※日々、舐められつづけて、とけていく。
1671:【寒くなると】
なんかさ、寒くなるとひと肌恋しくならん? いくひしはなる。
1672:【かといって】
誰でもいいってわけじゃないし、誰がいいってのもないし、なんだったらもう一人のじぶんと抱きあいたい。でもじぶんのことは好きじゃない。歪んだ自己愛ってやつか。じぶんなら傷つけてもいいだろ、みたいな。自尊心の欠如の延長線上にある感情な気もする。いくひしみたいな人間モドキが触れていいのは、いくひしみたいな人間モドキだけなのだ。神に触れていいのは神だけである、みたいな。ぜんぜんちがうか。真逆か。一周回って、同じかもわからん。
1673:【原発廃止の是非】
久々に人としゃべりました。いくひしより三十は歳がうえの方なのですが、博識で、たびたびいろいろな話を聞かせてくださいます。原発問題の話になり、さらっと意見を窺いました。その方は、原発を即時廃止したほうがよい、とおっしゃっていました。リスクが大きいからだ、という理屈のようです。いくひしは、ふんふん、と聞いておりました。間違ってはいないでしょう、と納得しています。ただ、リスクが大きいのは、原発を即時廃止した場合も同様です。そちらのほうのリスクに関しての視点がごっそり抜け落ちているように感じました。指摘してみたところ、東日本大震災のときは、原発が停止していても問題なかったから、だいじょうぶだろう、とのご意見でした。だとすれば、同じ理屈は現状にもあてはまります。原発が再稼働してもだいじょうぶであるのだから、廃止せずにいてもよいのでは? と思ったのですが、とくに議論がしたかったわけではないので、そちらは言わずにおきました。雑談のなかで交わされる意見においては、結論ありきの理屈に対していくひしは、反論をしないことにしています。相手もとくに聞きたいとは思っていないでしょう。ご自身の意見をしゃべるのが楽しいのであり、新しい視点や情報は求めていないように感じられることが多いです。いくひしのほうで、意見を求められることもありません。また、原発問題に関していくひしは、とくにどうしたほうがよいという意見を持ち合わせておりません(原発問題にかぎりませんが)。むつかしい問題だなぁ、と思っています。詳しくも知りません。ただ、福島第一原発事故から得た教訓があるとすればそれは、原子力発電は危険だ、ということではないだろう、とは思っています。安全だ、安全だ、と再三主張されてきたシステムであっても、想定外の「もしも」が起きた場合には大規模な災害に発展し得る。そのことを念頭に置き、あらゆる危険を前以って想定し、問題が起きた場合のセキュリティをどうするかを議論し、対処を講じておくこと。或いは、リスクを認識し、いざ問題として表面化したときにどうすべきかを決めておくこと。本当に安全なのか、とつねに疑問視し、新たな穴を発見しては、埋めていくこと。そうした姿勢を継続していくことが国のシステム(だけにかぎりませんが重要設備の運用)には欠かせないのだ、ということが浮き彫りになった契機だった、と解釈しています。相手の方は、原発の危険性については考えを煮詰めている反面、代替エネルギィの問題点や、火力発電による地球温暖化現象への懸念については、思考を費やしていないようでした。結論ありきの一面的な考えで何か大きな仕組みの是非を決めてしまうのは、原発事故の起きた要因そのもののプロセスを繰りかえしているだけではないのか、と疑問視してしまいます。地球温暖化現象で海面が上昇し、島が一つなくなろうとしているという話を耳にしたことがあります。そのとき、その責任の矛先を、島の人々はどこにも求めることができません。地球温暖化現象によって気象が不安定になり、毎年のように記録的な自然災害が発生しています。原発事故で住む場所を追われた方々も悲惨ですが、数でいえばそれよりもずっと多くの人々が世界中で、災害に悩まされつづけています。そしてそれら増加傾向にある異常気象に歯止めのかかる予定はありません。果たして、原子力発電を即時廃止し、発電効率のよろしくない火力発電や代替エネルギィを利用しても、だいじょうぶなのでしょうか?(また、太陽光発電や風力発電に使われる素材は、使用済み核燃料と比べて本当に、土壌を汚染しないのでしょうか?) 原発廃止に反対しているわけではありません。廃止できるのならばすればよいのではないか、と考えています。ただ、いますぐすべての設備を廃止にする必要性に迫られているのだろうか、との疑問は拭えません。原発のリスクを考えるのと同じだけの労力をかけて、ほかの発電設備についてのリスクを考えてはいるのでしょうか? リスクを比較し、より安全側を選びながら、さらなる技術の向上によって、より安全なシステムを整えていく。その道程はけっして生易しくはありません。長期的な研究開発が不可欠です。それだけでなく、社会問題の総じては、さまざまな問題が交錯しあい、問題そのものが時間と共に複雑化し、そして深刻さを増していきます。問題の解決策が新たな問題を生じさせるのも世の常です。いまある技術や、仕組みを捨てるのは簡単です。しかし、リスクを比較しながら、使える技術は使いつつ、より新しい社会基盤を形成していくほかに、より安全な進歩の仕方はないのではないでしょうか。本当に原子力発電を即時廃止しても問題はありませんか?(あべこべに、再稼働してもだいじょうぶですか?) いくひしにはむつかしすぎる問題です。結論はなかなかでません。きょうお会いした方と別れたあと、じぶんの考えを伝えてみてもよかったかな、とすこし後悔しました。一人一人が、じぶんで調べ、考え、リスクを比較してみることこそ、福島第一原発事故の教訓を活かすことに繋がるのではないでしょうか。不勉強な我が身をはがゆく感じた一日でございました。
1674:【同じ?】
善人も悪人もけっきょくのところはみな、「ひとの嫌がること」をしているのだ。いくひしは「ひとの嫌がること」はしたくない。善人にも悪人にもなりきれないし、なりたくもない。
1675:【破滅願望?】
何度も使い捨てにされ、ぐちゃぐちゃにされたい欲がたぶん、いくひしにはあって、それに懸命に抗っているのが現状な気がする。流されてはいけない。流されたいがゆえに。ともすれば、誰かを使い捨てにし、ぐちゃぐちゃにすることへの抵抗が薄いのかも分からない。正当化してはいけない。誰より正当化しやすい土壌が整っているがゆえに。
1676:【ちょっとー】
まんちゃんさー、もっと楽しいことつぶやいてよ、目が腐る。
1677:【できそこない】
いくひしは身近な人々からできそこないだと見做されている。認知の歪みではなく、じっさいに、いくひしが言ったことは相手に吟味されることなく、苦い顔をされて流される。でも、いくひしが言ったことと同じことを権威ある人が言っていると、苦い顔をしたひとは真剣な顔つきになって、うんうん、と聞き入るようになる。何が違うのだろう? できそこないのいくひしさんが言うから、きっと言っていることもできそこないのぽんぽこぴーなのだろうな、と思われて、聞く価値がないと流されてしまうのだろうか。きっとそうなのだろうなぁ、と想像している。ちっこいころからずっとそうだったから、もう、どうも思わない。それで損をするのはいくひしではないと学んでいるからだ。いくひしが言っていることが正しい、という意味ではない。ただ、考え方や視点が広がるのは無駄ではないはずで、相手の死角になっている場所がいくひしからはよく見えるので、そこを見落としていると危なくないですか、と指摘するのだけれども、相手にとっては些末なことなのか、まんちゃんはおばかさんねぇ、とあしらわれてしまう。でも、時間が経過すると、その死角からにょきにょき伸びてきた因子が奇禍となって、そのひとの理屈ごと、そのひとの生活まで蝕んでいく。そうなるともう、いくひしにはどうすることもできなくなって、あのときもうすこしつよく言っていればな、と後悔するはめになる。反面、もし時間が巻き戻ったとしても、できそこないのいくひしさんがいくら言ったところで、聞き耳を持ってはくれないだろうし、いくひしさんがぽんぽこぴーなのは事実なので、けっきょく、できたとしても、忠告にも及ばない、細々とした考えを、ちょろちょろと漏らすばかりになるのだ。考えるばかりで益体なし。できそこないのこれが宿命なのだなぁ。
1678:【勢いがない】
ツイッターの勢いがなくなってきている感じがするのはいくひしだけ? 活力がないというか、積極的に発言したり、シェアしたり、みたいな流れがこの二か月でずいぶん穏やかになってきたなぁ、と感じる。ツイッター離れが進んできたのかな、と思いながら眺めているけれど、どうでしょう。
1679:【どうなの?】
人としゃべると疲れる。なんでだろう、とふしぎだったのだけれど、誰としゃべっても疲れるわけではない、と気づいたら、いくつかの傾向が見えてきた。しゃべっていて疲れない相手は、「間違っていること」や「知らないこと」を恥じたり、わるいことだと思ったりしていないのだ。逆に、しゃべっていて疲れる相手の場合は、間違っていることがわるいことだと考えているし、知らないのは恥ずかしいことだと思いこんでいる。だから、絶対に正しいと思っていることしかしゃべらないし、考えたことではなく、知っていることをしゃべりたがる。でも人間誰しも、真理を掴みとっているわけではない。視点が変われば、白も黒く見えるし、時間だって伸び縮みする。いま正しいとされている常識だって百年後には誤った知識としてまかりとおっているかもしれない。というよりも、その確率が非常に高い。ニュートン力学や相対性理論に代表される古典物理学でさえ、最新の量子力学とは矛盾する項目がある。どちらがより正しいのか、真理にちかいのかすら、茫洋としていて掴みどころがない。つまり、どちらもまだ不完全だということだ。間違っている部分があって当然だし、知らないことのある状態が標準だと言っていい。だのに、なぜか自分の考えに自信を持っていて、自分のなかに無知の領域があることを恥ずべき状態だと見做す人がすくなくない。なにより、どんな相手にも自分にはない知識や経験があるのだと、想像し、接することのできない人たちとしゃべるのは、本当に疲れる。高い役職につき、部下をつき従わせる地位にいる人間ほど、自分の意見に穴があることから目を逸らそうとする。やんわり指摘しただけでも機嫌を損ねるので、赤ちゃんをあやすみたいに、そうですねぇ、すごいでちゅねぇ、と甘やかしてあげないことには、まっとうに言葉を交わすこともできない。いい気なものである。いったい彼らは、いくひしを誰だと思っているのだろう。本当に嫌になってしまう。我は無様なり。無知の塊にして、誤謬の権化。何者でもない者である。
1680:【性格が最悪】
「ぼくは他人から舐められるのが嫌いではない。ぼくがその気になった途端に、相手が青ざめ、取り乱し、急に態度を改める様子を眺めるのが嫌いではないのと同じように。調子に乗っている相手の鼻っ柱が折れる音は、何度聞いても小気味よい。いくらでも舐められていたい。頼んでもいないうちから、誰もがかってに舐めてくれる。よほど美味しいのだろう。いったいぼくはどんな味がしますか?」
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参照:いくひ誌。【311~320】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882513338