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いくひ誌。【2171~2180】

※日々、じぶんはこんなに我慢しているのに、とわがままな怒りにとりつかれている、それこそが傲慢とも知らず、他人を許す立場にいると思いあがっている。


2171:【暑くてやられた、あいつは我らのなかで最弱】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、なんか暑くない?とようやく実感してきたでござる。いまは2019年の7月31日でござるけれども、え、なんか暑くない? と、ようやっと実感してきたでござる。や、まえまえから、ひょっとして?とは思っていたでござる。でもなんか雨がじゃーじゃー降ったりして、まだ夏じゃない、焦る時期じゃない、なんて余裕をぴこぴこかましていたら、なんか暑くない? いまさら気づいてしまったでござる。世のなか、とっくに夏だったでござる。暑くてとうぜん、いちもくりょうぜん、ここはとうせん、ぼう、のごとく、かげろうが揺らぎ、ぶらりひとり旅きぶんでアスファルトの熱気、うりゃーと蹴散らし、ケチだし、旅費はすぐに底尽くけれど、かまわない、まえに進むのにタイヤやつばさは必要ない、イッツショータイム、こむづかしい話は抜きにしてさ、行くさ(戦)、せっかくの照りつく日差しさ、サンサンと全身に浴びて(日光浴さ)、ついでに海水浴きぶんでホースから飛びでる水の橋をくぐろう、汗なんて拭わず洗い流してしまおう、虹なんて探さないでつくりだせばいいさ、暑さなんて忘れてやればいいさ、まずは手を突きだし、くうを掻こう、海の底をおよぐみたいに、大気の底にへばりつき生きる一匹の蟻のように、あがこう、果たそう、まだだろう、海に張る帆のように、手の鳴るほうに、自由になるこの世に、ふいにこの後に、およんで、無二なるこのコらの未来を祈ろう、なんて投げやりじゃなく、描いて行こう、そう、マイウェイGO。へいよー、ちぇけちぇけらっぷ、へっぽこらっぷ、なんとなくそれっぽいこと並べたら、それっぽく聞こえるよ、へいよー、脳内でならそれっぽく歌えるよ、声にだすとぜんぜん出遅れるよ、舌がからまるよ、ぜんぜんライムを口ずさめない、愚痴すらうまくさえずれない、声なき声で歌うよ、それこそ物書きの仕事、しのごの言わずに文字を並べよう。いえー。暑くて体温が上昇、きぶんも高揚、このまま熱中症にならないようにこまめに塩分、水分、補給していこう。いえー、からでたくない日々でござる。ちぇけちぇけらっぷ、へっぽこらっぷ、なんとなくそれっぽいこと並べたら、それっぽく聞こえるよ、栄養、ちゃんととって休むときはたっぷり、すやすや休みましょうでござるー。あーい。


2172:【あつい、ねむい、ねる】
ここ数日のあいだに気づいたことなのですが、ひょっとして物語を情報として捉えた場合、それそのものが好みでないとおもしろいと思えない人がいるのですか? どんな情報であっても、それの並べ方や出し方がおもしろければいくひしさんはおもしろいと思ってしまうのですが、もしや案外この感覚は一般的ではないのでしょうか。ジャンルで物語の好き嫌いを決めてしまう人の感覚がいまいちピンとこなかったのも、この視点の違いによるものなのかもしれません。たとえば雑なくくりになりますが、クラシックしか聴いてこなかった人はビートルズを聴いても最初はうまく受け入れられなかったでしょう。そしてビートルズを嗜好してきた人はダブステップをただのノイズとしか評価しないように思います。あべこべに、ダブステップを好む者は、おそらくビートルズもクラシックもダブステップにしてほしい(取り入れたい)、と積極的に希求するのではないでしょうか。ヒップホップが2019年現代においてことこれほど社会に波及した背景には、こうした情報の非対称性があるのではないか、と想像します。要因のすべてではないにしろ、一因子としてあってもおかしくはないように思います(もちろん、そんなことはなく、単なるいくひしさんの勘違いである可能性もあります)。いくひしさんは、どんなに主義思想や嗜好に反した物語であっても、情報の出し方や並べ方が好みであれば、おもしろく味わうことができます。というよりも、どんなに好ましく思える物語でも、この情報の出し方や並べ方に新鮮さや工夫を感じられないと、どうしても眠くなってしまいます。演出にちかいのかもしれませんが、そこまで技術として確立されていない、新しい何か、を情報の出し方や並べ方に感じられると、いくひしさんはその物語を好ましく評価します。物語そのものの色や味はあまり興味がないのかもしれません。それよりも、どういう情報の並べ方をし、どういう絵柄をどういう順番で、どれだけ削り、圧縮してあるか、(或いは、重ねたり、組み合わせたりしているか)のほうに興味の矛先が向かいやすいように思えます、とみずからのゆがみを告げて、すこし短いですが、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2173:【狭窄】
視野が狭くなっているのを感じる。もうすこし正確には、「視野が狭くなっている実感がなくなっている」と感じるから、おそらくそう感じられないほどに視野が狭くなっているのだろうな、と客観的に自己評価をくだしている。いくひしさんはいま、視野が狭くなっている。危険な兆候だ。もうすこしそとへ、そとへと視野を広げるように意識的にじぶんに働きかけてみよう。


2174:【いくひしさんはダサい】
誰であっても私服であればどんな服を着ようが自由なはずだ。女の子はスカートを穿きなさい、なんて時代錯誤もはなはだしい。しかしこうした主張を口にする人間ですら、ときに「あの服はダサい。ないわぁ(笑)」などと言って、他者の服装を揶揄したりする。自家撞着が口を衝いていることを自覚していないのだろう。オシャレな服を着るのもまた自由だ。一般的には、ダサいよりもオシャレなほうが好感度が高い。しかしオシャレな服を着ることの利点など、この「好感度が高くなること」くらいなものである。好感度が高ければ、それが仕事になったり、私生活で他者から優遇される確率があがったりと、得をしやすくなるかもしれない。ダサければ、「なんだあいつ(笑)。ぷぷぷ」なんて笑われたり、無下に扱われたりするかもしれない。しかし、服装がダサいだけのことでそんな不公平な扱いを受けることそのものが差別であり、問題であるはずだ。ハッキリ言ってしまえば、イジメ以外の何物でもない。弱い者の味方のフリをしている人間ですら、こうした無自覚の差別感情を抱いている。いくひしさんも例外ではない。誰であっても、偏見や差別感情を持ち合わせているのだ。まずはそのことを自覚し、すこしずつじぶんをコントロールする術を磨いていくよりない。ときには、そうした偏見や差別感情に流されてしまったほうが、社会的に得をする場面が訪れるだろう。服装のダサい者を笑い者にすれば、じぶんのほうがオシャレでステキな人間です、と周囲に示せるだろう。そのおかげで多くの信用を得られるかもしれない。だが他者を、じぶんを引き立てるための小道具にしようとする考えは、とてもではないがキレイとは言いがたい。オシャレであってもよい。小奇麗な格好をすれば、周囲の人間に不快な思いをさせずに済むだろう。だが、どんな服を身にまとったところで、その人物の中身までもが手軽に変わることはないのだ。どちらかといえば、小奇麗な布地を身にまとっただけのことでじぶんの本質までもがうつくしく変われるのだ、と錯誤してしまう者がすくなくないのではないか。どんな服を着たって自由である。好きな服を着ればよい。本来であれば何も着ずに裸であっても問題はないはずだ。しかしこれは法律で禁じられているので、最低限、何か布地を身にまとうのが社会に生きる人間としての最低限の礼儀となるのだろう。とはいえ、ダサいからなんだというのだろう。ダサくなりたくない、とじぶんで思う分には自由だろう。反面、それを他者にまで押しつけ、オシャレじゃないなんて変ね、なんて価値観を強要する姿勢はいただけない。ましてや、ダサいなんて信じられない、ぷぷぷ、なんてバカにするのは、さすがに礼儀に欠けていると判断されても致し方ないのではないか。服装が乱れることよりも、服装の乱れ程度のことで他者を低く評価することのほうが、よほど礼儀に欠けている(そもそも他者を評価しようとする姿勢が失礼だ。審査員になってくれ、とでも頼まれたのだろうか。もちろん、思うだけなら自由だが)。おそらくこのさき、社会は徐々にこのことに気づきはじめるだろう。何がより本質にちかいのか。前提に立つのか。それをときおりでよいので考え、下に、下に、と辿っていく習慣をつくっておくとよいかもしれない。基本的に、どんな建前を見繕おうと、他人を腐して何かの正当性を主張する手法は、悪手である。何かと比べてじぶんが上だ、と誇示しようとした時点で、あなたはほかの何かと比べれば下なのである。他者をダサいとバカにする人間は、ほかの者からダサいと思われていることだろう。視点を変えれば、宇宙服はどんなにオシャレだろうと、空気が漏れては意味がない。服には機能性というものがある。オシャレであること以上に優先度の高いこともある。値段にしてもそうだ。流行も時代によって移り変わるものである。素材や世界経済の動向など、さまざまな要因がどんな服を着るかに影響している。いずれにせよ、好きな服を着ればいい。オシャレになりたいならなればいい。だからといって、あなたそのものが美しくなるわけではない。刹那の幻影に酔いしれるのもそうわるいことではないが、それが錯覚であることくらいには自覚的でありたいものである。


2175:【何のためにそれを選ぶのか】
組織が保身に走るのはまだ許容できる。組織が瓦解することの損失を想像できるからだ。しかし組織の管理者が自己保身に走るのはいささか許容するのに抵抗がある。なぜなら管理者が自己保身に走る場合は往々にして、管理者が組織を私物化している傾向にあるからだ。組織を生かすために個人を犠牲にするのもまた正しいとは思えないが、管理者の自己保身から組織を危ぶめたり、倫理に反した選択を行ったりするのは、組織にとって、そしてその組織を内包する社会にとって、大きな損失であるはずだ。じぶんの属する組織がいったい何のために「それ」を選択したのかをよく見極めることである。管理者の自己保身が透けて見えないだろうか。「それ」は本当に組織のためになっているだろうか。組織の理念に沿っているだろうか。よくよく観察してみることである。


2176:【相手を損なうことに違いはない】
基本的に告発もテロも、構図はいっしょだ(ここで言う告発は、刑事告発と区別し、不正や悪事を世に知らしめることである)。相手を傷つけることが目的にあり、脅すための手段であり、相手以外の大勢に向けてのパフォーマンスの側面がある。暴力か否か、という大きな違いがあるにせよ、構図そのものはほとんど同じだ。告発が善で、テロが悪、とまとめるのは短絡にすぎる。同様に、告発される側やテロを起こされた側の対処にも共通する点がある。まずは無視できる規模であるならば徹底的に無視をする。相手にしない。これに尽きる。粛々と対応を行い、法的処置をとることが優先される。次点で、隠しきれない場合には、効いていないことをアピールする。許されないことだ、と大勢に向けて主張する。降伏の選択肢はないと宣言する。過ちを認めなければ対話の余地もない、とはっきりと示す。対話の意思がある旨は否定せずにおく。対話の意思はあったが、おまえがそれをダイナシにした、と暗に告げると好ましい。ただし、このさきの社会では、告発やテロの手法も巧妙化することが予想される。これまでのような判りやすい告発やテロではない手法で、効果的な損失と恐怖を相手に与える者たちが増加するだろう。従来の告発やテロは、相手に何かを訴え、要望を通すための手段だった。しかしこれからさきの社会では、破壊と混乱そのものが目的となる。要望などはないのだ。ただただ損失を与えたい。そう欲した末にとられた手段に、告発とテロのくくりはない。暴力ではない暴力――理不尽そのものとなって、組織や社会を脅かすだろう。非難すべき行いである。万が一にも賛同する道理はない。とはいえ、なぜそうした理不尽が増加するのかと言えば、個々人が組織や社会から、それと同等に思えるくらいの理不尽を与えられているからである。すくなくとも、そう感じてしまうような個人がこれからさきの社会では増えていくことが想像できる。そうした者たちは、現状が好転する未来を手にするよりも、相手をじぶんのところまで引きずり落とす未来のほうが手中におさめやすい、達成しやすいと考えている。つくるよりもこわすほうが楽なのは、世の常である。それでも半世紀前の社会では、つくり、築きあげるよろこびを下の世代に、じぶんたちの姿を通して示すことができていた(むろん、さまざまな搾取構造のうえに成立した創造性ではあっただろうが)。いまはもう、その幻想も失われた。あるのは、いかに強者にへつらい、弱者からまきあげるか。残ったのは弱肉強食の原理に忠実な過酷さだ。弱者として強者に搾取されつづけた者が最後に行き着く結論が、根こそぎ強者からすべてを奪うことだとして、いったいどこに矛盾が生じるだろう。強さこそ善となった社会では、至るところでこうした生死をかけた一世一代の下剋上が勃発するようになる。こうなったあとには、強者は保険として、誠意を周囲に向け示すよりなくなる。そして強固なコミュニティを形成し、身内だけの世界に引きこもるようになる。しかし一つのコミュニティだけで利益を回すには限界がある。であれば、似たコミュニティと繋がりあい、やがて組織は巨大化していく。こうなると誠意の輪郭はぼやけ、霧散し、そしてまた最初に戻って、基本的なカタチの告発やテロが増えていく。社会はいつの世も、似た流れを繰りかえしている。いずれにせよ、どの時代であっても、告発とテロは似た構図を伴っている。個々人を「それ」に駆り立てる因がまずどこにあるのかを見失わないことである。(と、並べてみたはよいものの、どこかしっくりこないのは、なぜだろう。どこかに詭弁が潜んでいる気持ちわるさがある。告発とテロを同一視した時点で、どこかしら肯定的なニュアンスを帯びてしまったからかもしれない。しかし言いたいのはむしろ、告発そのものも、根っこのほうではテロと共通している点だ。正当な段取りで訴えても効果がないと諦めているからこそ、そうした強硬な手段を用いるのではないか。やはりというべきか、構図は変わらないように思うしだいだ)


2177:【相似】
構図が似ているからと言って、ではテロと同様に告発もまた禁止してしまえばいいかと言えば、否だろう。とはいえ、だからといって闇雲に告発すればいい、という風潮はいささか短絡であると言えそうだ。考える余地はいくらでもある。システムに瑕疵があるならば、どうすれば円滑に改善できるかを考えるのが先決であるはずだ。そのために告発が欠かせないとなったときには、不承不承それを実行するよりないのだろう。だがそれはテロを起こす者と似た行動原理を伴っている事実からは目を逸らさないほうがいくひしさんには好ましく映ります。


2178:【悪は、極悪でも絶対悪でもない】
本質が同じだからといって、結果が同じだとはかぎらない。同じ怒りから行動を起こしたとして、いっぽうでは制度を改善する方向に働きかけることもあれば、いっぽうでは人を殺傷して終わることもある。根っこが同じだからといって、まったくいっしょだ、なんてことはない。たとえば包丁一つとっても、美味しい料理をつくるのに使う者もいれば、人を殺すのに使う者もいる。核分裂反応であっても、いっぽうではエネルギィを社会に供給し、いっぽうでは文明そのものを滅ぼし得る。同じ道具や技術であっても、使い方しだいで、結果は大きく変わる。ただし、できるだけ本質を正しく紐解いておくと、道具や技術を使いこなすうえで有利に働く。結果が違うのだからまったくの別物だ、これは悪ではないから善なのだ、と安直に結びつけて考えないようにしたほうが、取り返しのつかない間違えを犯さずに済むだろう。じつは根っこでは同じものなのに、まったくの別物として扱えば、いずれ、どこかにゆがみが生じて、制御不能な事態に陥ってしまうかもしれない。アレとコレは似た危険性を孕んでいるかもしれない、なぜなら似たようなシステムを有しているからだ、と考える癖をつけておくと、仮にその仮定が間違っていたとしても、想定外の問題を未然に防ぐ確率をわずかにでも上げることができるはずだ。いずれにせよ、何かをなすための術が悪ではない保障などどこにもない。往々にして正義は、悪を用いてなされるのである。正しさを振りかざすことそのものが、一つの悪である自覚はつねに抱いていたいものである。


2179:【全知全能という名の】
たとえば身体能力で言えば、前宙ができるひとがいれば、片手倒立ができるひともいるし、バク転ができるひともいれば、百メートルを十秒で走れるひともいる。片や、二百キロの重りを持ち上げることができるひとがいるいっぽうで、ダーツを正確に投げることのできるひとがいる。すべてにおいて突出している人間は稀だろう。おのおの得意な技能は偏っており、いちがいに身体能力の高さを測ることはできない。得意な技能があっても、ほかの技能はそれほどでもない、と知ることとなるし、はた目にもそれは自明のこととして理解されよう。しかしこれが知能となると、一つの分野で深い知見を備えているだけで、すべてにおいて知能が高い、と誤った見方をされる傾向にある。学者や研究者、というだけでなんだか人として優れている、と見做したくなるが、一つの分野に精通しているからといって、ではその人物がコンビニの仕事を十全にこなせるか、と言えば、否だろう。すくなくとも事前にある程度の学習を行わなければならない。コンビニにかぎらず、各種職業には、それぞれ体験しなければ身につかない暗黙知がある。いくら学者や研究者だろうと、ほかの分野に関しては門外漢であることは珍しくない。それが一般的だ、と言ってもこれは珍しく言い過ぎとはならない。一つの分野を極めていることは、何も極めていないよりかは好ましいかもしれない。しかし、だからといって一つの分野を極めている者が人間として優れているとはかぎらない。誰であっても、一流の人間が知らない知識や体験を備えている。一流の人間ができないことを日常的にこなしている。誰もがある側面では、一流を凌駕しているのだ。それをことさら誇る必要はないが、条件反射的に他人を肩書きや実績で測らないほうが、思わぬ宝物を取りこぼさずに済むようになるのではないだろうか。仮にじぶんのことを全知全能であると思いこんでいる者があるならば、いますぐにでも新しい世界を創造して、その世界に引きこもることをおすすめしよう。全知全能ですら一介のただの人に凌駕され得る。すくなくとも、ただの人にはなれないのだ。ただの人に負けるようなら、全知全能も形無しだ。そんな事態にならぬように、じぶんだけの世界に引きこもっているのが全知全能にふさわしい身の置き方と呼べそうだ。


2180:【派閥が苦手】
身内と組織の違いは、そのコミュニティに対して自己批判できているか否かであると言えよう。現代では組織ではなく単なる身内でしかないコミュニティが散見される。自己批判ではなく自己肯定ばかりを繰りかえすから派閥と化して、意にそぐわない者たちを敵対視する。いくひしさんは身内びいきと派閥が苦手だ。ただし、赤の他人よりも身内をだいじにしたくなる気持ちは理解できる。接点のない人間よりも、親切にしてくれた者に接したくなるのは群れを成す動物にとっては本能レベルで組み込まれている習性と呼べよう。とはいえ、身内をたいせつにすることと、身内びいきは別だろう。仲間と癒着くらい違うように思うしだいだ。派閥は組織にできるがん細胞のようなものだ。存在しているのがしぜんだが、増えすぎると身を滅ぼす。じぶんが属しているコミュニティが派閥になっていないか、ときおり目を光らせておこう。


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参照:いくひ誌。【1391~1400】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886277035

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