※日々、積みあげた石を打ち崩す、つぎは何をつくろうか、と無想しながら。
2211:【アートとは】
芸術とは、ある種の「雑さ」に「美」が宿ることを言うのかもしれない。現代では、技術力がどんどん蓄積され、研磨され、比較的誰であってもある程度の「美」を削りだすことができる。絵であれ彫刻であれ物語創作であれ、こうこうこうすれば上手くいきますよ、といった地図がネットや書籍で手に入りやすい。そうするとみなが同一の規格の「美」を生みだすようになるので、「美」そのものの価値が減少していくことが想像できる。そこで訪れる転換期が二つあり、一つは独創性と呼ばれる「規格外の美」だ。これは一見するとこれまでの規格に当てはまらないので、評価は二分しがちだが、徐々にそれを「美」と認める者が増えていけば、「美」そのものの価値観を大きく変えるイノベーションと成り得る(イノベーションとは現象へついた名であり、イノベーションという技術はない。そのため、イノベーションを起こしましょう、と言って起こせるものではない点には注意しておいて損はないだろう。できるとすれば、イノベーションとなり得る「異質の種」をつぶさずにおく土壌を築くことと、そうした「異質の種」が芽吹いたときに、社会をより豊かにする技術に応用できないか、と周囲の者が手を差し伸べる文化をつくっておくことだ)。そして、同一規格の「美」が増えることで訪れるもう一つの転換期とは、本来「美」ではない「雑さ」や「醜さ」が美として評価されるようになる流れである。より完璧で一点の曇りのない状態を美として評価する風潮が「原初の美」の有様を規定する。だがそのうち技術力が高まり、誰もが「原初の美」に近づけるようになると、こんどは「規格外の美」がもてはやされるようになる。その派生として、そもそも「ありふれたもの」や「弱いもの」にも「美」の側面があるのではないか、と謳われるようになっていき、一転して「美」の有様は多様化へと向かう。こうなってくると、誰もが「美」を内包し、「これだって本当はうつくしいのだ」と言ったもの勝ちとなり、「美」そのものの価値が相対的に激減する。神の価値を高めたければ、一神教を広めるのが効率がよく、どんなものにも神が宿るといった多神教では、神への崇拝心は薄れる傾向にある。この理屈は「美」にも当てはまる。「美」の基準が多様化すれば、「美」そのものの持つ神秘性や特別性は減少すると考えられる。ただし、「神」とは異なり、ほかの「美」を否定し、自分たちの許容する「美」のみをうつくしいと規定する姿勢そのものが、「原初の美」の規格から外れており、美の多様性を許容することはどんな分野でも進んでいくと想像できる。そうしたときに、多様化し、卑近化した「美」に特別性や神秘性を持たせるには、誰もが容易には持てないような、それでいて規格外の「美」を【次世代の美】として規定しなおすのが有効だ。それがすなわち、「雑さ」や「醜さ」である。ピカソを例にあげればそれらしい。或いは、太宰を、それとも手塚治虫を。ゴッホ、岡本太郎、現代でいえば漫画家はみなこの傾向を帯びていると言えるだろう(つまり、完璧を求めつつも、端から完璧な絵を描こうとしていない、という意味で)。その人物ならではの「雑さ」や「醜さ」が味となっているか否か。本来ならば欠点であるはずのそこを味とするのには、「欠点をつつみこんでいるほかの技術力」が秀でている必要がある。「原初の美」を、極めておく必要がある。完成したジグソーパズルから一つだけピースが抜け、穴が開いていたとしても、多くの者は気にも留めないだろう。しかし、それがダヴィンチの残した最後の絵画だとすれば、なぜここだけ穴が開いているのだろう、しかもピースのカタチで、とそこに意味を求め、ほかの絵との差別化をはかり、よりらしい「美」を見出そうとするだろう。言い換えれば、より完璧であろうとした末に、それでも一般化され得ない欠点にこそ、その人物の「美」が集積されると言ってもよいかもしれない。天才のエピソードとしてほかの多くの者たちにとって造作もなくこなせる作業がこなせなかった、といった事例を比較的よく耳にする。これは天才にも弱点があった、といった傾向を示すのではなく、どちらかと言えば、人間には、完璧であるはずのものに穴があることをつよく憶えてしまう性質があることを示唆しているのではないか。長くなったので、ここでまとめに入ろう。芸術とは「好きなことをとことん突き詰めておきながら、そのせいで弱点を放置してしまった状態」を差すのではないか。商業作品であれば、埋められる欠点をまず埋める方向に舵がとられる。そのほうが合理的だからだ。しかし、芸術は、いくら簡単に埋められるからといってもそこに興味を見いだせなかったらそのままにしておく、といった性質がある。そして芸術家として大成する者は、のきなみ好奇心が高く、それゆえ、たいがいの弱点は埋まっていくが、それでもどうしても興味の向かないことだけがぽっかりと一個だけピースの抜けたジグソーパズルのように開いてしまうのではないか(たとえば、書道ではある種の荒々しさ、毛筆の跳ねの部分を敢えてすっかり制御せずにおくことが技術として認められる。赴くまま、道具に運命を託すような「投げやりな所作」は、ほかの分野でもおおむね肯定的に評価される傾向にある。しかしその「投げやりな所作」は、任意の一部分だけに許容され、ほかの部分ではむしろ極力排除される。つまり、何に集中してチカラをそそぎ、何にチカラを抜くのか、といった配分や力加減そのものが個性として観測者に評価され得る)。多くの者はその開いた穴と、「完璧を求めた軌跡」との差を目の当たりにし、ほかの「美」にはないその人ならではの【美】を感じるのではないか。つまるところ、芸術が、その芸術家の背景と密接に関わり評価される傾向にあるのも、人間の持つこうした「情報の欠落」に目を奪われやすい性質にその因を求めることが可能なのではないか。芸術とは、ある種の「雑さ」にまで「美」が宿るくらいに「美」を追求することを言うのかもしれない、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(お断りするまでもなく、いくひしさんは美術や芸術に関しても素人はなはだしく、名前を知っている芸術家にしてもピカソやゴッホ、ダヴィンチがせいぜいですので、ここにある文章を真に受けないようにお願いもうしあげます。感覚として、ふだん以上にいい加減なことを並べたなぁ、との所感がつよくあります)
2212:【そうぞう】
成長しつづける、なんてことはできない。人間は衰えるし、落ちぶれるし、細胞単位で見ればつねに死滅しつづけている。言ってしまえば、変化しつづけることしかできないのだ。ただ、どのように変化しつづけるのか、はある程度、ほんのすこしではあるが、制御可能であるらしい。言い換えれば、衰えたなかの何を補完するかは選べるのだ。補完しなければそのまま知識や技能は失われる。人間には忘れるという機能も備わっているからだ。それゆえに、何を補完し、補いつづけるか、その指針を立てることくらいしか自由はないと言ってもよいかもしれない。ただし、人間には学習能力がある。これは何かを憶えたり模倣したりするだけでなく、記憶した情報をじぶんなりに整理し、圧縮する作業も含まれる。じぶんなりに圧縮し、折りたたんだ情報は、それを一つのブロックとして、ほかのブロックと結びつけることが可能だ。想像とはすなわち、この連結作業のことであり、それを物理的に表現しようとすれば創造となり、ときに発明に、或いは芸術となっていく。その過程で、発見や証明といった副産物も生じる。この理屈からすれば、学問における証明とはのきなみ、発明であり、芸術であると呼べるだろう。いずれにせよ、訓練を重ねたからといって延々と成長しつづけることはできない。どこかで衰えたり、落ちぶれたりするのが道理であり、そのときに開いた空白をどのようにして埋めようかと工夫できるか否かが、より好ましい変化への架け橋となるだろう。欠けたブロックを、ほかのどんなブロックで補うか。すなわち、いかに想像し、創造するかが肝になると言えそうだ。裏から言えば、想像し、創造するところからが本番であり、その前段階の「成長」は、そのための下準備にすぎないのかもしれない。そして見過ごされがちなのは、想像や創造は、成長の層の厚さにかぎらず、誰でも、いつでも行えるという点だ。ただし、赤子が想像や創造からややかけ離れた存在に映るのは、おそらく外界認知能力が未熟であるためであり、いかに外部世界を認知し、じぶんには知覚できていない世界があるのだと、その幅広さと奥深さへと思いを巡らせられるかが、想像や創造のために欠かせない足場となっているだろう点には留意されたい。
2213:【世界は我々が知るよりも遥かに深淵】
欠けている情報の重要性は、いま目のまえにある情報を正確に把握するのと同じかそれ以上に高いかもしれない可能性からは目を離さずにおきたい。例外はあるにせよ、現在触れられる造形や情報というものは、時間の経過によって失われた造形や情報よりもすくないのだ。化石にしてもそうだし、遺跡にしてもそうだ。人間の記憶にしてもそうだし、記録にしても同様だろう。インターネットが普及し、情報社会と謳われるようになったために錯覚しがちだが、我々が扱う情報は飛躍的に増加したが、それでも扱える情報の総量が、以前と比べて増加したかと言えば、疑問である。情報はつねに世界に溢れていた。そこにアクセスする道のりが整備され、誰もが時間をかけずに「どの情報」にも触れられるようになったが、だからといって、それら「どの情報」が以前の社会と比べて増えたのかは微妙なところだろう。ケタは二つか三つ増えたかもしれない。しかし、それ以上に、時間の経過にしたがい失われつづけてきた情報のほうがはるかに多く、我々はその多くの失われた情報を扱う術を、未だ確立できていない。恐竜がいったいどんな見た目をしていて、どんな皮膚の色をしていたのかすら正確に再現できないのだ(遺伝子工学が発展していけば、或いは再現可能かもしれないが)。猿人や原人がどのようにコミュニケーションを図り、どのような歌を歌い、どのような舞いを踊ったのかも未知のままだ。アンモナイトなどの化石に残りやすい生物の生態は比較的類推できるが、化石として残らなかった生物に関しては、いたかどうかも充分に判断できない。これは現代人にしても同じであり、話題にされ、記録に残った者のことしか我々は知ることができない。そうした参照可能な個人にしても、知ることのできる側面は、表層の、情報として残ったもののみなのだ。失われつづける個人の軌跡はやはり、失われつづけるのである。我々が扱える情報というものは、極々狭い範囲の形骸化した情報でしかない。化石として残った情報でしかないのだ(しかも残った情報が本当に正しいのかも現代では定かではない)。やわらかい細胞ほど化石として残りにくい。現存し、確かにいまここにある情報を元に、より正確な推理を重ねて論理を構築していく姿勢もまた尊いが、欠けている情報に思いを馳せ、失われた情報に目を向けようとする姿勢もまた同じくらいに尊いはずだ。そして構造的に、想像や創造は、そうした失われ、欠けた情報に目を向けようとする姿勢からしか生じないのではないか。確かなことの重要性が謳われるようになって久しいが、たとえ不確かだとしても、失われ、欠けた情報に目を向けようとする姿勢は、これからの社会を生きるのにあたって、不可欠な素養の一つとなっていくだろう。どちらがより優れている、といった話ではない。どちらかいっぽうに傾倒してしまうのは、世界を紐解くという意味では、充分ではないだろう、という話である。
2214:【極めるとは無形】
敢えて衰えさせる、ということをときどきする。毎日継続して磨いてきた技術をいったん放置して、腕を錆びつかせる。そのあいだは、ほかの異なる分野や苦手なことに時間を使う(空ける期間は数日のこともあれば、数か月、ときに数年にわたることもある)。たまにであれば苦手なことも新鮮だ。技術力がほとんどゼロにちかければ、どれだけ苦手でも一定の成果は短期間であげられる。だから苦手でありながらも、もっとも美味しいところを齧って味わうような楽しみ方ができる。そしてそろそろ「時間をかけて磨いていたアレ」をまた磨かないともう元には戻れなくなりそうだな、と焦りを感じはじめたころに、もういちど得意だったものに向き合うのだ。そうするとやはり、衰えているわけである。余分な脂肪がついた鈍い感じ、錆びついた感じが如実に判るのだ。知識であれば、どうしても思い出せなかったり、つらつらと思考の筋を辿れなくなったりする。まるで虫食いのようになっている。その穴ぼこを埋めようとして埋められる箇所もあれば、どうしても埋められない箇所もでてくる。たいがいは、埋めるだけの時間を割くのがもったいない、と感じて諦めてしまうのが実情だ。そうすると、その開いた穴をほかの知識や技術で埋めようとする。ときには削ってしまったり、穴を塞ぐように、筋と筋を繋げて、短縮することもある。いっそ全体を分解して再構築し、一回りちいさくしてしまうこともある。一言で形容するならば、圧縮するのである。もちろん、ほかの部品を足してトータルで以前よりも情報が増すこともある。緻密になり、複雑さが増すこともあるので、いちがいに圧縮とは呼べないが、部分、部分を眺めてみると、やはり圧縮されている。時間を空けたせいで余分な脂肪がつき錆びついていたはずが、その後にもういちど磨きはじめると、以前よりも要所要所が改善されていたりする。言うまでもなくいいことだけではない。衰え、失った技術や知識がそのまま失われたままになることも珍しくはない。ただ、そうした再修得できなかった技術や知識は、じぶんにとっては負担になっていた「枷」であり、むしろそれを失くしたおかげで、できることの幅が広がったと感じる機会がすくなくない。断るまでもなく、主観でそう感じられたからといって、では本当に総合して改善されているのか、進歩しているのか、についてはつねに疑問としてつきまとう。そもそもを言えば、何を以って進歩と呼ぶのか、その評価軸をハッキリとさせなくてはならない。失くした「枷」そのものの有無が試金石となっていたとすれば、それは失くしてはいけない「技術」だったことになる。しかし、そうした評価軸にいつまでも縛られることそのものが自分自身の「枷」になっている可能性と向き合うという意味でも、敢えて衰える、という無駄な時間を過ごす意味がある。だからあなたはいつまでも中途半端で、何の芽もでず、陽の目も見ず、世間から高く評価されることもなく、うだつのあがらぬ日々を送っているのだ、と言われてしまえば、なるほどそうかもしれないですね、とうなづくよりない。ただ、何かを極めると言ったときに浮かぶ一般的な印象は、刀を鋭く研いだり、何かの塊をなめらかに磨きあげたり、或いはどこまでも先端を求めて突き進む、といった「極限」にちかしい何かしらであるように思われるが、いくひしさんにとって「極める」とはむしろ、どちらかと言えば、風や水や光のように、カタチがあるようでなく、何にでも溶けこみ、或いは包みこんでしまうような、そういった無形にちかい印象がある。それを「無」と言ってしまいたいが、果たして「無」とはどんなものかをいくひしさんは思い浮かべることができないので、その何段階か手前の、カタチがない状態、どんなカタチにもなれる状態である「無形」を、「極めたさきに見えてくるだろう何か」としておきたい。不定と無形の違いは、不定はカタチが定まっていないのに対し、無形はときには定まることがある点にある。カタチを帯びることはないが、すでに存在するカタチに影響してその存在を浮かびあがらせることはできるのだ。そのとき、無形はたしかにそこに定まり、留まっている。それを、任意のカタチに循環していると言ってもよいかもしれない。自然にある無数の回路を自在に、自由に流れること。いくひしさんにとって極めるとは、そういう状態のこととしておきたい、いまはまだ、と打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、またべつの日に考えを巡らせれば、これとはまた違った「極める」を思い浮かべ、いい加減なことを並べるでしょう。見方を変えれば、サボる言いわけをそれっぽく装飾しているだけでございますので、真に受けないようにお願い申しあげます)
2215:【環境を変える】
自力で変わろうとするよりも、環境を変えてしまったほうが人間は変われる。というよりも、生物はそも、環境に適応した結果に進化しつづけてきたわけであるから、環境を変えてしまうことはそのままその個体の適応能力をその方向へ誘導する効果がある。ただし、環境に適応できない個体もむろんいる。だからこそ自然淘汰が働くわけで、できるだけじぶんに合いそうな環境に移ることが好ましい。わざわざ劣悪な環境に身を置く必要はない。できるだけ生存に有利な環境に身を置くこと。それが進化に必要な前提となりそうだ。ただし、環境そのものが激変してしまうこともあり得る。大量絶滅はそうして幾度も引き起きてきた。もっとも、これは避けようがないし、けっきょくどこにいようと、一様に滅んでしまうのだから、予測不可能な環境の変化を前提に環境を選ぶのは利口とは呼べない。結果がでなかったり、じぶんの技量に変化が感じられなければ、環境を変えてしまったほうが好ましいときもある。注意したいのは、それはいまいる環境がわるい、ということではない点だ。飽くまでじぶんには合わなかっただけであり、ほかの個にとっては望ましい環境であるかもしれない。また、合わないのはじぶんの適正ではなく、適応能力のほうである。どちらかと言えば、長期間変化していないな、と感じるときはむしろその環境に適応できてしまっていると言ってもよい。劇的にじぶんが変化できないのはじぶんがいまの環境に適応できてしまっているからであり、その結果に周囲から高く評価されるか否かは、またべつの要素が関わってくる。高く評価されなくとも、じぶんにとって好ましい場というものはある。裏から言えば、どれだけ高評価されようとも、じぶんの適応能力がまったく働かないような場であると、やがて心身が乱れていくだろう。つまり、飽きるのだ。いずれにせよ、環境に対して適応しようとして、その結果に、どんどん好ましく自身が変質しつづけていく――このような好循環とは、なかなか巡りあうことはできない。だから環境をまったく変えてしまうのではなく、まずは細かくちょっとした変化を加えてみたりするのが効果的だ。接する相手を変えたり、増やしたり、或いは逆に減らしてみたり。または整理整頓をしてみたり、部屋の模様替えをしてみたり。思い切って転職や引っ越しをしてもよいけれど、似たような環境はどこにでもある。似た環境に移るだけならば、いまいる場所でいかに環境に変化を加えられるかを試していくほうが効率はよいだろう。ほかの生物とは異なり、人間は、じぶんの周囲の環境をじぶんの手でデザインすることができる。巣をつくるだけでなく、もっと広範囲の環境をいじくり回し、加工することができる。どんな刺激を得て、どんな刺激を拒むのかも、ある程度は選択可能だ。何にせよ、飽きない工夫はじぶんでしかできない。環境を移るのもその手段の一つでしかなく、環境にじぶんの未来を託すのはやはりというべきか、無謀だろう。人間には環境に適応する能力がある。刺激がないのは、適応してしまっているからだ。なんの遣り甲斐も感じられず、刺激も感じられないようなその場こそがじつはじぶんにとっての楽園である可能性はいちど考えてみたほうがよいだろう。同時に、余裕があるうちに、じぶんのいまいる環境へ変化を加え、より好ましいようにデザインしていこうと行動に移すのも好ましい。何にせよ、飽きているのはじぶんであり、飽きないように行動するのはじぶんにしかできない。繰りかえすが、環境を変えてしまうのはその手段の一つにすぎない。目的は、飽きないようにすることであり、適応能力を働かせ、より好ましい環境を築くことにある。環境が変わるから個もまた変質するが、変質したいからこそ環境のほうを変えることもできる。そしてどういうじぶんになりたいかに合わせて環境のほうをデザインすることもまた人間にはできるのだ。卵がさきか、鶏がさきか。しかし人間は、どんなニワトリが欲しいのかをさきに考えたうえで、卵をデザインしていける。ゲノム編集じみた能力が、人間であれば誰にでも備わっている。飽きたら工夫する。その繰りかえしなのである。(何かを言っているようで、何も言っていない文章の典型です。真に受けようにもありませんね)
2216:【計算】
複雑な計算がいっさいできない。できるのはだいたい足し算と引き算で、しかも分数になると投げだしてしまうくらいだから、四則演算ですら満足でなく、九九すら怪しい。さすがに九九くらいはできるだろう、と思われるかもしれないが、じつを言えば足し算や引き算もかなり怪しい。買い物の会計時にしょっちゅう勘定を間違える。不要な小銭をだして返されるなんて失態は三日にいちどはある気がする。あべこべに、出したお金が足りなくて店員さんに困った顔をさせてしまうこともしばしばだ(ちなみに、いくひしさんは未だに現金で支払っている)。こんないくひしさんであるから、物事を考えるときも、できるだけ計算せずに済むように、細かなところを省く癖がついた。どんぶり勘定というやつだ。とにかくなるべく足し算や引き算で答えがだせるように、どれとどれをくっつけて、どれとどれを削ってしまえばいいのかを積み木遊びをする感覚で、頭の中でいじくり回す。くっつけたり削ったりするのも、言ってしまえば、足し算と引き算だ。大きな塊にしたり、小さな塊にしたりして、できた塊をさらにほかの塊とくっつけたり、ぶつけあったりする。けっきょく、工夫する余地があるのは何と何をくっつけて、何と何をぶつけあうのか、といった組み合わせのパターンでしかない。塊をぶつけあったときに、ちょうどよく似たもの同士が結びつくことがある。そうしたときは、それで一つの大きな塊にしてしまって、余ったところは消してしまう。同じ色のブロックがいくつかくっつくと消えるゲームがある。あれと似たようなものだ。因数分解のようでもあるが、そこまで複雑ではない。使うのは足し算と引き算だ。この「いくひ誌。」に並べてある文章の軒並みも同様だ。掛け算や割り算なんて使わない。複雑な公式とも無縁だ。あれとこれが似ているからくっつけて、これとそれは余計だから消してしまおう。残った「あん」と「ぽん」と「たん」を繋げて、「あんぽんたん」にしてしまえ、といった単純な、というよりもどちらかと言えば、ずさんな思考の流れがあるばかりだ。加えて、よどみなく流れているわけでもなく、ひどく変則的であり、断続している。連続していないし、一貫もしていない。飛躍と誤謬のオンパレードであり、詭弁と矛盾のとんだデートである。その後に生まれた子はおそらく、御託とか戯言とか、そういった名前がつくことだろう。計算とは無縁のお子さまである。無垢のようで木偶であり、うずたかくクズである。珍しく本日の「いくひ誌。」は真に受けてもらって構わない。ちなみに、キィボードの打鍵も、人差し指と中指しか使わない。ブラインドタッチとは無縁である。だからどうと言うつもりはないが、プロフェッショナルとは程遠い。そういう存在なのである。
2217:【無知蒙昧】
ガラスのコップも満足につくれない。バーナーの構造も知らない。
2218:【先天的】
うつ病が脳の疾患だとするのなら、生まれたときからのうつ病というのもあるのでは?(生まれたときからの風邪はある?)
2219:【もっと】
くだらないこと並べなきゃ。
2220:【軌道修正】
馴染んできたので、またすこしずつほかのいくひしさんたちを呼び戻していきたいと思います。
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