※日々のなかでおもったことをつれづれと駄々漏れ。
1:【つづけるということ】
ただつづけるだけならさほどむつかしくはない。何をどうつづけるのかが肝要である。
2:【ホンモノならば】
ほんとうにおもしろいものであれば、黙っていても人が集まる。多くの人の手に行き渡る。いくひしは、ぜひともその領域まで行きたいと望んでいる。宣伝活動をしてこなかった最たる要因がそこにある。けれども、さいきん考えがすこし変わった。いくひしは作品だけでなく、価値そのものもじぶんの手でつくりだしたいと思うようになった。欲張りに磨きがかかったと言える。物語以外の言葉も発信していこうと思う。
3:【いくひしのそとのいくひしへ】
いくひしはいくひしに似たひとに向けて言葉を、物語を、発信している。でもいくひしと似たひとはたぶん、「カクヨム」に載っている作品には見向きもしない(流行とは縁のないタイプだから)。ゆえにここに載せても、いくひしの作品群をおもしろいと思ってくれるひとには届かない。ならどうしていくひしはここに載せているのか。答えは単純に、例外的ないくひし、をいくひしは探しているからである。純粋な受容者としてのいくひし、或いは純粋な表現者としてのいくひしは、前述のとおりこうしたサイトの作品に目を通すことはない。けれども、生粋の評論家、或いは純粋な目利きとしてのいくひしならば、この世のすべての流行物に目を通し、そしてそのなかにある異物――ホンモノ――を、絶えず探し求めているはずである。否、断言しよう。探し求めている。だからこそ、それゆえに。必ずや届くのである。なぜならいくひしは本物以上の偽物であり、偽物ゆえにホンモノだからである。本物は本物ゆえに偽物にはなれない。なろうとすら思わない。だからこそいくひしは偽物としてのホンモノなのである。意味が解らないという方は安心してほしい。あなたは、いくひしの求めているいくひしではない。あなた方は本物ゆえに、偽物にはなれない。
では、きみは?
4:【ふにゃふにゃ】
芯がない。確固とした自我がない。ものすごくふにゃふにゃ。ぜったいにこう、という指針がない。ものすごくふらふら。これはだめ、これをしなくてはならない、こうしないとだめ、これをしたほうがいい。ホントに? 目のまえにいったん浮かんだ道筋に対して、同じかそれ以上の論理迷宮を求めてしまう。ぐらぐら。ただまっすぐ歩けばいいのに、わざわざ迷宮を解こうとする。歩みは止まる。迷わないように慎重になる。或いはいっそ迷ってしまえとばかりに歩を進める。すると道程はもうぐにゃぐにゃ。足跡はそこらちゅうにあふれ、もみくちゃ。毛糸がどんどん絡まっていく、毛玉化。するとなぜだろう。からっぽのなにかが埋もれる気がする。ほっとする。むにゃむにゃ。そろそろ眠りにつく。うやむや。
5:【同レベル】
同程度の技量を持った侍が二人いたとして、より忠誠心の篤いほうを雇うのが城主としてとるべき判断だろうか。いくひしはそうは思わない。技量が高ければ二人とも雇えばいいだけの話である。どちらか一方、それも気持ちよく仕事の任せられるほうを選ぶ、というのはハッキリ言って浅はかである。そういう判断を重ねていけば、全体の質は確実に落ちていく(技量以外が選抜の決定打になる時点で、その程度の技量であったとも呼べる。技量が高くないのならばそもそもどちらも雇うべきではない)。
6:【とおせんぼ】
誰かが誰かの邪魔をする。邪魔をしなくてはならない理由があるのかもしれない。正当に評価できない理由があるのかもしれない。でも、なんのために? いいものはいい。そう評価できない牙城は遠からず自滅する。瓦解する。だいじなのは城を護ることではない。プライドがけっきょくのところ、魂の鎧でしかないのと同様に。
7:【ロボット】
人型ロボットの物理ボディは、あと五年でほとんど人間と変わらぬ動作を可能とする。ただし仕草や会話には今しばらく違和感が残るだろう。実用化されるとき、おそらく会話機能は音声ではなく主として文章で行われるはずだ。そのほうがずっとスムーズだし、手間がない。また、表情は皮膚の質感をほどよく再現した素材に、内側から投影された映像によって補完される。現在開発されているような表情筋を模した構造にはならない。或いは双方を組み合わされた技術が適用される。もっとも、人型ロボットが普及するよりもさきにホログラフィによる人工知能の顕現化や、ネット生命体の開発、および仮想(拡張)現実の普及のほうがずっとすんなりいくはずだ。人類はますます物理的な負担を軽くしていくほうに労力を費やすようシフトしていく。
8:【第一印象】
何かを評価するとき、最初に目がいくのは欠点。つぎに良いところである。第一印象がいいというのは欠点がすくないという意味でしかなく、それそのものの良さとはまた別物である。
9:【第三の目】
いくひしには第三の目がある。とてもたいせつな授かり物である。ときに付け替えてしまいたいと思うこともある。けれどもそう思うときはたいてい弱っているときである。甘えているときである。現実なんて見たくないやい、といくひしが固く目を閉じているときであっても、第三の目だけはひと際ギラギラと括目し、周囲をいくひしごと注意深く観察している。優秀な目である。その名も、客観視という。とてもたいせつな授かり物である。
10:【場の提供】
十年前と比べていまは、おもしろい物語を味わいたいというよりも、おもしろく物語を味あわせてくれ、といった需要者が増えてきている印象がある。ただおもしろいだけでなく、おもしろく読めるような環境ごと提供しなくてはならない。それは同じ嗜好を共有するユーザーであったり、物語とは切り離されたところで存在を誇示できるキャラクターであったりする。メディアミックスもその方法論の一つであるが、同時に物語そのものの稀薄性を助長している。たとえばそれは、重厚なストーリーがウリだったゲーム業界が、いまやスマホゲームの独擅場になっているように。しかし今、また時代が変わりつつある。新ゲーム機種「VR」の発表である。仮想と現実の狭間を提供するそれは、まさに新たな物語の舞台である。物語をより手軽に、おもしろく味わえる環境として、その新機軸として、これからどんどん進化を遂げていき、我々の生活に浸透していくこととなる。VRの影響はむしろ文芸こそが大いに受けるのではないか。VRとサウンドノベルとの調和は、無声映画がいまのような映画への発展を遂げたように、大きな可能性を帯びている。VRの影響で、映画は体験するものとなり、アニメは現実を侵食し、小説は物語のなかで読むものとなる。すべてが一つ上の次元へとシフトする――といいね。