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いくひ誌。【1931~1940】

※日々、死ぬときのように安らかに、死に際のごとく壮絶に。


1931:【種が増えて手が回らない】
本を一冊読みきるのに半年くらいかかる。読みかけの本が何冊もあって、どんどん増えていくから、読みきるまでの時間が伸びていく。読書だけでなく創作も同じで、つくりかけの物語がどんどん増えていくから、完成予定時間がどんどんかさんでいくいっぽうだ。気長にやりすぎているかもしれん。こういうときこそ、選択と集中の出番だ。


1932:【印籠と貧乏で韻が踏める】
やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、またウーロン茶にハマっておってな、2リットルのペットボトルのを二本常備しているでござる。たまに飽きちゃうので、麦茶も一本だけ置いているでござるが、まあ、二日で一本なくなるいきおいでござるな。あと、ランチパックがいつの間にか130円になっていたでござる。前からそれくらいだったよー、と言われたらそんな気もしてくるので、値上げしてるー!って驚くのは時期尚早かもしれないでござるな。あとはなんじゃろな。読めてない本が増えてきたので、まずは十冊くらい選んで、それを優先的に読んでいこうと思うのだ。読みきるまで新しいのは買わないぞ、と思ったその日のうちに二冊買ってきてしまったけれども、これはしょうがない。言いわけを考えても無駄でござる。しょうがないのだ。ほしいのだもの。あとはあれじゃな。ひっさびさに腰を痛めてしまってな。軽いぎっくり腰になってしまった。五年くらい前にいちど本格的なぎっくり腰を体験しているので、軽い、と表現するのだけれども、当時は本当にその場から一歩も動けなくなって、背骨が折れたかと思ったでござる。冷や汗を掻きながら、うんうんうなりつつ家まで帰ったのを憶えているぞ。今回はそこまでじゃなく、徐々に腰を曲げるのがしんどくなって、寝て起きたらまっすぐ立てないくらいに悪化していたので、数年ぶりに薬局に行って湿布を購入して、ここ数日はずっと貼りつづけているでござる。湿布、痛みをとるだけでなく、ちゃんと効くのがすごいでござる。炎症を抑える効果があるでござるな。だいぶんよくなったでござるが、油断をせずに、だらーっとしていこうと思うのだ。無理をしたり、本気だしたりしないようにしなくては、だぞ。健康の話題がでたので、明かすでござるが、さいきんいくひしさん、まいにちラムネを食べだしたのじゃが、眠気が飛んでシャキっとするよー、みたいなつぶやきをツイッターで見かけたからなのじゃが、まいにち食べてたら血糖値がすこしだけあがってしまって、消費できてないやーん、って地面にひざを着いてしまったでござる。ブドウ糖だから直接脳で消費されますよーってな理屈だったかと思うのじゃが、脳みそを使っていないのがバレてしまったでござる。おいちいからって、あんまりバリボリ食べるものではないでござるな。え? ラムネはバリボリ食べるものじゃない? そうなんでござるか。知らなかったでござる。豆を食べてる気分だったでござる。まとめてバリボリ貪っていたでござる。そりゃあ血糖値もあがるでござるな。控えるでござるー、オタマジャクシでござるー、ってそれは非カエルでござる。アホなこと言っているからそうやってブドウ糖も消費されないのでござるぞ、頭が高いでござる、ひかえおろー、でござるー。


1933:【五分だけでも】
小説の利点は、五分あれば五百文字のショートショートをつくれてしまえる点だ。また、いちにち五分でも作業をすれば、二百日で十万字の物語をつむぐことができる。いちにちたった五分の作業を半年とちょっとつづけるだけでも長編一作をつむげるのだ。しかもそのあいだに経費はほとんどかからない。取材をする者もいるが、小説をつくるために取材をするのか、それとも日常を、小説をつくるための素材として「取材のつもりで生きるのか」によって、だいぶんコストと効率は変わっていくだろう。言うまでもなく、まとまった時間がなければ得られない情報はある。取材をしよう、と決意し、計画を立てなければできない取材もあるだろうが、もはやそれは小説をつくるためというよりも、取材をすることが目的になってしまっている感は否めない。旅をしたいだけなのでは?とじぶんに問いかけてみるとよいかもしれない。いくひしは久々に旅がしたい気分である。あの世とかに行ってみたい。帰ってこられるなら、の話なのだが(その前にまずは、あの世が存在するのかを検討しよう)。


1934:【干すとは?】
芸能人や文芸の界隈を眺めていると、「干す」といった言葉を耳にしたり目にしたりする機会がある。干すとはいったいどういう状態を言うのか。ニュアンスとしては、つまはじき、といった具合なのだろうか。アイツはヤバいから仕事を回すのはやめようぜ、とみなで口裏を合わせて仲間外れにすることを言うのだとすれば、まったくどうして大人げないことである。逆談合と言えば端的だ。実力がないだけなら単に仕事がないだけであり、これは「干す」とは呼ばないはずだ。だとすれば、「干された人間」とはそれなりに実力があり、しかし何か仕事上で不都合な出来事や欠点があるから「あのひととは仕事をしないようにしましょう」といったとり決めが暗に裏で交わされている状態だと言えよう。ふしぎなのは、真実に仕事のうえで不都合なことや欠点があるのなら、それを指摘して直してもらえればよいのではないか、ということだ。しかしそれができない何かしらの事情があるのだろう。そうした事情により相手に面と向かって指摘できない者たちが、陰でこそこそ密約を交わすように、或いは、陰口を叩くようにして、「仕事を回さないようにしましょう」と同調圧力を形成することを「干す」と言うのかもしれない。だとすれば、なんともはや、陰湿なことである。とはいえ、面と向かって指摘できない理由にも色々あるだろう。相手のほうが立場が上の場合、指摘することで却って損失を深めることもあるだろう。ガキ大将ではないが、気にくわない相手を不当に傷つけるような権力者相手には、それなりの根回しがなければ太刀打ちできないのは理解できる。だが、徒党を組んでそうした権力者を「干す」ことは、その権力者のやっている「悪」に「悪」を仕返しているだけであり、何の解決も見せていないと思うのだが、果たして「干す」ことで得られる利とは何なのか。復讐が復讐を呼ぶように、「干せば」いつか自らも「干される側」になるだけなのだと思うのだが、あなたはどう考えるだろう。「干す」とはいったいどんな状態を示し、どうなれば「干された」ことになり、どうしたら「干されず」に済むだろう。もはや、「干された」と口にする者たちが、どんな状況を想定しているのかが不確定であり、「アイツはいつか干されるよ」みたいに語る者たちからは、じぶんたちには誰かを干すだけのちからがあるのだ、と勘違いしている節が見てとれる。そういうものを驕りたかぶりと呼ぶのではないか。表沙汰にできない不手際があったことで仕事がなくなっただけなら自業自得であり、単なる実力不足であろう。それをわざわざ「干す」と表現するあたり、陰湿な何か、傲慢な何かを感じずにはいられない。いったい「干す」とは何なのか。具体的に「干された事例」を教えてほしいものである。


1935:【製造業における労働力】
工場などの生産現場において、一時期は製造工程の全自動化にシフトしていく流れが加速していたが、いまではむしろひとの手による作業、ひと昔前の方針への回帰が目覚ましい。これはなぜかというと、一つは人間でなければむつかしい暗黙知の機械化がいまはまだそこまで進んでいない点が挙げられる。人間だからこそできる作業があるのだ、と言いたいところだが、じつは開発費をそれなりにかければ、現段階ですでに全自動の設備を整えることは充分可能だ。ただし、人件費をかけたほうがはるかに安く、そして臨機応変に多様な製品を生産できるため、自動化が進まないといった実情がある。ただし、これからさき、機械による全自動の設備を整えた企業が急成長し、市場を独占していくだろうことは想像にかたくない。言い換えれば、独占するに値する市場であれば、自然と生産現場も全自動化が浸透していく。裏から言えば、2019年の現段階において、「機械よりもひとの手による作業」などと時代錯誤なことをのたまいている生産現場は、おおむね数年後にその産業そのものが大きく衰退することを暗に示しているとも言える。守りの態勢に入っているだけであり、いつでも撤退できるようにコストのかかる全自動化を選択しないだけの話なのだ。もうすこし突っこんで言えば、人間にできる作業はたしかにある。機械では再現できない質のよさや環境の変化への対応など、利点はあるにはあるのだ。ただし、機械による圧倒的な生産性の高さのまえでは、そうした利点も掠れてしまうのは否めない。人間の手作業によって高められる品質に対して、機械はその何万、何億倍もの効率で、生産台数を増やすことができる。時間毎の生産量は、製品の生産コストを低下させ、安価な商品を市場に流通させることが可能となる。需要者にとってお得なのは、以前よりも品質が数パーセントよい手作業の商品ではなく、安価で一定の水準の満たされた商品であろう。機械は同種の機体に対して、同時にいくつもの改善を共有することができる。品質は生産性の高さ同様に、向上しつづける性質を併せ持つ。製造現場ではもはや、品質、生産力共に、人間は機械に太刀打ちできないと考えて、大きな齟齬はない。ただし、機械の設計や開発、改善や修繕そのものはまだまだ人間の手による作業が欠かせない。生産ラインが全自動化されたとしても、それを整備する人間や管理する者が必要であるから、現場から人間がいなくなる日はまだとうぶんさきであるだろう。


1936:【足枷】
仕事であれ遊びであれ、何であれ、欠点に気づいても変えられないことがストレスになり得る。知らず知らずのうちに「何か変だな」と違和感を感じるだけでもけっこうな精神的苦痛だ。そもそもなぜ欠点が放置されているのか、とその理由が解からないことが不条理に感じる。まるで意味もなく足枷をはめてマラソンをしているような感覚に陥るのだ。なぜこの足枷が必要なのですか、とじぶんや環境に問うてみても明確な理由などは端からなく、あったとしてもとうてい納得できないことも往々にしてある。改善できればよいものの、そのためには多額の費用や高い技術が必要な場合もあるだろう。また、他人に「足枷」をはめることで得をしている人物が陰で抵抗していることもあるはずだ。システムや規則などは往々にしてそういうものであり、「足枷」を理不尽に感じている者がいる反面、他者の自由を束縛することでじぶんたちの自由を確保しようとする者たちがいる。社会とはおおむねこうした「自由の放棄とそれによりもたらされる安全」とが天秤にかけられ、そうした交換条件を納得して受け入れた者たちが「我慢をし合うこと」で築かれる。だが、もし納得できないにも拘わらず、その「我慢」を一方的に強いられているのだとすれば、これは自由の侵害であり、端的に「奴隷にされている」と言っても言い過ぎではない。なんにせよまずは、「なぜこの欠点が必要なのか」を明らかにし、「なぜ放置されているのか」を突きつめて考え、「この欠点(足枷)を外したらどうなるのか」を推測しながら同時に、「どうしたら足枷を外すことができるだろうか」を模索してみると、改善の一歩を踏みやすく、より自由な時間を過ごせるようになるのではないだろうか。なにはともあれ、まずはじぶんがいったいどんな足枷をはめられているのか(もしくは、はめているのか)に気づくことが第一だ。(違和感や不満に敏感であるとよい。生きづらさは欠点ではなく、利点とすることもできるのだ)


1937:【残業は断れる?】
労働基準法において、企業はなんの契約もなしに従業員を「一日8時間、週40時間以上」働かせてはいけないと決まっている。従業員に残業をさせたくば、企業の代表者は従業員の代表者と36協定を結ばなければならない。ただしこの従業員の代表者は、管理職ではダメであり、労働者全体から選ばれた代表でなくてはならない。36協定を結んだとしても、その事実を労働者に周知する義務が課せられる。周知義務を怠っていれば、たとえ36協定を結んでいても労働者に残業を課すのは違法である。就業規則に「所定時間外労働あり」や「法定時間外労働を命じることもある」と書かれていたとしても、36協定なしに法定時間外労働(一日8時間、週40時間以上)を労働者に命じることは違法である。また、36協定は事業所ごとに結ばなければならないため、大企業であるほど、各事業所が独自に労働者と締結しなければならない。おおむね一年ごとに結び直す必要があり、また36協定における事業記載は可能なかぎり厳密でなければならないため、計画にない急な繁忙期に突入したときには、36協定を結ばずに残業を課す事業所もすくなくない。職場に36協定の書面が誰でも見られる状態で提示してあったり、誰でも操作可能なPCのファイルに仕舞ってあったり、或いは提示版に貼りだしたり、書面で労働者に配布したりなどしていない場合には、周知の義務を怠っているとして、たとえ36協定が締結してあったとしても、事業所は労働者に対して法定時間外労働(残業)を課すことはできない。あなたが36協定の存在を知らず、また法定時間外労働(一日8時間、週40時間以上)を命じられ、働いていたとすれば、それはれっきとした労働基準法違反なので、あなたは残業を断ることができる。この国の法律では基本的に、雇用主は労働者を「一日8時間、週40時間以上」働かせてはいけないのである。むろん、こうした正当な理由で残業を断った労働者に対し、企業や事業所は、「人事評価をマイナスにしたり、待遇をわるくする」など、してはならない。あなたは違法に残業を命じられてはいないだろうか。


1938:【傲慢GODMAN】
いくひしは目的のためなら手段を選ばないタイプの指向性を有しているので、もしお金のために創作をしよう、と目的を定めてしまえば、おそらくいくひしと同業になる方々はみな失業するはめになるでしょう。市場を独占するのがもっともお金を稼げることになるからです。よかったですね、いくひしがお金を目的に創作をする人物でなくて。もちろん、人件費は極力カットするでしょうから、協力者はゼロを目指すでしょう。また、専業の編集者の存在意義を失くす方向に働きかけ、作家兼編集者の育成に投資していくことになるかと思います。現在の資本主義社会において、ビジネスは経済であり、物理暴力のない戦争です。二つの意味で、やられる前にやれ、がビジネスの鉄則なのだ、と誤解している節がいくひしにはあります。ただ、いくひしはビジネスを目的に創作をしてはいないようですので、現在プロで活躍中の方々は安心してほしいと思います。よかったですね、いくひしがアマチュア指向の甘ちゃんで。


1939:【うわーん】
まんちゃんが性格わるくなっちゃったよー。でもよく考えたらもとからだったよー。


1940:【工夫をしましょう】
生産性に関して勘違いしている中間管理職が世のなかには存在する。ある人間が100メートルを16秒で走れるからといって、では同じ人物がその十倍の1000メートル(1キロ)を160秒で走れるのか、と言えば否だろう。仮にその速度のまま10000メートル(10キロ)を完走できれば陸上の選手としてどんな国でも代表になれる。もし100000メートル(100キロ)の道のりをその速度で走れたならば、後世に名を残せるレベルで超人と言えよう。要するに、短距離には短距離の、長距離には長距離の、「最速」があり「限界」がある。短距離の最速をそのまま長距離に当てはめるのは誰が考えても理に適っていないと判るはずだ。にも拘らず、これが仕事の能率や生産性となると、一時間当たりの最高能率をそのまま八時間に反映させる職場があったりする。短期的に限度を越えた能率を可能としたところで、いつかはどこかで破たんがくる。無理をしているのだからそうなるのが道理だ。単にシステムとして機能しなくなるだけならまだよいが、職場の誰かが、身体を壊したり、精神を病んだりしたら取り返しがつかない。さっこん、部下の身体を気遣うようにと社員に義務付けている企業が増えてきた印象があるが、だいじょうぶでない人間は、そも、正常な判断ができないのだから異常であり、「だいじょうぶです」と答えたその返事からいったい何を評価できるだろう。健康上の異常を当人に言動で確認する手法は理に適っていないように思えるが、あなたはどう考えるだろう。似たような問題として、上司が部下へ、「体調はわるくないか」「気分がわるくはないか」と確認するとして、もし異常があるような場合には、即座にそうならないための対処を職場全体で講じる必要がある。にも拘わらず、往々にして心身に異常があったと報告したとしても、それは当人にその仕事の適正がなかったからだろう、もっと適性のある人材を配置せねば、と職場のシステムが改善させることなく、臭い物には蓋をの精神で処理される傾向が未だに根強いように感じられる。これは個人的な所感であるので、何らかの統計ではなく、一般論ですらない点には注意しておいてほしい。話は変わるが、効率をよくするためにと無駄を失くしすぎるのは悪手である。必要な無駄というものがある。効率をよくするとは、最短距離を最速で突き抜けることではない。むろん最短距離を最速で突き抜ける手法が最善であることもある。たとえば、命の危険が差し迫ったような「退避」や「避難」、または「医療行為」がそれにあたる。これらは緊急を要するために、脇目を振っている場合ではない。しかしそれ以外のシステムにおいては、脇目を振る余裕があったほうが、長期的には効率よく目的を達成できる確率が高くなる。言い換えれば、効率をよくするとは、「ないほうがよい無駄」と「あったら便利だが、いまはなくても困らない無駄」とに分ける作業だと呼べる。システムの部品を交換したり、入れ替えたり、改善したりするのも、言ってしまえば「あったらよいけど、いまは必要のない無駄」を装備しつつそれが通常の作業時に邪魔にならないようにするための工夫だと呼べる。100の労力でつくれたものを10の労力でつくれるようになること、または1の労力で100しかつくれなかったものを倍つくれるようになるといった変化が、「生産性が向上した」と評価できる状態なのだ。単に労働者の心身を削って、無理をさせて、結果の数値だけを伸ばしたところで、それは生産性が高まったとは言えないのである。


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参照:いくひ誌。【811~820】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884249890

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