※日々細胞単位で堕落していく。
1371:【カーテンをあける夜は砂のように】
この世界のどこかには、季節が四つもある国があるらしい。本で読んだ。でも本にはたくさんの嘘が書かれていることもあり、アテにはできない。「本当にそんな国あるの」「あるよ」「ウソじゃない?」「ウソでもここでは関係ない」姉は手で髪を梳かすようにする。窓から差し込む日差しが姉の髪を新緑よりも深いエメラルドグリーンに輝かせている。わたしはそんな姉の話を聞くのも、もちろんお世話をするのだって大好きだ。姉は年がら年中ベッドのうえで、異国の書物に目を落としている。きっと姉にできないことはない。身体まで元気だったら、わたしなんか必要としてくれなくなる。だから姉がベッドのうえでしずかに本を読んでいる姿を見ると、わたしはいつも胸がほっこりしたあとで、チクリとちいさな痛みを覚えるのだ。(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886179000)
1372:【短編のつくり方その2】
脳内でいちど物語のはじまりから終わりまでを映画のように思い描いてから、それを文字に落としこむことで短編にする手法を用いると、いくひしは以前述べた。もちろんそれ以外の手法もある。たとえば題材だけを決めて、オチを定めずに、文字の赴くままにつむぐこともある。山・消しゴム・マンゴー、と無関係の単語を三つ選んで、ひとつの物語に結びつける手法は、どこかのショートショートの名手がかつて取り入れていた創作法だと、何かの記事で読んだ憶えがある。うろ憶えなので、細部は間違っているかもしれない。いくひしはキャラクター設定というものをつくらない。年齢も、容貌も、だいたいこんな感じ、とある程度の幅を持たせている。細部は完全に読者の想像に委ねているというか、丸投げしているので、いくひしの小説が世に広く膾炙しない要因の一つに、人物描写不足があげられるかもしれない。前にも述べたことがあるが、短編の場合はいっぱんに、物語の一場面を切り取るほうがよいとされている。いくひしのように、長編をギュギュっと圧縮してつくる手法は邪道として扱われる傾向にある。プロットとどう違うの?となるからだろう。いくひしにしてみれば、プロットもまたそれでひとつの作品だ。脳内にある物語を文字に興す時点で、小説もプロットも大差ない。ならば短編と長編も大差ないし、そこにある差異は、どんな情報を削ぎ落とすのか、という選択の差でしかないと呼べる。また、人気のでる物語の特徴として、「一文で内容を言い表せられるもの」といった主張がたびたび聞かれる。編集者界隈では、常識として扱われているようにも見受けられる。だがいくひしからすれば、生存バイアスまたは確証バイアスの一種ではないだろうか、と懐疑の眼差しで受け止めている。たとえばなんでもいい、世に広く受け止められた物語を一つ思い浮かべてほしい。ここでは先日TV放映されたディズニーアニメ映画「ズートピア」を俎上にあげよう。百人の人間にズートピアはどんな物語だったか、と一文で要約してもらった場合、どれだけの一文が合致するだろう? 実験してみなければ分からないが、おそらく一割も合致しないのではないかと思われる。思いつくままに羅列してみよう。ためしにあなたも考えてみてほしい。つぎの一文のなかにあなたのつむいだ一文と同じような文章があるだろうか。「キツネとウサギが事件を追って、仲良くなる話」「正義感のつよいウサギが、詐欺師だがやさしいキツネと出会い、自身の内側にも差別や偏見が根付いていることに気づく話」「黒幕に踊らされるも、ウサギの警官が、相棒のキツネと共に真実を解き明かす話」「差別は人を傷つける、という話」「人を見た目で判断してはいけない、という話」「断片的な情報だけで判断すると、手ひどいしっぺ返しを受けるという話」「女性が社会進出し、男性優位な社会に打ち勝つ話」「詐欺師のキツネが、まっすぐな心根のウサギと出会い、いちどは裏切られるものの、素直に間違いを認めるウサギの純粋さに触れ、過去のトラウマを払しょくし、前向きに人生を歩みだす話」「暗い過去を持つキツネが、ウサギと共に事件を追ううちに、正義感に目覚める話」「キツネとウサギがかわいい話」「強者(多数派)は弱者(少数派)の苦悩には気づきにくいという話」「自分たちは虐げられていると不満を募らせる強者(多数派)が、ある一面では秀でているものの本質的には弱者(少数派)の苦悩を理解する話」etc。ざっと並べてみた。大別すると、ウサギを主軸に添える視点と、キツネを主軸に添える視点、それからテーマを主軸に添える視点と三つに分けられるようだ。一文で述べるとなると物語の構造には触れることができない。となると、一文に表れるものとは、その物語に触れたときに受動者が何をいちばんにおもしろいと捉えたか、と言えよう。しかしながら、何をおもしろいと捉えるかは、ネットが普及し、多様性の進んだ現代では、かつてと比較にならないほど相対的だと言える。どんな物語でも、内容を一文で表現することは可能だ。かつては、多くの者が同じ視点を共有し、ゆえに抽出される一文もまた似通った傾向にあった。反して現代では、同じものを見ても感じ方が真逆であったりするほど、物事の見方が多様化し、複雑化している。乱反射し、分散したそれら主観のスペクトルを、ある一定の枠組みに収束させる装置を物語に組みこむことこそが、これからの時代に必要とされる術ではなかろうか。ある作家は漫画の作中でこんなことをキャラクターにしゃべらせる。――原理は単純を、構造は複雑を極め、人はもっとも人らしく。いくひしはそれをここではこう言い換えよう。原理は「おもしろさ」、構造は「多様性を見据え」、人はもっとも狂おしく、描くことこそ、物語の進化を促進する触媒になっていく。複雑であればいいという話ではない。単純でいい。ただただ受動者に、新しいおもしろさを開拓してもらえればそれでよいのだ。そのためにできることをしていこう。生きることはつまらない。ただ、世界はこうも色とりどりのおもしろさに溢れていると証明する、流れる曲の楽譜こそが、物語という、言葉と虚構とひらめきの羅列なのだ。演奏者は言わずもがな、読者である。額縁からはみだそう。映らない画面のそとがわを創造するのだ。
1373:【サツマイモ】
親指くらいの大きさのサツマイモが目のまえにある。PCのよこ、手を伸ばせば届く位置だ。だいたいひと月前からずっとそこにある。ツイッターをはじめたのと同じ時期からで、料理で使って残ったサツマイモの切れ端を水の入ったちいさな受け皿に突っこんでおいた。いまでは芽がわさわさと伸び、なんだか小人の絵でも添えたら、それこそ画になりそうな外観で、生命力を感じさせる。苗として充分な萌芽だ。なんてことのない植物だが、ふとした瞬間に視界に入ると、なんというか、コイツはこれだけ成長しているのにじぶんはどうなのだろう、と思えて、やる気になる、なんてことはない。愛着くらいは湧いてきたが、だからといって土に植え替えたりするわけでもないので、枯れるまでそのままのさだめかもしれない。想像したらかわいそうだ。ツイッターは、はじめてからようやくひと月が経過した。いちにちに平均で130回のリツイートをしているようだ。これでも減らすように気を配っていたつもりだったが、それでもいちにち100回を超すツイートは、ツイ廃と呼ばれるようで、なんだか禍々しい響きに、こわくなってしまう。もうすこし減らすように心がけようと思う。それもこれもステキな絵をツイッターにあげる絵描きさんがわるい。いくひしはわるくない。ぜんぜん、まったく、これっぽちも。そうでしょ? そうだよね? うんって言え。ところで、いまつくってる物語が三つあり、いずれも現代を舞台にした人間ドラマだ。魔法や超常現象とは無縁の話なため、もっとこう、小柄な少女が悪者をバッシバッシ八つ裂きにしていくような物語がつくりたくなってきて、そのつど、あー、あー、と思考がブツ切れになる。よくない兆候だ。ただ、ブツ切れになった思考も、サツマイモのように、ひと月もするとたくさんの葉を萌やし、孤島じみた様相を呈する。だいじに育てたりせずとも、水さえやっておけばかってにそれらしくなっていることもしばしばだ。切り捨ててしまえばそれまでだが、そこですこしの水に浸け、時間を置いてみると、思いがけない愛着が湧いたりする。捨てるのはいつでもできる。ひょっとしたら放置した末に腐ってしまうかもしれない。しかし、長い時間を置いてみないとどうなるか分からないこともある。或いは、手をかけないことで却って、自然の神秘を感じることだってあるかもしれない。サツマイモはただひと月のあいだ小皿のなかで水に浸かっていただけだ。同様に、物語もそうやっておのずから葉を伸ばし、根を生やすものなのかもしれない。投げ捨てておくのではない。水に浸けておくのだ。情報の海から汲んできた水に。もしくは、内側から湧きつづける着想に。そのためにも、まずは目のまえのサツマイモを調理しよう。切れ端を得るために。放置するタネを選べるように。なにより、こうして書くことに困窮したとき、話のタネになるように。
1374:【無駄なこと】
無駄なことにも利用価値はある。余白として使えば、大胆に振る舞えるし、無駄な部分が大量にあれば、確率的にだいじな部位が傷つきにくくなる効果もある。いっぽうで、だいじでないからこそ、いくらでも使い捨てにできる利点があるため、試行錯誤するのに欠かせない素材となり得る。だいじな部位の代替物として一時的に補完できることもある。使い方しだいだ、という意味ではない。無駄なものにも明確に役割があるのだ。ならばそれは無駄なものではないのではないか、という指摘は正鵠を射っている。そのとおりだ。無駄なものとは、短期的に有用でない、という意味でしかない。この世に無駄なものなどはない。もうすこし言えば、必要なもの、価値のあるもの、という見方がおおいに幻想なのだ。ともすれば森羅万象の総じては無駄なものからできている、と言ってもいいかもしれない。あらゆるものは例外なく、何かに影響を与え、関係性を補完し、変化を促し、ときに進化に与している。無駄なものだと断じることは、いまこの場には必要ない、という保留にすぎず、いずれべつの場所では必要になるかもしれない点には意識を配っていて損はないだろう。だからといってすべてを等しく扱うのは現実問題不可能だ。無駄なものとそうでないものとの区別をつけておくのは、物事を滑らかに進めるうえでは欠かせない工程である。反面、必要になったときにすぐに調達できるものと、できないものがある。あなたが無駄なものだと断じたそれは、手に入れようとしたとき、容易に入手可能なものだろうか。希少なもののなかにも、お金さえ払えば手に入れられるものもある。世に陳列された商品は比較的容易に手に入る代替可能な代物と考えて差し支えない。しかし、たとえ希少ではなくとも、お金を払っても手に入れられないものもある。そこかしこに溢れていながらにして、どうしても手にできないもの。案外それは、過去のじぶんが無駄だと断じ、捨て、遠ざけてきたものではないだろうか。明確にこれと名指しするのはむつかしい。いくらか抽象的に言いすぎたやもしれない。とはいえ、なかなか的を得たじつに無駄な意見ではないだろうか。じぶんが何を切り捨て、無駄なものとのレッテルを貼りつけているのか、ときおり振り返ってみるのも一つの大いなる無駄である。適度に拾いあげ、活用していきたいものである。
1375:【じっしつ何も言ってない】
びっくりしたー。無駄なことがなに? どうしたの? 中身のないこと言わせたらマンちゃん、あなたピカイチね。
1376:【ギア全開】
Clean Bandit - Show Me Love feat. Elisabeth Troy
1377:【じめじめ、うじうじ】
誰とも繋がらずに生きることはできないだろうかと考えると、行き着くのは、搾取していることにすら気づかれずに他人から搾取しつづけて生きることなのだと、ただただそうなるほかにないのだと結論するさきに分かれ道はなく、そのたびに肩を落とすのだが、ゆいいつの例外として、すべてをじぶん一人でこなせば誰とも繋がらずに生きていける、それこそ孤島にでも移住し、自然のなかでただ一人きりで生活すれば叶うのだが、ともあれ、それはそれで自然という有象無象の生き物の複合体から一方的に搾取している構図に変わりはなく、とどのつまりは、生きるというのは、規模の違いこそあれ、ナニモノカを食い物にし、搾取するほかにないのだと気づくじぶんのどうしようもない不甲斐なさ、脆弱さ、無力さにうちひしがれることから逃れるために、人は、感謝や恩や繋がりといった社会性を持ちだし、己が罪悪感から目を逸らし、逃避するほかに、搾取しつづける己が卑しさを受け流す真似はできないのだろうか、なぜ人は、みなは、苦しさを覚えずにいられるのだろう、それともこの深い泥のような罪悪感と闘い、打ち勝ち、或いは負けつづけていながらにして「生」を全うしようとするしたたかさ、堅牢さ、柔軟さを兼ね備えているとでも言うのだろうか、不甲斐ないのは私だけで、脆弱なのは、無力なのは私ばかりで、そんな世のなかではますます私はうちのめされ、ぺしゃんこになるだけではないか、と自棄になり、むつけ、閉じこもるたびに、ああ誰とも繋がらずに生きていきたいとの思いが募り、重なり、分厚く層を成していく、地層のように、大地のように、人はみなそれら球体を覆う膜のうえに生を活し、営み、継続する盲目の名を、私は「人の生」と呼びたくはない。誰とも繋がらずに生きていきたい、そう思うことなく、生きてみたい、わがままな私はここに、文字に、虚構の小箱に置いていこう、じめじめと、うじうじと、いまは雨季、雨のよく降るそらだこと。
1378:【画質とは】
カメラきました、注文してたやつ。デジカメです。デジカメって言うと、なんかそういう種類のカメっぽいですが、電子機器です。言わずもがなで、なんで注釈挿した?みたいなツッコミがきそうですが、きたことはないです。さびしいくはない。さびしくはないよ! 万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんですからね、そりゃーね、コメントつかない、評価されない、誰にも必要とされたことがない、なんて三重苦も、まったく苦にならない。慣れっこですからね。どんとこいやー! みゃい。なんの話だっけ? そうそう、デジカメですよね。いくらか撮ってみたんですよ、さっそく。でもなんか、こう、PCに取りこんで観てみると、画質がね。画質さんが、前の機種のほうがよさげなのですが、なにゆえ? 画素だってこう、何百万画素も増えているはずなのですが、大きさだって、こう、半分くらいにちっこくなっているのだが、チミ、ひょっとして使えないのでは? ややや、そんなことないよね、だっていくひしさんの使ってた古っちいほうの機種、かれこれ七年?とかそこら使ってますから、そんなそんな、いくら安いからって、性能で劣るわけがあったらこまるんですけどー!!! 使いこなせてないだけなのかなぁ、よぉわからん。ホント、画質が荒くて、なんでそんなにモザイクっぽいのって、なめらかじゃないのって、どうしたのチミーって肩揺さぶりたくなるんですけど。カメなので肩がないというか、甲羅なんですけど。ややや、カメじゃない。カメラですよね。デジカメです。こういうとき、どっちのカメラを使って撮ればいいのか迷っちゃわない? 古っちぃのはバッテリィの保ちがよろしくなくて、撮ってる最中にかってに切れたりして、なんだおまえーってイチャモンつけられたりしてって、そういうキレるではないですし、むしろこっちが、なんだおまえーってなりたくなるのよね。なるか? なって! だからまずは新しいほうで画像なり、動画なりを撮っていきたいと思うのだが、いまさらながら、インスタめんどくさ! はじめたくないなー。いくひしさん、ツイッターでいっぱいいっぱいなんですけどー。インスタはじめたくないなー。んー。描いた絵でもあげてく? へたっぴだからやだわ。やだやだ。てかね、登録がまずめんどい。今からサクっとやってみます? やってみますかね。よしきた。やってみました。えーとですね、まず知らなかったのですが、インスタグラムってスマホ限定のサービスだったんですね、PCからは投稿できないらしいです。でも裏ワザはあるところにはあるようで、「User-Agent」を使えばPCからでも画像を投稿できるようになるそうです。「User-Agent」とはなんじゃらほい?となりますよね。いくひしはなりました。で、サクサクっとクッキー齧りがてら検索してみたら、どうやら任意のWEBサイトへ送る情報を偽装できるツールのようです。PCからアクセスしてますよーという情報を、スマホからですよーと偽れるらしいのですが、え? それって違法ではないの? 違法ではないようです。いまの時点では。でもいくひしの勘が言ってる。これ、たぶんしばらくしたら違法になるのでは? そんな気がする。だって、ねぇ? 情報の偽装はこれからの時代、どんなものであれ死活問題になってくよ? 致命的なバグを引き起こす火種になり得るよ? いまのところはだいじょうぶなようですけど、すこしばかし警戒したほうがいいような気がするぞ。そもそもインスタのほうの規約に抵触するのでは? 疑問形ばかりが積み重なるいくひしさんですが、きょうもきょうとて、まとまりのない戯言を連ねていくのであった。まる。画質とは、のタイトルはいったい……。ひとまず、インスタ登録しましたよーのご報告まで。(インスタグラム→
https://www.instagram.com/stand_ant_complex/)
1379:【着ぐるみ】
子猫はかわいい。しかしいくら子猫でも、子猫らしさのない子猫は手放しでかわいいとは言いにくい。子猫らしさ、とは社会に蓄積された共通認識や、人生を通して学習した抽象概念だと呼べる。ひるがえっては、概念としての「美」や「愛らしさ」は、文化によって形成されるものだと言えよう。女性と女性性は切り離して議論しなければ、「美」や「愛らしさ」を語ることはできない。同様に、男性と男性性もまた別個のものとして扱う必要性が現代では増しているように感じられる。女性性や男性性は、もはや生物学的性差によって付与されるものではなく、また社会的に転写されるものでも、ましてや峻別されるものでもないのだ(「女性性」「男性性」共に、新しい呼び名があると好ましい)。ところで、男性しかいない職場に、女性に扮した男性社員をつくりだし、生産性の向上をギャグで演出した職場がネット上で俎上に載せられているのを目にした。議論になるのは納得できるし、するだけ無駄という類の問題ではないことはあらかじめ述べておく。とはいえ、組織に複数人「子猫じみたシンボルマーク」を身に着けた者がいるだけで生産性があがるのならば(もちろんそういった統計がとれていればの話だが)、それはそれで構わないのではないか。問題だとすれば、その「シンボルマーク」を身に着ける者がどのような基準で選ばれるか、による。性差に関する問題を議論するときには、「女性」対「男性」の二項対立に陥らないように気を払いたいものである。(繰り返しになるが、特定の「シンボルマーク」を身に着けた者がいるだけで生産性があがるとの実験結果が報告され、再現性が認められていれば、の話である。件の話題では、企業側がそれをギャグとして扱っている。もっと慎重に、或いは真剣に扱うべき題材だったと言えよう。そもそも企業がギャグを放って得る利は、その結果つきまとうリスクに見合うとは到底思えない。個人間での倫理がアップグレードされつつある現状、企業倫理が改めて問われる時代になったのだ。これまで生きづらかった人々が生きやすい世の中になっていく。もちろん息苦しさを新たに覚える者たちもでてくるだろう。つど、議論を展開し、収束させながら、より適切な社会倫理を再構築していってもらいたい。息苦しさを分かち合おう。生きやすさを求めよう。生きづらければ声をあげ、改善点を伝えよう。もちろん沈黙する権利は揺るがない。誰に何を言われようと、じぶんの生き方はじぶんで決められるよい時代になったのだ。人生の幅はこれからますます広がっていく。つぎの世代にそう伝えられるように、まずはじぶんがそう、ありたいものだ。押しつけられた着ぐるみなんて、いつ脱ぎ捨てても構わない。好きなものを身に着け、好きなときに脱ぎ去ろう。むろん、全裸になろうという意味ではないよ)
1380:【まぁた言ってる】
マンちゃんあのね、そうやってチラっと一瞬だけあたまよさげなこと言うのはいいけど、けっきょくまとめたら、話し合いはだいじってことだけでしょ。あなた、だって、徳川家康が何時代に生きてて、なに幕府つくったのかも知らないくせして、口だけは達者だよね。それに騙されてくれる人がたまーにいるかもだけどさ、それぜんぜんフリだから。みんな気ぃつかって、マンちゃんのこと構ってあげてるんだから、傷つかないように、すごいねーってやってあげてるだけなんだから、勘違いしないでよね。べつにマンちゃんのために言ってるわけじゃないけど、だって恥ずかしい思いするのがマンちゃんだけならいいけど、そうじゃないでしょ。あんまり恥じかかせないでよね。ホントなさけないんだから。
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参照:いくひ誌。【231~240】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882083997