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いくひ誌。【731~740】

※日々尋常に公開していく後悔のおかげで人生が順調に難航していく。


731:【没入感】
幼いころから映画が好きだった。読書感想文の題材に「海の上のピアニスト」を用いていたほどだ(本を読むのがめんどうだったからではないの?というご指摘には、なにごとも否定をせずに可能性を認めるのが懐の深いヘンタイのたしなみである、と応じておこう)。映画好きなわりに、いっぽうでは映画館で映画を観たことは数えられるほどにしかない。数えてみよう、イチ、ニ、サン。三回だ。PCを手に入れてからは、TV画面で観ることもなくなった。なぜか? いくひしは、ちっこい画面のほうが映画に没入できるからである。イヤホンをするのも忘れてはならない。なるべく邪魔の入らない場所で、薄暗いとなおいい。没入感に必要なのは、臨場感を生みだすためのセットではない。じぶんを捨て去ることのできる空間である。創作もまた然りだ。


732:【ふしぎ】
生命はなぜ誕生したのか。物質ばかりの世界に、なぜ自己増殖する機構があらわれたのか。考えれば考えるほどふしぎで、あたまかがクラクラして、なんだか世界がドラマチックメルヘンにキラキラしてくるものの、でも待って。ほんとうに生命は誕生したの? ほんとうにここは物質ばかりの世界なの? ひょっとしたらもとから生命が溢れているのが真相で、ただそれを人類が知覚できないだけじゃないの? むかしからひとは妖精や神を自然と結びつけて考えてきた。科学が発展してそれらは荒唐無稽な夢物語だと捉えられるようになった。でもほんとうは、そっちが本質にちかいのかもしれなくって、人類が生命と呼ぶものは、すべてではなく、あらゆる生命によってかたちづくられた世界に生じた、ちいさなちいさな気泡なのかもしれない。だとしても、じゃあそのちいさなちいさな気泡はどうして誕生したの?って疑問は残るから、べつに本質がどうであっても、やっぱり考えれば考えるほどふしぎで、あたまがクラクラして、なんだか世界がドラマチックメルヘンにキラキラしてくるなーって、べつに思わなくても世界はたいして変わらない。


733:【最先端】
しょうじき言うと、いくひしはもう時代遅れだ。時代に追いつかれてしまった。時代の加速度は思っていた以上に高く、旬はもうすぎている。古典だと言っていい。否、古典にすらなれなかったデキソコナイだ。最先端を目指したが、けっきょくじぶんの足場を崩すことはできなかった。落下してしまえば、舞うことも飛ぶことも差異はないというのに、落ちることもできずに、ただ分厚い岩盤を足場に、奈落の底にいる。いくひしが時代を変えることはもうないだろう。そういう気概もなくなってしまった。しかし、いま最先端を駆け抜けようとしている若い芽の堆肥となってやることはできるはずだ。いまの時代を打ち壊す今を懸命に足掻いている者たちの苗床となろう。そのためにはさいていでも十年の年月は必要だ。熟成しない土地に種は芽吹かない。朽ち果て、それでも不毛に腐りつづける残滓が豊かな養分を蓄えるのである。


734:【サイレンサー】
気配を消す。しずかに勢力を拡大し、一気に陣地を掌握する。なにごとも大声を張りあげるやり方は賢くない。反発を生み、摩擦を生む。その反発や摩擦を狙って声を張りあげるやり方は、一時的には効果があるが、そうして得られた利は信用と等価交換だという原理を覚えておいたほうがよい。しずかに、着実に世界を侵食していく。なにごともこれ以上の方策はない。


735:【寛容主義】
考え方にもいろいろある。主観の数だけ世界がある。これがいわゆる相対主義だ。それを踏まえて、じぶんの主義主張はじぶんで守るもので相手に押しつけていいものではない(だから相手の主義主張も認めましょう)、というのが寛容主義である。乱暴にまとめてしまったが、そういうこととしてここでは話をすすめる。寛容主義でよく指摘される、「寛容主義が正しいとして、だとすればその寛容主義だってひとに押しつけちゃいけないんじゃないの?」というものがある。たしかにそのとおりだ。寛容主義を支持しないという主張も、寛容主義にのっとるならば認めなければならない。しかし、認めることと肯定することはちがう。肯定せずとも許容することは可能だ。もっと言えば、寛容主義の根幹は、相手の言い分を排除せずに、まずはそれを全否定せずにいられる道はないのか、という視点に立つことにその本質がある。言い換えれば、じぶんの意見に穴はないのだろうか、相手の意見に一パーセントでも新しい発想、じぶんにはなかった視点はないだろうか。そういう受け止め方で、世界を視ていきましょう、というところに、寛容主義の本領がある。他方で、寛容主義を認めない「じぶんの意に沿わない意見は排除する」というような主義主張を許容すると、寛容主義そのものが滅びる、という反論もある。そのとおりの事態になる可能性は否定できないが、寛容でいられないじぶんであるならば相手を尊重したさきに滅んだほうがマシだ、とする考え方は尊ぶべきひとつの生き方ではないだろうか。むろん、それを他人に押しつけてはいけないのは、言うまでもない。もっとも、寛容主義は飽くまで、主義主張の自由を尊重しましょう、といってるだけにすぎず、じっさいに目のまえで「他人を迫害し、踏みにじり、傷つける」ような真似を黙って見過ごしましょう、という考え方ではない。そこを混同して解釈してしまうと、寛容主義は思考停止に陥ってしまうので注意が必要だ。また、寛容主義が正しいわけではない。飽くまで、可能なかぎり無駄な衝突をせずに、議論を展開できる場を築いていこうとすると、こうした考え方がもっとも効率的だ、というだけの話である。何か一つの主義主張に還元できるほど人間社会は単純ではない(ような気がするのだけれども、じっさいのところ、どうなんでしょうね)。


736:【裏世界ピクニック】
宮澤伊織さんの小説「裏世界ピクニック1巻」を読んだ。おもしろい。読みやすい。おもしろい。学級文庫にこういう本があったらいくひしはもっとはやくに本好きになってただろうなぁって思うくらいおもしろかったです! 怪談風味ですがあまりこわくなく、冒険譚として一級品なので、ぜひとも本嫌いなお子様、とくにそとで活発に遊ぶタイプのお子様にプレゼントしてみてはいかがでしょう。


737:【エビフライエフェクト】
エビフライを食うやつの気がしれねぇよ。エビの背が曲がってやがるからハリケーンなんつって大気がウゴウゴ渦を巻くんだ、エビさえいなけりゃ環境問題なんざちょちょいのちょいで収まっちまうよ、化石燃料の正体なんざ太古のエビの死骸だろ? いっそ今からエビだけ死にます毒でもバラまいて化石にしちまえばいいんだよ、燃料だよ燃料、遠慮なんかしねぇでいいんだよ、だってエビだぜ? 海鮮類の王様を気取ってやがるが、あいつら住んでる場所が海ってだけで、虫の仲間だぜ? なんだってみんなしてあんなゲテモノを好きこのんで口に運んで、噛み噛みできんのかねぇ、うー、想像しただけで寒気がするぜ。刺身はまだ理解できる、殻を剥いで、中身のトローリ甘いとこだけすするわけだろ、背中側のハラワタだってきれいに取れるし、まぁ、なんとか虫らしさが薄れるわけだ。お、知らねぇのかい、エビは背中にハラワタがあるんだぜ。だからエビの場合は背ワタっつんだけどな。え、おい。エビフライのほうが生じゃないだけマシじゃねぇかって? バカ言ってんじゃねぇよ。なんだってわざわざ殻みたいなコロモをカリカリくっつけなきゃなんねぇんだよ。カブトムシを生で齧ったときと同じ食感がするだろ、え、齧ったことあるのかって、あるわけねぇだろ、想像だよイマジネーションだよ生真面目ヴィジョンだよ。じっさい同じに決まってんだろ、エビフライなんぞ虫を齧ってるようなもんだ、ようなもんだじゃなくて、虫を齧ってんだよ、うー、やだやだ。気色わるいったらないね。増税だの改憲だの言ってる前にまずはエビフライの禁止を掲げてほしいね。エビ漁禁止にしたいくらいだが、そんなことしたら海にエビがウヨウヨ増えるだろうに、そんな真似はさせねぇよ? いっそ毎日エビフライを食べましょうキャンペーンでもはじめりゃいいんだ。エビを食らい尽くして、絶滅させりゃあ、エビフライだってこの世からなくなるってぇ寸法だ。え、なんだい。そんなことをしたら生態系が崩れるって? しんぺぇすんな、エビの代わりにゃぁカニがいんだろ、カニさんはおいちゃん大好物だからな、エビの代わりにポコポコ増えりゃいい。おう、なんでぇい。カニだってコロモまとえば虫じゃねぇかって? バカ言ってんじゃねぇよ。カニはいいぞぉ、なんたって脚がメインだからな。エビとちがって、胴体じゃねぇってんだから、仮に虫だろうがそこまで気色わるいことにゃぁならねぇぞ。カニの話はいいんだよ、エビだよエビ。もうね、いっそエビってぇ名前を変えたらいいんじゃねぇかな。だいたいABCDいーえふじーってな具合に、エービーなんつって気取ってやがるところからして気に食わねぇんだ。なにがエービーだ。アホか。あいつらなんぞ、虫でいいんだ、虫で。虫フライだぞ、いってぇ誰が好きこのんで食いたがるよ、誰も食わねぇだろ、ちがうかい? いっそ蜘蛛でも蛾でも、好きなように呼んでやりゃあいいんだ。ゲジゲジとか、ゴキブリとか、そういうのといっしょでいいんだよ。えぇ? そんなこと言ってるとお叱りを受けるだぁ? ふざけんじゃねぇよ、だったらなんだよ、カブトムシとでも呼べばいいのか? クワガタフライって呼べばかっこいいのか? えぇおい、冗談じゃねぇよ同じじゃぇか、食いたかねぇだろ、カマキリフライとか食いてぇか? もういっそ、まいにち虫フライを食べましょうキャンペーンなんかやりゃいいんだ、世のなかの虫という虫を食べ尽くして、バグズライフにバグフライを失くしたいし、エビを食べずに楽したい。カニはいいのかって、カニはいいんだよ、虫じゃねぇんだよ、いっしょにすんじゃねぇよ。カニはバグじゃねぇし、おれはバカじゃない。バカフライもいっそ食べ尽くしちまえばいいんだ、そうすりゃエビなんてゲテモノを食べようなんて酔狂はいなくなんだろ、ってそしたらエビはいなくならねぇだろって、食べ尽くすにゃバカゆらいの大食らいがいないとお話にならねぇだろって、んなことおいちゃんにゃぁ関係ねぇのよ。虫なんぞいなくなっても植物は風さえありゃあ受粉し放題、蜜を吸いに集まるハチにハエにバタフライ、もろもろ羽虫にイモムシ、コガネムシ、エビと共にいなくなっても困らないのは、生態系の柔軟性のなせるわざだよ、ええおい、カニはだからいいって言ってんだろ、カニさんはいいの! 断固許可する! いっそ虫はぜんぶカニでいいな。すべての虫はカニになればいい。おいちゃんが許可する。カブトムシもイナリズシもナプキンもぜんぶがぜんぶカニになれば、美味しい晩飯に困ることはないのになぁ! えぇおい何が言いたいのかハッキりせいよってか、いいか、何度も言わせんじゃねぇよ、とにかくエビフライなんぞなくていいんだよ、食らい尽くしちまえばいいんだよ、いいから持ってこいよ、ほかのお客さまの分がどうのこうのと、んなこたぁどうでもいいんだよ、おいちゃんが責任もって食らい尽くしてやるっつってんだから、なにごともトライなんだよ、アイキャンフライだよ、あらんかぎりのエビフライを持ってきなさいよ、大好物じゃないかって、えぇいいかげんなこと言ってんじゃねぇよ、エビなんて嫌いだよ、エビ嫌いだよ、エビフライ嫌い!


738:【うちの娘のエクレアとスーさん 】
突発で息抜き日になってしもたので、2017/9/13は大型書店さんに行って、ひごろ手に入れられない本たちをそろえてきたよー。「うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。」の1巻と2巻をにゅうしゅしました。あとはねー、百合アンソロジーの「エクレア2」をようやくげってぃんぐハッピーしたので、われはたいそうほくほくじゃ。立ち読み冊子があったやつ読んだらおもしろかったから「昴さんとスーさん1巻」もお持ち帰りしちゃった。なんかさいきん、ショタものが多い気がするなー。「私の少年」のヒットにあやかってるのだろか。あやかってほしいぞ。どんどんあやかってほしい。おねショタはもはやイチ時代をきずきはじめておるぞ。ショタのよさに世が気づきはじめておるのだ、えーい、おばショタも増やしてくれてもよいのだぞ、われが許可する。


739:【先進×先見=新鮮×顕然】
傾向として、時代を先取りするよりかは、いまの時代にあったものを提供していくほうが需要者に歓迎されやすい。百年後に風靡するシステムを開発したところで、現代人がそれを使いこなせるかは疑問だ。時代の先取りは言うなれば、飛躍であり、発想のワープである。人間は事象を線で繋いで認識するため、飛躍したアイディアには及び腰な反応を示す性質がある。時代を先取りするにしても、商業的に成功したくば、一歩先くらいがちょうどよい。ならばなぜ彼はそうしないのか。一つは、ほかの商品群に比べて小説はその賞味期限が長い点が挙げられる。時代を越えてこそ真価が発揮される媒体だと言っても過言ではない。一を踏まえての二つ目となるが、けっきょくのところ時代を先取りしていれば、いずれ時代のほうがかってに追いついてくる確信があるためだ。一歩さきの未来を先取りしたところで、時代の流れの加速している現在、すぐさま魅力が風化してしまう。風化したのちに古典化し、普遍性を得ることもあるかもしれない。しかしそればかりは、狙ってできるものではない。よって、なるべく先の未来を見据えて物語を編んでいくのが、長期的にみて有利に働く。短期的には不利かもしれない。しかしいずれ、短期的な視野だという時点で、小説としては不利なのだ。ならば、端からそこを狙わずに、現在の流行は成分としていくつかパラパラと含ませるくらいがよいだろう。時代がすすむごとに彼の作品群は魅力を増していく。これは初期作から延々と籠められつづけた狙いである。段階的に魅力が増すように、複数の先取りを練りこんである。長いものでは百年後を見据えている。短いものでは、一年後だ。思いのほか時代の流れが速いため、さいきんでは半年後には先取りした変化が訪れることが増えてきた。時代の加速度そのものが加速しているのが現状であるようだ。ちなみにそれらは未来予測ではない。先取りである。すでに起きているが、広く認識されていない事象を視ているにすぎない。――なーんてうそぶく人間モドキの言うことは信じちゃダメだぞ☆


740:【加速度の加速】
加速度は増えるのであって、速くなるものではない。しかし時代の流れにかぎっては、加速度は加速するのである。たとえば原始人の時代では一人が一生に触れる情報量は新聞一部よりもすくないという話がある。真偽は不明だが、言葉を生みだし、文字を発明し、印刷技術を普及させ、デジタル通信が可能となった人類史を鑑みれば、時代ごとに人間の触れる情報量は格段に増えたことは想像できるだろう。情報量の増加は、生産性の増加と正比例している。十年前の人間が一日で担う生産量は、現代人と比べて何十分の一だろうか。いま現在我々が一日でこなしている生産作業を百年後の人間は一分で完了するだけの技術を手にしているかもしれない。或いは、そんな仕事をする必要すらなくなっているだろう。現に我々は多くの生活労働を機械によって代替してもらっている。或いは、職業として他人に代わりに担ってもらっている。分担しあっている。そうした個々人の生産性の向上は、社会全体での変化の軌跡を鋭角に上昇させる。変化の速度が増していくだけでなく、その増すスピードそのものが加速していく。時代の流れにかぎっては、加速度もまた加速するのである。


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参照:いくひ誌。【231~240】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882083997

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