※日々、耳と目を閉じ、心を仕舞う。
2321:【丸くてふにふに】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、セブンイレブンの生チョコサンドのチョコドーナツにはまっておって、まいにちのようにもぐもぐしているでござる。このままではおでぶちゃんになってしまうでござるけれども、いくひしさんはおでぶちゃんが好きでござるから、ねがってもないことでござる。丸くてふにふにしているものはたいがい好きでござる。かわいいでござる。抱きつきたくなるでござる。見た目だけでなく、心も丸くてふにふにしているひとが好きでござる。でもトゲトゲツンツンしているせいでひとに好かれていないひともきらいではないでござる。要するにいくひしさんはひとが好きなんでござるな。誰とでもちゃんちゃらーんできてしまえるでござる。精神的ビッチでござる。ビッチも好きでござる。きらいなものがないでござる。でもほかのいくひしさんたちはきらいなものがそれぞれあって、みんなもっといくひしさんを見習えばいいのにって思っているでござる。あ、でも、好きくない食べ物は多いでござる。偏食さんでござる。まるでカメレオンでござるな。ってそれは変色! つたないツッコミをしたら「さぶー!」ってされてしまったので、みなのものはあたたくして日々をすごすでござるよ。もうすぐ冬でござる。冬籠りの準備でもするでござる。チョコドーナツを食べて精をつけるでござる。ホットココアがおいしい季節でござるよ。やったーでござる。でもでも、冬に食べるアイスも好きでござる。おこたに潜って、もぐもぐぬくぬくするでござるー。
2322:【蟻んこ】
場を支配可能な比較的大きな組織から排除されてもいくひしさんは困らない。どちらかと言えば、そういった権威を笠に着て、他者を利用しようとする組織とは距離を置きたいと考えているので、相手のほうからこちらを排除してもらえると助かるくらいだ。だいたい二十年もすると人間を商品の素材か何かのように扱っている組織は、どんどん弱体化していくので、いよいよのっぴきならなくなったそれらを眺め、やっぱりな、近づかなくてよかった、と思う(すっぱいぶどうの心理がまったくないとは言いきれないが)。ただ、そういう組織であれ、構成員の中にはいくひしさんにとって好ましい人物もおり、そういうときには、ややお節介を焼いたりもする。それは善意や正義感からの行動ではなく、単純に、八つ当たりである。いくひしさんにとって好ましい人物を素材か何かのように扱う組織への八つ当たりである。そこに善はないし義もない。ただの悪意である。ただ、蟻んこに傷つけられる象はいないだろう。もしいれば、それは象の皮を被った脆弱な何かだ。蟻ごとき、無視していればよろしい。蟻ごときの悪意で揺らぐようなら、それは何かしら補強や対策を講じなければならないだろう。蟻が腕に這っていたとして、それを蟻からの攻撃だと見做すほうがどうかしている。とはいえ、蟻が身体にまとわりついていたら払うだろう。そこは容赦をしなくてよいと思うしだいだ。
2323:【敵無】
ありがたいことにいくひしさんには敵がいない。味方もいないが、これは自然なことだ。味方とは基本的に、敵や害があるときにしか現れない。原理的に、敵がいなければ味方もいないのが道理となる。ということは、いくひしさんは誰の味方でもない、とも言える。誰かの味方になった時点で、その誰かにとっての敵を敵視しなければならなくなる。いくひしさんは誰のことも敵視したくない。誰かを敵視した時点で、破滅の歯車は回りだす。誰とも敵対しあわない方法を考えるのがもっとも理に適った生存戦略と言えそうだ。ただし、生存するメリットがなかったり、或いは、死滅することで起動する類の戦術があるとするのならば、敢えて敵につぶされることを目的に、敵対することは、これもまた理に適った戦略と言えてしまう点は、見逃さずにいたいものである。
2324:【湯船のようなひと】
トゲトゲもツンツンもしていない安全地帯みたいなひとの許にひとが集まるのは道理である。真綿ほど頼りなくはなく、家ほど他人を見下ろしたりはせず、湯船のようにただただ裸のあなたを包みこんでくれる。お湯の張った湯船のようなひとは好ましいが、しかし、なりたいかと問われると、すこし戸惑う。湯船には湯船のたいへんさがある。いくひしさんはどちらかと言えば、まいにちシャワーで済ませたい。湯船にはときおり浸かるだけでもよい(とはいえ、まいにち浸かってしまっているが)。シャワーも映画も、食事だって、できればひとりで楽しみたい。至極わがままで贅沢なのだ。
2325:【理屈で物を考えるための前提】
建前もいちおうは理屈のうちの一つだ。もっともらしい理屈を掲げ、それとは裏腹な、或いはまったく異なった目的を達成しようとすること、またはその理屈を示す言葉だ。建前にはいろいろな呼び名があり、きれいごとやマルクス的イデオロギー、偽善や詭弁、欺瞞も似たようなものと言えそうだ。とはいえ、言葉の裏に隠れた腹蔵を指摘したところで、それを証明できなければ、それは憶測にすぎない。建前だろうがなんだろうが、理屈と行動に一貫した筋が通っていれば、それを非難するには、掲げられた理屈そのものを、理屈で喝破しなければならない。どんな理屈であれ、まずはその論理に破たんがないかを考えること。それから建前は往々にして、唱えた理屈とその後の行動に齟齬が生じるものだから、それを指摘するのも一つだろう。仮に建前そのものに論理的な破たんがなく、掲げられた理屈と行動に矛盾がないようならば、その建前の裏にどんな腹蔵が隠されていようと、その理屈を妥当と評価しなければならない。それが理屈で物を考えるということのはずだ。なぜ理屈を唱えるのか、は人それぞれ違って当然だ。何かを守りたいひとも、破壊したいひとも、変えたいひとも、よりよくしたいだけのひとも、理屈を使って、相手に解かりやすく問題点を伝え、態度や行動を改めてもらおうとするのではないか、他者に干渉するのではないか。動機は問題ではない。建前が理屈として成立しているか、そして理屈を唱えた本人が、その理屈から逸脱するような行動をとっていないか、矛盾していないか。見るべきはそこであり、相手の狙いが具体的な行動に表れていないのならば、それを批判したところでこじつけと大差ないのではないだろうか。歯には歯を、理屈には理屈を。目には目薬を、暴力には対策と話し合いの場を、そしてやはり理屈を求めていきたいものである。(相手の狙いを批判することは議論のうえで有効ではないが、対策をとることには繋がるので、建前を建前だと見抜くことに意味がないと言っているわけではない点には注意してください)。
2326:【霊魔怪シリーズ「頭痛の種」】
魔族と悪魔がじつのところ分類上、別種であることはあまり知られていない。境会が発足する以前から漠然とであるにせよ、霊魔怪の存在を知覚可能な人間たちには脈々と伝聞されてきたそれは知見だが、ここ半世紀あまりで霊魔怪どもを対象とした解析技術が発展し、科学的根拠の裏付けがとれてきた。以下はその概要だ。すこしややこしいので流し読みしてほしいが、端的に言えばジャンケンのようなものだ。霊魔怪とは、霊体、魔族、アヤカシモノ、の三種を示す。それぞれ、霊素、魔素、呪素を帯びている。魔族と悪魔の違いは、この構成要素の違いによる。魔族は霊素を糧に魔力を帯びるが、悪魔は魔素を糧に呪素を帯びる。悪魔はちょうど霊体とアヤカシモノの中間に位置する存在だ。ちなみに霊体は、呪素を糧に霊素を帯びるが、ここらへん、専門家でも見解が分かれており、呪素と霊素は本質的に同じものなのではないか、といった説もある。なんだか光が粒子と波動の二重性を帯びている話を彷彿とさせる。いずれにせよ、悪魔に出遭っても、魔族へするそれのように対処しても意味はない。一般的には悪魔は人間と契約すると言い伝えられているが、契約を迫るのは魔族であり、悪魔はただ人間から魔素を奪い取るべく、あれやこれやと悪果を振りまく。人間の不安や恐怖が、魔素の源だからだ。悩みの種が多ければ多いほど、人間は魔素を帯びると言い換えてもよい。ここらへん、巷説にある逸話と共通する点がある。悪魔は悪魔、人間に仇を成す存在だ。魔族はのきなみ知能が高いが、悪魔はぴんきりだ。霊体やアヤカシモノが悪魔へと変異するのではないか、といった説も唱えられてはいるが、現状、悪魔は悪魔という種が存在するとして、例外扱いされている。「霊魔怪(プラス悪魔)」みたいな感じだが、個体数はすくなく、どのように発生するのか、生態についても謎が多い。調べ屋として興味はあるが、いまのところ遭遇したためしがない。こちらがそのようにぼやくと、黒猫の姿をしたマダラが、「だんなぁ」といやらしく尻尾をくねくね動かした。「悪魔もそりゃひとを選びますぜ、だんなじゃあどうあっても魔素は期待できねぇですからね、そりゃあ悪魔も姿を隠しやしょう」「おいおい、未来への不安でおしつぶされそうな男になんて言い草だ」「へっへ。だんなの未来なんざ元からあってなきがごくでしょう、ないものを失くす心配なんざするだけ無駄じゃねぇですかい、そりゃ悪魔も骨折り損は御免でしょうよ」「いつになく口が回るな。きょうの晩飯は久しぶりに刺身だったんだがな」告げると、マダラのしっぽが股のしたに垂れた。「だんなぁ、そりゃねぇですぜ」「晩飯は刺身だ、と言っただけだ。べつにマダラ、おまえの分を減らそうなんて考えちゃいないさ」「さすがはだんな、おひとができてやすね、そりゃこんなお天道さんみたいなおひとの許にゃ、悪魔どもは寄ってはこんでしょう、そりゃそうじゃねぇですかい、ええ、ええ、そういうもんでございましょう」「調子のいいやつめ」脇を通り抜けがてら、あたまを撫でてやる。「マダラ、おまえのそばにいれば悪魔ともいつかはご対面できるかもな」「そりゃあっしが不安の塊だと言いてぇんで?」「いいや、おまえといると困らないんだ」頭痛の種にな、と口にすると、マダラは、うへぇ、とうなだれた。
2327:【掌編+短編を更新しました】
掌編「即興絵描きバトル」 決勝戦は羽田空港で執り行われた。イベント会場は第一ターミナルの二階出発ロビーだ。エレベータが各階にいくつも並んでおり、その中央部分にて即席の舞台が設けられている。カイガは舞台を眺め、そこに運び込まれるキャンバスの大きさに目を瞠った。これに描くのか? ほとんど壁だ。一色に塗りつぶすだけでもいったい何時間(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891810356) 短編「父の虚像は語る」 父はぼくに目隠しをし、おとなしくしていなさいね、といつもと変わらぬたおやかさで、ささやいた。何も見えない。どうして目隠しをするのかは判らなかった。理由を訊いたりはしない。ふだんから父との遊びは突拍子がなかった。(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891843421)
2328:【ビジネスの変容】
デジタル情報(以下、情報とする)の利点のひとつにコピーがたやすい点がある。もちろんこれは欠点でもあり、たやすく複製できてしまうために海賊版や違法製品が市場に溢れてしまう懸念がある。ただし、そもそもなぜ海賊版や違法製品が悪影響を及ぼすかと言えば、正規のオリジナルを作成した者の利益を損なうからだ。もしその者の利益を損なわないのであれば、海賊版や違法製品は社会を豊かにする方向に働く(裏から言えば、なぜ海賊版や違法製品が絶えないかと言えば、それを需要する者がすくなくないためだ)。インターネット社会が到来してしばらく経つが、これまでは物理市場がインターネットを利用する方向に変化してきたのが、これからの社会はインターネット社会が物理市場を利用して変化していく段階に移行していく。社会の発展は、インターネット市場が物理システムを利用して、流通過程をワープすることが可能となる方向に進んでいくことが想像できる。極端な話、一家に一台「汎用性3Dプリンター」があれば、それだけで家具や衣服、食器や日常品はまかなえてしまう。素材や食材だけは配達してもらわなければならないが、いまでも充分にそうしたデリバリーは一般化している。今後は、さらにそうしたデリバリーが人々の生活を支えるようになり、店舗の役割は、そうしたデリバリーの管理や商品倉庫に特化する方向へと進んでいくのではないか、と妄想している。ビジネスや資本主義はなくなりはしないが、その仕組みは、いまとはだいぶ違ってくるだろう。独占することで資本を得る仕組みは、今後、社会に技術や商品をより共有させることで資本を得る仕組みに変わっていくはずだ。「汎用性3Dプリンター」を月額や年額で契約させるようなビジネススタイルが主流となっていく。自動販売機のようなものだ。欲しい商品の情報を選択するだけで、プリンターがそれを編みだしてくれる。靴なら靴、鞄なら鞄といった具合だ。情報に値段をつけられない代わりに、情報を選び、それを物理的に具現化するサービスにひとはお金を払うようになっていく。定額制のなかには「汎用性プリンター」の素材を定期配達するサービスも入るはずだ。情報や商品への対価ではなく、飽くまでサービスへの報酬となる。五十年後にはこうしたビジネススタイルが一般化しており、いまのようにモノを売る、という商売はビジネスとして成立しない社会になっていくのではないか、と妄想している。ただしこれは、商品を独占しないかわりに、市場そのものが一つの巨大な企業のもとに独占させる懸念があり、じっさいにいまはGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)のような企業が、市場を独占する流れを強化している。言い換えるならば、未来における国の基盤を企業が独占して築きあげているわけだが、これに対して国は――つまり大多数の国民(企業の従業員も国民の一部であるから、ほかの大多数の国民は、という言い方をするが)は――いまのところ成す術がない。一企業が国家を越える権力を手にしつつあるのが現状であるが、いざ企業の問題が浮上したとき、我々はいまあるサービスを手放す覚悟はあるだろうか。企業がビジネスによってその構造を維持している以上、企業に対抗するには法のちからを駆使するか、またはその企業のサービスを利用しないか、の二つしか道はない。ただし、法の抜け穴はいくらでもあり、全世界共通のルールがいまよりもっと厳格に整備されなければ、企業は法のちからを掻い潜るだろう。同様に、一国家の国民がサービスを拒絶しても、企業はほかの国を相手にビジネスをすればよいだけであり、これも有効な策とは呼べそうにない。もちろん第三の選択肢がないわけではないが、それはたとえば国営で企業にとって代わるシステムを構築することだが、これが短期的な成果をあげることを可能とするときは、資本主義の原理からするとおおむね、ほかの国との競争原理が働いたときのみであり、つまるところ戦争が起きる前触れや、戦争中のみであるので、期待したくないところである。との妄想を並べ、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。
2329:【たいした労力ではない】
インターネット上に更新済みの自作の総文字数はどんぶり勘定で525万字くらいで、そこにボツ作集(56万字)とこの「いくひ誌。(100万字)」を加えると、680万字をすこし越えるくらいになる。ほかにも未完成の小説が30万字以上溜まっているが、これは勘定にいれないでおくとして、いくひしさんが小説をつくりはじめてことしで10年目なので、完成済みの小説525万字を10で割って、1年で52,5万字。365で割ると、だいたい1438となる。まいにち平均1438文字を並べていれば10年でこれくらいの分量になるのだ。この「いくひ誌。」を含めたもろもろだと680万字で、まいにち1863文字となり、制作中の未完を含めた710万字ですら1945文字だ。単純に考えれば、まいにち2000文字を並べていればいくひしさん以上の分量の小説をつくれるはずだ。プロはまいにち5000文字は並べているそうなので、10年で1825万字の分量の小説をつむいでいることになる。冊数に換算すると1冊10万字としてだいたい182冊だ。まいにち5000文字を並べていればそれだけの分量となっているはずだ。もちろんこれは文章として残った分であり、プロであれば決定稿とするまでのあいだにはその3倍くらいは費やしているだろうから、まいにち15000文字分くらいの打鍵をしていないと、結果的にまいにち平均5000文字を並べるのはむつかしいのではないか、と推し測るものだ。いずれにせよ、いくひしさんはまいにち平均1500文字以下(プロの10分の1以下)の労力しか費やしていない。まあそんなものだろう、といった感じだ。楽しく、無理なく、好きなときに好きなだけ文章をつむいでいこうと思うしだいだ。(すぐに飽きてしまうので、まいにちすこしずつしか並べられない)
2330:【個人の感想です】
専念すればするほど、じぶんのやっていることを特別なことだと思いたがるひとが多い気がする。たいしたことない、と卑下するのもどうかと思うが、ほかの者やことと比べて「私のしていることはふつうではない、ほかの同種のものといっしょにするな」と主張するでもなく主張したがる者がいる。特別だと暗に示さないと興味を持たれにくいし、ビジネスとしてやっていけないからだろう。わるいことではないが、あまりに無自覚にすぎる気もする。せめてもうすこし自覚的に、演出を意識するくらいのことはしてもらいたい。特別だ、特別だ、と誇示すればするほど、平々凡々でつまらないものに見えてしまう。逆効果だし、そんなものに釣られて寄ってくる者たちは(にわかファンですらなく、)長期的に見て不利益しかもたらさないように思うしだいだ。使い捨てにしたいのなら都合がよいのかもしれないが。要するに、そういうことなのだろう(どういうこと?)。いくひしさんにとって継続して専念していることの一つに小説がある。小説なんてたいしたことないとは言わないが、たかが小説ですよ、とはときおり言っていきたい。小説をつくれるからといって何だというのか。何もしないよりかはマシですね、くらいなものだろう。コピー用紙でお尻を拭くよりもトイレットペーパーのほうがいいですよね、くらいの違いだ。下品な譬えになってしまったかもしれない(そしてけっこうな差かもしれない。トイレットペーパーをつくっている方、すみません、いつもふわふわ拭き心地をありがとうございます)。小説を十年つくりつづけてきたところで、この程度の品のなさなのである。やはりたいしたことはないのかもしれない(けっきょく言ってしまった。そしてそれはいくひし、おまえに固有の問題なのでは? 過度な一般化は褒められたものではないですよ)。
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参照:いくひ誌。【11~20】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262099