※日々無駄な努力を重ねてる、ならばそれは努力と呼ばないのでは、とあなたは言うが、私にそそがれぬ恩恵なれど、いずれ誰かが受け取るならばそれも一つの成果である、私にとっては無駄なれど。
741:【不滅のランウェイでカードキャプター】
2017年9月15日は「不滅のあなたへ4巻」「ランウェイで笑って1巻」「カードキャプターさくら:クリアカード編3巻」の三冊プラス小説一冊を買ってきたぞ。不滅のあなたへは、いくひしがつくりたいと思ってた冒険譚のカタチにちかくて興奮と嫉妬のないまぜ螺旋構造やーって感じだ、うん。いくひしの小説「この女、神」にちかいテイストなんじゃないのーって思った(露骨な宣伝)。じつはむかし18万字までつむいで途中で投げ出したままのタイムスキップ物(誤字ではない)の冒険譚がありまして、それもまた似たような感じで、いくつかの舞台を高速で展開していくつくりにしたのですが、余裕ができたらいつか完成させて更新しますね。いずれもどことなーく筒井康隆さんの小説「旅のラゴス」を彷彿とします。不滅のあなたへ、かなりおすすめの漫画です。すごいぞ。ランウェイで笑っては、いくひしが眺めてるツイッターで、むかしから注目してたライターさんがおもしろい言うてたので買ってみました。じっさい読んでみたらおもろいなーおい。くだんのライターさんはいくひしが「局部怪奇譚」をつくったときに参考にした記事を書いてらして、じつはその前から(かってながらに)ちょっとした接点が(一方的に)あったので、観測対象にしていました。去年の終わりごろ親戚がインタビューされてたりして、なかなかに世の中の狭さを実感できておもしろいです(余談です)。カードキャプターさくらは、言わずと知れたクランプさんの名作で、クリアカード編はその続編、まさに待望のといった感じです。いくひしの場合、クランプさんの作品を初めて買ったのは、四月一日(わたぬき)が主人公の「XXXHOLiC(ホリック)」でした。例に漏れずアニメから入ったにわか雨でして、当時、たしか涼宮ハルヒの憂鬱が同じ時期にアニメ化していたように記憶しております。いくひしがハルヒにハマったのは、それから数年後のことでしたが、ホリックのED「Reason」は未だに名曲だと思います。いくひしは生まれてこのかたCDを購入したことが二回しかないのですが、そのうちの一枚ですね。しかも初めてアマゾンを利用したときの買い物です。すごいぞ(すごいか?)。さいきんおもしろい物語が多くてうれしいです。代わりにいくひしのつまらなさが浮きぼりの釣り堀で、天然物のスゴミをたくさん感じてます。いいんです。いくひしがつまらないのはいまにはじまったことではないので。いくひしがつまらなくても、いくひしのつむぐ物語がおもしろければよいのです。おもしろければ、そう、おもしろければ……。はーい。新作は来週更新予定です。未来のいくひし研究家のためにその旨ここに記載しておきますね。では!
742:【星明かりルート考える】
二〇一七年九月一六日に買った本は四冊で、「星明かりグラフィクス 1巻」と「ルートエンド2巻」と文庫&新書でした。星明りグラフィックスはまるでいくひしのそとのひとがイメージするいくひしみたいなコが主人公でした。みなさん、あれがいくひしです。あれをイメージしてお読みください。基本的にいくひしは何か本を紹介するとき、おすすめするとき、これおもろいよーってするとき、とくに中身には言及しません。評論家ではないからです。そういうのは読んだひとのなかに芽生えるものがすべて、他人の感想なんて大したものではないのです。参考にされたらたまったもんじゃねぇです。いくひしの感想に参考にする価値はないのです。なぜならいくひし、評論家ではないので。はい。星明りグラフィックス、おもしろいです。要チェックや。つぎはですね、えーっと、ルートエンドですね。これはですねー、殺人鬼を追う、被害者家族と刑事の話になりますかな。なりますね。はい。さっそく中身に言及しちゃいましたね。いい加減なやっちゃのーと呆れてくれても致しかたなし。形なしで、いと哀し。じつはですねー、刑事さんは女のひとなんですがねぇ、ああいうひと、タイプです。はい。以上。おもしろいですがおすすめするまでじゃないなーってのは、なんだろ、んー、よくわからんのですが、むかしのマンガで「デス・スウィーパー」ってのがあるんですよ、あれもルートダブルもどっちも特殊清掃員が主人公という共通項がありまして、なんだろ、んー、おすすめしないでもいいかなってのは、たぶんそこのところに関係していて、ようは、おすすめしなくとも、そういうのが好きなひとはどうあっても手にとるでしょ、放っておいても、とつよく感じるからなのかなーってのはあると思う。もうね、いっそすすめたら、すすめただけ手に取る機会を奪っちゃう予感めいたものがあるわけですよ。要するに、おすすめする必要のないくらいおすすめですってことです。わかった? はーい。残るは文庫本と新書の二冊。まだ読んでないので感想はなしです。よっぽどおもしろかったらおすすめします。マンガよりおもしろかったやつだけおすすめします。負けとるぞ、文芸! うぐー。やまびこみたいに跳ね返ってきていくひしのこころを貫いた。ばったんきゅー。ひんし。では!
743:【たいふーん】
台風、たいへんですね。自然の猛威はもういいです。いくひしは基本、おそとへトコトコするときは自転車なので、キコキコするとヌレヌレになるお天気はイヤイヤです。そういうわけで昨日は息抜き日にしまして、書店さんにも行かず、家のなかで本を読んでおりました。息抜きばかりなのでそのうち酸欠になっちゃうかもしれませんね。さいきんは差別について考えてます。考えてますというか、差別の恩恵は到るところにじつはあるんじゃないのかという点を考えていて、差別はいけないことだとか、差別なんてしていない、なんて言ってる人たちも、暮らしのなかで差別による選別の恩恵を受けているように思うのです。たとえばですが、学校のクラス割がありますね。義務教育まで、すなわち小中学校までは、学力や問題児がひとクラスに偏らないようにと、バランスよく児童が振り分けられています。おなじクラスに優等生ばかりが集まらないように、または問題児ばかりが集まらないようにするわけですね。ところが特例がありまして、それが特別支援学級など、なにかしら障害を抱えた児童たちを集めたクラスです。これは差別ですか? それとも区別ですか? 差別でないとするならば、あなたは(またはあなたのお子さんは)そのクラスに編入することになって、なにか反発はありませんか? 抵抗はありませんか? その制度の良し悪しを論じているのではありません。それも一種の差別ではないのか、といくひしが疑問に思っているという点が言いたいのです。必要な制度でしょうし、特別クラスに振り分けられた児童からしても、そのほうが助かるのかもしれません。理系と文系を分けるのに似た選別なのかもしれません。しかし差別に貴賤があるのですか?(あるようにいくひしには視えます) 区別によって不利益を被らなかった場合は差別にならないのですか?(区別によって相手を下にみる、といった蔑視の価値観が生じるケースがすくなくないように感じます) たとえば義務教育を終えたあとの高等学校では、それまでの小中高とはあべこべに、優秀な生徒だけを集めたクラス、または問題児ばかりを集めたクラスというのが編成されます。受験を控えた三年生になるとその傾向は顕著に観測されます。いかがですか? 心当たりはございませんか? それは差別ではないのですか? 区別ですか? 朱に交われば赤くなるように、そうした区別は階級を生み、学力差はどんどん開いていくように思います。また、差別をよしとしない教員たちが、児童の住んでいる地区を槍玉にあげ、あそこは暴力団や夜の仕事、移民の多い地区だからなぁ、などと児童の問題を親の人種や業種で測るような言動を繰り返しています。もちろん公にそのような言動はしないでしょう。ですがすくなくともそのような区切りを以って、児童を見ている教員はいるわけです(なぜなら職務上必要な分析でもあり、ときには虐待などの早期発見にもつながることがままあるからです。つまり、傾向として、親の職業や住んでいる地区と、児童の問題点はある種の相関関係にあるということを、教員は経験上知っているわけですね。もっともそれは飽くまで相関関係であり、因果関係ではないという点は注意が必要です)。それは区別ですか? 差別ですか? そしてそれら区別によりいつでも「高等」なクラスに属し、ほかのクラスや同級生を眺め、アホだなぁあいつらは、と嘆いてきた人々に、差別の是非をどうこう言える義理はありますか? 誰より差別の或いはそれに類する区別の恩恵を受けてきた彼らに、差別はいけないことだと、まるでじぶんが差別とは無縁だとでもいうような言動をとることに不自然さを覚えませんか? 覚えないのならばよいのです。この話はそこで終わりです。ですがもしすこしでも違和感を覚えたのならば、まずは自身にこう問うてみてください。わたしは差別をしていないのだろうか、と。区別によって他人に上下の価値観を付与してはいないのか、と。いくひしの関心事はいつも、ふよふよとそらを漂う雲みたいに都度、かたちを変えておりますから、あしたには、何言ってんだこいつ、ときょうのいくひしのこの記事を読んで、あほだなぁ、こいつ、と嘲笑うのです。いくひしはいつでも、ほかのいくひしをみくだし、笑い、蔑んでいるのです。いくひしは差別の塊です。
744:【上達】
何かをできるようになる。むかしのじぶんより上手くなる。でも周りを見渡してみると、じぶんより下手だった人がじぶんと同等かそれ以上に上手くなっていて、上手かった人たちがもはやどれだけ努力しても届かない領域にいる。まるでじぶんだけが取り残されているように感じる。たぶん本当に取り残されているのだ。それでも続ける意味はあるのか。なぜそれを続けるのか。よく分からない。ただひとつ言えるのは、べつに彼らのようになりたいわけではないということだ。俺の理想はそちらにはない。ただし、悔しいので、彼らの必殺技くらいは軽々こなせるようになっておきたい。たぶん、それだけならば可能だ。
745:【新人賞】
出版社の新人賞に応募することの意義は人それぞれであるにしろ、意外と知られていないのは宣伝としての効果があることだ。受賞せずとも応募リストに載るだけで宣伝効果がある。一次選考を抜けたらそれだけでリツイート数千件分の効果はあるだろう。なるべく一貫性を持たせたタイトルをつけていると検索される確率があがる。じっさい、いくひしの場合だと、新作よりも旧作のほうが作品のPV(読まれている回数)が増加傾向にある。偶然かもしれないが、応募時とタイトルを変えている旧作もまたPVがすくない傾向にあることからも、何かしらの相関関係があることは推して知れよう。受賞するか否かにかぎらず、応募するだけでも何かしらの意味がある。悩むくらいならば応募してみるのも一つではないだろうか。
746:【名作の条件】
受容したときにどれだけ感動したかは名作か否かの判断にあまり関係ないように思う。それを受容してから以降、ほかの表現作品のことごとくが色褪せて感じられるようになった、受容できなくなった。そういう毒じみた作品が名作なのである。
747:【在庫】
出版業界において在庫とは何か。書店に並でいるあれら商品が在庫だという認識がないかぎり、今後も収益は減っていくだろう。印税制度も限界なのではないか。著作権を期間限定で買い取る仕組みに移行していく企業が生き抜いていく社会になっていくはずだ。もうすこし言えば、出版社は出版取次ぎ会社と合併して、真実無駄な在庫を減らしていく方向へシフトしていくほか道がない(取次ぎを切り捨てても構わないが、すると書店もまたいっきに滅ぶだろう。書店を守るためには、取次会社のシステムそのものは維持しつつ段階的に是正していくほかない)。言うだけならば簡単だ。大きくなり過ぎた組織は身動きがとれなくなっている。出版とは無縁の企業がこれからは台頭してくるだろう。そう、たとえば――いや、やめておこう。いち読者としては既存の出版社にがんばってほしい。ほんとに。
748:【体重】
さいきんは体重を増やしたくてがんばってたのですが、量を食べるよりも、基礎代謝を下げる方向に努力したほうが効果があると判明したので、ひとまずストレッチや柔軟を極力しない方向にシフトしています。裏からいえば、痩せたいひとはストレッチや柔軟をしましょう。筋を伸ばすよりかは、関節の可動域を増やすイメージで行うと、ほとんど筋トレと同じ効果があります。何もせずとも痩せていく燃費のいちじるしくわるい肉体になるので、推奨はしません。ストレッチのすしぎで逆に身体が固くなった、くらいのイメージですると、痩せます。(経験則ですので、効果には個人差があります)。
749:【受注生産】
出版業界のつづき。在庫を減らすことで、市場に流れる本の絶対数が減少する。印刷所の負担は減り、完全受注生産に即日対応するだけの余裕ができる(いちどに複数の書籍を扱うようになるため、印刷機械の改善が必要だ)。売れた分を、売れた分だけ刷ることで可能なかぎりコストを削減できる。その分、作者に入る印税は減る。そのため、企業側が印税の代わりに作品を扱う権利を買い取る仕組みが必要になる。最初は様子見で、売れればつぎの契約更新時に額をあげればいい。売れっ子作家に多額の契約金を払って失敗しても、次回から値下げの交渉ができる。基本的には初回契約金は安くていいだろう。一定額の収益を上回った場合にかぎり、決算時の数パーセントを作者へ別途に支払う規約を設ければいい。業界全体でトータルとしてみた場合、売れている本が売れていない本をカバーするシステムが印税制度よりも効率的になるはずだ(まったくの妄想だが)。本の多様性は電子書籍の役割として割り切ってしまうほかない。質を保障することこそが版元の担う役目になっていくだろう。すなわち、ほしいものはあそこで買おうの精神だ。(これらは完全に守りの考え方であり、業界の規模を縮小することを前提にしている。これまでに繰り返してきた暴飲暴食を控えたほうがより長く生き残れる、という何のひねりもない考えである。思いついたので書いただけであり、これといって支持しているわけではない)
750:【相対性理論】
特殊相対性理論でよく分からない点は、二つの速度を比較し、相対的に速度と時間を見たとき、さらにそこにメタ視点を取り入れると、導きだされる結果が逆転してしまう(ことがある)点だ。よくたとえで使われるロケットと光の思考実験がある。解りやすく光をボールに変えて話そう。ボールはどの地点から見ても一定の速度で移動するとする(光速度不変の原理)。ここではボールが一秒で一メートル移動するとしよう(比喩なので、引力や空気抵抗などのいっさいの物理法則は無視する)。高速で移動しているロケットのなかと、地球上とで同時にボールを壁に投げつける。どちらもボールを手にしていた観測者からすると一秒で壁まで届いた。しかし地上からロケットのなかのボールを見遣ると、ロケットが進んだ分だけボールは長い距離を移動している。新幹線のなかで走れば、新幹線が移動した分だけ人はさらに移動している、それと同じだ。しかしボールはどの地点から見ても一メートル移動するのにかかる時間は一秒だ。地上から見るとロケットのなかのボールのほうが長い距離を移動しているのだから、その分多くの時間が流れていることになる。これはおかしなことだ。ロケットのなかのボールは、地上から観測すると二メートル移動して見えた。すると地上からするとロケットのなかのボールには二秒の時間が流れていたことになる(なぜならボールの速度は一定だから)。だとすると、地上からすれば、ロケットの中のボールが一メートルの半分、五十センチ進んだところで、すでに一秒が経過していたことになる。さながらスローモーションでボールが飛んでいるように見えるだろう。地上からすると、ロケットのなかでは、ゆっくりと時間が流れているのだ。ゆえに、物体は光速にちかづくと時間の流れが遅く(長く)なる。これがいわゆる特殊相対性理論の比喩でつかわれる思考実験だ。しかしここで、メタ視点を取り入れよう。ロケットと地球を同時に俯瞰する神さまの視点だ。ロケットよりも地球の公転速度のほうが速い(自転速度でもよい)。ボール(光)は、神の視点からすると、地上にあるもののほうがより長い距離を移動して映る。ならば時間の流れが遅くなっているのは、ロケットのなかではなく、地上のほうだということになる。相対性とは視点によって物事の有様が変わる、ということなので、べつだん矛盾してはいない。しかしやはり妙だろう。地上からするとロケットのほうが時間の流れが遅いが、客観的には地上のほうが遅いのだ。頭がこんがらがってくる。言い換えると、地上を基準にしてみると、ロケットのほうが長いのだが、神の視点になった途端にロケットのほうが短くなる。私から見ると彼のほうが背が高いが、他人から見ると私のほうが背が高い。そういうふしぎなことが特殊相対性理論では許容され得る。ロケットの思考実験がお粗末なだけなのか、それとも相対性理論が間違っているのか。前者である可能性が高いが、いずれにせよ、相対性理論は「光速」にしか有効でない局所的な法則だと感じる。ただ「高速」であるだけならば、速度が増すほどそこに流れる時間は速やかろう。一秒間で手を十回叩ける人は、一秒間で一回しか叩けない人よりも時間が速く流れている。相対性理論からするとしかし、これは逆の結果になるのである(手を叩く回数と時間がつねに一定である場合にかぎる。すなわち、光速でない場合は、一定ではないのだから、特殊相対性理論は成立しない)。相対性理論は時間や空間もエネルギィとして計算できるとした。しかし、視点によってその多寡が逆転するのは、妙ではないか?(逆転することが妙なのではなく、同一の空間内に、異なる量的数値が重なりあっている状態が妙なのだ。妙ではないとするならば、世界は無数に重複した世界ということになる(そしておそらくそうなのだろう)。「私」という存在は、膨張する宇宙の離れあう無数の銀河団の銀河のひとつの構成因子である太陽系のうちの地球のマントルのうえに位置する島国の自転車に乗る肉体の中を流れる血液によって構造を維持する細胞のなかに組み込まれたDNAの塩基配列を位置づける分子に飛び交う電子の、無数の跳躍によってカタチを成している。いずれの枠組みにおいても視点は存在し、その都度世界は、色を変え、重なりあい、「私」という視点を構成している「私」の瞳に映るのはあなたと、あなたと、あなたたちで、できた連なりを社会と呼び、触れられる範囲が私にとっての枠組みとして世界の基準に君臨する)(2017/9/25追記。ロケットも地球同様に公転している状態ならばメタ視点による逆転現象は生じないかもしれない。ただし、ロケットの進行方向が地球の公転する方向と同じだった場合にかぎる。地球の公転に逆らって進んでいる場合、メタ視点では地球の公転速度よりもロケットのほうが遅くなるため、やはり逆転現象が生じる)
参照:いくひ誌。【221~230】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882037180