※日々、衰え、落ちぶれ、腐っていると自虐して、弱い己の免罪符にしている。


2191:【言語の垣根】
音声なし動画の需要は今後拡大していくだろう。言語の違いによって動画を楽しめる層が分断されるのは機会損失に繋がるからだ。自動翻訳技術が発展しようと、字幕を好まない層は一定数いる。映画でも、吹き替えでなければ観ない、という層は増加傾向にあるのではないか(いくひしさんは字幕でないとむしろ観たくないひとである。日本語の映画でもできれば字幕で観たいくらいだ。音楽や効果音はそのままで音声だけ消せる機能があるとありがたい。字幕だと早回しでも楽しめるから好ましい。とはいえ、この感覚は少数派なのではないか、と疑っている)。音楽も徐々に歌詞のない楽曲が流行るようになっていくだろう。歌のある曲はまさしく、歌うための素材であり、カラオケやカバー曲専用として分類されていくようになるのではないか。あべこべに、音声のみの作品も需要が拡大していくだろう。作業をしながらでも楽しめる音声作品は、音楽やサウンドノベルやラジオドラマなど、動画や書籍の特典として、とかくオマケとして普及していくのではないか、と見立てている。オマケと言えども、時間が経過していくにつれてオマケのほうが目玉となっていくだろう。動画は動画のみに特化していき、音声作品は、音声作品として特化していく。言い換えれば、映画からはキャラクター同士の掛け合いやセリフが削られていき、そうした要素は音声作品がまかなうようになっていく。それぞれの長所に特化するように媒体は変質しつづけていくのではないか、と考えている。これは小説にも言えることだ。同じ言語であれ、世代やコミュニティによって馴染みある「言語の周波数」は変わっていく。どんな物語をどの周波数で編み、いかにピンポイントでその読者へと届けるか。ビジネスを成立させるうえで欠かせない視点はそこにある。「言語の周波数」は、なにも文体の違いにだけ表れるのではない。メディアミックスなどは、この周波数を大多数に馴染みやすいように変換する作業だと呼べる。そういう意味では、最終的に小説からいかに言語の垣根を失くせるか否かが、小説をビジネスに利用するうえで有利にたつ視点となっていくはずだ。これは小説だけでなく、あらゆる商品にも言えることである。ある意味、言葉を使って言葉では言い表せない事象を表現する文芸とは逆の技能が今後、あらゆる分野で問われていくだろう。すなわち、いかに言葉を使わずに言葉で表現された事象を伝えるか、である。動画にしろ、音声作品にしろ、デザインにしろ、これから必須とされる技能はまさにそこにあるのではないか、と底の浅い所感を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2192:【SNSの弊害】
SNSを利用した宣伝は、価値を蓄積することができない。更新を止めた時点で、これまでの労力が気泡に帰す懸念がある。更新を再開できれば、いくばくかは過去に貯めた知名度を使って、比較的効率よく評価を得られるだろうが、やはり実績と呼ぶだけの評価基準とは現状、なっていないように思われる。SNSで知名度をあげる流れが強化されればされるほど、SNSで有名になることの希少性がさがっていく。以前にも述べたが、SNSで見かける情報はSNSで見かけた、というだけで希薄な印象を需要者に植え付けかねない。セルフブランディングがだいじ、と謳っておきながら、ブランド力をさげる方向に尽力している企業が散見される。話題にされることがいちがいによいわけではない。炎上商法がいまなお活用されているのを見かけるが、いかに大勢の注目を集めるかよりも、どのように話題にされるのか、のほうがよほど考えるに値する価値があるように感じるが、あまりにあたりまえのことすぎて、そこを見落としてしまっている企業やクリエイターが増えていないだろうか。ブランド力を高める効果的な手法は二通りある。信頼を損なわない仕事を継続しつづけている姿を見せること、そして危機を乗り越えた姿を見せること。この二つを使い分ければ、たとえSNSで話題にならずとも、おのずとブランド力は高まっていくだろう。いずれも一筋縄ではいかないため、みな手軽にブランド力が高まって見えるSNSでの宣伝に走るのだろう。言うまでもなく、使えるものは使ったほうがよい。ただし、そこを柱にするのは危ういのではないか、とこれまたあたりまえのことを並べて、本日二度目の「いくひ誌。」とさせてください。


2193:【さいきん読書できていない】
過去の「いくひ誌。」を読んでみると、あーこのひとは何も知らないんだなぁ、とそのときのいくひしさんの側面が見え隠れする。せいいっぱい、そのときに見聞きしたことを組み合わせてそれっぽいことを並べているけれども、まったくぜんぜん、どうしてそこを具体的に言及しないのか、どうしてそんな論理の飛躍をしてしまうのか、と他人事ながらドギマギしてしまう。過去のいくひしさんは現在のいくひしさんとは別人である。客観的なこれは評価だが、社会的には同一人物として評価されてしまう。なんだかなぁ、といつも思う。自己同一性が連続しているなんてどうして信じられるのだろう。きょうのじぶんが、あすのじぶんと同じだなんて、いったいみなはいつ習ったのだろう。すくなくともいくひしさんはそんなことをひとから習った覚えはない。とはいえ、いくひしさんであっても他人との共通点はあるわけで、それは過去のいくひしさんとて例外ではない。そういう意味では、赤の他人よりかは似通っている性質がある点は否めない。ある一定の枠組みで共通点を保持していることを自己同一性だと呼ぶのならば、現在のいくひしさんと過去のいくひしさんは同一人物と判断して差し支えない。だが、同じ体験を共有しつづけていれば、赤の他人であっても、ある一定の枠組みで共通点を保持することは可能だ。いわば親友や家族や恋人は徐々にこうした共通点、ともすれば枠組みを構築していくのではないか。ではそうした他人とじぶんは自己同一性を保持していると呼べるのか。呼べないだろう。なぜならすべての記憶を共有しているわけではないからだ。共有できている記憶(外部情報)よりも、できていない記憶(外部情報)のほうが多いのだ。他人と自己を分かつ要素はそこに見出せそうだ。すなわち、いかに記憶を共有できているか、である。この場合、記憶を参照し、何を考えたのか、を含めた記憶も含めて共有できていないと、自己と見做せない性質が人間には備わっていそうだ。その点、いくひしさんは、過去のいくひしさんが何を考えていたのかをのきなみ憶えていない。過去の「いくひ誌。」を読み返してみても、ああそうだったそうだった、となるよりもむしろ、へえこのひとはこんなことをこんなふうに考えたのだなぁ、となるほうがずっと多い。これは「いくひ誌。」にかぎらず、過去の体験にしても同じだ。いくひしさんは過去のじぶんをじぶんだと思えない。すくなくとも学生時代のいくひしさんは、現在のいくひしさんにとっては存在していない。ぼんやりと当時の記憶があるようでなく、他人からの又聞きを脳内で再生したことがあるような気がする、といったあいまいな情景が再現されるばかりだ。要するに、他人なのである。しかしながら、過去のいくひしさんを知る人物に会うと、変わんないねぇ、と言われるあたり(ホントに言われているのか?)、いくひしさんが感じているほどには、いくひしさん自身は変質していないのだろう。ともすれば、いくひしさんの中身がいくら変わろうと、ガワが同じであれば、それはいくひしさんと見做されるのかも分からない。いっそのこと昆虫のようにつどサナギになって、まったく異なる外見に生まれ変われれば楽なのに、と思うが、いったい何が楽になり、現状何に苦しんでいるのかはさっぱりであるので、またぞろいい加減なことを並べているな、と自覚したところで、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。さいきん言い添える頻度が減ってきたので、付け足しておきますが、いくひしさんは正しいことを言えない誤謬だらけのヘチャムクレですので、ここにある文章を真に受けないように、おねがい申しあげます。


2194:【ここ半年でもっとも眠い日】
まいにち何かしら文章を並べていると、何を考えるか、どのように考えるか、が段々と偏ってくる。先鋭化していったり、深化する分にはいいのだけれど、どんなに優れた刀でも、まいにち研いでいれば、いずれはボロボロになって使い物にならなくなる。刀は使ったら、新しくどこからか仕入れたり、じぶんで鍛え直したりしなくてはならない。考え方や視点も同じで、段々とこなれてくると「型」に素材を放りこんで、反射的に「答えをだした気」になれるのだが、それは考えを煮詰めるのとは逆の方向性であると呼べそうだ。考えを煮詰めるというのはピンボールやトンネルを掘るようなもので、いろんなものにぶつかりながら、つど方向を修正し、出口があるのかも定かではない暗がりのなかを一歩一歩手探りで進みながら、それでも納まるところに納まるようにと祈るような心もとなさがある。本当に正しいかどうかは解からないのだけれど、いろいろなものにぶつかって、もうこれ以上は、この道を通るしかないのだ、と諦めるしかなくなるようなものが、考えを煮詰めた最後に行き着くこととなる最適解と言えるのではないか。いつでも最短ルートで目的地に辿り着ければよいが、目的地が明確である場合というのは存外に多くはないものだ。むしろたいがいの問題というのは、目的地も定かではなく、どういうルートが最短かも分からず、比べることもできないことがすくなくない。反面、なんとなくこうかな、といった直感がものを言うときもある。ただそれは、ズバリこれが最適解です、とだしてくれるような都合のよろしい予測ではなく、むしろ、そっちにいくよりもこっちのほうがよさそうじゃないかなぁ、といった漠然とした方向性であったりする。この方向性を示せることこそ、人間の知性の優れた点であり、直感や閃きの得意とするところだ。具体的な処理をこなす前の段階で、漠然としたゴールが見えているとしか思えない思考の仕方をすることが人間にはできる。ただしそれは、幾度も水が通り深い溝となった川に船を浮かべるような単純な回路ではない。すでにできあがっている道のりを辿るだけで答えに行き着くような思考の仕方は、直感や閃きとは相反している。考えを煮詰めたいときには、なるべく寄り道をしながら、ああでもない、こうでもない、といろいろな岩にぶつかり、ときに進路を曲げながら、本当はそっちに行きたくないのに、と思うような道を通ることになっても、しかしここしかもう通る道はないのだ、と諦めに似た心地でさきを進みつづける泥臭い考え方をするよりほかに術はない。ときには道幅を狭めるために、じぶんのそとからも岩を持ってきて、わざわざ進路を塞いでみたりもするとよいだろう。やっぱりこの方向ではこれ以上まえに進めそうにない、と判ることもあるはずだ。それはそれで直感や閃きが役に立たなかったと認めるよりない。方向性が間違っていたのだ。なれば、ほかの方向に進路を変え、ふたたび泥臭い作業をつづけるのが、より正しい最適解を手にするのにもっとも効果的な術と言えそうだ。けっして効率的とは呼べないが、効果はすくなからずあるはずだ。ややもすれば、水道管を通った水よりも、土の中を幾重にも通った湧水のほうが澄んでいるのに似た効果があるかもしれない。最適化され、先鋭化された回路にもむろん利点はあるが、考えを煮詰める場合にはむしろ、回路とはならないような無理筋を敢えて取り入れる姿勢が回り回って、実を得ることに繋がるのではないか。もはや眠くて何を並べているのかもハッキリとしていないが、こうしてそれっぽいことを手癖で並べるのではなく、きちんと資料や反証や類書や仮説をとりそろえ、吟味し、比較しながら考えを深める習慣が、物を考えるうえでは欠かせないのではないか、とこれまでのいくひしさんを戒めて、ついでに眠すぎて朦朧とした人間はこういう文章を並べるのだな、と示したところで、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2195:【愚痴のように聞こえますか?】
他者へ呈する助言の定番に、自信を持ちなさい、との言い方がある。自信を持っていたほうが迷わずに済むし、底力を発揮しやすいからだろう。言い換えると、じぶんが立っている舞台のほかにも、無数の舞台があることに気づかないでいたほうが馬力はあがるようだ。ほかの舞台に立っている者をわざわざじぶんの土俵に引っ張りこんで、ほら見ろ私のほうが上ではないか、と安心できれば、ますますじぶんが好きになって、思う存分チカラを振りかざすことができる。いくひしさんも例外ではなく、このような比較をついしてしまうことがある。しかし、相手には相手の舞台があり、理想があり、歩んできた足跡と、そしてこのさきに歩んでいくだろう筋道がある。それをわざわざ、そっちに行くなんて遠回りだよ、ばかだなぁ、なんてじぶんのよく知る道と照らし合わせて助言という名の評価をくだしたりするのは、いささか大きすぎるお世話なのではないか。端的に言って、見下しているのである。たしかに「その舞台」であればその人物は優れているかもしれない。しかし、ほかの舞台に立ってまで同じように技能を発揮できるかは微妙なところだ。そもそも、技能とすら見做されないかもしれない。じぶんの属するコミュニティや舞台で評価される技能も、ほかではマイナスの要素にしかならないこともある。往々にしてそうだ、と言ってしまいたいほどであるが、さすがにそこまで顕著ではないだろう。技能は融通がきく。身体を動かすのが得意な者は、どんな種目でも一定以上の成果を発揮する。同様に、ある程度の知識や思考形態(体系)を備えている者は、ほかの分野であっても比較的滑らかに学力を発揮できる(この場合の学力とは、文字通り、学ぶチカラのことである)。だからこそ、それゆえに錯覚してしまいやすいのかもしれない。じぶんは実力がある、ほかのやつらよりも格上だ、なぜなら一定以上の体力(学力)を備えているからだ、と。そうしたはやとちりは、一部では正しいのだ。ほかの分野の素人よりかは(成長度合い以外の)すべてにおいて勝っているかもしれない。だからといって、その分野の玄人と比べても勝っていられるかと言えば、これに関しては、いささか疑問を禁じ得ない。百メートル走で世界一になった人物が、では絵画の世界で上級と称される人物よりも絵が上手かと言えば、答えはおおむね否だろう。何を以って上手かによっては、百メートル走での世界チャンプの絵のほうが上と評価されることもあるかもしれない。たとえば単純な売り上げでみれば、世界一の絵描きのサインよりも、百メートル走の世界チャンプのサインのほうが高値がついてもふしぎではない。サインでなくでは絵だったら、と考えても、これは同じだろう。何を比べるかによって優劣はいともたやすく逆転する。しかし、こんな単純な理屈を忘却し、ほかの分野があることにも目もくれず、じぶんの立つ場所こそゆいいつの舞台であると錯覚して、そのまま抜け出せなくなってしまっている者を、ときおり身近に見かけることがある。とくに問題はないのだ。いまはまだ。ただ、その舞台がいつまで存在していられるかがまず不確定であり、同時に、いつまでそのひとにとって都合のよい舞台でありつづけるのかもまた不定だ。ほかの舞台に吸収されてしまうかもしれないし、ほかの舞台の輝きにかき消されてしまう可能性だってある。そもそも、舞台だと思っていたのはじぶんたちだけで、視点を広げてみたら、端から舞台としてすら見られていなかった、といった悲劇も引き起こり得る。なんにせよ、舞台は一つきりではない。そして数の問題として、ほかの舞台のほうが輝いている可能性は高いのだ。じぶんにとってすばらしく感じられる舞台であっても、ほかの大多数からしたらそうでもない、といった錯覚は有り触れている。言うまでもなく、大多数から支持された舞台こそが正しく、より高尚な舞台だ、と言いたいわけではない。ただし、他人をじぶんの土俵に引っ張りこんで比較し、悦に浸るようであるならば、そもそもがじぶんの立っている土俵自体がほかと比べて優れていることを示す必要性が生じてしまう。他人との優劣に価値判断を置いてしまった時点で、じぶんの属する舞台は、世界中の舞台との比較に晒されてしまうことになる。それでもなお、じぶんの舞台には唯一無二の価値がある、と胸を張れるのならばたいしたものだ。たとえそれが錯覚だとしても、ほかの無数の舞台を直視し、それでもなお驕りつづけていられたならば、それはそれで得難い価値観(世界観)だろう。ただし、あくまでそれは、ほかの無数の舞台を直視し、じぶんの舞台と――なにより自分自身と比較できた者にかぎられる。たいがいは、ひとつ、ふたつの舞台と比較して、じぶんたちの舞台のほうが優れている、と判断しているのではないか。すくなくともいくひしさんは、じぶんの立っている舞台が――それはときに小説であるわけだが――とくべつ優れた土俵(媒体)だとは思っていない。文豪と呼ばれている作家にしても、近所の年配者と何が違うのか、と疑問に思っているほどである。むろん、おもしろい物語を編む技能には目を瞠る。しかしそれと、おいしい料理をつくれたり、掃除が上手だったり、考えるよりさきに相手のために親身になれる才能とは、どれほど価値に差があるだろう。比べられることではない、それはそうだろう。しかし仮に無理に比べてみたところで、各自状況に応じた利点があるにせよ、おおむね大差はないと言っていいように思うのだ。それぞれがそれぞれに特化した状況があり、それぞれがそれぞれに無用の長物化する局面がある。比べることに意味がない、と言っているのではない。比べるならきちんと、とことん比べてみてはどうか、と言いたいのである。もし満足に比較ができないとしても、じぶんはまだ比較しきれてはいないのだ、と判断できれば、おのずと視野は広がるだろう。自信を持つことは馬力をあげるのに繋がる。実力をつけるには即効性のある対処法かもしれない。しかし、長い目でみればむしろ、根拠の有無にかかわらず盤石の自信を持ってしまうことは、視野が狭まってしまっていることの裏返しでしかないのではないか、と思うのだが、それはそれとして自信がないことのデメリットもまたあるので、自信を持つな、と言いたいわけではない旨を告げて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2196:【存在しない存在になりたい】
じぶんにとってたいせつなことがその他大勢にとって歯牙にもかからないような些末なことであると、他者と繋がるのが面倒くさくなる。こちらばかりが相手を尊重しているような気分になってしまうからだが、これは思いあがりにすぎないこともまた自覚している。相手が真実に何をたいせつにしているのかなんて解かりはしないのだ。じぶんばかり損をしているなんてことはあり得ない。相手を尊重できていないのはこちらも同じなのだ。問題なのは、これに気づいたところで、否、気づいたからこそ余計に他者と関係するのが面倒くさくなってしまうことだ。尊重しあえている、と錯覚できることだけがゆいいつの打開策かもしれない。しかしこれもまた面倒くさいのだ。


2197:【繋がれる奇跡】
他人と関わったり、繋がったりし合える人間は、ただそれだけで得をしやすくなります。社会に内包され、社会からの恩恵をより多くもたらされるには、その特技が必要だからです。社会はその特技によって築かれていると言ってもいいかもしれません。卵がさきか、鶏がさきか、悩ましい問題ですね。一般的には、他者と関わることを特技とは呼ばないでしょう。しかし、それが乏しい者にとっては、特技以外の何物でもないのです。才能と言ってしまってもよいかもしれません。他者と関わることがストレスでなく、脳内麻薬が分泌されるような娯楽の域に位置づけられる者は、神からの贈り物を受け取っているのと変わらないのです。社会に特化した技能をその身に宿していると言えるでしょう。他者と繋がれるのは才能であり、奇跡と言って言い過ぎではないかもしれません。とてもすばらしい才能だと思います。珍しく褒めちぎってみました。でも、褒めて、ちぎる、なんてひどいことをするものですね。むしゃくしゃしていたのかもしれません。申しわけございませんでした。


2198:【願望】
コミュニケーション能力や人脈が重宝される社会は、他者と繋ながらなければ生きていけない社会の裏返しでもある。他者と繋がらずとも生きていける世のなかになると才能のないいくひしさんにとっては好ましく映ります。


2199:【馴れ馴れしくしよう?】
礼儀をちゃんとしよう、挨拶をちゃんとしよう、よりも、上下関係をつくるな、誰とでもフレンドリーであれ、みたいな方向に社会が動いているように感じられる。それはたとえば、年上だからえらそうにするな、腰を低くしておけ、といった助言が有効とならない。実るほど頭を垂れる稲穂かな、ではないのだ。年上とか年下とか実力とか実績とか関係ないのだ。平等に、みな仲良く楽しくやりましょー、といった感覚でコミュニティを築く若い世代が増えた気がする。極々狭い範囲、それこそ身近な二十代から十代を眺めての所感であるので、一般化はできないが、すくなくとも、誰にでも友達のように接することが「馴れ馴れしい」ではなく、「好ましい」に変化しつつあるように感じるきょうこのごろである(2019年8月15日)。


2200:【礼儀は共通言語】
他人を見下すのは好ましくないが、他人から見下されている、と判断するのもまた気を付けたほうがよいかもしれない。何を以って見下されていると感じるのかは、思いのほか人による。真実、見下されているとどうしたら判るだろう。相手を小馬鹿にして、それを以って親しみを演じるコミュニケーションがあることをいくひしさんは知っている。敢えて笑みを見せることで敵意がないことを示すのと同様に、敢えて小馬鹿にすることで、あなたとはこの程度のことで関係性が崩れたりはしませんよ、と暗に示すのだ。ジョークを言いあうのも似たようなものだろう。身内にしか通じない暗号のようなもので、笑いを共有できることが身内である証と見做す風習が、さまざまなコミュニティで見受けられる。そのジョークが相手の見た目を小馬鹿にすることであったりすると、これはときに相手から誤解され、険悪な関係性に発展しかねない。見下しているつもりがなくとも、そう捉えられる可能性があることくらいには気づいておきたいものである。そういう意味ではやはり、どんなコミュニティにも通用する共有のコミュニケーションがあると好ましい。それがつまり「礼儀」なのだろう。最低限それをしていれば悪者にならずに済む【共通言語】である。


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参照:いくひ誌。【1711~1720】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887526868