※日々、何がしたいのか解からなくなる、したくないことだけが浮き彫りになる。
2181:【宇宙の果て】
宇宙に果てはあるのか否か、という疑問に対して、もし宇宙がどこまでもつづいていて、恒星が無限に存在したら夜空は明かりに満ちているはずだ、そうはなっていないから宇宙には果てがあり、有限だ、とする論法を耳にすることがある。理屈として無理があるように感じるが、どう思われるだろう。たとえば仮に宇宙が無限に拡がっていて果てがなかったとしても、宇宙に存在する恒星の数は有限であるかもしれない。また、光には速度の限界があるため、人類が観測可能な宇宙の範囲というものが存在する。仮に宇宙が無限に拡がりを帯びていたとしても、そもそも人類にはすべての「光」を観測することはできないのだ。また単純な話として宇宙に存在する物質は恒星ばかりではない。ガスやチリや、月や木星など、可視光線を放たない惑星も存在している。加えて、銀河の中心には光をそとに逃さないブラックホールが存在する。単純な数でいえばそれらの光の直進を阻害する物質は、恒星よりも多いはずだ。いくら日中が明るかろうが、カーテンの閉め切った室内は薄暗い。同様に、いくら無限に拡がりを帯びた宇宙が明るかろうが、地球の周りに光を遮る物質が溢れていれば、すべての光は届かない。宇宙に果てがあろうがなかろうが、明るくなくて当然なのである。ちなみに、宇宙に果てがなくとも、時空が無限ではなく有限であると考えることはできる。紐を輪っかに繋げればどこまでもぐるぐると回って「出口がない」ように、宇宙もぐるっと繋がっていれば、それは果てがない状態であると解釈できる。しかし紐は無限ではないのと同様に、そのぐるっと繋がった宇宙は有限である。果てがないことイコール無限ではない。いまのところ宇宙は膨張しており、そして人類には観測可能な範囲がかぎられている。ゆえに、宇宙に果てがあるか否かは現状定かではない。しかし、すくなくとも始まりとなる「始点」はあったようだ、と考えられている。インフレーション仮説がそれである。宇宙は、かつては有限だったのだ。しかしそれもまた、「この宇宙」にかぎった話であり、その「始点」が有限であったところで、ではその「始点」が無限にほかにも存在したら?の疑問には答えられない。宇宙に果てがあるのか、の問いにおかれては、「この宇宙はすくなくともかつては有限だった」と応じるのが筋ではないかと、2019年8月6日のいくひしさんはいま、これを並べながら考えております。言うまでもなく、不確かであやふやな妄想ですので、またべつの日に考えを巡らせればほかの結論に至るかもしれません。いつもどおり真に受けないようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(ちなみに、より正確には、宇宙のはじまりについて記述する有力な仮説は現時点ではまだ存在しない。何かしらの現象が発生し、それが宇宙を爆発的に膨張させた、これがインフレーション仮説であり、その後、灼熱の宇宙ができあがった、これがビッグバン仮説である。宇宙開闢とインフレーション仮説とビッグバン仮説はそれぞれ宇宙のべつの段階を解釈するための理屈である。繰りかえすが、宇宙のはじまりについてはじつのところまだそれほど、というよりも、まったく解かっていない――らしいですよ)
2182:【超短編26『よーむん』】
怖い話をしよう、と双葉が言いだした。双葉は私の従妹で、ことし中学生になったばかりだ。夏休みになると私の家にやってくるのが毎年の恒例だった。「怖い話なんかしたら夜中にトイレに行けなくなるよ」「いっしょに行けばいいじゃん」双葉は(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890660515)
2183:【ピンポイントで結びつく】
小説創作AIが登場することで訪れる社会の変容よりも、懸念すべきは、WEB小説と潜在読者を直接結びつけるサービスのほうであろう。現状、サイトのランキングやSNSでの宣伝など、WEB作家は、自力での読者獲得に尽力している。よりたくさんの読者と評価を得た者が、次の段階として企業のバックアップを得られる(出版やメディアミックスなど)。しかしこうした流れは、あと十年以内に下火になるだろう。インターネットの情報解析技術が向上すれば、必然、読者と相性のよい作品を直接結びつけるサービスが普及することが想像できる。多くの読者など必要ないのだ。相性のよい読者、その物語を必要としてくれる読者のみにピンポイントで作品を届けることができるようになる。おもしろいと思ってくれないような読者にはそもそも読まれることはなく、これぞ私のための物語だ、と絶賛してくれる読者のみに作品が届くようになる。こうなるともはや評価そのものが意味を喪失するだろう。のきなみ高評価の保障されたネットワークサービスが誕生するからだ。才能の意味も大きく変わるだろう。より多くの者たちから広く浅く消費されるスター型から、より深く永続的に親しまれる隣人型へと才能の示す意味合いは移ろっていく。現在はその過渡期にあり、まずはすそ野を広げましょう、知られなければ無いのといっしょだ、といった風潮が蔓延しているが、情報解析技術がつぎの段階に達した時点で、むしろ大勢に知られることがリスクにしかならない社会が到来する。味方のみをいかに増やせるか。ある種、誰もが新興宗教の教祖になる時代がやってくる。良し悪しはあるだろう。誰もがファシズムに染まりやすい社会になっていくのだから、懸念すべき側面がある。だが、誰もがファシズムに染まりやすい社会は、大きな社会問題を経て、それへの一定の防御の仕方を普及させる契機になるだろう。フェイクニュースなど、偽りの情報が氾濫することで、誰もが情報を読み取るときに身構え、鵜呑みにしない社会へと深化しつつあるのと似た現象と呼べる。ゆえに、教祖として振る舞えば振る舞うほどファンが離れていく流れが自動的に強化されていくだろうと想像できる。かつて才能とは、一部の特権階級の眼鏡に適った者にのみ与えられるラベルのようなものだった、しかしメディアが発達した現在ではいかに大勢から承認されるか否か、市場の神の見えざる手による選出が――すなわち自然淘汰の原理が、才能のあるなしを規定している。それがこのさき、ネットワークサービスが高度に発展していけば、そう遠くない将来、才能の有無を決定づけるのは、いかに「その人物のみにつくりだせる世界観を有しているか否か」になるだろう。平均化され、抽象化された作品群は大衆向けであり、これはAIが得意とする分野だ。まったく新しい作品群も、AIの得意とするところだろう。しかし、あなただけにぴったり当てはまる何か、をつくりだすのは、AIにはまだ当分むつかしい。なぜなら人は変化するからだ。その変化の軌跡は不定でありながら、まったくの無秩序ではない。何かしらの法則性を有している。それこそが世界観であり、ゆえに、あなたは、「いまはまだ好いていない、しかし潜在的に欲している情報を与えてくれる者」につよく惹かれる。世界観が共有できれば、いまはまだここにはない未来をも共有できる確率が高くなる。そうして人は、AIのつくりだす無数の作品(可能性)ではなく、「その人物だからこそ生じる偶然の連鎖」を追いかけるようになる。そうなった時代において、才能とは、いかにいまここにはない何かを永続的にかつある一定の法則性を帯びたまま、無作為に生みだせるか否か、を意味するようになっていく。すなわち、アートである。エンターテインメントとアートの垣根はなくなる方向に社会は発展していくだろう。その人物ならではの創作物だからこそおもしろい。そして、それをおもしろいと思う者同士が繋がりあえるネットワークが築かれていくのではないか。仮定の積み重ねで恐縮だが、もしそうなっていけば遠からず、エンターテインメント=大衆向け、の構図は徐々に崩れていくだろう、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(妄想の妄想でしかありませんが、十年後にはこうした社会が到来し、五年以内――はやければ三年以内――にはこうした流れが可視化されるのではないか、とあてずっぽうではありますが、夢見ています。とはいえ、AI技術がさらに進歩していけば、世界観どころか人間の意思決定のメカニズムそのものが解析可能となるでしょうから、そうなった未来において、人はただ最適化された情報を貪っていればよい家畜のような存在となり果ててしまうのかもしれません。これはあと五十年はかかるでしょう。技術的な問題ではなく、人類に備わったある種の粘性が社会システムの変質を妨げるからです。これもまた一長一短があるでしょう。ただ、すくなくとも何かを創造し、探究しつづけていれば、単なる家畜にはならずに済むのかもしれません。家畜にならずに済むことにどれほど価値があるのかは定かではありませんし、その未来においては才能同様に、家畜の意味もまた様変わりしていることでしょう。労働や創造が悪として再定義され、いかに消費しつづけられるか否かが人間としての優劣を決定づける社会になっているかもしれません。いずれにせよ、妄想の妄想でしかありませんので、いつも以上に真に受けないようにお願いを申しあげて、おやすみなさいの挨拶と代えさせてください)
2184:【ものさし】
他人をじぶんの物差しで測るな、といった言説をときおり耳にする。偏見で他人を推し量るな、という意味だろう。とくに異論はない。とはいえ、いっさいがっさいの比較をせずに他者と付き合え、というのはさすがに無理がある。何かしらの基準と照らし合わせて、比較をしないことには、よりよい人間関係は築けないだろう。物差しとは言い換えれば基準のことだ。ときにそれは常識であるだろうし、学歴であるだろうし、実績であったり、特技であったり、肩書きであったり、誰かしらからの推薦であったりするだろう。基準はいくらでも見繕うことができる。言い換えれば、他人を測る物差しは一つではない。できるだけ多くの物差しを使い分けられると、優れた他者とよりよい関係性を結ぶ確率をあげことに繋がるだろう。たった一つの物差しで、「あの人はこういうひとだから近づかずにおこう(或いは、お近づきになろう)」と線引きしてしまうのは、可能性の幅をみずから狭めているようなものだ(或いは、身の危険を引き寄せているようなものだ)。物差しだけの問題ではない。鳥は翼を広げるだけで、その全長が倍以上にもなる。他方で、翼を広げたカラスよりも全長の短い猫のほうが体重が重かったりする。何をどのように比べるかによって、どちらが秀でるのかは変化する。どんな物差しを使って、何を測るのか、そのとき測らなかったのは何で、どんな物差しを使わなかったのか。漠然とでよいので、欠けている情報があることを前提としたうえで、物差しの目盛を読む癖をつけておくと、より好ましい比較ができるようになるのではないか。人間関係にかぎらず、よりよい出会いを求めたければまずは、見逃している側面がどんな対象にも存在することを自覚しておくのがよさそうだ。なにより、じぶんにとって、どんな情報が欠けてしまうことがより大きな損失に繋がるかを事前に考えておくと、後悔する頻度を減らせるだろう。じぶんにとって何がもっともたいせつなのか。じぶん以外に何を求めるのか。もっとも根源に近いところから埋めていき、それを得るためには、では、何が必要なのかと逆算しておくと、せっかく得た手段や機会を棒に振ってしまう失態を演じずに済むのかもしれない。理想ばかりを追い求めてけっきょく何も得られないといった骨折り損を味わわずに済むためには、より多彩な物差しで測る習慣をつけておくことに加え、つねに新しい物差しが落ちてやしまいかと周囲に目を配る癖が役に立つのではないだろうか。落ちている枝や石だって使いようによっては、じゅうぶんに「はかり」として機能する。繰りかえしになるが、じぶんの物差しで他者を測ることがわるいのではない。一つの物差しでしか物を測ろうとしないことが問題なのだ。加えて、それが他人の物差しであれば、思わぬ落とし穴にはまる確率をよりあげるだろう。何を物差しとするかはつど、じぶんで決められる。何のどこを測るかはじぶんで決められるのだ。じぶんの物差しくらいは、じぶんで取り揃えたいものである。いずれにせよ、比較とは相対的な評価である。どんなに精度の高い物差しを使ったところで、あやふやな指標には違いない。それを測る者がお粗末であれば、誤差は増えるいっぽうだ。見逃し、見誤るのが人間だ、と戒めておくのが吉と言えそうだ。
2185:【下手だから飽きない】
いくひしさんは小説が上手でない。斟酌せずに言えば、下手である。上手であったらまず以ってこんなところに埋もれてなどいない。現代において、インターネット上に小説を載せてかつ十年以上埋もれていたら下手オブ下手と言っていいだろう。小説における上手い下手の基準は、二種類ある。一人の人間にどれほど深く感動を与えるか。そしてどれほど多くの者に読まれるか、である。宣伝の仕方によっては、誰一人感動させられずとも多くの者に読まれることは可能だ。しかしやはり上手でなければ、そもそも読まれることすらないだろう。この場合、読まれるとは、最後のページまで文字に目を走らせてもらうことを言う。そういう意味では、絶賛だろうと酷評だろうと、最後までページをめくらせれば、それは小説として上手だと呼べる。やはりというべきか、反応がなかったり、そもそも読まれなかったりした時点で、その小説は上手ではないのだ。とはいえ、たくさん読まれなくとも、たった一人にでも深く届き、感動させることができたならば、それもまた小説として上手だと言えるだろう。この場合は、上手というよりも、奇跡的と呼ぶべきかもしれない。上手であることと奇跡的であることは両立し得る。もっとも、上手であれば奇跡を起こせるかと言えば否だろう。たくさん読まれたからといって、誰かを深く感動させられるとはかぎらない。そうは言っても、確率の問題として、よりたくさんのひとに読まれたほうが奇跡を起こす確率は高くなっていく。上手であれば、奇跡を結びつける土壌を築きやすい。だからまずは奇跡を求めるのではなく、上手な小説をつくり、たくさんのひとに読まれましょう、とする流れが一般化している。問題はないだろう。いくひしさんには縁のない話なだけである。小説が上手なひとをうらやましく思うし、奇跡を起こしているひとを見れば、すごいなぁ、と感心する。だからといって、いくひしさんが小説をつくるのをやめよう、とは思わないし、思う必要もない。下手なことの何がわるいだろう? これもまたまったく問題がない。つくりたいものを、つくりたいときに、つくれるだけつくる。上手になるためにこれらを手放すくらいならば、いくひしさんは下手なままでいい。言うまでもなく、上手になれたうえで、いまのように好きかってに創作ができるなら、それに越したことはないのだが、さすがにそれは欲張りというものだ。いくひしさんは小説が上手でない。斟酌せずに言えば下手である。だからといって何がどうするわけでもない。つくれてしまうからつくっている。上手でないこと、下手であることは、やめる理由にはならない。飽きたらやめる。単純な理屈だ。読まれないこと、評価されないことを悩む道理がない。楽しめばいい。楽しくなくなるまでつづければいい。そして楽しくなくなったらやめればいい。休み休みつづけてもいいが、つづけることが偉いわけではない。一度きりの人生だ。好きなことくらい、苦しまずに、楽しもう。もういちどくらい並べておこう。下手なことの何がわるいだろう? まったくなにもわるくはないのである(その点、上手になりたいひとはたいへんだ)。
2186:【馬の耳に念仏、人の耳に正論】
人間の感情に寄り添うことと、論理的な妥当性を追求することは矛盾しない。たとえば、生物の習性を利用してよりよい環境を築こうとするのならば、物理現象だけでなく、生物がなぜそうした行動をとりやすいのか、その傾向を分析して、こうしたらああなる、のシステムを構築していくのが効率がよい。稲を虫に食われたくなければ虫が寄りつかないように虫の苦手な物質を撒く。雑草が生えないようにしたければその雑草が生えてこなくなる物質を撒く。ほかにもカモを放し飼いにすれば稲はそのままに虫だけを食べてくれる(なんて都合のいいことが本当に起こるのかは定かではないが)、など、生物の習性や構造を理解していればとれる策がいろいろとある。しかしこれが人間を相手にするとなると、途端に、感情という名の人間の習性を無視した策がとられがちになる。論理的に正しいのだから言うことを聞いてくれるはずだ、なんて横暴な態度をとってしまったりする。いくひしさんも例外ではない。真実、論理的に正しければ、相手を納得させたうえで、率先して協力させる術くらいは編めるはずだ。それができないのは、相手に提示した案に論理性が欠けているからだ。つまり、考えの足りない案だということになる。知恵が足りていない。だから余計な反発を生む。考えを重ね、より客観的に物事を観察し、論理的に考えを煮詰めていけば、どんな人間も道具のように扱えるようになるはずだ。しかし、それが善か否かはまた別問題になるのだろう。いわば、マインドコントロールであり、行き過ぎれば洗脳との違いを見繕うのは困難となる。ある種、対人関係で反発が生じるのは、相手を一人の人間として対等に接しているからだ、とも呼べるかもしれない。よくできた詐欺師はたいがい、誰からも好まれる。信頼されなくては騙すことができないからだ。なぜ好意的であったり友好的であったり、人から好かれなくてはならないかと言えば、じぶんの意見を相手に無理なく通すのに効果的だからだ。好感度が高ければ、じぶんにとって都合のよい環境を築きやすくなるからである。言い換えれば、問題を排除することに繋がる。余計な反発を招かないという側面も、見方を変えれば、相手をいかに掌握し、行動を操作できるか、という側面の裏返しでもある。責めているわけではない。ただ、そういう側面があることから目を背けていては、考えを煮詰めることから遠ざかるいっぽうだろう。人間の感情も、観測可能な物理現象の一種である(感情そのものが物理的に存在せずとも、身体の機能によって生じた何かであることは事実だ。たとえ人間が「感情がある」ように錯覚しているだけだとしても、錯覚するという情報処理を行っている事実に変わりはない)。任意の行動を引き起こすトリガーとなっている。なれば、そのトリガーを意のままに操れれば、人間の行動をも操ることができるはずだ。とはいえ、感情の厄介なところは、本人が哀しいと思っていても、端からすれば喜んでいるとしか思えないことが往々にしてある点だ。感情とは、行動に対するじぶんなりの言いわけであり、感情があるから行動するわけではない。飽くまでトリガーであり、きっかけであり、それでいて後付けの解釈でもある(ドミノは、最初の一手を倒す前の段階で、すべての駒は並び終わっている。きっかけがあるから倒れるわけだが、連鎖して倒れるのは、ほかにも無数のドミノが並んでいるからだ。この場合、きっかけと要因はべつであると言える)。人はじぶんで思っているよりもずっと、なぜじぶんがそうした行動をとったのか、或いは行動をとっているのか、を理解していない。よろこび勇んで行っていたはずが、じつは苦しんでいただけだった、なんてこともとりたてて珍しくはない。尻尾を振る犬を眺めて、あああれはよろこんでいるのだな、と考えるのは観測者たる人間の解釈でしかなく、じっさいに犬がよろこんでいるか否かはまたべつの問題だ。しかし、尻尾を振っている=よろこんでいる、と考えておけば、犬がつぎに起こす行動を予測しやすい。犬に(そして人)に感情があるのかさえ定かではないが、すくなくともあると分類しておけば、考える材料の一つにしておける。肝要なのは感情そのものではなく、習性である。こういうときは、こうなっているから、つぎはこうなるだろう、と予測をたて、その予測の精度が高まるように観察を繰りかえすことにある。論理的とはつまるところ、こうなればこうなる、の積み重ねだ。「こうなればこうなる」の前提条件が具体的であればあるほど予測の精度は高くなる傾向にあるが、その分、適用できる範囲も限られてくる。できるだけたくさんの事例に応用がきく「こうなれば」を発見できると、それは単なる理屈ではなく、法則として普遍性を帯びるだろう。頭がいいとは、おおむねこの「こうなればこうなる」をどれだけたくさん発見し、法則にしていけるか否か、にあると呼べる。法則と呼べるほどの精度がなくとも、例外を把握してさえいれば、精度が低くとも使い勝手のよい理屈となり得る。それはときに偏見とも呼ぶが、「そういう傾向もある」と前提して考えることで見通しがつきやすい利点があることもまた確かだ。可能性を羅列し、比較する段階では使い勝手のよい考え方の一つだと言えるだろう。いずれにせよ、感情を度外視した考え方は、現実の社会問題を紐解くにあたって、論理的とは呼べないだろう。すくなくとも考えが足りないと評価されても致し方ないかもしれない。
2187:【そのていど】
まいにち千字ずつ文字を並べたとして、あと五十年生きるとしたら、1000×365×50=18250000文字を並べられることになる。十万字で一冊分だから、だいたいあと182冊分の文章しか並べられないのだ。なんだそんなものか、と思ってしまう。これが毎日三千字だと、三倍の、547冊になる。これだとなかなかな分量に感じられる。出し惜しみしている場合ではなさそうだ。まいにち千字ずつ並べられるか怪しいところであるし、あと五十年を生きられる保障もない。可能であったとしても、100冊分の文字を並べていったい何になろうか。それでもまいにち千字くらいならできそうな気がするので、やらないよりかはやったほうが、暇つぶしとしてはよさそうに思える。気楽につづければよろしかろう。どうがんばっても、千冊には届かないのだから(とはいえ、まいにち6000文字を並べれば、五十年後には千冊に届くのだ。不可能ではないだろう。現に、分量だけならばそれくらいの文字を並べた者はいるはずだ。有名でないのは、それがおもしろいと評価されるような文章でなかったからだろう。端的に、読者がつかなかったのだ。そういう人生もあってよい。むしろ潔く、かっこよいではないか)。
2188:【逆説が成り立つ?】
こわい話をより怖くするてっとりばやい方法は、身体を冷やしてしまうことだ。冷房をガンガンにかけた部屋で怖い話をすればたいがいの話を怖く感じる。吊り橋効果の逆バージョンである。
2189:【幽霊がいると仮定して】
冷静に考えてみれば、幽霊のいる世界では、死後、幽霊になれないことのほうがよほど怖いだろう。じぶんだけ無なのだ。幽霊になれるのなら死ぬのは怖くないはずだ。そう考えてみると、幽霊を信じている人間が幽霊を怖がる道理が解からない。リストラされていない社員が、リストラをされたひとを眺めるようなものだろうか。いずれああなってしまうかもしれない差別心が、幽霊への恐怖の根源なのかもしれない。いい加減なことを言いました。申しわけありません。(炎上のほうが怖い)
2190:【おもしろい短編が読みたい】
世界の名作を短編(もしくはショートショート)にまとめ直した短編集が欲しい。世界の名作をマンガにしたのはあるが、小説の短編集はどうなのだろう。あれば読みたい。手元に欲しい。誰かつくってくれないだろうか(そして、ここにあるよ、と教えてほしい)。
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参照:いくひ誌。【1801~1810】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888023633