※日々、むかし投げ捨てたものを拾い集めている。
2331:【害のない好意は存在しない】
ひとを好くのは楽だけれど、ひとから好かれるのはたいへんだ。これはひとから好かれるように振る舞うのがむつかしいという意味ではなく、ひとから好かれてしまうと苦労する、という意味だ。いくひしさんにとって、好意と敵意に大きな差はない。ともすれば、ひとから好かれたことがないのでよく解からないだけかもしれない。
2332:【幻視】
文章からその書き手のことを理解することはできないけれど、どういう文章をつむぎつづけているのか、その変化の軌跡や落差を観察することで視えてくるものがある点は否定できない。視えた何かがどの程度、書き手と関係しているのかは定かではないが。
2333:【自虐でも卑下でもない】
専念していることはあるが、専門がない。何か特定の分野を体系的に学んだことがないので、学問というものをいまいちよく解かっていない。証明の仕方もよく解からないし、何を以って事実としてよいのかも、なかなか断言しづらい。仮に小学生のテストを受けたとして、どの教科も満点をとる自信がない。これは謙遜しているのではなく、じっさいに満点をとれないだろう、とその確率が高いことを我がことなので知っている。漢字の書き取りに到っては絶望的だろう。歴史のテストも、人物名や年表、地名は壊滅的だ。じぶんの住んでいる地域も覚束ない。県庁所在地は言えるが、そのほかにどんな市があるのかをろくに言えないのだ。理系や文系の違いは関係ない。科学にしろ数学にしろ、答えられない問題は無数にある。記憶力がわるい。それもあるが、どちらかと言えば、単に知能が低いのだ。学力と言い換えてもよい。この場合の学力とは学ぶチカラの意だが、むろん学歴もない。特筆すべき履歴はなにひとつとしてなく、特技と呼ぶべき技能も実績ですら皆無だ。蟻の足跡のほうがまだ何かしらの痕跡を残している点で、無ではなく、いくひしさんの存在価値は、蟻の足跡ほどもないのである。だが、それがいかがした。幼稚園児以下の知能しかなく、蟻の足跡にも満たない存在であろうと、いくひしさんはすこしの涙しか零さない。泣かないわけではない。だって哀しいのだもの。無力と非力は違うんだよ、といった慰めの言葉もあるが、無力であり非力である者にはなんの効果も期待できない。無力であって非力でないなんて場合があるのだろうか。非力な者が無力な者をさして、やーい、可能性ゼロ太郎、と蔑んでいるだけではないのか。蟻の足跡がいくひしさんをさして、やーい、痕跡ゼロ太郎、と嘲笑しているだけではないのか。蟻の足跡にすら笑われるいくひしさんに救いはあるのか。神よ、おー神よ。なにゆえ我が身をこんなことにした。捨てる神もあれば拾う神もあるとは言うが、蟻の足跡以下と蟻の足跡にまで言わしめてはついでのように太鼓判を捺されてしまったいくひしさんをどうして拾うことができよう。存在しないものは拾いようがない。ならば捨てることだってできなかろう、といっしゅん浮足立ったが、吐いて捨てるだけなら悪態だってできるのだ、蟻の足跡以下のいくひしさんだって掃いて捨てるほどに有り触れた存在なのかもしれない。長くなった割に何を言っているのかさっぱりアンポンタンであるが、いずれにせよ、学もなければ品もないいいくひしさんであっても、それはそれ、これはこれ、文章くらいはちょこちょこと並べられるのだ。できてしまうことをわざわざやめる必要はないわけで、これからもなんの役にも立たぬ、あってもなくてもどっちだってよい、うんとこしょどっこいしょ、を並べていこうと思うしだいだ。
2334:【霊魔怪シリーズ「鳴き声」】
(短編5600文字) ときおり妙な声が聞こえる。きぃーきゅるる、と家のなかにいると耳慣れない低周波のような音が耳の奥にこだまするのだ。耳鳴りかと思い放置してきたが、聞こえる時間帯が限られており、なにかしら生き物めいた様相を呈しはじめているのでこのままないものとして過ごすには抵抗がある。親を呼ぶ雛のような細々しさがあるのも見逃しがたい。何より気になるのは、聞こえたと思った直後にマダラの姿が家のなかから見えなくなることだ。マダラは黒猫のカタチをした居候だ。「なあ、マダラ。おまえ何か隠してないか」「隠す? だんなにですかい? あっしが?」「ないと断言できるか」「ちっ。バレちまったんじゃしょうがねぇ。おとつい、棚にあった饅頭を食っちまったのはあっしでさあ」「え、うそ。おまえあれ、すごく高いんだぞ」棚を覗くと、隠しておいた饅頭がすっかりなくなっていた。(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891887919)
2335:【タダ乗り】
某エナジードリンク販売会社はさまざまなエクストリームスポーツやストリート発祥の競技に出資している。スポンサーとしてイベントを開くだけでなく、主催として関わっていないイベントにもスタッフを派遣し、競技者に無料でエナジードリンクを提供したりと、認知度の向上ならびにブランドの周知を図ってきた。この手法はもっとほかの業界、それこそ出版社も参考にしてよいはずだ。イベントには物販が置かれる。出版関係のイベントが月にどれほどあるのかは知らないが、それぞれに物販を置かせてもらう働きかけくらいはしても損はないのではないか。書籍ごとにもその本に適したターゲット業界があるはずだ。イベントはどんな業界であれ開かれている。そこに本を置かせてもらえれば、互いに、業界の広報となって、WIN:WINの関係を築けるのではないか。フィギアスケートなど注目スポーツであれば、有名選手の地元の学校に、各クラスに直接献本するくらいの策は講じてもよいのではないか。あまり品のよい行いではないかもしれないが、ビジネス上、やれることはいちど試しても損はないはずだ。もちろんこれは、資本力のある出版社に有利な策であり、これにより競争原理が働けば、無料献本を大量に配布した出版社が生き残ることになるため、独占禁止法に抵触する可能性はある(不当廉売に該当しそうだ)。問題があるために実施されていないだけかもしれない(たとえば一冊につき献本できる最大部数が業界内で定められているのかも分からない)。その公算が高いが、ならばそもそも献本文化を廃止すればよい。いずれにせよ、これからはイベント会場で物販として書籍を売る、という選択肢を、率先してとれる出版社や作者が優位に立ちまわるようになっていくだろう。肝は、じぶんたちが主催ではないイベントにも物販として売りにだせるか、だ。企画の段階から、その書籍の肝となる分野の年間イベント数を見込んで、物販で売ることを前提に計画しておくと、これからの出版市場をより優位に乗りこなしていけるのではないだろうか。ただ、書店の役割を奪うことに繋がるので、書店からすれば裏切られたように映ることもあるだろう。また、そんな売り方をする本がおもしろいのか、は疑問に思うところだ。広報として成立するようなお行儀のよい物語をあなたは読みたいだろうか? そういう物語も嫌いではないし、読んだら読んだでおもしろいのだろうが、いくひしさんはあまり手に取りたいとは思わない。食わず嫌いなのである。
2336:【弱肉強食が足りないのでは?】
実力のない者にチャンスを与えることは、若手を育てるのとはすこし違うように思うのだ。若手を育てたいのならば、実力の伴っていない相手をけっして一流と同じ舞台にはあげない厳しさが必要なのではないか。売り上げやノルマを達成させたいがために、「実力不足だがなんとなく有望に思える相手」を利用して、一時しのぎ的に舞台上の駒を揃えようとする姿勢はいただけない。それは新人を育てているようで、まったく逆の効果しかないように思うしだいだ。何を以って実力のあるなしを決めるのか、その基準によって変わる話ではあるから、いちがいにこの理屈が正しいとは思ってはいない。ただし、「実力は伴ってはいないが見込みだけはある」といった程度の相手ならばやはり、プロとして扱ったり、一流と同じ舞台には立たせないほうが好ましいようにいまのところは感じている。それは、プロや一流と接する機会を持たせるな、という意味ではなく、同じ舞台には立たせないほうが好ましい、という話だ。言ってしまえば、プロのボクサーと同じリンクにアマチュアの選手を立たせ、戦わせることが若手のためになるのか、との話になる。プロのボクサーと練習するのは若手のためになるだろう。だが、いちど同じ舞台に立てば、プロは容赦なく拳を奮うだろうし、若手はいともたやすく撃沈するだろう。負ける経験はたいせつだ。己の実力を正確に把握することは、目標の修正や、練習の段取りを工夫するきっかけになる。だがそれはアマチュア同士でもできることだ。プロの舞台にあげてまでさせることではない。有望なアマチュアを拾いあげ、鍛えあげる仕組みはあってよい。むしろ業界を進歩させるためには必要な仕組みだ。だがそれと、「プロや一流といっしょの舞台にあげてやる」といった態度は、まったく違うのではないか。力量不足なら、どんなに有望であっても、プロや一流と同じ舞台にあげるべきではない。使い捨てにしたいだけなら、そういう姿勢もビジネスのうえでは有効なのかもしれないが、若手の育成という名目でそれをするなら詐欺と同じだという自覚は持っていてほしい。そういう意味では、冨樫義博さんのマンガ「ハンター×ハンター」の天空闘技場のシステムは優れていると言えそうだ。いずれにせよ、実力主義を謳うのならば、弱肉強食の原理を手放してはならない。人物評価など不要だ。実力だけが物を言う。(とはいえ、実力とは何を差すかで、また議論の余地が生じるところがこの話のむつかしいところだ。売上さえあればいい、という姿勢もまた実力主義だが、この理屈であれば暴力団や犯罪組織は、もっとも実力のある組織ということになる。何を実力とするのか、その優先順位を取り違わないことである)
2337:【真剣じゃないと失礼?】
じぶんたちが本気で、真剣に、頑張っているからといって、本気でなく真剣でもなく頑張ってもいない相手を、「失礼だ、無礼だ」と非難して邪魔者扱いし、排除しようとする集団や人物を見かけることがある。たとえば「こっちは真剣に仕事をしているのだ」とか「真剣に世界一を目指しているのだ」とか、そういう言い方をして、そうではない同じ分野の、ただそれをしていたいだけの者を非難したり、端っこに追いやったりする者がある。楽しみたいだけならあっちでやってろ、ということなのだろう。じぶんたちは本気であり真剣であり頑張っているから、よりよい環境を独占してもよい、と考えているようだ。プロにはプロの、一流には一流の場があるとの考えは一見すると筋が通っているが、だったらそれなりの場所や環境で、おいそれとアマチュアが近寄れない、どうあってものぼることのできない舞台上で、本気で真剣に頑張ればよいのではないか。わざわざアマチュアがはびこる余地のある場所に寄りつかずともよいだろう。言い換えるならば、本気で真剣に頑張りたいのなら、アマチュアが視界に入るような場所で活動をすべきではない。もっと言うならば、アマチュアに邪魔されるような場所で活動している時点で、それは本気ではないし真剣でもないし頑張ってもいない。プロでも一流でもないのだ。これは理屈ではなく、単なる愚痴であるので、論理的に正しくない結論であるし、筋道は誤謬と飛躍のオンパレードであるから、ふだんよりいっそう真に受ける余地のない文章となっている。ともあれ、よりよい成果を重要視する人物が同じ口で、本気度や真剣さや頑張りを評価の基準にしているのは何かの冗談のように感じる。成果を優先して重視するのならば、誰より怠けながらでも成果をあげられる者がもっとも好ましいはずだ。手を抜きながらでも世界一になってしまう。そういう人物にも、本気でやれとか、真剣じゃないなんて失礼だ、と言える者ならば、本気で真剣に頑張っていることを免罪符にして、それ以外の者を非難し、邪魔者扱いし、排除しても、まあまあ理屈の上では筋は通っているのかな、と思わないでもない。個人的には、本気で真剣に頑張る姿勢は好ましく感じる。ただ、姿勢と成果物への評価は別物だ。そこを混同しないほうが色々な問題を扱う上で便利なのではないか。反面、どのような姿勢で物事に取り組んでいるのかは、その後の成長具合、変化の方向性を見定めるうえでそれなりに有効な指針になるようにも感じる手前、姿勢を一つの評価基準にする理由は判らなくもない。いずれにせよ、本気でなく真剣でなく頑張ってもいないからといって、そのことだけを取り上げてその人物を非難する筋合いは、ほかの者たちにはないはずだ。その点、何の成果も上げていないにもかかわらず、努力もせずに上から目線で他者を批判してばかりのいくひしさんは非難されて当然だと認めるしだいだ。
2338:【きょうもたくさんサボってしまった】
長年、ちょこちょことではあるけれど挑戦しては身に着けるまではいかずに頓挫していた技術をいまいちど体得してみようと、このひと月、ちまちまと段取りを組んで進めてみたけれど、身体のほうがついていかず、無駄に眠くなるようになってしまった。体力がないので基礎体力をまずはあげてみようとしたのだが、最初は慣れないので疲れるのが当たり前だから本当に意味があるのか、効果のある段取りなのかの実感がしづらい。だいたい二週間継続して効果がないようだったらほかのやり方に変更したほうが好ましい。ただ問題は、初めから明らかに間違っているのにそれに気づかずに二週間という期間を段取りに費やしてしまうことだ。二週間あれば、身体のほうが変質する。間違った技術を、間違った手法で、間違った知識のまま憶えてしまったら、それをゼロに戻すには、いちどすっかり忘却する時間をあけるか、さらに厳しい鍛練を積んで、技術を上書きするよりない。このまま継続すべきか、すべきではないか、の判断基準が未だに確立できておらず、とりあえず継続してみよう、と舵を切ってしまって、体調を崩してしまう失敗は過去に幾度かしている。さいきんはむかしよりも、ちょっとした変化ですぐに疲れて、ダルくなるので、体調を崩す前にかってに身体のほうで動けなくなるので、怪我をしたり病気にかかったりするよりかはマシになったな、と感じる。全体としては出力はさがっているが、低出力でも可能な効率的な手法を否応なく模索せざるを得ないので、これはこれで利がないわけではない。老いの影響かは定かではないが、得意なことを伸ばすよりも、苦手だったこと、避けていたことをできるようになることのほうが手軽だし、おもしろいと感じる頻度が高くなってきた。階段を百段のぼったあとの一歩よりも、最初の一歩のほうがはるかに楽なのと同じ理屈かもしれない。とはいえ、苦手なものは苦手だし、しばらくすると行き詰まり、放りだしてしまう結末は変わらない。苦手なことを特技とするまで極めるよりかは、得意なこと、好きなことをさらに深めたり、積み重ねたりしたほうが抵抗はすくなそうだ。すべきことを放棄して、やるはずだったことまでもなげうって、椅子にふんぞり返りながらどらやきをモグモグしていて気づいたのだけれど、いくひしさん、あなたほとほと努力のできないひとね。
2339:【連想、発想、飛躍】
HD(ハードディスク)にデータを移し替えるのが習慣の一つになっている。データは毎日のように増えるので、使用するHDによっては上限いっぱいにデータが記録されてしまって空きがなくなっている機器もある。そういうときには、いらないデータがないかと探して、削除し、つくった空きにデータを入れるようにしている。もちろんいちばんよいのは新しいHDを買ってしまうことなのだが、いちど満杯になり使用しなくなったHDは机の引き出しの奥に眠ることになるので、却って「あのデータどこに仕舞ったっけな」となって不便なのだ(むしろ、このHDに何入っていたっけ、と首をかしげることになる。言い換えるならば、データそのものの存在を忘れてしまう可能性が非常に高い)。もちろん重要なデータはバックアップを四重、五重くらいにとってある。これもHDからミニSD、USBとどれがいちばん新しいバックアップかが判らないくらいに小分けにしてバックアップをとってあるので、やはり頻繁に使うHDを固定しておくと何かと不便をしない。満杯であってもデータに優先順位をつけておけばつねに、重要度の高いデータしか入っていない状態を維持できるので、好ましい。月一くらいで優先度の高い上位のデータを、バックアップ用の機器にコピーしておけばそれで済む。いまのところデータの損失で痛い目に遭ったことはない。さいあく、どこかしらにデータは残っているし、失われたデータであっても、それは失われても構わないデータであるし、制作中の小説データであっても、たいがいは五万字以上になったらバックアップをとるようにしているので、それ以下ならば、全改稿と思って、最初からつくり直せばよい話であるし、もっと言えば、もういちどつくろうと思えないようならそれだけの物語だったと思ってボツにしてしまうのも一つだ。記憶がそうであるのと同じように、データも優先順位をつけて、ある程度、頻繁に使うデータとそうでないデータを仕分けておくと、情報の鮮度を保つのに役に立ちそうだ。片っ端から記憶していくのも一つの手法かもしれないが、それでは連想の幅が限定されてしまいそうだ。フォルダ分けして、各フォルダのなかにおいても、とくに頻繁に使用するデータの位置を把握しておくと、フォルダをまたいだ状態であっても、あのデータとこのデータは、共通する部分があるから、新しく「××」というフォルダをつくって仕舞っておけるな、と関連付けることができる。要するにこれが連想であるし、発想であるし、抽象化でもある。より遠くの、何の関連もないフォルダ内のデータ同士を結び付けられれば、それだけで小説一本をつくるだけの発想の種が生まれる。そうした発想の種をいつでも無数に生みだせるか。ワープに似た飛躍の能力が、虚構を編むためには役に立つのかもしれない。
2340:【読解力がゼロ】
識字障害の一種なのかもしれないが、家のそとなど情報量の多い場所を出歩いているときに文章を読み解くことがむつかしい。独りになれないと本を読むこともできない(イヤホンで耳を塞ぎ、安心してじっと座っていられる場所であれば、人混みのなかでも本は読める。したがってカフェなどの店内の座席や公園のベンチであれば本を読むことは可能だ)。集中できなくなるからなのか、そばにひとがいるだけで文字の読解が困難になる。目のまえに「土足厳禁」と書かれていても認識できなかったりする。だからたとえば商品の値段や説明なども、そこに文字があることは理解できるが、文章として読むことができなくなる。どこをどのように読めばいいのかすら判らなくなる。これは人と会話するときも同じで、一対一であればなんとかしゃべられるが、複数人でしゃべっていると、誰に何を言っていいのか、或いは言ってはいけないのかの判断が困難になるため、しゃべらないでいることを選択しがちになる。基本的に、世間話はしなくてもいい会話だと考えている。情報交換であればまだ理解できるが、そうでない会話をどのようにすればいいのか、何をしゃべれば相手を傷つけずに済むかがよく解からない。多少大袈裟に並べてしまったかもしれない。学習すれば、ある程度、読めるししゃべれるようになる。コンビニなどはだいぶ楽だ。造りが似通ったチェーン店はだからとても安心する。同じ店ばかりいくのもその影響なのかもしれない。買う物もほぼ毎回同じなので、店員たちのあいだであだ名をつけられていることだろう。リュックのひとと呼ばれていたこともあったが、いまはどうだろう。さすがにおいそれと本人に聞こえるようには言わないようだ。不快な思いをさせていないとよいけれど、とたまに考えるが、こちらがどのように振る舞おうと不快に思うひとはいるところにはいるもので、まあ、なるようにしかならない、と開き直ることもときには必要なのかもしれない。店員さんたちが忙しそうなときには店のまえを通り過ぎて買い物をがまんすることもあるが、そちらのほうが店としては不利益を被るだろうから、この点に関しては悩ましいところだ。たいして悩むわけでもないけれど。
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参照:いくひ誌。【1371~1380】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886173854