感覚的には逆に思えるかもしれませんが、いくひしさんの観察できる範囲では、10代のコたちのほうが「ダサい」と言われることに怯えているように思えます。それは、上の世代から「ダサい」と脅かされているからなのではないでしょうか。ダサいことの何がよくないのでしょう。いくひしさんにはピンときません。それはひょっとすると、いくひしさんがダサいことと何か関係があるのかもしれませんね。何かを「ダサい」と言ってけなす言説には注意してほしいです。なぜってだってそういうのってなんかほら、ダサくないですか。


2229:【ポジショントークです】
文芸にかぎらず、今後、さまざまな分野で必要とされていくだろう人才はおそらく、それそのものが好きな玄人ではなく、おもしろいものが好きな酔狂であろう。作家であれば、小説が好きな小説家ではなく、単なる好事家がこのさきの10年をけん引していくのではないか、と妄想している。漠然とした印象でしかないが、コアとなるべく任意の分野を突き詰めるのに創造性はあまり必要ないのではないか。コアは、すでにあるものを極め、研ぎ、磨いていけばよいからだ。その点、ライトであるには、つねにほかの分野との結合が欠かせない。濃くならないように、軽薄でありつづけるには、絶えず流動しておく必然性がある。時代の変遷が加速して感じられる2019年現代において、コアであるよりもライトであるほうが、商業という観点からすれば有利なのかもしれない。反面、これからさき、この国の経済はどんどん苦しくなっていくことが想定される。商業として成立させることを目的にしてしまうと、ある時期を境につづけることそのものの意味を喪失してしまうのではないか、との懸念を覚える。どうあっても目的を達成できないとなったときに、潔くやめる覚悟を決めておくことが、商業を目指すうえで欠かせない過程となっていきそうだ。とすると、お金を稼げずともつづける意味を持ちつづけないことには、そもそも商業の土台に立つことすら困難になっていくのではないか。ここ数年であれば、つづけるためにお金を稼ぐのだ、とする理屈が成立したが、これからさきの社会では、お金を稼ぐためにはまずはつづけなければならない、とする理屈が台頭してくるはずだ。いっときの隆盛を極めるのも一つだが、今後は徐々に、細々とつづけていくことの価値が高まっていきそうだ。商業にかぎらず、評価経済至上主義においても同様のことが言える。インターネット上における高評価は、もはや珍しいものではなくなった。バブルは膨れるだけ膨れ、あとはゆったりと萎んでいく。高評価を得られるに越したことはないが、多くの者たちから高く評価されることの価値はいまよりも下がっていく、と想像できる。ゼロになることはないだろう。ただし、インフルエンサーマーケティングのような、「まずはたくさんのフォロワーと高評価を得ましょう、影響力をつけましょう」とする手法は、今後、成立しなくなっていくのではないか、と見立てている。言い換えれば、影響力の示す意味合いが変化していく。商業と同様に、まずは長くつづけていける土台を築けているか否かが、問われていくだろう。これまでの社会では、影響力の示す意味合いが、「お金を稼ぐこと」であったが、これからはいかに、苦境を乗り越えてきたか、日々を楽しく過ごせているか、が人々からの関心を集めるようになっていくのではないか、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。言を俟つことなく、根拠のない妄言ですので、真に受けないようにお願い申しあげます。


2230:【文章デザイン】
読み飛ばす快感というものがある。読書の醍醐味の一つと言ってもよいかもしれない。もちろん、精読するには一文、一文を噛み砕きながら読むのが好ましい。一冊から得られる情報量を多くしたいのならば、できるだけ精読を心掛けたほうがよいだろう。ただし、娯楽として済ますならば、興味のない文章や目が滑る文章は読み飛ばしてしまうのも一つだ。そして小説にかぎって言ってしまえば、この読み飛ばしてもおもろしさが損なわれない、というのが多くの者に読まれる小説にとって欠かせない成分となっていそうだ。SNSの醍醐味にも似ている。興味のあるツイート以外は、冒頭の数文字のみ目でとらえ「興味なし」の判を捺し、スル―していける。そしてたまに降りてくる「玉」に当たると脳内麻薬が分泌される。パチンコや競馬などのギャンブルに似た仕組みを伴っている。「当たり」と「スルー」の割合によって、ツイッターにハマる者とハマらない者が明確に分かれそうだ。また、これは読書にも言える。すべての文章を読み飛ばしたくなるような本は読者の離脱を誘うが、ある一定の割合で読み飛ばされる分には、むしろ読了率をあげることに繋がる。思えばこれは個人的な所感だが、一文、一文をねぶるように読んだ小説よりも、はやくつづきが気になって、読むというよりも「見る」にちかいスピードで紙をめくった小説のほうがその物語世界に没頭していたように感じる。というよりも、おもしろい小説は本質的に読むのではなく「見る」のではないか(むろん、個人差があるだろう)。これはやや極端だが、いくひしさんはおもしろい物語に触れると、それを映画で観たのかマンガで読んだのか、それとも小説だったのかを区別することができなくなる。とくに、小説の場合は、おもしろい小説であればあるほど、どんな文章だったかを思いだせない。読むのではなく「見て」いるからだ。映像で捉えているのだ。この効果が果たして、「文章の脂肪率」とどれほど関係しているのかは分からない。読み飛ばせるからおもしろいのか、それともおもしろいと読み飛ばしてしまうのか、もまた区別しにくい。どちらの場合もあるだろう。そういう意味では、「読み飛ばす」にも二種類ありそうだ。ポッカリと穴が開くような無視の仕方をするのか、それとも「見る」と同じレベルで超高速に情報を解凍しているのか、の違いだ。読み飛ばしているようで、読み飛ばしていない。そういう軽いようでねばっこい文章を狙って並べられるように意識していきたいものである。さっぱりのようで濃ゆく、なめらかなようで引っ掛かりのある文章を。リズムをコントロールし、デコボコで音階を奏でるような。情報の濃淡で巨大なモザイク画を浮きあがらせるような、そんな文章を。


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参照:いくひ誌。【1541~1550】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886837372

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