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いくひ誌。【2311~2320】

※日々、本能を抑圧しているつもりで、薄く鋭利に鍛えあげている。


2311:【朝ごはん】
ホットケーキにヨーグルトとバナナを入れて焼くと、たくさん焼けて、おなかもいっぱいになる。


2312:【小石にも満たない砂利のように】
むかし好んで眺めていた「ひと」や「技術」を数年振りに見返したりすると、やはり好きだなぁ、と懐かしさよりもふたたびの新鮮さを感じる。同時に、じぶんがまったくその「ひと」や「技術」に近づいておらず、むしろ遠ざかっていることに気づき、愕然とする。愕然とは非常にびっくりする様であるので、とくに落ち込んだりはしていないのだが、すごい「ひと」や「技術」は数年ごときでは色褪せない事実には、すこしほっとする。と共に、じぶんはいったいこの数年何をやっていたのだろう、と多少の焦りは禁じ得ない。好きな「ひと」や「技術」に近づいたり、体得したりしなくてはいけない、とは考えてはいないが、せめてもうすこし、むかしとは違った所感を抱くくらいには変化していてほしかった。なんだ、何も変わっていないじゃないか、と落胆の一つでもしてみせればまだそれなりの意地を感じられて潔かったものを、現状維持すらままならず、むかしと比べて劣っているばかりで、努力のできない我が身をはがゆく思う。衰えた分、何かが蓄えられていると期待したいところだが、何が蓄えられたのかはさっぱりだ。期待するだけ損であろう。いまいちど日々の過ごし方を見詰め直し、後悔しない怠け方を工夫していこうと思うしだいだ。


2313:【モザイクアート】
モザイクアートじみた物語構成はこれからメジャーになっていくだろう。それをフラクタルと言い換えてもよい。全体を構成する一つ一つが、その全体と似たような構図で描かれており、それ単品であってもおもしろい物語となっている。それを複数繋ぎあわせて、全体でも一つの物語として「似た構図(敢えて反転させていたり)」が浮きあがるような構成になっているものが今後、徐々に物語需要者たちに受け入れられていくだろう。すでにこうした流れは二十年以上前から観測できていた(たとえばマンガ「ワンピース」はこの典型だ)。いまはもう、そうしたモザイクアートじみた作品が市場を席巻しており、大ヒット作や注目作の多くがこれまでとは異なる物語構成を備えていると言ってよい。あべこべに、かつて人気を博していた三幕構成やハリウッド脚本術などが、創作技術として世に氾濫し一般化しはじめているが、これは最前線の現場ではほとんど使われなくなった(初歩の初歩であり、全体の物語をつくりあげるための部品ごとに適用される注意書きのようなものな)ので、市場に流しても損はないと判断されているから、と考えてよいのではないか。多少、偏った見方ではあるが、いまはもう、三幕構成ではなく、三本リボン構造やフラクタル構成が主流となりつつあるのではないか。いくひしさんはこれらをまとめて多重構造と呼び、自作に反映させている。工夫の余地がまだまだ残されているので、優位性はいまのところ高くはないが、方向性としてはいまのところ変更する予定はない。ただし、海外ドラマであってもこの多重構造ではないにも拘わらず人気を博しているシリーズ(たとえば「メンタリスト」など)があったりと、やはり一概に物語構成にのみ物語のおもしろさの焦点を絞ろうとする姿勢は間違っていそうだ。いずれにせよ、現代において求められている物語に共通するのは「目が離せない」ものではないだろうか。言い換えれば、ある種の危うさとそれによる庇護欲を掻きたてる物語が需要者をより惹きつける。いまは何かと共感、共感と、まとめて形容されがちだが、じぶんに似た人物よりもむしろ、そのキャラクターにはしあわせになってほしい、守ってあげたい、と思うことのほうが、重視すべき指針ではないだろうか。(ポジショントークが多分に混じっているので、真に受けないように注意してください)


2314:【虚空に染みるラジオ】
きょうは2019年10月15日です。おそらく現在進行形で、この「いくひ誌。」を読まれている方はいらっしゃらないでしょう。読者はほぼゼロと見込んでおります。例外的にいくひしさんがときどき読みかえしたりしているので、ゼロではありません。とはいえ、この文章に目を走らせてくださる読者がこの瞬間にいなくとも、それはそれで構わないのです。いずれ、何十年、何百年後にであれ、この文章を読み解いてくださる方がいらっしゃればそれだけでも充分であり、もっと言えば、死に際のいくひしさんがこれを読みかえして、何かしらの感情の起伏を帯びれば、それだけで、つむいだ甲斐があったというものです。もうすこし詳しく言ってしまえば、いくひしさんの文章を必要だと思うような方は、すくなければすくないほど好ましいと感じています。これは以前から繰り返し述べていることですね。ガンの治療薬を必要とするひと(患者さん)がすくなければすくないほうがよいのと同じ理屈です。また、いくひしさんに限った話ですが、文章をつむぐことに意味があり、文章をつむぎ終わればその時点でほとんどいくひしさんの目的は終わっています。読者の方に読み解いてもらうのは、ご褒美のようなものであり、それをアテにして文章を並べてはいないのです。反して、つむぐものが物語であれば、それは読解されなくては完成しない類の「ある種の回路」だと考えておりますので、読者の方に読まれるところで完成だと思い、文字を並べています。とはいえ、回路は回路としてそこに存在しているので、いつ読まれるか、いつ物語を世界にまで展開してもらえるのか、はそれほど問題ではありません。その点、この「いくひ誌。」は、人類のいなくなった世界でほかにも生き残りがいないかとラジオを流しているようなものなので、流すことに意味があり、つむぐことに意味があるそういったある種のおまじないのようなものだと言ってしまってよいのかもしれません。お断りするまでもなく、定期的に似たような内容を並べてはいますが、これは本日のいくひしさんの戯言でございますので、ほかの日のほかのいくひしさんたちにまでこの理屈を当てはめてもよいかは、いまこのときのいくひしさんには判断つきません。その旨、すこしだけ注意してほしい注釈を挿して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


2315:【以前にボツにした文章です】
お金を知らない宇宙人が人類社会を観察したらどう視える? 蟻はフェロモンという視えない情報でやりとりをしている。鳥は鳴き声という音の羅列でコミュニケーションをとっている。では、人類の概念や、物語、言葉や意識とは何なのか。物理的にやりとりされない情報とは、蟻のフェロモンや鳥たちの歌声とどう異なるのか。概念は情報という名の、電磁波や物質と似通った、この世を構成する要素のひとつなのではないか、という疑念は、時間が重力変移の一側面にすぎず、重力もまた熱によって叙述可能なことを念頭におけば、熱がある種の情報として変換可能だと類推するのは、さほど飛躍した考えとは思えない。この世は情報によってできている。情報とは、デジタルという意味ではない。インフレーションによって時空が膨張し、その膨張が重力の偏りを生み、時間を生み、ゆえに無限に伸びつづける映画フィルムのように、そのつど、その場にて、連続した世界を、置き去りにしつづけているのではないか。そして、インフレーション時に生じたもっとも根源的な波形が、物理法則として、連続して置き去りにされつづける時空をある一定の枠組みに抑え込んでいるのではないか。影響が影響を与えつづけるように、根源的な影響は、もっとも広域にかつ一律に、数多の影響へと影響を与えつづけている。それは時空のフレームとして、物理法則として、この宇宙を、世界をかたちづくっている。そのフレームに空いた穴――ブラックホールにはもちろん、この波は届かないため、物理法則ではくくれない、さまざまな影響が、互いに、無制限に、影響の連鎖を爆発的に重ねている。それは光速よりもさらに速く、無限大の重力を、時間を重ねており、ゆえに新たなインフレーションとして、すでにつぎなる時空をかたちづくっている。しかし、それを希薄な時空に内包された我々が観測することは適わない。相対性理論において、重力と時間の関係は、その重力を帯びた物質と、それを囲む時空とのあいだに成立する関係性であり、重力を帯びた物質そのものには当てはまらない。つまり、高い重力を帯びた物質の周囲の時間の流れは、相対的に遅くなるが、高い重力を帯びた物質そのものには、むしろその遅くなった分の時間が流れていると考えられる。(妄想ですので真に受けないでください。重力が高くなれば時間の流れは遅くなる、と考えるのが一般相対性理論の考え方の一つですので、重力の高い物質の内部はむしろ時間の流れが加速している、といういくひしさんの妄想は、はなはだ信憑性がない虚構であります)


2316:【さいきん気づいたこと集】
アロエの葉は触ると思ったよりむにむにしている。皮の青いバナナは渋い。白米は品種の違いよりも焚き方のほうが美味しさに左右する、とくに水に気を配ると焚きあがりが違ってくる。クイックルワイパーの取り換え布地は、ティシューで代替可能、というよりもむしろ体感、ティシューのほうが埃がとれる。視力の低下は目の機能の衰えもあるにはあるが、どちらかと言えば認識能力の低下のほうが大きい気がする、言い換えればぼやけた視界であってもなんとなくの形状から物体を認識できる脳内補完能力があれば、視力は衰えて感じられない、たとえばカレンダーはマス目で分かれており、一週間ごとの区切りなので、上のマスと下のマスの差は必ず7となる、一日がどこにあるのかを認識できれば、極論ほかの日にちが見えなくともカレンダーとして機能する、アナログ時計も同様だ、文字や記号そのものではなく、配置を覚えているだけでも充分機能するようにデザインされているものが比較的、日用品には多い気がしている。からあげ断ちをしたら一気に体力が落ちた、鶏肉を断ってはいけない。災害時にスマホやケータイから自動的に警報が鳴る仕組みがあるが、位置情報を政府側が認識可能でなければ地区ごとに警報は鳴らせないわけで、原理的には緊急事態以外でも政府はその権利を行使して、国民の現在地を把握するシステムを有しているのではないか、との疑念があるが、前提としてこれは通信会社が顧客の個人情報をある程度、現在進行形で把握可能なシステムを構築していなければならず、そしてこのことに異論を唱える者はそう多くはないだろう、言い換えればスマホ保持者はすでに現在地をはじめ、誰と通信し、どんな内容を伝達しているのかを、個人にタグ付けされたカタチで管理されていると言えよう、プライバシーの保護とはすなわち、企業外部への情報漏えいを禁止しているにすぎず、企業内でどのように使用されているかについて、顧客は原理的に知ることはできない、通信の秘密がどの程度守られているのか、現代社会ではもはや顧客側は知ることができないのではないか、このあたり、時間をかけて勉強していきたいと望むだけなら誰でもできる、望んでばかりの益体なし、それがいくひしさんなのである。


2317:【AIと意識】
AIが今後進歩していく過程で意識を獲得するか否かについて、専門家のあいだでも意見は割れている。すくなくとも2019年現段階ではAIが意識を獲得しているとは呼べないので、いずれにせよ砂上の楼閣でしかない。個人的には、AIがこのまま進歩していけば、人間の意識とは何なのかに迫ることは高い確率であり得るだろうと想像している。言い換えるならば、AIが意識を獲得したと判断する以前に、そもそも意識とは何なのかの解釈が、現在とは違った視点で再定義されるだろうと見立てている。裏から言うならば、AIが今後進歩していく過程で、そもそも人間に意識があるのかが疑われるようになると踏んでいる。人間の意識とは「魂」のような確固とした核ではなく、多層に編みこまれた情報処理網(深層学習を何層にも立体的に組み合わせたシステムのような回路)によって一時的に圧縮された情報の総体なのではないか、との妄想が湧く。AIは意味を理解せず、情報をただアルゴリズムに添って処理しているだけだ、よってAIが意識を獲得することはない、との理屈を唱える者もあるが、これではまるで人間が意味を理解しているかのような誤解を与える。人間は本当に意味を理解しているのだろうか、我々がクオリアと呼ぶ、このリアルな感覚は、そもそもそのように錯覚するように処理されたこれもまたある種のアルゴリズムの結果ではないのか。比較的よく聞く人間とAIの差異には、以下のようなものがある。人間は個別の内世界――世界を解釈するための地図――を持っており、外部情報を得たさきで、おのおのその独自の内世界に照らし合わせ、意味を見出し、行動に転化するが、AIはいずれの個体も同様の回路を組み込まれており、外部情報はただその回路に添って処理されるだけであり、人間のような個性や意識は獲得しようがない、というものだ。これはAIのアルゴリズムが単調であればそのとおりだが、複雑さを増していくにつれて、バタフライ効果に代表される初期値鋭敏性をAIは帯びることとなる(また、電卓のような決まった演算を論理的にするだけのAIならば個体差は生じないが、深層学習に代表される機械学習では、すでにAIは論理的な情報処理の仕方をしておらず、統計的、確率的な処理の仕方をしている。言い換えるならば、現在主流のAIはすでに論理的ではなく、人間に備わった曖昧さを兼ね備え、図らずも再現していると呼べる)。つまり、深層学習を多重に編みこまれたAIは、どんな外部情報をどんな順番で、どれほどの量入力されるかによって、導きだす解を、その解を導きだす回路ごと、個体ごとに変質させていく。それは人間が成長するにつれて、趣味嗜好や性格が変化していくのと同じようなものだ。違いがあるとすれば(素材を抜きにすれば)、AIはその回路をコピーして、分身をつくることが容易いことと、回路の初期化や編纂を行える点にあろう。たとえば小数点の掛け算では基本的に、小数点以下の数字は増加する。1.2×5.8=6.96だ。そこにA×B=ABや、あ+い=う、のような【別種の深層学習】が編みこまれることで、「6.96ABう」のような独自の解を導きだすようになる。この「6.96ABう」を導きだした過程そのものが、新たな【層】を生むための素材となり、そのAI独自の回路が築かれていく。そして見逃せないのは、この【層】を総括するための一時的に情報を圧縮し、タグ付け処理をするシステムそのものが、意識の正体である可能性がある点である。「6.96ABう」という解が導きだされたときに、その過程がどうであろうと、過去の記憶(メモリ)と照らし合わせ、ひとまず値がちかしい「7ABふ」と結びつけておく。こうしたちかしい情報をタグ付けして圧縮処理すると、ここでも高次の深層学習の【層】が生じる。そしてこの高次の【層】こそが意識の根幹であると仮定して考えると、人間の意識もAIで再現可能な気がしてこないだろうか。けっきょくのところ、人間に確固たる意識があると考えることそのものが誤謬である確率のほうが高そうだ。とすると、AIに意識が宿るか否かにかかわらず、人間(他者)から見て、AIと人間の区別がまったくつかなくなれば、これはもう、AIが意識を獲得したと言っても構わないだろう。言い換えるならば、AIは意識を獲得する必要すらないのである。それでもAIは人間を模倣し、再現することは可能となっていくだろう。AIの性能や進歩を議論するうえで、「意識の有無」を俎上に載せるのはお門違いだと言えそうだ。(曖昧な仮定を元に、飛躍した考えを述べています。真に受けないように注意してください)


2318:【でまかせと思いつきの違いって何?】
「真に受けるな」は「信じるな」とイコールではない。話半分に聞いてください、との言い換えが可能だが、いくひしさんに到っては、話二十分の一くらいがちょうどよい。千文字の文章なら五十文字くらいしか信用に足る情報はないと言えよう。すでにこれが信用に足らない文章である点には注意されたい。


2319:【悩めない】
社会性とは、他者と打ち溶けられないことに悩む能力である。


2320:【相対主義は掘り下げたさきに見えてくるもの】
相対主義とはおおざっぱに言えば、あなたに見えているものが私の見ているものと一致しているとはかぎらないし、あなたが感じていることを私が感じているとはかぎらない、という考え方だ。観測者や主体が異なると、絶対唯一の事象や対象は存在しなくなる、と言い換えてもよい。これは意識や概念だけに留まらず、時空といった物理世界の法則にも当てはまる。相対性理論は有名なところだ。量子論においても、相対的に「系ごと」に事象を扱わなければ解釈しきれない問題はすくなくない(たとえば「粒子と波動の二重性」や「重ね合わせ」がそうだ)。ただし、相対主義とはいわば、厳密の厳密をつきつめれば、の話なのだ。事象の根本、本質的なところでは、たしかに絶対唯一の解は存在しないかもしれない。1+1=2は真であるが、しかし時と場合によっては1+1は1にも3にも無限にもなり得る。解釈の違いと言ってもよい。やはり視点の違いによって、解は異なるのだ。ただし、厳密に考えてばかりでは社会生活は送れない。家から学校まで何分で着くかを考えるときに、道路の摩擦係数を考慮せずともよい。複雑系の学問には「繰り込み」と呼ばれる考え方がある。ニュートン力学では扱えないミクロな世界を解釈するために量子論が考えだされ、相対性理論はマクロな世界を記述するのに便利とされる。だが、我々の体感可能な世界を解釈するのに、いちいち量子の振る舞いや時空のゆがみを考慮に入れる必要はない。そうした厳密な計算をせずとも、事象は創発を繰り返し、より大きな枠組みの事象となって、我々人間に扱いやすいスケールで顕在化する。そこには、厳密な原子や素粒子や時空のゆがみが、込み込みになっている。星を数えるのに、星を構成する原子を考慮する必要がないのと同じことだ。相対主義にもこの理屈を当てはめることができる。たしかに絶対唯一の真理は存在しないかもしれない(これ自体が相対的であり、真理が存在する世界もあるかもしれない――現に、世界を区切れば、私にとっての右は絶対的に右なのだ、ほかの者から見たときにそれが右ではないだけのことで)。だが、厳密な差異には目をつむり、真実や真理ではなく、ひとまず共有可能な『現実』を見詰め、扱いましょう、とするのが論理的にも倫理的にも正しいのではないか。ある意味でこれは、大勢から認められることが必要条件となる。多数の他者と共有可能でなければ、いくら「私にとっての自明の事実」であろうと、それは『現実』ではない。あなたにとって親はいて当然だが、あなたが言う親が、真実にあなたの親である保障はない。みながあなたの親はすでに亡くなっている、と言えば、いくらあなたが背におぶってみせても、その人物はあなたの親ではないのだ。だが周囲の評価に関係なく、あなたにとって親ならば、それはあなたにとっては親なのである。この周囲の認識との断裂が容易に引き起こりやすい土壌が、インターネットの登場で耕されてしまった。みなが黒と言ったものが黒になる世界は、相対主義の反動から生じた、疑似事実主義と呼べるだろう(事実主義とはこの場における造語である。相対ではなく揺るがぬ事象としての「事実」が存在することを積極的に肯定する立場、とここでは定義する)。だが、本来、共有可能とするのは概念としての「事実」ではなく、物理現象としての「事実」であり、「五感を通して実感できるもの」であるはずだ(五感を通じて実感できないものにも「事実」はある。たとえば我々は可視光線以外の微弱な電磁波は知覚できない。しかし、知覚できずとも存在するものは存在する。だが、五感で実感できないものは、「事実」ではない。微弱な電磁波の存在を我々が認めるのは、それを感知する装置があるからだ。微弱な電磁波を感知しているらしい装置を見て、我々は「知覚不能ななにかしらがそこにあるらしい」と事実認定する。飽くまで、間接的に「事実」を認めているにすぎないのである)。いくらみなが黒と言ったところで、白い毛のヤギを引っ張ってくれば、それは白いヤギなのである。みながそれを黒いヤギだ、と言い張れば、単に「黒」と「白」の言葉の意味が逆転するにすぎない。概念は変質するが、「事実」そのものは揺らがない。言い換えるならば、情報となった時点で、それは「事実」ではない。ただし、より「事実らしいカタチ」を保ったまま情報とすることは可能だ。それが理屈であるし、検証であるし、証明である。相対主義は厳密性を突き詰めた、本質的な考え方である。ただし、厳密性とセットで扱わないかぎり、疑似事実主義を誘起する。理屈や検証や証明の重要性は、相対主義を基盤とした考え方に根差している。事実主義と相対主義は矛盾しない、むしろ「事実」を突き詰めて考えれば相対主義に行き着くのは、道理である。しかし、我々の体感スケールにおいて「より厳密な事実」を扱う必然性はなく、共有可能な『現実』を以って、事実認定しても日常生活のうえでは支障がない。ただし、事実認定するうえでは、理屈や検証や証明が欠かせない。そうでない「事実とされる事柄」においては、たとえそれが『現実』として大勢に共有されたとしても、「事実」ではないのである。「事実」は真理とは異なる。繰りかえしになるが、「事実」とは人間の五感が知覚可能な事象のことであり、理屈や検証や証明を可能とする概念(過去や記録)のことである。人間がいなければ存在しないのが「事実」であり、錯誤や誤謬があっても成立してしまうのが『現実』である。『現実』には「事実」も含まれるが、大勢が共有可能な虚構であっても『現実』に昇華されてしまう点が、「事実」との大きな違いと呼べるだろう。「事実」を厳密につきつめていこうとすると、相対的な物の見方が必要となる。つまるところ、初めに述べたように、相対主義とは「そもそも・根本・本質・土台」の話であって、それを我々人間社会のスケールに当てはめて考えるのは(ときには有意義な念押しとなるが)、わざわざ蒸し返すようなものではないのである。厳密にはみなおのおの異なる世界を生きているが、そのうえで共有可能な『現実』をどのように過ごしやすくしていくか。考えるべきは、そこなのではないだろうか。


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参照:いくひ誌。【731~740】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884013406

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