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いくひ誌。【2301~2310】

日々、ケーキのうえの蟻のように、ステーキにたかる蝿のように。


2301:【美醜】
やさしいものにつつまれて、うつくしいものだけを手に入れて、みにくく、きたならしいものは視界に入れず、遠ざけて、差別はいけないときれいごとを言う。そういうものに、「私」はなってしまった。


2302:【落ちて立つ】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんは先月の中ごろにひざをオイチチチしてしまってそれからまいにち、うーんうーん、ってひざを庇いながらの運動会でござったでござる。ときどきなるでござる。持病と言ってもいいかもしれないでござるな。ただ、無理をしなければまたしぜんと治るので、無理をしなきゃいいのに、といっつも思うでござる。なんだか楽しくなってしまうと身体に負担がかかっていることを忘れて、なんでそんなひざをガーンってするの、痛いに決まってるでしょ、みたいな、箪笥に足の小指ぶつけたら痛いでしょ、わからないの、あなたおばかさんなの、みたいな、そんな感じでござる。伝わったでござるか? まあまあそんな感じで、まだちょっと本調子ではないでござるけれども、きっともう本調子とは思わないほうがよいでござる。これが基本形だと思って、日々を過ごすのがよいごでざる。無理をしてもいいことはそんなにないでござる。楽をする理由がまたできてしまったでござる。こうしていくひしさんはじぶんを甘やかして、どんどん怠け者の愚か者に磨きをかけていくでござる。そのうち世界一の怠け者の愚か者となってしまうかもしれないでござるな。すごいでござる。だれか褒めるでござる。崇めるでござる。まだ世界一じゃないからだめでござるか? がっくしでござる。ひざどころか肩まで落として、痛いの痛いのめっちゃ痛いでござる。いま気づいたでござるけれども、肩さんだけでなく、腹さんも、目さんも、ほっぺさんも、首さんも、やたらと落ちるのが好きでごらん? みーんないちどくらい落ちてるでござる。首だけは本当に落ちちゃったりしてこわいでござる。落ちるくらいなら立つでござる。目立ったり、腕を立てたり、手柄を立てたり、腹を立てたり、目くじらを立てたり、おそろしさのあまり総毛立ったり。んー、どれも気が立ってみえるでござるな。あんまり立てるのもよろしくないかもしれないでござる。もういっそ寝るでござる。寝ればとりあえず、全身が寝るでござる。どこもかしこも寝てるでござる。すばらしいでござる。いくひしさんもきょうはもうおやすみなさいでござる。寝る子は育つでござる。すくすく育つでござる。ところですくすくってなんでござるか? 気になって眠れないでござる。すくすくってなんで二回繰りかえすでござるか、そんなにたいせつでござるか、すくってなんでござるか、お腹でも空いているでござるか、それとも胸のすく思いでござるか、溜飲を下げているでざるか、受けて立つでござる。あーだめでござる、だめでござる、こんなことを並べていると理屈っぽいと眉間にシワを寄せられ、角が立ってしまうでござる。ややや、今回もいつにもましてオチが際立ってしまったでござる。これはもう、顔が立って仕方がないでござるな。それでもけっして役には立たないのが、いくひしさんのよいところ。で、ござるー。


2303:【橋をかけるのが下手】
努力に対する憧れのようなものがつよい。いくひしさんがことさら努力のできないひとなので余計に憧れてしまうのだろう。いくひしさんの費やしている労力がジャングルジムを登ることだとしたら、努力しているひとの費やしている労力とはエベレスト登頂だ。或いは宇宙飛行に匹敵する。というよりも、現にそれをこなしている者がいる以上、じっさいにそれくらいの差があるのだ。たくさん苦労したほうがいい、という話ではない。目標を達成するための段取りや、それをこなすためのちいさな目標の数、そしてそれらをクリアするために費やしていく日々の習慣や鍛練こそが努力なのだ。努力とは単純な労力の総和ではない。どんな橋をつくり、かければ、向こう岸に渡れるか。さまざまな力をどのように組み合わせれば向こう岸まで橋をかけられるか。その模索であると言えよう。


2304:【世界そのものを視た者はいない】
知らないことが多すぎる。たとえば今年(2019年)ノーベル物理学賞を受賞した「系外惑星の発見」だ。太陽以外の恒星にも惑星(周りをぐるぐる回っている地球や火星みたいな星)があるかどうかを、1992年になるまで人類は観測できていなかったそうだ。考えてもみればたしかに、夜空に浮かんで見える星のほとんどは恒星だ。それら恒星にも惑星があるはずだが、それを観測するには、相当に感度のよい観測機が必要となる。また、不確かな妄想でしかないが、恒星を公転する恒星も存在していておかしくはないのではないか。言い換えれば、恒星かつ惑星である。根本を掘り返しても見れば、銀河の中心にはおおむね超巨大ブラックホールが存在すると考えられている。総じての天体は、ブラックホールの惑星と捉えて、矛盾はしないのではないか。そういう意味では、恒星を公転する恒星もまた存在していてふしぎではない。ともあれ、近接する銀河同士(つまりブラックホール同士)は徐々に距離をちぢめ、やがてひとつに融合するだろう、と現在では考えられている以上、恒星同士もおそらくはいずれひとつの恒星として融合してしまうのだろう(融合してしまう前に星の死を迎えるものが大半なのだろうが)。太陽も、以前には、いくつかの恒星を惑星として持っていたかもしれない。定かではない。いずれにせよ、いくひしさんには知らないことがたくさんある。知っていると思っていたことでも、本当はまだそこまで解かっていない未知のままの領域を、妄想と現実の区別をつけられないままに、知っているつもりになっていることが無数にあるはずだ。何を知らないかをまずは知ろう、といった趣旨の言葉をときおり並べるものの、実態としては、いくひしさんはさほどに無知を自覚できてはない。それほどに、じぶんが知らないことを知る、というのはむつかしいのである。記憶にないことを思いだすかのような矛盾があり、ひとから、「あれは持ちましたか?」と水を向けられてようやく気づけるくらいがせいぜいだ。真実に忘れていること、知らないことは、原理的にじぶんの主観世界だけでは自覚できないのである。だからこそ、ひとの言葉や、それを写した書物、そして他者の表現物を通して、何を知らなかったのか、何が足りていないのか、を知るよりないのではないか。自覚とは学びを通してもたらされるものであり、他者や周囲の環境から学ぼうとする意思がなければ、自覚しようがないのかもしれない。主観世界は、他者の主観世界や、この【世界そのもの】を取りこもうとする意思によって、その枠組みを広げ、深さを増し、起伏を経て、立体的な地図を構築し、輪郭をより【世界そのもの】にちかづけるのかもしれない。定かではない。


2305:【あたりまえ】
ひとは何かを知るとき、それまでそれを「知らなかった」のだ。何かをするときには、それまでそれを「していなかった」のである。あたりまえの話だが、なんだか含蓄深い言葉に聞こえないだろうか。言い換えるならば、チョコレートを食べるまでそのひとの口の中に「チョコレートはなかった」のである。ものすごい発見に聞こえないだろうか。気のせいか。気のせいだ。なんだ。


2306:【格差断層社会】
情報通信量があがると、情報処理能力の低いマシンは使い物にならなくなるのでは、との疑問がある。このさきインターネットは情報通信量がいまよりも格段に増すことが予想される。そのとき、流れてくる情報を適切に処理しきる能力がマシンのほうになければ意味がない。どれほどたくさんの水が流れてきても、器の口がちいさければ、情報の大部分は取りこぼされるか、器のそとに溜まってしまう。むかしのPCでは現在のアプリやWEBサイトを利用するのに不便なのと同じかそれ以上のレベルでそうした問題が引き起こるのではないか、とやや不安に思っている。反面、現在市販されている端末の多くは、そうした情報増加型社会を見据えたうえで開発が進められてきただろう、と楽観的に想像している。いますぐに、いま使っている端末が使用不可となる懸念はないとは思うが、同時にマシンの耐久年数もこれからはますます増していくことが予想される。言い換えれば、壊れてから買い換える、といった機会そのものが減少していくため、気づいたときにはインターネットサービスの恩恵を充分に受けられない環境下にいた、といった事例が増加してもおかしくはない。こうした無自覚の格差は、情報通信量の増加していく社会にあたっては、いまから想定して対策を講じていっても早すぎるということはないだろう。情報技術が更新されるごとに最新のマシンに買い換えられる層と、そうでない層との格差は、現在考えられている以上の開きとなって、社会全体に可視化できない断層を生むのではないか。隣人同士であれ、一見した生活レベルは同じであっても、享受しているサービスが「文化レベルで数十年レベル」といったズレを生じさせるのではないか、との妄想は、さほどに飛躍した未来像とは思わない。現時点であっても、こうした文化レベルの差は、コミュニティや地域格差として顕在化して映るが、可視化可能な点がこれからの社会の格差とは異なると言えそうだ。これからさきの社会では、格差がいま以上に可視化しづらく、いまよりもずっと決定的な差異となって表れるのではないか。現代社会に未来人が混じって生活するようなものである。極端な話、ある一部の人間たちのみがドラえもんを使役しているようなものかもしれない。格差のひどさが伝わるだろうか。以上は、いくひしさんの妄想であるので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2307:【いまは読書楽しい月間】
明るい話題を並べたいのだけれども、なかなかにむつかしい。あ、そうだ。久しぶりにつくった「玉ねぎだけお好み焼き」がなかなか美味しかったです。あとはさいきん読んだマンガや小説、新書はどれもおもしろくて、ほくほくです。


2308:【よまいごと】
概念や機微、言葉や物語が、人間をある一定の枠組みに規定し、行動の幅を限定し、社会を築きあげ、その仕組みの節々にて円滑剤やネジの役割を担っている現実には何か、概念や機微、言葉や物語もまたある種の物質的な性質を有しており、フェロモンやホルモンのような、伝達物質として現にこの世界に存在しているのではないか、といった錯覚に陥りそうになる。というよりも、フェロモンやホルモンといった伝達物質が人間を動かし、人間はそうしたフェロモンやホルモンといった伝達物質の具現化された現象として、同様の性質を周囲の環境へと作用させるがために、そうした作用がフェロモンやホルモンといった「伝達」という性質を浮き彫りにさせるのではないか。電子や原子の集合である物質が、その性質をときに増幅させ、或いは変質させ、存在し、周囲の環境に影響を与えるように。我々人間もまた、うちなる構成物質たちの性質を、この身に宿し、似た構造体と共鳴しあうことで、繋がり合い、さらにその性質をつよめ、ときに変質させ、新たな影響を生みだしているのかもしれない。とすれば、人間の集合である社会もまた、ほかの似た構造体と共鳴しあうようにとその仕組みと輪郭を保とうと働くのかもわからない。概念や機微、言葉や物語は虚構であり、存在しない存在として扱われるが、しかしそれらは現に存在する「機構=人間」によって生みだされ、環境に作用し、似た構造体へ伝達されるがゆえに生じた現象であることに異存はなく、概念や機微、言葉や物語は、存在しない存在なのではなく、我々を構成し、機能させる種々の仕組みの性質が反映され、増幅され、ときに変質して表れた、れっきとした事象であり、そこに物質との垣根はないのかもしれない。作用とは物質そのものではなく、影響もまた例外ではない。だが作用は世界に満ち満ちており、それら作用が集合して影響へと昇華され、世界は枠組みを保ち、構造を築き、破壊し、変遷しつづけている。作用や影響を、法則と言い換えてもよい。こうすればこうなる、という流れであり、この場合はこうなる、との言い換えも可能だ。しかし法則は物質として存在するわけではない。とすれば、そもそもこの世界は、概念や機微、言葉や物語と似たようなものによってその輪郭を保っていると言っても、大きな齟齬は生じないのではないか。ともあれ、ちいさな齟齬は無数に、この世を埋め尽くすほどに生じ得る。無数のちいさな齟齬の一つをかたちづくる要素のひとつに、おそらく私がいて、そこにはきっとあなたもいる。


2309:【0.0000……】
文章の可能性はそれほど広くはない。たとえば両手のゆびを絡ませてカエルをつくる遊びがある。見たこともやったこともないひとにそのやり方を文章だけで伝えるのは骨が折れる。ほとんど不可能と言いたいくらいだが、読者のほうで読解する努力をそそいでくれれば、なんとかなりそうではある。だが、読者のほうでそこまでの読解をそそいでくれるだろう、と期待するのは、すくなくとも文芸においては致命的な瑕疵と言えるだろう。甘っちょろい、と言ってもよい。ことこれほど社会に文字の溢れた時代はかつてなかっただろう。そしてこのさき、文章の量は増えつづけていく。そうした時代にあって、文章は全文に目を通してもらうだけでもハードルが高く、読解してもらう努力を費やしてもらうのは、ほとんど奇跡と言ってよい確率だ。偶然に流れ星を目にするくらいの確率より低いと言ってよさそうだ。目にした文章をあなたがこうして読み解いているのは、それだけ文章が世に溢れていることの裏返しであり、本来であれば四六時中文章に目を走らせていたとしても、世に溢れる文章量と流れ星を目にする確率からすれば、足りないくらいだと言えるだろう。流れ星がどれほどの頻度でどれほどの数、夜空を流れているかは定かではないが、それよりもずっと多くの文章が世には溢れており、あなたはその極々一部の文章に目を通しているにすぎないのだ。奇跡的な出会いと言ってよい。ともあれ、文章に目を通すことと、読解することのあいだには、越えられない差があり、読解することと、読解したつもりになっていることの差もまた歴然として開かれている。両手のゆびでカエルをつくることを文章にして記し、他者にそれを伝えることのむつかしさを思えば、文章の可能性などと軽々しく口にできないことを理解できよう。ともすれば、この文章もまた最後まで目を通されることなく、されたとしても読解されることなく、捨て置かれる数多の文章のひとつとして、「世に溢れる文章」を構成する砂塵の一つに昇華されるのかも分からない。この文章に意味などはない。読解したところで、得られるものは限りなくゼロにちかい、チリアクタである。


2310:【カエルのつくりかた】
両手のゆびを合わせる。人差し指なら人差し指と、親指なら親指とくっつけ合う。このとき、手のひらは触れあわないように、ゆびのみをくっつける。五本すべてのゆびの腹同士をくっつけたら、こんどはそのうちの二本、人差し指と中指だけを離す。すると親指、薬指、小指の三本がそれぞれ右手と左手でくっついているカタチになる。その状態で、薬指を離し、手の甲と九十度直角になるまでしたに折る。すると「L字」の薬指が右手と左手それぞれにできる。このとき、薬指は左右、交差しているはずだ。左薬指、右薬指、どちらがうえでもしたでも構わない。この状態を保ちつつ、浮いたままの中指を薬指同様にしたに折り曲げると、ちょうど交差した薬指のうえに下りてくる。中指同士は第一関節の頭が互いにくっつき、爪と爪が触れるようになる。中指のアーチが薬指をくるっと包むようなカタチができあがるが、それがカエルの目となる。最後に、浮いたままの両手の人差し指をまっすぐ伸ばしたまま、指先だけでくっつけるようにすると、それがカエルの上あごとなり、親指と併せて口となる。カエルの完成だ。このカエルはじぶんと向き合うようにつくられるが、中指ではなく人差し指を目玉とすることで、逆向きのカエルもつくることが可能だ。この文章で伝わるだろうか(伝わらないだろうな)。できるひとのを見て、じっさいに教えてもらったほうがはるかにはやく、確実であるので、やはり文章の可能性はそれほど広くはなさそうだ。とはいえ、教わる者が誰もいない孤独な状況下では、それなりに、ないよりかはあったほうが好ましい、と言えそうだ。


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参照:いくひ誌。【1921~1930】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888736997

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