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いくひ誌。【1381~1390】

※日々自我が薄れていく、消えることなく、モヤのように。


1381:【二人の世界】
ヤマシタトモコさんのマンガ「違国日記2巻」を読んだ。マンガ「早乙女選手、ひたかくす6巻」と小説文庫本一冊をいっしょに購入したのだが、「早乙女選手、ひたかくす」は、巻を増すごとに腹筋女子こと早乙女さんの魅力がうなぎ昇りで、相方の男の子もまったく嫌な感じがせず、ついつい、「あらあら、うふふ」となってしまう。次にくるマンガ大賞候補作のなかでは「五等分の花嫁」「将来的に死んでくれ」「ジャヒー様はくじけない!」「怪物事変」「モブ子の恋」に並んでイチオシだ。仮にそのなかから二冊しか買えないのだとしたら、「モブ子の恋」と「早乙女選手、ひたかくす」をまずは購入する。きょうのいくひしのきぶんてきに、ではあるけれど。さて「違国日記2巻」についてだ。泣いた。泣いてしまった。くすりときて、ほろりときて、子犬系女子かわいいでちゅねー、となりーの、お姉さまかっこええ、となりーの、なんだかんだでまた1巻をとりだし、とおしで再読しなおしてしまった。おもしろさが衰えない。なんて贅沢な物語なのだらう。小説家が主要キャラのうちの一人なのだけれど、ほんとうに、こんなひとのつづった物語なら読みたいな、と思わせてくれる魅力的なキャラづくり、演出がなされており、うつくしい言葉がどんなかまったくわからないと豪語しきりのいくひしであっても、そのキャラのつむぐ言葉はなぜか、うつくしいと思えてしまう。セリフからモノローグから、一分の隙もない。むしろ隙だらけなのに動けない、といった剣の達人をまえにした感動がある。もうひとりの主要キャラ、身寄りのなくなった中学生女子もまたよいコで、がんばり屋さんで、かわゆくて、感情がコロコロと飴玉のようで、バリアで囲って守りたくなってしまう無垢さがある。胸に手をあて、考える。ひょっとしてこれが母性か? あざとさが皆無のかわいらしさの見本にしたいキャラクターだ。さいきん気づいたのだけれど、いくひしがここ半年で好んで目を通している物語では、登場人物二人の関係性に注力したものが多い。なんでじゃろ? 組織のなかでうまく立ち回るような物語には飽きてしまったのか、見たくないな、となっているのやもしれぬ。百合やBLが一部で熱狂的に受け入れられているのも、あなたと私だけ構文で物語がすすんでいく傾向にあるからではないのか。なんとなくだがそう思う(むろんキャラが多数登場する群像劇じみた作品もすくなくはないのだろうけれど)。同人二次創作でも基本的には、物語から任意のキャラを二人抜きだして、密な関係性を描きあげることに熱烈する方が多いのではないだろうか。キャラクターを複数登場させる場合でも、まずは二人一組をつくり、関係性を掘り下げることを意識して物語を展開すると、いくひし好みの物語にしあがるな、と思った。なにが言いたいのか。つまり、違国日記はすばらしい。ほっとするのだ。太陽がきょうもまた昇り、沈みいくように。雨が降り、やみ、そしてまた降ることが約束された世界のように。すばらしさとは、ただそれしきのこと、ゆえにやはり、すばらしい。


1382:【一卵性双生児】
一卵性双生児であっても、ヒトゲノムに差異があることが分かってきている。とくに非コードDNA領域と呼ばれるたんぱく質を合成しない領域では、遺伝子増幅と呼ばれる、遺伝子の複製のコピーが行われ、その数の違いが身体的差異や特定の遺伝的疾患のかかりやすさに関係しているとみられている。一卵性双生児であっても、いっぽうではガンになりやすいが、もういっぽうはそうでもない、といった体質の偏りが生じる。おそらく、クローンでも同様に、完全に同じ素体を持つコピーは造れない。ただし、ゲノム編集技術の向上によっては、百パーセント同じDNA配列を持つ素体を造りだせるようになるかもしれない。とはいえ、ゲノム編集を施した、という外的因子が加わった時点で、まったく同じ遺伝子とは言えないだろう。ヒトゲノムのように膨大な数の情報を扱う場合、ちいさな影響でも、回り回って全体では大きな変質を伴う。カオス理論の初期値鋭敏性と呼ばれる現象である。(素人の戯言です。真に受けないようにおねがいします)


1383:【好き嫌い】
最初に表現に惚れていれば、相手がどんな人間であっても、よしんばどんなに人間として最悪でも、その表現を創作しつづけてくれさえすれば、好きという気持ちは揺るがない。だが、初めに相手へ苦手意識が芽生え、それから、どんなに好みの表現を発する人間だったと知っても、相手を好きではないので、その表現も手放しで感受できなくなる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心理が発動する。本来、表現はその発信者とは独立して評価すべき事柄だ。いくひしはそう思っている。もちろんその人物だからこそ放たれた表現ではあるだろう。独立して存在するわけではない、切り離せるものではないのだ。表現と表現者の関係性はそういうものだと思う。しかし、それでも人物と成果物は切り離して評価したほうが好ましい。たとえその人物が凶悪犯でも、人類史に名を残すほどの虐殺の独裁者であっても、赤子をサッカーボールの代わりにして遊べるニンゲンと呼ぶに値しない人物であっても、表現とそれを発した人物は別個の事象として扱うほうが総合して損をしない割合が高くなる。じっさい、世に名高い偉人の多くは、けっして聖人君子などではなかった。人物の素行よりも、その人物の残した成果が評価された結果に、偉人は偉人として語り継がれるのだ。誰が口にしても真理は真理である。ゆえに広く人々に、時代を越えて、重宝される。人物の名が残るのは、その発見に対しての敬意を表しているからであり、本来、名は残さずとも構わない粗末な補足事項だと言っていい。繰りかえしになるが、表現と表現者は別々に範疇し、扱ったほうが好ましい。なぜなら、人物への評価に影響されない表現ほど、真理にちかい本質を有しているからだ。言い換えれば、ふだん我々が取り逃がしている成分を捉え、描きだしている。閑話休題。表現と表現者を切り離して扱うことができるいくひしでも、さきに表現者へレッテルを貼りつけてしまうと、どうしてもその人物の表現をすなおに受け入れることができなくなる。表現をさきに受け入れ、惚れてしまえば、表現者がどんな人間性を有していてもその表現への評価は薄れない。だが、その逆はむつかしい。そのため、なるべく特定の人物を嫌わないように心掛けている。心掛けなければならない時点で、人間として未熟な証である。とはいえ、いくひしと、いくひしの発する表現はイコールではない。未熟であっていけない、なんてことはない。見逃している色彩、或いは見逃されている情景を掴み、こね、カタチにしていきたいものである。


1384:【伝えたいことなどない】
ぼくちゃんの本質は、伝えたいこと何もない、ということなのよね。ぼくちゃんが考える程度のことは、ぼくちゃんでなくとも考えつくことであるし、もうとっくにどこかの誰かが考えたことのあることばかりで、なんら新鮮でも、珍しくも、ましてや貴重でもなくて。ならばなにゆえ文字にしたため、他人様の目に触れられる場所に更新しているのかと言えば、なぜなんじゃろう? なぜじゃ? わからん。なんかこう、やっぱり褒めてもらいたいのかな? 認めてほしいのかな? よーわからん。ぼくちゃんこんなこと考えたよーみてみてーってそういうことなんじゃろか。お金かせげるわけでもないし、言うても、そんな読まれてるわけでもないし。じっさいPVとか100とかありますけど、全文読んだ人とか、一人いるかいないかとかそれくらいだと思うのよね。なんのためにそんなことしてるの、って聞かれるとこまっちゃう。なんのためなんじゃろ? でもたとえば、この世にじぶん一人しかいなくて、もう人類はぼくちゃんだけだよってなったとき、じぶんのすることのだいたいは、もうなんの意味もないことで、誰のためにもならないことで、自己満足とも呼べない、せいだいな暇つぶしとしか言いようがなくない? かといって生きるのでせいいっぱいだったりして、つぶす暇なんかなくって、じゃあなんでそんな無駄なことわざわざしてるのって、なるのよね。たのしいかって聞かれるとすこしまいっちゃうなー。だってそんな、わーい、うひょひょーってなるほどのたのしさじゃないし。もっとたのしいことはたくさんあるし、どちらかと言ったら、たのしさよりもむなしさを感じるほうが多いかもしれないでしょ。そしたら、なんでそんなことやってるの、もうやめたら?ってなるよね、ふつうだったら。でもなんないんだよねー。なんでじゃろ? 排泄行為みたいなものかもしれない。べつに排泄物を他人様に食べてもらいたいわけじゃないし、だせないならだせないほうが楽だけど、でもださないときもちわるいし、その瞬間は、なんだかんだ爽快感があるから、きもちよくないってわけじゃないけど、やっぱりどこかむなしい行為だなとは思うのよね。おなじだね。ぼくちゃんにとって、こうして文字を並べて、なにごとかを表現するのは、ほとんど排泄行為なのよね。ださないと、具合がわるくなってしまうから、しょうがなく、そうするほかにないから、してるようなもので、やめられるならやめたいし、なければないほうがいい、でもそうしないと病気になっちゃうから、まぁ、苦痛というほどでもないし、一瞬だけならきもちよいとも言えるわけで、そんなこんなで、排泄物みたいなものなんだなって。そんな文章、どうしたら他人様に読ませられるだろう。読ませたくはないのよね。読みたくだってないだろうし、ときおり、人間ではない植物みたいな存在に、堆肥代わりにしてもらうくらいがちょうどよくて、堆肥になりたいだなんて思っているわけでもないのだけれど、生きているかぎりは、なんだかんだ、排泄していくほかにはないのだなぁと、きょうのぼくちゃんは思ったのよね。


1385:【熱中症に注意】
インスタは七月からはじめます。写真に短いウソっこの文章つけて、画像&ショートショートみたいにしていこうと思います。あと、いくひし今週のはじめ、月、火、とめちゃんこ体調わるくてですね。なんでだろー、なんでだろーって、赤いジャージと青いジャージが踊り狂ってたわけなのですが、それはテツ&トモですよね。若い子はもう通じない芸人さんなのかな。で、きょう、自転車こぎこぎしながら、はっとしましたよね。熱中症だったかも。いくひし、熱中症になってた可能性大ですね。や、毎年、なんだかんだ季節の節目はまいかい体調いったん崩すんですけど、なんかそれでサナギみたいに身体の内側からつぎの季節モードになるでぇ!みたいな感じになるの、ほんと、うそじゃないよ。で、こんかいのもそれかなぁ、でもそれにしては身も心も死んでたなぁ、なんて首ひねってたら、なんか熱中症って、脱水症状が悪化してもなるみたいで、頭痛がひどくなるのも症状のひとつらしいですよ? はい。で、いくひし、ちょうど土、日の二日間、ヨッタ汗かいてまして。かるくTシャツ六枚消費しましたよね。いちにちで、ですよ? ふだんはいっても三枚とかなんですけど、まだいきつけの遊び場の冷房がかかってなくて、どこのサウナだよ!みたいな感じのなかで、びしゃびしゃになりながら、あじぃー、あじぃーってなってた。それだな。熱中症でした。水分補給してください。こまめにね。塩分とるのもお忘れなく。あとやっぱり、睡眠はだいじですから。なんもしなくても人間、二十時間起きてるだけで疲れますからね。寝てください。ホントだいじですから。寝ましょう。夜更かしなんかしたらだめだよ。徹夜と友になっちゃ、こらーだからね。テツ&トモみたいに、病んでやろー、病んでやろーって、心と体があっという間に、ムンクの叫びになっちゃうんだから。気をつけるんだぞ。いくひしさんとの約束だ。きょうはもう寝る! えらい! おやすみー。


1386:【主役以外不在】
「これは俺の人生だ。おまえにできることはない」


1387:【物語強度】
ここ半年、好きだなーと思う物語の特徴として、キャラクターたちが物語に立ち向かおうとしない作品が増えてきた印象がある。物語はキャラクターたちを終点に導くために、あれやこれやと試練や苦難を浴びせるわけだが、キャラクターたちはそんなことなどおかまいなしに、目のまえのじぶんのことだけにいっぱいいっぱいになっている。なんだったらキャラクターたちにとって物語全体のことなどどうでもよく、じぶんの人生にしか興味がない。世界滅亡の危機があと半年後にやってくるよ、となっても主人公はあすデートに着ていく服を悩んでいる。そういった、大きな流れに惑わされない、器のちいさな、不真面目にマジメなキャラクターたちが、人生を謳歌しつつ迷走しつつ、そのついでに大きな物語に打ち勝つ話が読みたいな、と思うことが増えた。使命感なんてキャラクターたちにはこれっぽっちもなく、おまえまじ空気読めよ、まじウザいな、と言わんばかりに運命を退けようとする人間の底の浅さが、結果として裏目の裏目にでて、よくないこともあったけども、そのおかげでなんとか、すこしだけよくなった、かろうじて絶望は避けられた、私の人生はしっちゃかめっちゃかなままだけどな!みたいなのが、今すごく読みたいな、と思っている。いま創作中の物語がそういうものではない分、余計に喉が渇いているのかもしれない。物語はときに運命として、キャラクターたちをオモチャにする。だが、生真面目に向きあう必要は、じつはキャラクターたちのほうにはなかったりする。よしんばあったとしても、それを選ぶ権利があってよいはずだ。いまはそういう時代への節目の時期である。運命に、システムに、さだめに従う道理が、薄まってきている。従わずともすむくらいに豊かになりつつあることの裏返しでもある。ただし、充分ではない。だからこそ、物語のなかでくらい、宇宙の覇者が赤ちゃんプレーを楽しんだり、勇者が着せ替え人形にのめりこんだり、お姫様が魔界暗黒武術界優勝を目指したりしてもいいはずだ。そのかたわらで、宇宙が存亡の危機にさらされていようと、父親は赤ちゃんのおしめを替えなければならないし、母親はトイレの内蓋を閉じたまま小便をする夫に腹をたてるし、子どもはこっそり庭で、妖精と出会い、友情をはぐくんでいたりする。父親は宇宙の覇者のおしめを替え、母親は勇者に女性の心理を諭し、幻想をアップデートさせ、着せ替え人形の極意を授ける。そのいっぽうで、子どもは妖精と共に、魔界暗黒武術界に参加し、決勝戦で、宇宙の覇者の愛娘たる姫と闘い、熱い友情を築きあげる。宇宙の覇者は、父親にメロメロで、勇者は剣を捨て、人間相手に着せ替えをすべく政治を正そうと立ちあがり、子どもは戦友かつ親友となった姫と、ふたたび拳を交えることを誓い、それまで互いに切磋琢磨することを約束する。宇宙の覇者はしばらくの休養を決意し、勇者は使命感を放棄し、姫は宇宙の安寧を、父親へ確約させる臍を固める。父親と母親と子どもは、久方ぶりの家へと戻るが、ふしぎとほかの家族に叱られることはなく、なにごともなくまた日常がつづがなくつづいていく。父親は赤ちゃんのおしめを替え、母親は洗濯物を裏返したまま放置する夫に業を煮やし、子どもは庭でしずかに、妖精との別れを体験し、一歩おとなへ成長する。そういう物語があってもいい気はするが、なんだか読みたいものとは様相がちがった気もする。何はともあれ、キャラクターが人間である以上、そこにはその人物の人生がある。物語のための人生にならぬように、キャラクターたちにはとことん不真面目にマジメな生き様を貫いてほしいと思う。直線でなくてもいい。曲がっていたって穴は穴だ。貫き方にもいろいろある。それぞれの人生を覗かせてほしいな、ときょうはそんなことを並べながら、思ったのだった。


1388:【はっくつ】
2018年げんざい、スマホを所有している人間の九割以上は何かしらの表現をネットに向けて発信していると言ってよい(ホントか?)。読書を嗜好する人間なら、まいにち何かしらテキストを吐きだしているはずだ。まいにち文字を並べることがなんら特別な技能ではなくなってきている。希少性はなく、優位性も薄まっているのが現状だ。文字が溢れても読書人口が増えるわけではない。すくなくとも人口を超えることはないのだから、テキストの分量が増えれば、必然、じぶんの吐きだす表現や情報は人の目に触れる機会を失くしていく。反して、溢れんばかりのコンテンツの山から宝石を探しだす手間を人々は惜しむようになっていく。ランキングやバズったデータにのみ刹那的な目を向け、消費し、愛好することなくつぎなる糧を求めるようになる。ネットが普及する以前にもそういった流れはあったはずだ。しかし現在は、その発掘する手間を担うはずの版元のチカラが弱まってきている。ネット上ですでに発掘されたコンテンツを二番煎じがごとく、本という箱に仕舞うことを生業にしはじめている。そういった手法があってもいい。だがそれに頼ったのでは、産業としてもしくはビジネスとして長くはもたないだろう。それこそ、SNSを運営する企業が出版能力を手にすれば、出版社に太刀打ちする術はなくなる。これは個人にもいえることだ。創作家としてもっともだいじな素養のなかに好奇心があげられる。つぎからつぎへと流れてくる情報の中かから、何に目を留め、何を見るのかは、そのままその創作家の個性に直結するといっていい。バズっているから、ランキングが上位だから、そういった指針に頼るようでは、みずから個性を枯渇させるようなものだ。これは逆の言い方もできる。人気があることを理由に目を向けないのは、人気があるからそれが好き、と言っているのと本質的には同じだ。サブカル指向の人間に、こうした同族嫌悪に陥っている者が多いように概観される。わるいことではないが、それで視野を狭めているのならばもったいない話だ。話が逸れた。現代は、どんな人間でも何かを発している表現者であると言っていい。消費しかしていない、と嘆く者であっても、そうした嘆きをテキストに興し、発信している時点で、表現者のうちの一人だと呼べる。まいにちなにかしらを創作しているだけでは、ほかの大多数の表現者たちのなかで優位に立てない。創作者として稼ぎたいのならばなおさらである。これからは創作家こそ、みずからつぎなる才能を発掘することが、頭角を伸ばすのに役に立つようになっていく。じっさいに売りにだす必要はない。この表現者は才能があるな、と見抜けるだけで、自身のセンスが磨かれる。どのように才能があるのかを言語化できれば、言うことはない。ほかの雑多な表現者たちと何が違うのか。どのように優れているのか。それさえわかれば、あとはじぶんの土俵に応用してみれば、おのずと成長の道が拓かれる。才能を発掘することは、みずからの可能性を広げることでもある。繰りかえしになるが、まいにち創作することはもはや他人を出し抜くメリットにはならない(むろん出し抜くためにやっているわけではないだろうが)。プラスαで、なにができるかを考えていこう。


1389:【言うても】
いくひしほど食わず嫌いひどいやつも珍しいけどな。な?


1390:【う、う、】
聞いてくれパリピポ。わいは、わいは感動したんや。人間はうれしくても涙がでるんや、そうなんや。藤のようさんのマンガ「せんせいのお人形」を読んだんや。WEB連載で、まだ単行本化されていないのだが、これがもう、なしていままで読んだことなかったの? あなたそれでも本読みのつもり?ってあたまのなかのいくひしさんが呆れ果ててるの、そうなんだよ、いくひしさんだってこういう物語つくってみたかったよ、こういうのだよ、いくひしに足りないのはこういうのなんだよ、読みたかった、わいはこういうのが読みたかったんや。うーうー。はぁー、まじでいいものを読んでしまった。いいものはね、なかなか言語化できないよ。いいとしか言いようがない。わかんないよ、ホントわかんない。なにがいいのかじぶんでもわかんない、なんでこんなに胸にくるのか、はぁー、もう、こんな感想並べるだけで、じぶんが嫌になってくる。物書きはね、まじで焦ったほうがいいよ。藤のようさんが努力型の天才なのは一目瞭然なのだが、それにしたってねぇ? 物書きでここまでのレベルで物語をつむげるひと、いまいる? いるの? いたらホント教えてほしい。読みたいからさー。や、比べるようなものではないよ? だって片やマンガで片や文章でしょう。でもね、負けてるよ。勝ち負けじゃないとは言いつつも、これだけの差を見せつけられたら、負けましたーってなりますよ。土下座ですよ。ジャンピングTHE・DO・ゲザですよ。ならないの? あなたあれ読んどいてならないのー??? あ、そっかまだ読んでないのね。そっかそっか。読めよ! 読んで!!! 物書きならいまじぶんがつむいでる物語を破り捨てたくなるからな。単なる小説好きなら、マンガのほうがよっぽど文学してるって気づかされるから。や、比べるもんじゃないんだよ、そりゃそうだよ、でも負けてるんだよ、これはどうしようもなく現実なのだよ、そこんところ自覚的になろうじゃないのよ、そうでしょ? そうだよ! やー、内容になんて触れられない。いくひしなんかが触れたらそれだけでうつくしさが損なわれそうなほどの繊細さに清廉さ、人間の醜さを描きながらも、清らかなものを掬いとっている、読んだひとが救われるような、あーだめだ、だめだ、こんな感想なんて蛇足でしかない、邪見でしかない、そうじゃないんだ、そうじゃないんだよパリピポーー!!! 読んでほしいけど、読まないでほしい。じぶんだけの特別な物語であってほしい、独占したい、そういう宝物になる物語がときどきふと目のまえに現れる。ツイッターやっててよかったー。いくひし、ヴァンホーテンのココアが好きなのだけれど、だからなんだって話ですよね。や、ほんとありがたい。藤のようさんのマンガ「せんせいのお人形」がひとつの理想形になった本日のいくひしまんでした。


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参照:いくひ誌。【141~150】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881584468

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