※日々という名の過去はない、日々の積み重ねなど幻想だ、あるのはただ今をせいいっぱい生きたあとに浮かんで視える残像だけである。
221:【FF15】
この記事は2018年1月29日に削除しました。
222:【ようやく】
やっとね、やっと手に入りましたー! 冬見坂さんのマンガ「森のホモォ」 うれぴー! いまからよみますねたのしみー♪
223:【勝ちたいがゆえに勝てない】
正確には、勝ち負けにこだわりすぎるひとは、本心ではてっぺんに立ちたいとは思っていない。憧れに追いつきたい一心、認められたい一心でそれに縋るが、けっきょく憧れを越え、憧れを失ったとき、そのひとはもう立っていられなくなる。初めから目標などなく、ただただ無意味に、不毛に、快楽を貪るようにそれをつづけるある種の病人にしか、本物を越えた境地には辿り着けない。だが、それゆえに、そうしたこの世の理を覆すほどの偽物に、いくひしはとてもこころ惹かれるのである。
224:【関心事】
2016年11月13日げんざい、いくひしがいまもっとも興味のある事柄は、「電波と虫の関係」です。唐突ですが――おそらくそろそろ、電池パックを必要としない携帯型メディア端末が開発される頃合いだと思います。その原理はおおまかに分けて二種類あり、ひとつは太陽光など、外部のエネルギィを変換機を通して電力に換えるというもの。そしてもう一つは、特殊な電磁波をつかってメディア端末のなかである種の誘導電流(正確には電子の挙動操作)を発生させ、自家発電させるというもの。おそらく普及するのは後者の、電磁波自家発電型の機能でしょう。そして現状、ただでさえ電波まみれのこの世界で、さらに特殊な電磁波がこの地表をがんじがらめに埋め尽くすのです。電波とは言うなれば光です。今までにないほどの緻密な光の層が世界を駆け巡る――これは地球生誕以来、いちどもなかった現象です。これまでになかった変化は確実に地上の生命体へと影響を与えます。我々人類は、赤外線や紫外線、いわゆる可視光線以外の電波を直接に視認することはできません。視えないだけで、しかし影響は細胞単位、或いは染色体単位で受けています。ほかの生物、ことさら昆虫や微生物たちはその比ではありません。それこそ我々人類が気にも留めない周波数の電波を、虹のように知覚し、世界を認識するための手段として依存している種は数知れないのです。そうした生物種が、これから、或いはすでに、我々人類の予想もし得ない進化を辿るのではないか、とそうした妄想をたくましくするのがさいきん多いようだけど、きみ、あたまだいじょうぶ? すこし休んだほうがよくない?
225:【編集能力】
ひとむかし前、それこそインターネットが普及する以前の社会では、雑誌がひとつの作品として機能していた。さまざまな作品がそれ単体ではさほどの威力をもたなくとも、雑誌として編まれることで虹色の輝きを発散する。しかしインターネットが普及し、日常の情報爆発が起こってからは、雑誌という形態はいささか情報過剰に過ぎる。端的に分厚すぎるのだ。さまざまな作品が異色でありながらも、雑誌という殻に任意の並び方でギウギウ圧しこまれることで、雑誌はひとつの魅力的な作品として顕現する。ところが現状、分厚い本が売れない傾向にあるのと同様に、ひとつの作品として顕現した雑誌もまた、分厚いがゆえに売れない傾向にある。ではどうすればよいのか。どうしようもない。ひとつの作品として勝負できる時代は終わってしまったのだ。まずはそこを認めるところからはじめなければならない(これからは作品としてではなく、言葉はわるいが、さまざまな作品を届けるためのカタログ、或いはチャンネルとして機能しなくてはならない)。これは小説においても同様である。ある一つのジャンルを極め、特定の読者を想定して作品を紡ぐ時代は終わってしまった。現在必要とされているのは、あらゆるジャンルの盛り込まれたかつての雑誌のような作品だ。むろん分厚くなってしまってはいけない。そこには過剰なほどの物語の圧縮が必要となってくる(雑誌にできなかったことが小説ならばできる)。そこで欠かせなくなってくるのが、圧縮された物語に堪え得るだけの人間性に富んだキャラクターたち、そして類い稀なる編集能力である。かつての雑誌を編んでいた異能者たちがごとく、現代の作家に必要なのは、まさしく物語を編みこむ能力なのである。雑誌は、相反する編集者たちが、雑誌という色をよりどころに反発しあいながらも強烈に融合し、結晶した奇跡の産物である。ゆえに、小説もまた、そうした物語同士の強烈な拒否反応を乗り越え、封じ込めたような、荒々しくも芳醇な、奇跡を起こさなくてはならないのである。
226:【へきちっ!】
へっ、へっ、へきちっ! だぁーさっきからくしゃみが止まらんばい。へきち、へきち、うるせーってご意見はもっともござれ、では、ありますがね。ここが僻地だからか? インターネットの僻地でございますからか? そうね、そうね。なぜこんな情報の海の底の、奥のほう、僻地で誰に読まれるでもない文章を瓶に手紙つっこんで目的地にともなくさまよう波に揺さぶられーの、そういう無駄なことをしているのかってーと、そう、それはそれとして、けっして無駄ではないからなのだね。いまはまだ僻地であろうともいずれここを発掘しにやってくる未来人がおらんとも言いきれぬだろい? え、言いきれるの? きれちゃうの? どこからでも切れますみたいな謳い文句に騙されるほどあたしゃそれほどヤワじゃぁないよ。しかしさいきんちょいと認識どっこい、どこからでも切れちゃう包装ドメスティックなプラスチックが多くなってきたさっこんではありますな。科学技術の進歩ですな。しんぼうのけっか、なのでありますな。まあいずれここにおわす文章どもに価値がしょうじないわけでもねぇのでありますよ。今はブタに生姜焼きみたいなしょうもなさしかござらぬが、しかし、いずれはブッダに生姜焼きくらいの価値がしょうじるのでありますまいか。失礼じゃないか、裏返って失礼じゃないか、みたいなご意見もありましょーな。てへへ、いいのだよ。あたしゃそういうしょうもないことが好きなのだから。笑って見せたらほーら鼻の奥がむずむずするぜ。してきやがるぜ。へっ、へっ、へきち! だぁー、くしょー、くしゃみが止まらんばい。
227:【反省すべきなの?】
「あんたの場合さぁ、同性愛に幻想重ね見てるだけにしか見えんのよねぇ。純愛っつーの? 越えられない壁を乗り越えたからこそ証明できる愛みたいな? でも、幻想だからね。しょせんね。同性愛とかゲイとかレズとか、そういうの、異性愛とかノンケとか、いわゆるふつうの恋愛観と大差ない、差別すんなとか言ってる割に、いっちゃん差別化してんのあんたじゃん?って思うわけ。神聖化すんのはまあ個人の自由だけどさ。それにしたって、ねぇ? 異性愛と大差ないってんなら、同性愛だっていいもんじゃねぇよ? 生々しいし、浅ましいよ? じゃあなんで同性愛ものにセンサービンビンなのかって話なわけよ。それってけっきょくあんたが誰より同性愛を差別化して、ふつうじゃないものとして、娯楽として、見せ物として、消費しちゃってんじゃねーのかなーってね。私は、まあ、そんなふうに思うわけなのよ。ゲテモノ好きを友人として持つ者としてね」
228:【反省すべきでしょ?】
「わたしはそうは思わないなー。だって物語ってそういうものでしょ。ほかの、じぶんではないひとの人生を娯楽として消費する。ある意味でじぶんの人生の慰みものにするのが目的なわけだし。だったらどうしてマイノリティな属性だけ除けモノにするの? 仲間外れよくないよ。それとも、物語として、虚構として、娯楽として消費することは、ほんとうはそれ自体がいけないことなのかなぁ? だったら責めるべきは何を対象にするかではなく、何を消費するかでもなく、いかに消費するか、ううん、ひょっとしたら消費することそのものにあるのかもしれないね。他人の人生を、虚構を、創作物を、じぶんの人生の慰みものに、糧に、娯楽にしてはいけません」
229:【論点がずれている】
「いやいやきみたちね。話がずいぶんと極端だよね。虚構を娯楽として楽しむことと現実の問題を結びつけるべきじゃないよ。話がややこしくなるだけで何の解決にも繋がらない。だいいち、殺人はもっとも多く紡がれてきた題材だよ。現実の倫理観だとか良識を前提に語るなら、そうした禁忌を扱った物語は土台からしてあってはいけないものになる。しかしそうはならない。なぜなら虚構は虚構であり、現実ではないからだ。むろん、虚構が現実に対してなんら影響をもたらさないわけではない。ゆえに虚構にはある種の善意が必要だとは思う。配慮と言い換えてもいいね。虚構は現実に対して配慮が必要だ。裏から話せば、それだけ虚構の影響力が大きいとも呼べる。無視できないくらいにだ。しかしそれは飽くまで創作者が背負うべき十字架だ。それを感受し、楽しむ側が顧慮することではない。ましてや、目のまえにあらわれた物語に対して、どういった態度で接するのが正解か、なんてことで頭を悩ませる必要はない。あるがままに感受すればいい。つぎからつぎへと消費したっていっこうに構わない。構う相手がいないのだから当然だ。虚構に神はいない。或いは神が虚構であると言い直してもいい。現実であるきみたちが、虚構である神に、なんらかの義務を感ずる必要はない。ましてやどう読むのが正解か、なんて気負う必要はないんだ。繰り返すが、あるがままに感受すればいい」
230:【要約すれば】
受動者に配慮を強いないのがエンターテインメントであり、受動者にも配慮を期待するのがアートだと呼べるのかもしれません。何に対しての配慮かといえば、現実への配慮であり、ひいては他者への気配りです。視点を変えれば、エンターテインメントは受動者をより突き離していると呼べ、アートはより受動者と共にあると呼べます――いっぱんてきな認識とはぎゃくですね。完成度の高さ、独立性の高さからいえば、エンターテインメントのほうが一次元ほどうえにあると分析できるのです。