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いくひ誌。【11~20】

※日々おもったことをつれづれとつづるよ。


11:【メディアミックスの弊害】
数年前までは、コンテンツを競わせる土壌がWEB上にそれほど充実していなかった。そのため、アクセスランキングなど、読者の手による作品の選出が、そのまま極上のコンテンツの選抜に流用できた。いわゆる神の見えざる手が機能した。しかしWEB上に、そうしたサイトが氾濫した現在、読者の手による選抜――自然淘汰に期待する手法は、ほとんど意味をなさなくなりつつある。いわばNO1が乱立され、アクセスランキングそのものの信用度が下がりつつあるのが現状だ。そこで台頭してくるのが「賞」である。無責任で流動的な不特定多数の多数決に期待するのではなく、信頼のおける提供者の手によって、極上の作品を選抜する。言い換えるならば、従来の姿に回帰する方向に流れはシフトしていく(とはいえ、双方の利点を兼ね備えた「賞」であることは想像にがたくない)。読者賞やかつての本屋さん大賞などはまさにその先駆けとも呼べる。現在のWEB上でもこうした流れは顕著であり、あと数年もしないうちにもうすこし新しいカタチの「賞」が誕生し、コンテンツ提供者たち――すなわち出版社の権威を復活させるだろう(2016年現在、すでにカクヨムWEB小説コンテストなどがある)。ひるがえっては、そうしたWEB上の混沌化を見越したうえで対策を立てていかないことには、現在の出版業界はさらなる後退を推し進めるほかに進む道がない。もっとも、現在そうした「賞」の機能を担っているのがアニメ化などのメディアミックスであることを思えば、「アニメ化(映画化)しないものはつまらない」、或いは「アニメや映画が完成品であり、原作はしょせん原作である」といったレッテルがまかり通り、結果として自分たちの首を絞めることになり兼ねない懸念は押さえておく必要がある(媒体の差異に優劣をつけた時点で、メディアミックスはもろ刃のつるぎとなる)。もっともそれもまた2016年現在すでに、無闇に乱立する映像化によって「賞」としての機能が損なわれはじめている。現在、この瞬間、「賞」としての機能を有するシステムは、スマホのゲーム化である。が、これもすでに時代遅れとなりつつある。今さら乗っかったところで勝算は低い。ではつぎにすべきことはなにか。答えはいくつかあるが、実行するだけの価値があるのはいまのところ一つである。媒体の異なるそれらコンテンツをまとめあげ、一括して提供できる場をつくることである。小説、漫画、映像(アニメ、ドラマ、映画)、音楽、ゲーム。一つの作品を検索すれば、それらすべてが〝同一の規格〟で楽しめる環境がいまはまだ、どこにも整っていない。推測にすぎないが、今現在グーグルやアマゾンが目指しているのはまさにそこである。いち受容者としては、どこがまとめあげてくれても構わないが、できれば既存の出版社にがんばってもらいたい。守りを固めているだけではいずれ、遠からず、足場ごと掬われかねんよ、と控えめに注意を喚起しておこう。


12:【これが現実】
デビューできない、売れない、読まれない。すべては作品がおもしろくないからである。それ以外の理由はない。たといあったように感じてもそれ以外の理由はことごとく些事である。おもしろくない。それが理由だ。だからこそ、とにかくおもしろくしていくほかに、おもしろさを追求していくほかに、術はないのである。


13:【踏ん張り】
ぼくらは嘯かなければならない。古典なんて読まなくていいよ、と。今ここにある新作にそれらはすべて書いてあるから、と。でなければ読者は過去の名作を読むことにいそがしく、わたしたちの用意した物語になど目を留めてはくれない。新しいものが一番いい。今ここにあるものが新鮮なの、と胸を張れるように、だからおれたちは踏ん張らなければならない。


14:【短編プロット「ビショッジョ・ビジョ」の原型】
人類すべてを美少女に変化させるウイルスをつくりあげ、それを用いて全人類へ幸福な最期、すなわち絶滅を齎そうとする天才科学者と、そんな彼と立ち向かうことになる、「私以外の美少女などいらない」と豪語する美少女の話。
「私から言わせるとおまえなど美少女のうちに入らん」
「なんだと」
「これさえばら撒けば全人類はおまえを遥かに凌ぐ美少女で溢れかえる」
「そんなことになれば……」
「そうだ」
「あたしが世界一の美少女でなくなってしまう」
「ちがう。全人類は子孫を残せずゆるやかに死滅する。しかし誰もが美少女に生まれ変わり、美少女の伴侶を得る。しあわせな日常に身を置き、そして全人類が幸福に包まれながら絶滅するのだ。これ以上の人類の到達点は存在しない」
「ふざけるな。そんな真似はさせない」
「ならばどうするというのだ。私を倒そうとでもいうのか」
「バカを言うな。まずはあたしで実験する権利をおまえにやろう」
「それで?」
「美少女のあたしがさらなる美少女に変化する。それからおまえを退治する」
「……で?」
「あたしはまごうことなき人類史上において過去にも未来にも登場し得ない絶世の美少女として生きていく」
「で?」
「おまえにはその手伝いをさせてやろう。光栄に思うがいい」
「さてはおまえ、バカだな?」
「思ってても言うなーー!」


15:【ツンデレ本】
本なんて大っ嫌いだ。まどろっこしく、めんどうなうえ、手順を踏まなければ中身も改められない。やたらと偉そうで、ただそれを読んでいるだけで賢そうに振る舞える。漫画やアニメ、映画や絵画、まだそちらのほうがぼーっと眺めているだけで何かしらを感受できる点で優れている。そう、本はまったくこれっぽっちも優れてなんていない。じぶんががんばらねばどんな内容なのかも分からない点で、なにかが決定的に欠けている。小説なるものにおいて言及すれば、なぜ物語を提供する側の小説が、読者であるこちらに努力を求めるのか。もっとへりくだって、わかりやすく、踊りながらでも楽しめるようにおまえのほうこそ努力しろ。かような理由から、本を忌避しつづけてきた人生だ。今でもその思いになんら変わりはないが、しかし。努力することがわるいわけではないし、めんどうなことだって、それが好きならばおもしろい。二十歳を過ぎてようやく気付いた。まどろっこしくって、めんどうくさい。まるでツンデレ娘のような媒体こそが本なのだと。べつにあんたのために存在してるわけじゃないんだからね。高飛車なくせして、読まれることを秘かに、盛大に期待している。なんて小生意気でかわいらしいのだろう。そんな本たちに、小説に、読者たる貴君貴女は、しょうがないなあと重い腰を持ちあげて、ぞんぶんに甘やかしてあげてほしい。彼女たちは待っている。あなたの世界に生まれ落ちるその瞬間を。あなたの手により紐解かれ、展開し、あなたと共に生きることを。彼女たちは待っている。


16:【文学は死んだ】
情報氾濫社会、ことさらインターネットが身近なものとして普及した現代にあって、自分の力だけで問題を解決する、なんて都合のいい話はあり得ないと誰もが思っている。だからこそ万能型主人公の無双系フィクションがウケルというのはあると思うが、いっぽうで、けっきょくのところ〈私〉という存在は、多くの雑多な循環系を構成するための一要素、歯車の一つにすぎない、いや、砂山の砂塵の一粒にすぎない、という感覚は、かつてないほど卑近なものとして、拭えぬ虚脱感としてまとわりつく。そこを度外視して、これまでのような物語の文脈をあてはめようとするのは、それこそ時代を見ていないとしか言いようのない暴挙である。文学は死んだ。そうぞうせよ、時代を。


17:【明瞭ゆえの盲目】
これまで視えなかった何かが急に視えるようになることがある。悩まなくなったことの裏返しでもあり、だからこそそれまでいったい何に悩んでいたのかをいまいちど考えておくべき契機でもある。いつかきっとまた視えなくなったときのために。


18:【ならってなにならって】
「性的にでもいいから求められたい」
「性別は?」
「問わない」
「年齢は?」
「キャベツ畑から墓場まで」
「種族は?」
「体温があればそれでいい」
「ホントに?」
「しゃべられればなおいい」
「あなたビッチね」
「謙虚だと言ってほしい。わがままは言わない。差別もしない。愛されたい。ただそれだけ」
「さびしいひと」
「そう。さびしい。とても孤独」
「なんで片言なの?」
「泣きながらだと、こうなる」
「泣いてないじゃない」
「涙も枯れた」
「血も涙もない冷徹なひとなのね」
「血はあるからあたたかいですよ」
「あら丁寧」
「下手にでたのでいいよね?」
「なにやめて、近寄らないで」
「誰でもいいけど、いちばんはきみがいい」
「誰でもいいなんて言う人にわたしはなびかないわ」
「ならきみがいい。きみじゃなきゃいやだ」
「ならってなに、ならって」
「シカの多い県」
「奈良じゃないの、それは奈良でしょ。ばかにしてる?」
「すこし」
「もういや。消えて」
「目をつぶってみたら?」
「どうなるの」
「視界からぼくが消える」
「それはいい案ね」
「横まで向かなくていいのに」
「目をつむっているあいだにいやらしいことされそう」
「そんな度胸はないよ」
「……いくじなし」
「よく見抜けたね。さすがはぼくの恋人だ」
「付き合った憶えはなくってよ」
「なら、付き合おうか」
「ならってなに、ならって」
「京都の近くにある、おっきな大仏様が寝転んでいるところ」
「奈良じゃないの、それは奈良でしょ」
「きみのそういうノリノリなところも好きだ」
「わたしはあなたのそういう軽薄なところが嫌い」
「一途だよ?」
「ためらいなく言わないでくれない。ほら、鳥肌」
「きざったい?」
「刻みたい」
「ならいいよ」
「だからならってなに、ならって」
「きみにならいいよ。きみだからいい」
「……もうやだ。帰る」
「送ってく」
「ついてこないで」
「ならぼくが前を歩こう」
「何べんも言わせないで。ならってなに、ならって。脈絡なさすぎちゃんとしゃべって」
「こんど、いっしょに行こう」
「へ?」
「いっしょにせんべいをあげよう。シカに」
「奈良じゃないの、それは奈良でしょ……」
「はいどうぞ」
「なにこれ」
「切符」
「日付……この日……お休みじゃないのに」
「でも好きでしょ奈良」
「きらいじゃないけど」
「なら、休もう」
「だから、ならってなに……なら…………う~~ん……いきたい……かも」
「よし行こう」
「なら……いく」


19:【ちからとことば】
暴力を抑えるために理屈がある。しかし理屈が暴力のような脅威と化すと、それに対抗するために暴力が蔓延しだす。理屈を暴力のように振りかざしてはいけない。理屈と暴力の差は、構造的にいえば、それの用いやすさにある。理屈を使いこなすのは難易だが、暴力は比較的容易に、誰であっても利用できる。有効だというただそれだけの理由で、すぐさま蔓延してしまうのが暴力の特性だとも呼べる。反して理屈の場合は、それに対抗するために用いる理屈を構成するのに時間がかかるため、いったん冷静になるだけの時間が置かれることも利点のひとつである。いちど確定してしまえば、比較的長いあいだその事柄についての論争(闘争)を呼ばない点も基本的な性質としてあげられる。


20:【オリジナルの優位性】
事これだけ容易に精巧なコピーが量産できる時代にあって、オリジナルの優位性、或いは稀少性というのはどれだけあるだろう。モナリザであろうと、たとい本物が街角にそれとなく飾られていたところで、それに目を留め感動する者は少ないのではないか。芸術作品は美術館などの演出された空間に展示されることでその真価をより抵抗なく受動者へ示せる。小説もまた例外ではない。本という形態に展示されることで文字によって紡がれた物語は、その真価をより侵透しやすい形で読者へと届けられる。もはや演出なしにオリジナルはオリジナルとして君臨できず、ひるがえってはたとい模倣品であろうとも演出さえ施されれば本物以上に本物らしく感受され得る。だいじなのは本質ではなく、本質をいかにうまく本質足らしめるかという外部の努力、装飾にある。が、作り手としてはやはり本質を一番に考えていきたい。街角で飾られようとも、見る者を魅了できる、そんな作品を。

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