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いくひ誌。【2201~2210】

※日々、人を傷つけ生きている。


2201:【自信がない】
自信を持つことのデメリットを「いくひ誌。2195」で述べた。では自信がないことのデメリットとは何かを今回は並べていこう。一般的には自信がないことは短所として語られがちである。なぜだろう。一つは見た目の問題がありそうだ。自信がないと挙動不審になり、おどおどしたり、はっきりと物が言えなかったり、断言できなかったり、自己主張が乏しかったりする。そうすると周囲の人間からの信用を得られにくくなるために、まずは自信のあるように堂々と振る舞うのがよいとされる風潮ができあがっていくのではないか、と考えられる。反面、この風潮が強化されていくにつれて、本当は自信がないけれど損はしたくないのでひとまず自信のあるフリをしておこう、と考える者が増加する。そうした者は、本当は自信がないのに周囲の人間から過剰な信頼を寄せられるようになり、けっきょくじぶんの首を絞めることに繋がりそうだ。この場合、自信がないことが問題なのではなく、自信がないのにあるフリをしてしまうことがよろしくないと言えそうだ(そしてそういう人物が増加していけば、自信のあるフリをするメリットも減少するため、本当に自信がある人物ですら自信のある態度をとらなくなると想像できる。言い換えれば、長期的に見れば自信があるフリをするメリットはないのだ)。また、自信がないとなかなか決断がくだせない傾向にありそうだ。決断が遅れれば徐々に行動に移す機会を失くしていき、やがては殻にうずくまったまま何の成果も得られなくなる悪循環が生じてしまいそうだ。たとえば、試験に合格するだけの能力はまだ身についていないから、あれとこれとそれをマスターしてから試験に挑もう。こう考え、いつまでも、あれとこれとそれを増やしつづけていては、いつまで経っても試験は受けられない。しかしこれは慎重さの裏返しでもあり、行動さえとりつづけていれば、この短所はまたとない長所ともなり得る。あれとこれとそれをマスターしつつ、試験だけはそのつど受ければよいのだ。完璧になってから行動に移すのではなく、完璧を目指しながら行動に移せばいい。とはいえ、ここですこし疑問が生じる。果たしてそのことと自信がないことは関係があるのだろうか、と。どうせじぶんは何をやってもダメだから、と行動する前から諦めてしまうのは(或いは先延ばしにしてしまうのは)、自信がないのではなく、想像力がないのではないか。この場合、本当に必要なのは自信ではなく、想像力のはずだ。どんなに無力な人間であっても、何か行動を起こせば、結果が生じる。望んだ成果ではなくとも結果を知れるというのは、それだけで成果と呼べる。何もしないことと、何かをして失敗することのあいだには大きな差がある。越えられない差だと言ってもよい。それゆえに、ときには取り返しのつかない結果を招いてしまい後悔するハメにも繋がる。無闇に行動すればいいというわけではないのだが、この場合、何事も断言できないがゆえに慎重に事を進めてしまう自信のなさはプラスに働く。短所ではなく、ここでも自信のなさは長所に転じる。長くなったので、ここでまとめよう。おどおどした見た目や、なかなか思いきった行動を起こせない性質は短所にならない。いずれも問題は、「周囲の偏見」や「想像力の欠如」であり、自信のなさそのものが要因ではない。そして周囲からの偏見は長期的に見れば改善されていくし、想像力の欠如も、自信のなさが要因ではないと気づければ自ずと補完されていくだろう。自信がないことの短所を並べようとしてみたが、裏腹に肯定的な文章になってしまった。補足として、自信がないから他人からの好意や褒め言葉をすなおに受け取れない、といった短所もときおり耳にする。しかしそもそもの話として、なぜ好意や褒め言葉をすなおに受け取らなくてはならないのだろう。それが悪意やわるぐちであれば、私はそうは思いません、と異議を唱えるのは何もおかしくはないいっぽうで、なぜ好意や褒め言葉であると、私はそうは思いません、と言ってはならないのだろう。本人にとっては、ぜんぜん「出来」に満足できていないのなら異議を唱えてもよいはずだ。相手がこちらをどのように評価しようとそれは相手のかってだが、相手がそれを伝えてきたならば、相応に応じる道理はあるはずだ。せっかくの好意を無下にされた、と憤る気持ちは理解できるが、感謝されて当然だと思いあがっているようなら、それは単なる驕りであろう。真実に好意があり、すばらしいと思っているのなら、本人ではなくほかの者に薦めるといった方法もあるはずだ。いずれにせよ、自信がないことがよくないことだ、といった風潮は、単に望んだ反応を返してもらえない者たちのひがみでしかないように思うのだが、これはいささかひねくれた見方だろうか。自信を持つことよりも、「どんなものであれ周囲に作用を働かせれば反作用を受けるし、誰もが他者に影響を与えている」ことに自覚的であることのほうがよほど優位に行動に移せるようになるのではないか、そしてそれは望んだ成果をあげやすくなるのではないか、と思っているのだが、これもまたいささか偏った物の見方であるかもしれない。ともすれば、自信のない者の味方になりたいだけなのかもしれない。自信がないことはいくひしさんにとっては長所に映りやすい。育むべきは、思考形態(体系)や想像力であり、じぶんを信じるなんて信仰心ではないはずだ。じぶんを信じなくたって、行動を起こせば人は何かしらの影響を世界へ与えている。わざわざじぶんを信じる必要などないのである(むろん、何を信じても個人の自由だが)。


2202:【味方とは】
味方とは何だろう。同族と見做したり、仲間と見做したり、チカラを貸したり、加勢したり、或いは単に応援をする者のことを言うのかもしれない。しかし、味方と仲間はイコールではなさそうだ。仲間同士であっても利害が一致しなければ仲たがいをしてしまうが、味方はどうやらそうではないらしい。仲たがいをしようが袂を分かたねば仲間は仲間として認められる。だからこそ派閥が生まれるのだ。派閥は、同質のコミュニティ内における対立構造であり、基本的には同じ目的を見据えている仲間なのだ。目的は同じだが方針が違う場合に派閥となりやすいと考えられる。その点、味方はどこまでいっても味方である。コミュニティのいかんを問わず、味方なら味方であり、味方でなくなればたとえ仲間であっても味方ではないのだ。味方とは「まえ」や「うしろ」のようなものかもしれない。じぶんにとってはどこを向いても「まえ」は「まえ」だ。しかしどれほど「あなたの味方です」と言ったところで、相手が寝転がっていたら、こちらの見ている方向はその人物にとっての「まえ」とはならない。いくら口で味方と言ってみせたところで、真実加勢になっているかは微妙なところだ。裏から言えば、味方のつもりでなくとも加勢になってしまい、相手からしたら味方のような存在になってしまうことも充分にあり得る。それはときに、敵の敵は味方だ、といった言い回しで形容される。言い換えるならば、味方とは、属性ではないのだ。じぶんにとって好ましい作用の別名だと言える。したがって本質的には、「あなたの味方です」という言い方は成立しない。そこに含まれているのは、「あなたは私の味方です」であり、さらに言い直せば、「あなたは私にとって好ましい作用です」となる。じぶんにとって好ましい作用を及ぼすから、味方という名を与え、じぶんに有利に事を進めようとする意思がそこには見え隠れする。仲間同士であればたとえ相手から嫌われようが、同じ目的を果たすために敢えて相手を傷つける場合もあるだろう。派閥はその前兆であり、拮抗であり、余波とも呼べる。しかし味方の場合は、どこまでもそのまま作用を働かせつづけてほしいので、歯止めをかけたり、異を唱えようとすることはまずないと言っていい。もしそのような修正をかけたい思いに駆られたら、そのまま距離を置き、さよならをする。なぜなら修正を加えたいと思った時点ですでに味方ではないからだ。じぶんにとって好ましい作用ではなくなっている。ゆえに、「あなたの味方です」などと言って近づいてくる相手には気をつけたほうがよいだろう。同じ目的を共有しているのならば仲間に招き入れるのも一つかもしれないが、そういう人物はたいがい派閥の種となる。じぶんの意にそぐわないことは端から受け付けない。だから味方などと言って、すり寄ってくる。じぶんのチカラだけでは現状を打破できないからだ。一概にそれをわるい、と言っているのではない。ただ、味方であることが清く正しい行いであるかのように言いふらすのはいかがなものか、と疑問に思ってはいる。正義の味方、という言い方がある。これは言い換えれば、じぶんにとって好ましい正義であれば許容しますよ、と言っているようなものだ。その正義が暴力を振るっても、強硬に打ってでても、「味方」であるから特別視し、許容する。いかがなものか、と思わないだろうか。味方なんてくだらない、と言いたいのではない。誰であれ、じぶんにとって好ましい作用はあるはずだ。それを応援し、環境に増えていけばよいなぁ、と思うことは何も責められたことではない。ただ、それを「味方」という言い方に押しこめ、隠し、さも誰かのためであるかのように偽装するのは、どことなく、ブレーキの壊れたトロッコと似た印象を覚えないだろうか。繰りかえすが、「あなたの味方です」は、「あなたは私にとって都合のいい存在です」の言い換えにすぎない。味方だからといってその者が必ずしも「あなたにとって好ましい」とはかぎらない。奴隷の味方だと言って近づき、付け心地のよい鎖をあなたの足にはめる者だっているだろう。あなた方の味方です、と言って近づき、効率のよい自爆テロの仕方を伝授する者だっているだろう。一見すればじぶんの味方に見えるからといって信頼したり、気を許すのには慎重になったほうが好ましく思うしだいだ。


2203:【メモ】
以下は、又聞きのよもやま話なので真に受けないように注意してください。世界各国に点在する租税回避地、いわゆるタックスヘイブンは、そこを企業の本拠地としてしまえば税金を払わずに済むという意味で、企業や資本家がこぞって籍を置きたがる(たいがいはダミー会社だ。タックスヘイブンに登記しているだけで、実質的な本社はべつにある)。タックスヘイブン化した街や州は、資本力のある企業や技術者が集まってくるので、金の回りがよくなり、財政が潤う。いわば、WIN:WINの関係性が築かれるが、しかし本来払われるべき税金が各国に入らなくなるので、ほかの国からすればいい迷惑である。また、タックスヘイブン側にもデメリットがないわけではない。たとえば資金洗浄(マネーロンダリング)を目的にマフィアが集まり、治安がわるくなることが懸念される。マフィアがはびこれば、正規のビジネスが阻害され、健全な競争原理が働かなくなることが予想できる。そうなれば経済がより円滑に流れることを見込んで税金をかぎりなくゼロにしている街や州は、その恩恵をうけにくくなる。また、治安がわるくなれば観光客も入ってこなくなり、税収を期待できないタックスヘイブンでは、やはりマフィアの存在は懸案事項となっていそうだ。それに関係しているのかは定かではないが、現在、アメリカを中心として世界的にマネーロンダリングを規制する動きが盛んになっている。日本でも、2019年の10月に「第四次FATF」と呼ばれる審査が予定されている。日本の金融機関や仮想通貨を含めた各ネットサービスにおいて、マネーロンダリング対策がどこまで実施されているかを評価するのが目的だ(評価が低ければ国際的に日本の金融機関の信用度がさがり、株価や為替に影響するだろう)。仮想通貨やオンラインゲーム、ネットオークションや代理決算サービスなどがテロ組織の資金源になっていたり、資金洗浄の場と化していたりと、世界的な問題として俎上に載りはじめている。これは歪んだ経済を是正するためだけが目的ではない。不正規な手段で資金を集めることが可能であると、対立国にいくら経済制裁を実施しても効果がないために、それを防止するためのいわば、一種の「兵糧攻め」の側面がある。以前にも述べたが、現在はすでに第三次世界大戦に突入しており、これは以前のような殺傷兵器を用いない、貿易戦争なのではないか、と妄想している。熾烈を極めれば、徐々に財政破たんする国が増えていくだろう。もっとも、破たんしそうな国は、破たんしてしまう前に経済的に余裕のある国の傘下へと入り、不利な条件のもとでこき使われるようになるのではないか、と想像している。もはや現代において、世界征服を目論んだところで、領土を広げる意味はない。必要な資源やエネルギィや、技術や労働力は、ほかの国から搾取すればよいだけなのだ。ましてや、破たんした国の民など重荷以外の何物でもない。そうして経済力のない国は、食物連鎖のように豊かな国を生かすための供物と化すのではないか。現にそうなりつつある気がするが、いかがだろう(歴史にはまったく明るくないので、偏見でしかないが、アフリカや中東はすでにそうした雑な扱いをされてきたのではないか。そうしたなかで経済力をつけ、これから、というときにこんどは明確な首輪をはめさせられてしまうのではないか、とこれまた雑な印象を並べておきます)。とはいえ、上部層に位置する国からしてもテロや紛争は好ましくはないだろう。餌が、餌同士で傷つけあえば、いらぬ世話を焼かなければならない。なれば、ある程度の甘い汁は吸わせておくのが道理であり、傘下に入り、従属する側の国となっても、豊かでないだけで(発展しないだけで)、文明がいまよりも低下するようなことはないのではないか、と妄想している。この場合、仮に上部層に位置する国と争わなければならなくなったときには、即座に降伏しておくのが賢明である。勝とうとすれば双方共に痛手を被り、勝ったところで、世界経済の指針とならなければならない。アルバイトが社長の代わりを務めるようなものだ。であるなら、争うのではなく、協力し、役に立つことをアピールすれば、待遇はよくなっていくだろう。もっとも、その会社がブラック企業であれば、唯々諾々と指示に従っていれば、いずれはいまよりもこっぴどく搾取されるようになるだろうことは、社会を見回すまでもなく導かれる自明なのではないか、といい加減なことを並べて、筆を擱くとしよう。


2204:【呼吸】
呼吸法がだいじ、というのを何かと耳にしたり、読んだりするので、ためしに意識して呼吸を深くするようにしたら、体調がぐっとよくなった。偽薬効果かもしれないが、すくなくともじぶんの呼吸が思っていたよりもずっと浅かったことに気づけたのはプラスだ。いくひしさんは呼吸が浅いのだ。きちんと肺をというか、横隔膜を使って呼吸をしていなかった。横隔膜を使うということは、肋骨が広がったり、膨らんだりするわけで、ふだんよりも多くの空気が身体のなかを出入りすることになる。そのせいなのか、これだけ気温が高く、連日暑い気候がつづくなかで、そとにいても、呼吸を深くしていると寒気を感じるのだ。呼吸を深くしたことで体内の熱がふだんよりもそとに排出されているからではないか、とにらんでいるが、定かではない。汗は掻くが、身体のけだるさは解消されたように感じる。これも単なる錯覚である可能性はそう低くはないだろう。ただ、やはり身体が軽く感じ、視界もどこか広がった気がする。いくひしさんはこれまで、「呼吸法? はいはい、プラシーボ、プラシーボ」とバカにしていた気があるけれども、どうやらまったく効果がないわけではないようだ、と認識を改めた。それはそうだ。火だって酸素を送れば激しく燃える。身体だって、病人や患者には酸素吸入を施すのだ。呼吸を深くし、酸素をたくさん供給すれば、身体の働きはそれに応じた影響を受けるのが道理である。ましてや横隔膜の動きに連動して、ろっ骨や内臓が動くわけで、ある意味、全身運動をしていると言ってもよいのではないか。人間は日に二~三万回も呼吸をしているそうなので、なるほど、その一回一回を意識して深くすれば、相当な運動になるな、と認めざるをえない。ひとまず、口で息を吸わないようにすること。そして吸うよりも吐くほうを長くすること。さらに横隔膜を使う意識で、肋骨が広がる感覚を覚えるくらいに深く呼吸をする――これを継続してみて、長期的な身体の変化を、主観、客観共に観察してみようと思うしだいだ。


2205:【外部を意識せず、排除もせず】
外部の視線を意識すると手が止まる。しかし外部を排除すれば独りよがりで他者と共有し得ない「いびつ」ばかりができあがる。ならば、外部の要素を取り入れ、自己の一部としてしまってから、じぶんの内部に閉じこもり創作するのがよさそうだ。創作する以外ではじぶんのそとに目をやる習慣をつけておくのが創作を表現へと昇華するのに役に立つと言えそうだ。


2206:【概念虫】
帰属意識や仲間意識といった概念は、個々人に寄生するウィルスみたいなもので、宿主の数が増えていくにつれて、気体が液体に、やがては固体になるといった具合に、巨大な「概念の化身」として顕現するのではないか。人はみな、そうした巨大な「概念の化身」に操られる駒であり、人形にすぎないのではないか。社会性とはすなわち、この巨大な「概念の化身」にいかに抵抗なく操られ、最適化できるか否かなのではないか、と妄想してしまう。じぶんがいったいどんな巨大な「概念の化身」の一部なのかを、ときおりでよいので、主観から離れて眺められる術を磨けるとよいのではないか。じぶんに巣食っている「概念虫」が、いったいどんな巨大な「概念の化身」の一部なのかを、俯瞰できると好ましい。「概念虫」はときに、常識や一般論として、あなたの私生活をあなたの内側から支えるが、主体は飽くまであなたであることを忘れないようにしたほうが、望まぬ選択肢を選ばずに済むようになるのではないか。共生する分には「概念虫」はあなたを補助する因子となるが、依存してしまえば、あなたはあっという間に蝕まれ、巨大な「概念の化身」の細胞と成り果てるだろう。「概念虫」にはたくさんの種がある。言葉はおおむね、「概念虫」と言っていいだろう。物語も例外ではない。というよりも、物語こそ「概念の化身」の繭と言ってよい。正義や愛、仲間や味方といった、一見すれば薬に見える「概念虫」にも注意しておきたいものである。(ちなみにさいきんとくに注意を払っておきたいな、と思う「概念虫」は、ダサい、である)


2207:【解決と発見】
このさきの社会では問題解決能力のある人材よりも、問題発見能力のある人材のほうが需要が高まっていくのではないか、といった主張を目にした。内容そのものに関してはとくに異論はないが、ところどころ言葉のマジックが使われているな、と感じた。たとえば、問題を解決するには問題がなくてはならず、このさきの社会では徐々に問題そのものが減っていくので問題発見能力のある人材が必要とされていく、とのロジックが展開されていたわけであるが、問題が発見されたつぎの段階では、問題を解決しなければならないわけで、けっきょく問題解決能力のある人材は不可欠である点がまったく指摘されていなかった。また、本質的に、問題を解決することと問題点を突き止めることはセットである。切り離せる関係性にない。言い方がわるいが、不具合を発見するのは誰にでもできるが、なぜ不具合が表れたのか、どこに問題点があるのかを突き止められる者は案外にすくない。そして往々にして問題を解決する術を有しているのは、こうした問題点を突き止めることのできる人材だ。たほうで、不具合が起きる前から問題点を指摘し、事故や事件を未然に防止する人材はこれから需要が高まっていくことは想像できる。リスク管理はいつの、どんな社会であっても必要とされてきた。そして、そのリスクの発生確率が高くなくとも、現代社会では何かしらの対策がとれるようになってきている。それだけ社会が豊かになり、技術が進歩してきているからだ(つまり余裕がある)。もっともこれに関しては、これまでの社会では、まだ発生していない不具合を未然に防いでも正当に評価されない傾向にあった。ひょっとしたら何もせずとも問題は起きなかったかもしれないし、余計なコストをかけただけなのではないか、と判断されてきた背景がある。それが現在では、世界的な事案を短時間で参照可能であり、各分野の専門家も多い。防止策が有効だったか否かの因果関係は、統計的に判断可能な時代に突入している。ゆえに、問題発生の未然防止策を打てる人材は、これからますます重宝されていくだろう。このことを、問題発見能力のある人材が重宝される、と言い換えるのならば、その意見に異論を唱えるつもりはない。とはいえ、そうした「問題発見能力指向主義」の主張では、問題解決能力のほかに「予測」の価値もまた下がっていくとも意見されており、それに関しては疑問を呈しておきたい。というのも、問題発生の未然防止策には、事象の予測が欠かせないからだ。短期から中期、そして長期的な事象の流れを予測しなければ、リスクを測ることはできない。リスクが測れなければ、未然防止策もたてられないのが道理である。また、社会は技術を高めつづけており、一つの問題点における対策は比較的すみやかに社会に波及していく。そういう意味では「問題発見能力」を職業に活かすためには新しい問題をつねに発見しつづけなければならず、これは明らかに再現性に難がある。それを、生産性と言ってもよい(同じ類の問題であれば、深層学習でAIに代替可能だ)。「問題発見能力指向主義」の主張におかれては、この生産性を追求する姿勢もまたつぎの時代では徐々に価値を失くしていくだろう、と述べていた。しかし、問題解決能力と同様に、「予測」や「生産性」は依然として将来的に必要とされる評価基準であろう。なぜ問題を解決しなければならないかと言えば、その前段階として何かを創造し、それを社会に適用し、最適化する必要性に迫られるからである。商品であれば必要としている者の手に届くように工夫しなければならないし、サービスであればより満足されるように改善しつづけなければならない。インフラ設備であれば、その両方を満たしつつ、安全性と補完性を兼ね備えなければならない。もし設備が機能しなくなったとしても「替え」がきくような設計になっていなければ、災害に見舞われるたびに社会基盤が揺らぐことになり兼ねない。つまり、どんな手段や手法にしろ、合理化は追求されていくこととなる。これには「予測」や「生産性」が欠かせない。言い換えれば、「仮説検証」と「技術力の向上」であり、さらに言い直せば、「研究」と「短縮」である。いずれにせよ、問題を解決し、環境をより好ましい状態に整えていく者の需要はいつの世も安定して保たれている。変化するとすれば、どんな問題を解決できるのか、といった専門分野の需要だろう。類型可能な問題は対処法が比較的短期間で共有される傾向にあるので、仕事の種にしにくい。その点、個別のケースごとにつど問題点を探らなければならないような事案の場合には、仕事として長期にわたって生業としていける可能性が高いと呼べるだろう。繰りかえすが、問題解決能力と、問題発見能力はセットである。切り離せるようなものではないのである。


2208:【何を好きなの】
空焚きしても壊れない熱量と器を。結果が伴わなくとも失われない情熱と身体を。


2209:【それっぽいこと並べてるだけ】
いくひしさんの小説のつくり方、文章の並べ方は、ほとほと人工知能じみている。


2210:【知識ではなく】
知識として言語化できない暗黙知をいかに溜められるか。真似できない、再現性のないことをいかに体現しつづけていくか。偶然の連鎖を結びつづけていくことこそ、人間の真価なのではないか。学習能力はその前提条件でしかないのではないか、と妄想しつつある。


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参照:いくひ誌。【1311~1320】

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