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いくひ誌。【1921~1930】

※日々、実力のなさが露呈する。


1921:【ずーん】
言葉は悪だ。一生しゃべらずにいたい。(言葉を失くしたいわけではない)


1922:【過激】
小説新人賞の選評などを読んでいると、作家の作品への態度や、作者の生き方なるものを小説から読み取って評価する選考委員がいたりする。ハッキリ言ってアホじゃないか、と思う。技術の巧みな作家ほど、自己とはかけ離れた物語をつむげるものだ。小説からその作者のことが解かるなどいかにもおこがましい判断基準だ、と言える。いくひしさんは物語にとって必要なら、いくらでも偏見や勘違いをキャラクターに言わせる。キャラクターは作者の代弁者などではないからだ。そもそもいくひしさんには言いたいことなど何もない。閃きや、見つけたものを、まぜこぜにしてつむいでいるだけだ。いくひしさんのつむいだ小説からいくひしさん自身について何か読み解けるものがあるとすればそれは、コイツはじつにアホウだな、ということ以外にないだろう。ほかの総じてはすべて錯誤であり、読み手の偏見や認知のゆがみの反映であると指摘しよう。いくひしさんは物語にとって必要なら平気でキャラクターに禁忌を犯させるし、肯定させる。差別が必要なら容赦なく差別意識を前面に押しだすし、暴力を誇らしげにふるわせ、うつくしいものを醜いと指弾する。だからといっていくひしさんがそのような思想を支持しているわけではない。ファンタジー作家が必ずしも魔法を信じているわけではないのと同じ理屈だ。にも拘わらず、魔法や妖精などのあり得ない事象以外の成分は、いともたやすく、作者の思想や人生観と結びつけて評価される。評価は自由だが、新人賞を標榜するのならばせめて、これくらいの分別くらいはつけてほしいものだ。また、物語にとって些末な誤謬を俎上に載せ、作者の無知を指摘するのもあまり理に適った選評とは呼べない。たとえば、物語に関係のない描写でヤマカガシがでてきたとする。そのヤマカガシは意味もなく銀色に描写されていたとして、何が問題だろう。ひょっとしたら主人公は色弱(色覚多様性)だったのかもしれない。或いは作者自身が色弱を自覚せずに、そういうものだと思いこんでいたとして、だとしても、だったらどうなのだというのか(言うまでもなく瑕疵はすくないほうがよいが、いくつかのミスが散見していたからといってどうだというのか)。そんな些末な誤謬で小説の評価が揺らぐような人物に選考委員は荷が重いのではないか。正しいことや学術的な価値を小説に期待するのなら、端から論文でも読んでいればよろしい。論文ですら、正確さに欠けていることなどいくらでもある。むしろその誤謬を指摘すれば、いくらか感謝をされるだろうし、正確さへの貢献にも加われる。小説家の肩書きを名乗っていながら、小説もつくらずに他者の作品に点数をつけて悦に浸っている選考委員なるものは、読者の皮を被った「考えぬ葦」である。小説家ですらない選考委員は、もはや単なる読者であろう。読者ならば読者らしく、好きな作品を読んでいればよい。ビジネスにするから好みではないものにイチャモンをふっかけるような真似に抵抗を抱かなくなっていくのだ。新人賞なるものの存在意義とは、何か。企業の利益を度外視して述べらるる者はあるか。箔をつける以外に有用な役割があるのか。それは果たして、新人賞である必然性があるのか。作品は権威を構築するための素材ではない。誤解されても構わないので述べておくが、たかが小説である。偉そうにするのは文章のうえだけにしてみてはいかがか。そしていくひし、おまえはさっさと小説をつくれ。偉そうに薫陶を垂れている場合ではなかろう。(薫陶とは優れた人物からその人格や品位を通して、よい影響を受けることを言います。ですから、偉そうに薫陶を垂れる、という言い方は、じつに皮肉な物言いなわけです。伝わりますか?)


1923:【やいのやいの】
怒ってないですよ。きょうもきょうとて書くことがなかった日なだけです。特定の誰かを非難したいわけではありません。小説であろうと、なんだろうと、好きに評価すればよいと思います。


1924:【矛盾していますか?】
どんな生き方をして、どんな考え方をし、何を見て、何を見ないのか。そうした日々の選択の積み重ねが、そのひと固有の世界観を構築する。世界観はやがて、どんな作品をつくるのか、といったクリエイターの根幹となっていくので、作品からはその作者ならではの「何か」が滲んで感じられるようになる。オリジナルや作風といったものは、おおむねこれを差す。だからといって、作風から作者の根幹を見抜くのはほとんど不可能と言ってよい。ましてや、世界観の向こうにあるその人物の本質の喝破など絶望的だ。作品からある程度の傾向を抽出するのは可能だとしても、それは傾向であるがゆえに本質ではないし、作品と作者を結びつける根幹とは呼べない。人体はDNAによって設計されているからといって、ではDNAからその人物の本質を見抜けるかと言えば否だろう。よくてせいぜいが、体質の傾向を見定めるくらいが関の山だ。作品を通して作者に惚れることはあるだろう。だからといって作品から作者の本質を見抜けるのだ、などと驕らないほうがより客観的な判断ができるのではないだろうか。どんなに優れた人格者でも、まいにちクソをして死んだ生き物を喰らい、生きている。その人物が優れているせいで、落ちぶれて映る者もあるだろう。何を「優」とし、何を「劣」とするのかは、観測者の解釈しだいだ。繰りかえすが、何に注目し、何を見ないのか。世界観はそうした日々の選択によって構築されていく。あなたは作品を通して、何を感じ、何を考え、何を見て、何に引っ掛かり、何を理解できないのか。それはきっと、作者の世界観とはべつの指標であるはずだ。(ちなみに、お金を稼ぐのはわるいことではありません。利益を追求する姿勢は、現代社会を生きるうえで必要不可欠な考え方だと思います。ただし、飽くまで目的遂行のための手段であり、お金儲けが目的になってしまったら本末転倒ではないですか、と疑問に思うことはあります。もちろん、お金儲けを目的にしているのならこの限りではありません)


1925:【休止中】
しばらく留守にします。文章上では未来へのタイムスリップはいともたやすくできてしまえるので、しばらく留守にしていました、として、ここからつづきをはじめたいと思います。ひょっとしたら死んでしまって、つづきをつむげずにこのまま、という線も無きにしも非ずですが、確実にそういう日はいつかは誰にでも訪れるわけですから、縁起がわるい、などと言って見て見ぬ振りをしてはいられません。話は変わりますが、ここさいきんのいくひしさんはぜんぶ同じに見えますね。これはズバリ「演技がわるい」と分析できます。つまらなかったですか?


1926:【しばらく留守にしていました】
一週間だけ留守にしていました。とくに何かあったわけではないのですが、こうした日誌をずっとつづけていると、段々と支配されてくる感じがして嫌だったので、すこしばかり休止しました。つづけることもできるし、やめることもできます。中毒ではありません。そういう認識をじぶんに対して与えてやらないと、依存体質のいくひしさんは不安になってしまうようなのです。つづけることと同じくらい、やめたり、休んだりできる環境を整えていくことが、つつがない人生を送るうえでは有効に働くものと考えます(言い換えれば、いつでも再開できる余裕を確保しておくということ)。こと、百年前の平均寿命の二倍も長く生きられるようになった現代においては、長期的な計画を見越したうえで、優先的にとりこむべき事項をしぼる作業が安定した成果をあげるのに一役買うのではないか、と見立てています。じっさいにどうなのかは、やってみなければ分かりません。より多くの試行錯誤を行えるように、やはりというべきか、長期的な視野での計画を立てるのが欠かせないように思います。


1927:【ゴミの分別は無駄?】
関東ではゴミの分別は基本的には、燃えるゴミと燃えないゴミの二択だが、地方ではそこにプラスチックの仕分けが加わることもある。リサイクルの名目であるが、実質、汚れたプラスチックは可燃ごみとしてリサイクルされることなくゴミ処理場で燃やされるし、リサイクルしたときに得られるメリットよりもリサイクルするための費用のほうが高く、端的にコストがかかりすぎて損でしかないなのだが、それでも仕分けする習慣をつけておくのは、このさきの社会のためにはそうわるいことではないと考える。IT技術にかぎらず、各分野の技術は毎年のように向上している。無駄のないリサイクルシステムが完成してから、でははじめましょう、と実施し、社会に波及させようとしてもおそらくうまく事は運ばないだろう。リサイクルを心掛けましょう、との教育を初期のころから社会に浸透させておくのは、新しいことへの抵抗を抱きやすい人類にとっては有効かもしれない。似た問題として、数学の掛け算の教育方針についての話題がある。掛け算は前後の数値を逆にしても答えは変わらない。数学的には問題ないかもしれないが、しかし数学を道具として扱う事務作業においては、掛け算の駆け合わせる順序越しに、その数式から読み取れる文脈というものがあるため、共通認識としての「かけ合わせる順序」を習っておくのは、数学を道具として扱うための訓練という側面では、そうそう間違った判断だとは言えないのではないか、と思う。むろん、数学として学ぶときには、順不同でも構わない旨を優先して教えるのが妥当であるのは言うまでもないが。どんなことでも、「正しいとされていること」ばかりに気をとられると、何のためにそれを習い、利用し、工夫するのか、を見失い、最終的な目的から遠ざかってしまうだろう。すくなくとも学校や教育というものは、「正しさ」を教え、学ばせる場ではない。社会(などの特定の組織やコミュニティ)に有用な人材を育て、矯正するための機関であり、仕組みである。学ぶことは一人でもできる。「こちらの言い分のほうが正しいから」を理由に、相手の理屈を否定するのは、論理的には正常に機能することもあるだろうが、人間の営みとしては、それだけでは不足だ。論理的な正しさに価値があるのと同じように、人間の未熟さに寄り添った考え方にも価値はある。どちらかと言えば、前提となるのは人間の未熟さに寄り添った考え方であり、論理の正確さや発想の豊かさは、人間の未熟さを補完するための道具だということを、ときおりでよいので思いだすと、チグハグな互い違いの議論をせずに済むようになるのではないだろうか。(裏から言えば、論理や発想の補助がなければ、どんなに人間の未熟さに寄り添った考え方をしても、未熟さが増すばかりで、一向に問題は解決されないし、深刻さを増していくばかりであろう)


1928:【スケベの何がダメ?】
性欲が失せ、エッチなコンテンツを目の当たりにすると反射的に倦怠感を覚えるようになってしまった。嫌悪感まではいかないが、率先して摂取しようという気にはなれない。精神的にはむしろ安定しており、性欲があるときのほうが物事に集中できないので、怪我の功名とも呼べる(意味合い的には、災い転じて福となす、のほうが正しい?)。反面、BLや百合などの組み合わせは、たとえ性行為描写があっても、それを脳がエッチなモノと認識しないようで、これもまた差別意識や偏見の顕れなのではないか、と疑問視している(異性愛、同性愛、どちらに対する差別なのかは判らないが)。性嫌悪の一種かもしれない。しょうじき、じぶんの性器をいじりたくない。じぶんの性器をいじりたくなる衝動のほうが異常に思えるくらいなのだが、生理現象を否定しはじめるのは精神疾患の病状の一種、みたいな記事をむかし何かで読んだ憶えがある気がするので(思い違いかもしれないが)、これ以上こじらせないように注意しておこうと思う。そうは言っても、自身の感情や欲求を否定したくなったとして、それがイコールじぶんを否定することと直結しない点には留意しておきたいものである。


1929:【進化とバグと掌編と】
生物は体積(質量)の小さい種のほうが細胞分裂をたくさんするので、進化しやすくできている。細胞分裂をたくさんするということは遺伝子のコピーをそれだけ繰りかえすということでもあり、そうするとバグが生じる確率が高くなる。バグは基本的にはないほうがよろしい異常なのだが、ときおりそうした異常が、新たな環境への適応を可能とする変質を個体に及ぼすことがある。順序からすれば、さきに環境の変容があり、偶然それに合致したバグを有した個体が子孫を残しやすいというだけの話ではあるのだが、環境はつねに変容しつづけるのが自然というものであるから、そうした変化についていけない種は滅ぶさだめにある。生物の進化とはこうした滅ぶものと新たに活路を見出すものとがぐるぐる回りつづける歯車である。死滅の速度が重要とも呼べるし、たくさんバグを生むことが進化の加速を促すとも呼べる。繰り返しになるが、バグとは異常であり、規格外の因子のことだ。これまでになかった組み合わせ、通常でないカタチや性質がいっぽうではバグと呼ばれ、他方で、通常の個体よりも優位に環境に適応していれば進化と呼ばれる。もうすこし正確には、進化とはその因子が子孫に反映されていき、種に引き継がれてから観測される後付の解釈であるから、進化の因子(バグ)を有した始祖を最初に見たとしても、それを進化だとは誰も判断できないだろう。時代による淘汰が任意の異常を、バグか進化かに振り分ける。同様にしてこれを創作の分野に当てはめて考えてみれば、ちいさな個体のほうがバグが生じやすいのであるならば、これは短編や掌編であるほうが、より規格外の作品を生みやすいと言えよう。同様に、コンパクトな作品であれば、短期間にいくつもの方向性の異なる作品を生みだしやすい。長編や大作に比べれば、創作コストが低いからだ。言うまでもなく、短いなら短いなりに、ちいさければちいさいなりの苦労はある。だが、やはりというべきか、長編や大作よりかは時間対コストはかからないとみて、まずよさそうだ。とすれば、創作の分野でつぎの時代の主流を築く進化の因子を備えた作品は、短編や掌編などの、コンパクトな作品群のなかから登場すると言って、生物学的な見地からの解釈からすれば的外れとはならないはずだ。もっとも、創作と生物種は別であるから、まったく同じとくくることはできない。ともあれ、共通する部分があることもまた確かに思われる。物語ともなれば、遺伝子が子孫へと引き継がれるように、その時代その時代に蓄積された物語のひな形とも呼べる型や要素が、つぎの時代の物語にも踏襲されているのは、じつに興味深い共通項だ。ともすれば、そうした蓄積なくして、新たな進化は生まれないのかもしれない。バグを発生させることだけでなく、すでにあるひな形(特徴)を引き継ぐこともまた意識するのがよさそうである。


1930:【褒めて操る】
ひとむかし前までは恐怖や苦痛を与えることで相手を洗脳するやり方を一部の企業では、社内教育の名目で率先して取り入れていた。ミスをした社員や成果をあげない社員を怒鳴ったり、罵倒したり、ほかの社員と結託して不遇な環境を強いたりと、そうしたことが一部の会社や企業では、ある種のシステムとして採用されていたのだ。しかし心理学の研究を引き合いにだすまでもなく、恐怖や苦痛を与えることで高まる生産性など高が知れており、ある研究グループが実験したところによれば、褒めて伸ばすのも叱って伸ばすのも、成果にさほどの差はないとされた。つまり、褒められても怒鳴られても、結果に優位な違いは現れないのだ。どちらかと言えば、長期的には居心地のよい社内環境が維持されたほうが転職率は下がる傾向にあるだろうから、社員を威圧して生産性の向上を試みるのは悪手だと呼べそうだ。ともあれ、まったく無駄ではないから話はややこしく、叱るべきところは叱るべき、といった主張は未だに公然と見受けられる。先にも述べたが、叱ろうが褒めようが、教育としての期待値に大きな差はない。なぜそうしなければならないのか、どうやったらそれを達成できるのかの理屈を相手が納得できるまで、或いはその理屈を咀嚼できるまで辛抱強く説くほうが効率がよく、合理的であるはずだ。それだけの労力をかける相手ではないから、怒鳴ったり、罰したりすることで、一時的なカタルシスを得ているのかもしれない。つまり、怒鳴るひとは、怒鳴りたいから怒鳴っているのであり、そこに相手への思いやりや、合理的な理由はないのかもしれない。話は変わるが、さいきんの企業は、世間からブラック企業だなんだと後ろ指をさされたくないがあまり、社内教育ではほとんど褒めて行う方針に変更しはじめている。会社にとって都合のよい行動や言動には、「ありがとう」「助かった」「よくやった」と褒めることで、それが正しいことなのだとの擦りこみを行う。これは人類が「愛」や「絆」を尊ぶべきものとして扱う行動原理とほとんど同じと言ってよさそうだ。相手の行動をある一定の枠組みに限定しておきたいから、相手を気持ちよくさせて、その行動を操作しようとする欲動が見てとれる。洗脳との違いを探すのはむつかしい。同じ「ありがとう」であっても、なぜそれを口にするのか、をいちど考えてみるとよいかもしれない。本当にそこに感謝の気持ちがあるのか、それともただ相手を操作したいだけなのか。同じ「ありがとう」であっても中身がまったくの別物であると感じる機会が増えてきた。ここ数年を通して感じる社会の変容の一つである。


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参照:いくひ誌。【1211~1220】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885430688

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