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いくひ誌。【1941~1950】

※日々、見切りがはやいのは未来への予測が甘々だからだ、目のまえをすぎさる現実をゆがみなく見詰めよう、認めよう、知ろう、淡々とありのままを識別するのだ、自己のゆがみを自覚し、補正し、囚われぬように。


1941:【話題が偏っている】
まんちゃんさぁ。さいきんなんか話題のやつ、ぜんぶ同じくない? 愚痴っぽいし、つまんないし、つまんない。もっとおもしろい話して。失敗談とか。恥ずかしかった話とか。たとえばほら前してくれたじゃん、まんちゃんがさ、トイレに鍵かけ忘れて、お客さんにお尻見られちゃった話とか。


1942:【能率とは】
投入した「労働力と時間」に対して得られる成果物の量が増えることを能率があがる、という言い方をする。能率があがったからといって、必ずしも効率があがるわけではない点には注意が必要だ。たとえば、一人の人間が一時間で10キロの距離を移動できたとする。同じ人物がこんどは一時間で20キロの距離を移動できたならば、これは能率がアップしたと呼べるが、そのせいで本人がつぎの日まったく動けないほど疲弊してしまったならば(たとえば全身筋肉痛になったなど)、これは効率が落ちていると評価できる。繰りかえしになるが、能率がアップしたからといって必ずしも効率がアップするとは限らない。しかし、効率がアップすれば基本的には能率もアップする(さきの例であれば、自転車に乗る、自動車を運転するなど)。このことから、優先すべきは効率のアップであり、能率のアップではない。能率は効率のアップの結果として現れる副次的な現象だと言えよう。この点から言えば、世のなかにある仕事の多くは、効率のよさを度外視して、能率をあげることばかりに注力して映る。無理をすれば能率をあげるのはそうむつかしくはない。歩いている人間を走らせれば、能率があがることになるからだ。しかし、走ってしまってはすぐに疲れる。身体に負荷をかけることは効率がわるい。歩いているのと同じくらいの労力で、それ以上の成果をあげるように工夫すること。効率をよくした結果によりたくさんの成果をあげることにこそ、能率アップの意味がある。たとえばの話になるが、仮に真実に能率がアップしているのならば、残業はせずに済むはずだ。残業をしているのに能率がアップしている、という言い方は、現代社会の働き方として矛盾しているように感じるが、あなたはどう思われるだろう。効率がわるいから残業をしなくては「能率をあげる」ことができないのだ。それは本当の意味で「能率があがった」とは呼べない。まずは効率をあげることから実践しよう。


1943:【人手不足?】
企業は「人手不足だ」と口では言うものの、じっさいのところどの現場でも各年度ごとに人員削減による能率アップを図っている。言っていることとやっていることが矛盾している。これというのは、要するに、「安くてこき使える人手」が足りていないという意味であり、従業員そのものはじつのところ余っているのだ。ただ、残業をさせたり、重労働をさせるには、支払う給料が高くつくため、できるだけ安い労働力に劣悪な仕事をさせたいとの魂胆が見え隠れする。政府が進めている外国人労働者の受け入れもほとんどこれが狙いであり、広義の「奴隷の仕入れ」と言ってそれほど大きく的を外してはいないはずだ。人手が足りていないのではない。同等の人間扱いせずに済む駒が足りないのだ。人間の労働者の代わりとなる機械はまだまだ費用がかかる。かけた分の費用を回収するだけの利益を期待できる市場がいまはまだどこを見渡しても見当たらない。だから余計に奴隷や駒を企業は欲するのだろう。裏から言えば、人間の労働者の代わりとなる安価な機械を大量に生産できる企業は、今後、世界中の経済を牛耳るだろう。いまある企業でそのような兆候を見せているのはどこだろう? 目を凝らしてみるとおもしろいかもしれない。


1944:【人間の魅力が九割】
バズるコンテンツと売れるコンテンツは重なる作品もあるにはあるが、どちらかと言えば別物である、と考えたほうが妥当な気がするが、じっさいのところはどうなのだろう。これまで売れなかった分野やジャンルでも金脈があるのではないか、と色々と企画をだして試しはじめているいまは時期であろう。そのなかでやはり売れない分野とじつは売れる分野がデータとして集まり、開拓されていくはずだ。そうすると、段々と、売れるコンテンツにジャンルや分野は関係ないと判明していくと想像する。要は、どう描くか、どうつくるか、どう売るか、という根本的な創作ビジネスの話に収斂していく。これだけ多くの良質なコンテンツが無料で触れられる環境が整っている現代において、もはや売れるコンテンツとは、手元に置いておきたいと思えるか否かであり、その物語をかたちづくる人間(キャラクター)をじぶんの生活のなかに入れておきたいか否か、になってくると想像するものだ。この場合、月額読み放題サービスなどの有料プラットホームで読まれやすいコンテンツと、書籍として売れやすいコンテンツは、このさきどんどんと乖離していくだろう。バズるものと売れるものとが必ずしも重ならないのと同様に、ネット上で取り扱いたいものと、物理世界の日常で触れられる距離に置いておきたいものは別物だと考えたほうが直感としては正しく感じる。しかしこれもまた、ネットと日常が別物だと感じるいくひしのような世代だからこその偏見かもしれず、それより下の世代では、ネットも物理世界も地続きであり、同じものとする感覚が一般化していくかもしれない。そうなれば、バズるコンテンツと売れるコンテンツに差は現れず、まずはバズるか否かによって売れるコンテンツか否かを見定めることも可能になっていくかもしれない。いずれにせよ、現状はまだネットと日常が融合しきっていないのは確かだと言えそうだ。バズるコンテンツと売れるコンテンツは必ずしも合致しない。あたりまえの事実をまずは念頭に置いて、損はないのではないか。むろんこれは、二〇一九年いま現在の話であり五年後は定かではない。


1945:【フリーとは】
笑顔がだいじ、とか、楽しさが伝わるように、とか、そういう要素が魅力に繋がるのは理解できる。ただ、それを強制されるいわれはないし、義務付けるのもおかしな話だ。競技や仕事ならまだ分からないでもないが、表現や創作などにおかれては、自由を標榜するのならば、何を捉え、掴もうとしているのか、のほうがよほど譲れない要素であるように感じる。無理にじぶんを脱ぎ去り、ときに塗りつぶし、演じる必要はない。演じたいならそれもよいが、それを他者へ求めたり、強いたりするのは、やはりというべきか、おかしな話だ。自由とは強制されて得るものではないし、他者から与えられるものでもない。強制されたいのならばそれはそれで構わないが、他者からの何かしらの反応を求めた時点で、相手の自由を侵食してしまう懸念については考えに入れておいたほうがよさそうではある。同様の理屈から、自由にさせろ、と我を通すのもまた真の自由とは言いがたい。さきにも述べたが、自由とは与えられるものではないのである。


1946:【変わりたい欲求>自己肯定感】
誰が聞いてもおもしろいものではないから、あまり自作について語りたくはないのだが、その拘りもどうかな、と思うのできょうは一つ、とある自作について語ってみようと思う。二〇一二年くらいに「デブに真珠(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060864/episodes/1177354054881060873)」という四万字ほどの物語をつくった。これはデブの女の子が社会人失格の男と出会い、互いによい影響を与え合って、それぞれじぶんの理想と向き合うようになる話だ。いくひしは基本的に物語のオチで悩むことはない。物語の全体像が構造として見えていないとつくりだせないからだし、たとえつくっている途中でオチが変化したとしても、それは構造上そうならざるを得ない変質であるから、窓にしたたる夜露がうねうねと軌跡を描くように、しぜんとそうなるべくオチへと収斂していく。とはいえ、いちども悩まなかった、と言えば嘘になる。その例外として、「デブに真珠」では最後まで二つのオチのうち、どちらを選ぶかをとても悩んだ。というのも、デブの女の子を「もう一人の主人公(ヒロイン)」として抜擢したのは、いわゆるルッキズム(容姿による差別)に対するアンチテーゼを描いてみたかったのが一つの要素としてあり、そのテーマからすると、どうしても女の子は最後までデブのままでいなければ、アンチテーゼというカタチを保てなくなるからだった。言い方を変えれば、「デブでなにがわるい」と物語に叫ばせたかったのだが、しかしその女の子はけっして「デブであること」をよろこばしく思ってはいないのだった。彼女は変わりたかった。そして変われないだろうという諦観が彼女に、軽率な選択をさせてしまう。じぶんの容姿を好きになれないそんな女の子に寄り添い、彼女の存在を受け入れ、「デブであることごと彼女の葛藤」を受け入れようとする男が本作の主人公であり語り部だ。デブの女の子は変わりたかった。そして変わるだけの契機を、主人公と出会うことで、じぶんの手で掴み取ったのだ。その契機を、未来を、作者の都合で変えてしまうのは、いくひしの創作の姿勢に反するし、忍びなかった。主人公の男もまた、デブの女の子との出会いによって、人生の転換期を乗り越える。これは彼女らの変わろうとする意思を肯定する物語であり、それはけっしていまあるじぶんをあるがままに受け入れる自己肯定の物語ではないのだと納得し、けっきょくオチを「ルッキズムに対するアンチテーゼ」というテーマとは相容れないものにした。けっきょく見た目かよ、ケッ、と読後に思われる方もいらっしゃるだろう。それはそれで仕方がない。世のなかには差別が溢れている。そんな差別に迎合し、抵抗を感じずに済むカタチに変わりたい、と願う気持ちを蔑ろにする真似は、いち作者としていくひしにはできなかった。じぶんの正しさを貫くために、他者(弱者)の思いを踏みにじり、じぶんの正義を押しつける行為もまた、大いに差別であり、人権の侵害である。いくひしはこの物語を通して、そのように学んだ。ちなみに、オチはある意味で、「蛇足感」を強調している。あたかもとってつけた感を醸しているのだが、この狙いが解かる読者の方がいらっしゃったならば、あなたさまの慧眼には脱帽です、と畏敬の念をお送りいたします。似たような狙いをさらに高度に練って仕掛けた作品「外骨格の目~伝統小芥子は電灯を消し~(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060147)」もございますので、お時間ありましたらお目通しねがえるとうれしく思います。もちろん、読まずにいても何の問題もありませんけれども。


1947:【みす】
認知能力が低下している。日常生活においてミスを連発しており、それはたとえば部屋に自転車を持ち込み、誤って倒してしまい、壁に穴をあけてしまったり、缶コーヒーの蓋をきちんとしめていなかったためにリュックのなかがびしょびしょになってしまったり、想定外の出費が重なったり、とこんな具合であるが、予想外の事態――おおむねそれは好ましくないことなのだが――に遭遇する機会が増えた。すべて今週のできごとである。思考能力が低下し、こうなるかもしれない、との未来予測において視野が狭くなっているのが、起きた出来事から観測される。主観ではさほど思考能力が落ちているとは感じないが、この無自覚こそが能力低下のもっとも顕著な症状であると言えよう。缶コーヒーにいたっては、二度も同じ失敗を重ねてしまっている。よろしくない兆候だ。いまいちどじぶんの能力を再評価しなおし、下方修正して生活していくのがよさそうである。ちなみにさいきんまた小説を読むのがおもしろくなっていて、王城夕紀さんの「青の数学」が、よいでござる。王城夕紀さんは去年2018に読みはじめた作家さんで、たいへん文体が好みの作家さんである。一気読みではなく、まいにちチマチマと舌のうえで転がすように読んでいる。文章を読んでいるだけでも脳内麻薬が出るタイプの作家さんで、はひゃー、となるでござる。たいへんありがたいでござる。どうもありがとうございます、でござる。


1948:【安全の基本は余裕】
飲みかけの缶コーヒーはリュックに入れないようにしました。コーヒーをリュックのなかにこぼしてしまうミスを二度も犯してしまったので、その対策として決めたじぶんルールです。なぜコーヒーがリュックのなかにこぼれてしまうのか、を考えてみたところ、大別して二つの理由が考えられます。「1:きちんと蓋を締めていなかった」「2:歩く振動により缶コーヒーの蓋が、リュックのなかでゆるんでしまう」の二つです。うち、一つめについては、しっかり蓋を締めたつもりでも、疲労からか手にチカラが入らずに、閉まりきらない場合が考えられ、これは注意しても繰り返し起こり得るミスだと判断できます。また、きちんと締めたところで、蓋のほうでかってにゆるむ事態も考えられます。この場合は、リュックのなかに入れることがそもそも失敗の種となっていますから、「1」と「2」のいずれかが原因にしろ、いちど開けた飲みかけの缶コーヒーはリュックに入れない、を徹底するのがよさそうだ、と結論しました。これくらいの考えは、ミスが起きる前から巡らせておくべき予測だと思うのですが、思考はいつもよどみなく巡るわけではありませんから、こうした軽いミスも、ちょっとした疲れや環境の変化によって容易に引き起こります。まずは疲労を自覚し、無理をしないこと。それから、いちどしたミスには、その都度、対策を講じ、実施する癖をつけておくのが、のちのちのじぶんを救うことになるでしょう。もちろん、実施した対策そのものが、またべつのミスを誘発する事態も考えられます。二重三重に、考えを煮詰めておく癖もつけておくとよいかもしれません。今回の対策の場合、飲みかけの缶コーヒーを、ではどこに仕舞い、持ち歩くべきか、を検討する余地が残されています。さいわいにもリュックには側面に、簡易ポケットがついておりますから、そこに立てかける具合に一時収納しておくのがよさそうです。缶コーヒーがこぼれる要因の一つに、横に倒してしまう点があることに着目すれば、たとえ蓋が緩んでいようと、立てておける簡易ポケットの存在は対策として有効だと評価します。また、なぜ缶コーヒーをこぼしてはいけないのか、については、ほかの荷物が汚れてしまうから、といった根本的な瑕疵がありますから、その点、リュックの外側に付随した簡易ポケットであれば、仮にコーヒーをこぼしてしまっても、リュック内の荷物が汚れることはありません。リュック自体が汚れる可能性はそう低くない確率であり得ますが、それはいくひしのなかでは許容範囲内の事態でありますから、「飲みかけの缶コーヒーをリュックに仕舞わない」と「リュック側面の簡易ポケットを利用する」という対策は、妥当だとして、採用することとします。缶コーヒーを手で持ち歩くだけだと、いざケータイなどほかの作業をする際に、両手がふさがって危ないですからね。仕舞う手間を失くすのは、対策としてはやや不足です。ミスをしたら対策をたてる。もちろんこのこともたいせつですが、なにより、対策をたてるだけの時間的余裕をいつでも確保しておくことが、何より優先すべき事項であるように思います。余裕があれば、事前に未来を予測し、ミスを犯す前の段階で、対策を講じることが可能です。余裕を以って、日々を生きていきたいものですね。


1949:【紅茶の香りは吐息から】
紅茶を飲みにいこう、とあなたが言ったので、ほいほいついて行ったら、あなたの住む安アパートが見えてきた。ここにくるのは一年振りだ。どういうことかと視線で訴えるも、あなたは、さあさどうぞ、と部屋に招き入れ、私はそのままあなたの匂いの漂うせまっちぃ空間に包まれた。「紅茶をご馳走してくれるって言ったよね」「言ったねぇ」あなたは湯沸しポットに水を満たすと、スイッチを入れた。カップを二つ手に戻ってくると、テーブルのうえに置きっぱなしになっていた有名紅茶メーカーのティーバッグの封を開け、釣り堀をするみたいにカップにひょいと投げ入れる。「手抜きにもほどがあるのでは」「美味しいんだって」「ひとを誘ってまで飲ますほどかぁ」「お。呆れてる、呆れてる」あなたにはそういうところがあった。いまさらのように思いだす。すこしでも期待したじぶんをばかみたいだと月並みに思う。がらんとした部屋を見渡しているうちに湯が沸いた。あなたの淹れてくれたティーバッグは、さすがは有名紅茶メーカーの商品なだけあり、それなり美味く、かといって、他人様を招いてまで飲ますほどのものではない、とふたたび思わせるくらいには、平凡な風味だった。「で、なに?」私は言った。「何かあるんでしょ。言いにくい話とか。お願いとか。そういうの」お金でも借りたいわけ、と投げやりに言うと、「ないない」あなたは心外だとばかりに首を振った。「ホントにただ美味しい紅茶が飲みたくなってさ。そいで、まあ、どうやったら美味しい紅茶を飲めるかなって思って」「あーそー。むかしの恋人騙して、してやったりの心地で飲む紅茶はさぞかし美味しいんでしょうね」「違うってば」あなたが声を張りあげるものだから、びっくりして、すこし紅茶をこぼしてしまった。あなたは立ちあがり、布巾を持ってくると、いそいそと濡れた私の服飾を拭う。目のまえにあなたのつむじが浮いている。あなたは作業をつづけながら私の名を呼び、「――ちゃんは前からそういうとこあるよね」と不平を鳴らすでもなく、ごちた。「独りでかってに思いこんで、自棄になって、一方的に見限っちゃうっていうか」「だって」それは事実でしょ。私が言うよりさきにあなたは、「なに言っても無駄だと思ったから言わなかったけど」ごしごしと何度も私の服飾を布巾で拭いながら、「浮気してないよ。そっちがかってに勘違いして、怒って、こっちの話もろくすっぽ聞かないでさぁ」「浮気じゃなかったらなんなの、あんたこの部屋で抱き合ってたでしょ、裸の女と」「あんねぇ」あなたはしびれを切らしたというよりも、それはどこか陽気を滲ませて、「あいつは男。抱き合ってたんじゃなくって、寸法測ってただけ。大学の学祭でドレスアップするからコーデ見繕ってくれって頼まれて」「男って、だって」「元からそういうコなの。ホルモンとかなんとか、そういうのも飲んでるって言ってた。ただ、ミスコンに出るからには負けたくないって。そいでまあ、そういうのに理解あるって言ったらヘンだけど」「頼んだの? あなたに?」あなたはもう下を向いておらず、布巾を動かす手も止まっている。私たちは目を覗きあい、あなたはそのまま私の視界をあなた自身で塞ぐようにした。あなたの吐息が私の内側をなぞり、そのこそばゆさを懐かしく思った。息継ぎをしたあなたは私の手を握り、「美味しくないんだよ」と言った。私は首を傾げ、意味が解からない、と意思表示する。「一人で飲んでも、美味しくなくて。紅茶も。お酒も。なにもかも」「言わんとすることは分かるけど」本当は解かってなどいなくて、あなたがなぜいまさらそのような、私を惑わす呪詛を吐くのかと、どこまで真に受ければよいのかを、私は私自身に示せないでいる。「ホントに浮気じゃないんだよね」「念を押すねぇ」あなたは笑い、「なんに誓ったら信じてくれる」といまにも泣きだしそうな顔をする。めったに見せないあなたの顔を目の当たりにして、私の疑心暗鬼もなりを潜めた。「わかった。信じる。でも今後また勘違いしたくないから、そのコ、あなたにコーデお願いしたってコ、私にも紹介して」あなたは無言で、うんうん、とうなづき、「ことしもまた学祭あるからさ。こんどこそそのコ、優勝させよう。二人なら鬼に金棒だよ」「紅茶に私、みたいな?」あなたがきょとんとするものだから、いまのなし、と宙を手で払うようにすると、あなたはその手を掴み、「あたしにきみ、みたいな」と恥ずかしさで全身の血が沸騰しそうなセリフを至極真面目に口にした。あなたの吐息からは紅茶の香りが仄かにし、たしかにこれは美味しいかもしれない、とあなたの熱を感じながら、私はこっそり思うのだ。


1950:【腰が痛い】
きょうは2019年の4月1日です。持ち運びできるタブレットを3月に入ってから使いはじめたのですが、いわゆるスマホと呼んで差し支えない機種で、なかなか便利だと思う反面、もしラインなど、接点のある人物と常時繋がれる状況にあるとすると、これはなんだか鎖で繋がれるくらいに窮屈だろうなぁ、と感じます。常時他人と繋がれる状態に抵抗を抱かない方なら問題はないのでしょう。また、下を向いて操作することが多いので、首が痛くなります。これは長期間利用すれば骨格のゆがみとして何らかの症状が顕在化すると想像します。頭痛や肩こりならばまだよく、おそらく腰痛やひざなどの関節痛として現れるのではないか、と想像します。人間は下を向くと、首が前方にでますから、しぜんと前傾姿勢になります。腰に負担がかかり、なによりそれを支えるためにひざへと体重が加わります。組体操で、人の太もものうえに立ち、うしろから両ひざを支えてもらって、映画「タイタニック」の名場面のような格好になる技があります。あのように、前傾姿勢というものは、ひざに負担がかかるのです。ひざに負担がかからないようにと、こんどは歩幅をちいさくし、ひざを曲げた状態で歩くようになります。こうすると、ひざ内部の軟骨で充分にクッションをきかせることができず、余計に腰やひざへと負担をかけることになります。悪循環です。因果関係は不明ですが、いくひしが軽いぎっくり腰になったのは、ちょうどタブレットを使いはじめてから三日後のことでした。ほかにも心当たりのある要因はあるので、スマホを使ったから腰をわるくした、とは言えませんが、まったくの無関係とも言えないでしょう。タブレット端末やスマホを使用するときは、たまにでよいので、首や腰が曲がっていないか、じぶんの姿勢を客観的に認識してみるのもよいのではないでしょうか。


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参照:いくひ誌。【1231~1240】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885523660

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