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いくひ誌。【1951~1960】

※日々、不足しがちな不足を補っていく。


1951:【直角と平行のあいだ】
斜めに構えることと、何かをつねに否定することはイコールではない。斜めに構えるというのは、物事を一方面からだけでなく、異なる角度からも眺めてみることを言うはずで、斜めに構える前の段階では、真正面から物事を見据える視点がまずなくてはならない。だから斜めに構えている人間というのは、本来は物事を素直に聞き入れやすい性質を帯びていると呼べる。ただし、そこで満足せずに、本当にそうだろうか、とひょいと首をよこに倒し、ほかの視点でも物事を観察しようとする姿勢があり、これは見るひとが見れば好奇心旺盛に映るだろう。同様に、穿った考え方というのも、物事を掘り下げて考えているという意味では斜めに構えると同じであり、まずは掘り下げる前の段階で、それそのものをつぶさに観察しているはずである。掘り下げるには、掘る場所が肝要であり、どこを掘ればよいのかを見定めるためにも、まずは対象を素直に、そのまま観察する姿勢が欠かせない。現代に限らずむかしから、斜めに構えたり、穿った考え方をする人間は煙たがれたものだ。素直なだけの人間は、「いまここに顕現している状態」しか見られないために、斜めに構えた人間が捻くれ者に映るのかもしれない。しかし、そうした「いまここに顕現しているひねくれた状態」の前の段階では、斜めに構えた者たちは往々にして、素直に対象を受け止め、観察していることを知ってもよいように思う。ただし、素直に対象を受け止めているあいだは、異物として周囲の者の目には映らないため、どうしても異物と化した状態、すなわち斜めに構えている状態がワル目立ちし、よくない心象だけを残すのだろう。型破りがまず型を知らなければ破れないように、斜めに構えるにしろ、穿った考えにしろ、まずは対象をそのまま受け止め、観察しようとする素直な姿勢がなければ成り立たないことを認めてもよいように思う。仮に、素直にそれそのものを真正面から捉えることなく、初めから斜めに構えている者は、そもそも「まったくべつのほかのもの」を見ている確率が高いため、これはこれで、何を見ているのかを聞きだせれば、それなりにおもしろい回答を得られるかもしれない。つまり、何をどのように見ているにしろ、斜めに構えている者のほうが、素直で一面的なモノの見方しかしない者よりも、興味深いと評価できる。むろん、そう評価しているのはいくひしの主観であるので、これを一般化するつもりはない。素直で一面的なモノの見方しかできないこともまた、ある者にとっては重宝すべき資質として高く評価されるだろう。もっとも、他人に高く評価されることで得られる利がいかほどのものかは一考の余地があるにせよ。(言い換えれば、素直に一方面からしか物事を見ない人間が大多数を占めているからこそ、斜めに構えた視点の価値が相対的にあがるのだ。もし斜めに構えた視点が増えていけば、素直で一方面からしか物事を見ない人間の価値が相対的にあがるだろう。選択と集中がもてはやされる社会では多様性に満ちた人材が重宝され、多様性が重宝される社会では選択と集中に特化した者が成果をあげやすい、とも言えるかもしれない)


1952:【だっぶんだ】
前々から思ってたんだけど、この「いくひ誌。」の最初に並べてる「※日々――」の文章あるでしょ、いちばんうえのやつね。これだけでも集めたらけっこうな文量になる気がするのよね。ざっと計算してみるけれども、平均して20文字だとして、10記事1ページで更新してきてるから、いまぜんぶで1951記事あって、ページ数で言うとだから195ページあるってことでしょ。で、かける20して(こういうときは計算を簡単にするために200×20にしちゃって、答えは4000で、マシマシにしちゃった200から本当の数字の195を引いて、5で、そこに×20して、でた100を、4000から引いて、3900文字ってしちゃえばすこしだけ楽に答えがだせるんだけれども、文章にすると目が回るな)なんちゃらしたら答えは3900文字になる。「※日々――」の文字数が平均30だったら、同じように200×30-5×30=6000-150=5850文字ってことで、思ったよりすくないな。一万字くらいはあるかなぁ、って思ったけど、そんなもんか。でも集めたらそれなりにはなるので、いつか「※日々――集」としてまとめたいなぁ、とは思っているのよね。きょうはまた読みにくい文章を並べてしまったけれども、駄文を書くのも大事だと思うのよね。何がダメで何がよいのか、を知るためには、ダメなものを体感として知っとかなきゃだから。あんがい、ダメだと思ってたのがよくて、よいと思ってたのがダメだった、ってのは、経験としてけっこうあって、「よい」と思ってる成功体験がけっきょく、よくない拘りや固定観念になっちゃってるってのは、いくひしの個人的体験談に関わらず、世に溢れる失敗談や失策を見渡してみれば、よくある話だとまとめてしまっても、非難の声はそれほど聞こえてこないと思うのよ。でもこういうことを言うと、わざわざ「それは違うんじゃないの」なんて野次を飛ばしてくる連中もいるところにはいるもんだって聞いたような聞かなかったような、そういう感じで、きょうはもうおしまいにしちゃいたい気分なのよね。


1953:【メモ】
・集団と組織は違う。集団になっただけで個人のチカラが増幅したと錯覚する性質が人間にはあるようだ。歳を取っただけで若者よりも優れていると勘違いしやすい性質があるのと似ている。どちらも欠陥であるのは言うまでもない。だが同時に、数の暴力は有効であるし、生きた年月によって培われる知恵があるのもまた確かである。とはいえ、集団はそれと同じ人数の「体系化された組織」には勝てないし、年齢も、経験値や知識量に比べたら個人の能力を測る指針にはならない。 ・ルッキズムやエイジズムが取り沙汰されはじめたいま、学歴差別もまた俎上に載るようになっていくだろう。学歴で判断できること以上に、現代社会では学歴による区別が当然そうあるべきものとしてまかり通っている。しかし果たしてそれは公正な判断基準であるのだろうか。疑問である。 ・倫理観や価値観の分断が進んでいる。世代や地域差ではくくれないほど、個々人による差異がデコボコと散乱しはじめている。同世代であっても、他国の民よりも価値観が離れている、といった事態も容易に起こり得る。反面、国籍人種性別年齢関係なく、同好の士と出会いやすい環境が整っている。これからさきの社会ではますます物理世界での息苦しさや生きづらさが増し、正比例してネットへの依存度合いが増していくことが想像できる。集団が形成されやすい土壌が整っていく反面、組織化しにくい風土ができあがっていくだろう。


1954:【悪意は無味無臭】
ひとは悪意を抱いているとき、それが悪意であると自覚するのはむつかしい。殺意や敵意と異なり、悪意はそれそのものが「悪意単体」として湧かないためだ。悪意とは言うなれば、「身分」や「陰口」のようなものであり、あなたが抱いた感情を「悪意」と見做すのは、あなた以外の他者なのだ。だからあなたがどんなに、これは「悪意ではない」と言い張ったところで他者から「悪意がある」と判断されれば、それは「悪意」と見做される。あべこべに、あなたがいくら口で「これは悪意である」と言い張ったところで、他者がそこに善意を見出していれば、それは善意となる。たとえばそれは、あなたが「吾輩は首相である」と主張したところで、みなの承認がなければあなたは首相ではないのと同じことである。掘り下げて言えば、悪意とは感情の名ではなく、あなたが抱いた何かしらの感情や衝動によって表面化した「言動」を他者が観測し、そこからあなたの内面を推し量ったときに幻視する「憶測の感情」のことを言う。したがって、悪意があるか否かは、問題ではない。よって何かしらの行動や事件に対しての評価基準として「悪意の有無」を採用するのは合理的ではない、と考える。もっとも、悪意とは異なり、殺意や敵意は、これは行動のきっかけとして確かに意思決定に関わる動機と考えて、いまのところはまだ、矛盾しないように思うが、このさき脳科学や医学が発展していけば、感情や衝動といった生理的現象がもうすこし仔細に分析できるようになり、脳内化学反応の統計として、より正確で信用の足る診断が可能となるのではないか、と想像する。話は脱線するが、いじめや、差別やハラスメントの問題がむつかしいのは、それをする当人にとってはいずれも「いじめではなく」「差別ではなく」「ハラスメントではない」ためだ。しかし、当人がどのように事象を解釈していようと、干渉された側にとってその干渉が「害」であるならば、それはいじめであり差別でありハラスメントなのである。しかし、「害」と感じれば、問答無用で他者を加害者に仕立てあげられるのか、と言えば否であり、そこには法律や条例など、細かな線引きがなされている。しかしそれも現状、充分とは言えず、何を以って害と見做し、何を以って加害者と見做すのか、については、これからも念入りな擦り合わせ作業が欠かせなくなっていくだろう。それによりますます、当事者の感情よりも、目のまえの事象をどのように解釈するかといった、より即物的なものの見方が支持されていくと推し量るものだ。悪意を感じとる能力は危機管理能力を発展させる上では有効であるが、必ずしも、悪意を取り沙汰す必要はない。むしろ、悪意の有無よりも、目を留めるべきは、生じた事象へのより普遍的な解釈であり、新しい解釈によっては、法律などの社会基盤のほうをこそ変更していくほうが妥当となる場合もあるだろう。そうなってくると、悪意を抱いているか否かは、自身の感情へ目を向けるよりもどちらかと言えば、自身が他者へ及ぼしている影響を客観視することにより判別可能であり、じぶんの行いが「害」であるか否かを判断できるようになることが、回り回って、自身に芽生える悪意への対処法としてもっとも効果的な手法であるのではないか、と仮説が立てられる。ただし、この仮説には決定的な瑕疵があり、「害を与えられている」と相手が気づかない限りは何をしても悪意を抱いていることにはならない、という「確固たる悪意」を見逃すことになり兼ねず、他者の存在を抜きにしても「悪意」は単独で成立する考えは、排除しきらずにいたほうが、社会秩序維持の観点からすれば、好ましいと考える。悪意は悪意として独立して存在するが、それが個人の内面に顕在化することはなく、飽くまで他者からの観測によってのみ確定される、量子的な振る舞いをみせる概念である、と言えそうだ。


1955:【わいは四天王のなかでも最弱】
いくひしでござる。やー、お久しぶりでござるなぁ。みなのものはすこやかに日々を過ごしていたでござるか。いくひしさんは、日々ねむたすぎてダメでござる。気を抜いたら16時間とか寝てしまうでござる。ほとんど半日死んでいるでござる。英気を養っているでござる。だらけ気味の日々でござる。でもだからって起きているあいだにがんばっているのかい、といったらぜんぜんまったく微塵もそんなことはないでござる。こんな人間が生きていて申しわけないなぁ、と思いながらも、まいにち好きなことができる日々に、そして環境に感謝でござる。感謝をするだけならタダなので。くずです! やー、でもホントさいきん思うんですよね。みんなすごくないでござるか? や、すごくない、って否定ではないでござるよ。すごいねー、って感心しているでござる。何が?と思ったでござるか。まーまー、なんでもよいでござる。とにかくすごいなぁ、と感心しきりでござる。そういう気持ちなのだなぁ、と解かってもらいたいでござる。いくひしさんはほかのいくひしさんたちと違って、いくひしさんの気持ちを解かってほしいでござる。解かりありたいでござる。理解しあいたいでござる。あなたのことだって知りたいでござる。でもなぁ、とそこでいくひしさんは悩んでしまうでござる。ほかのいくひしさんたちはそうではないから、他人と理解しあえるわけがない、期待するだけ無駄だ、なんて冷たいことを言うでござる。でもでもいくひしさんは思うでござる。理解しあえないからといって、理解しあう努力まで放棄する必要はないでござる。歩みあえばよいでござる。踏み越えられない壁が目のまえにもしあったとしても、歩み寄ればそれだけ距離は縮まるでござる。その距離を縮めることを理解しあう、というのではないのかなぁ、といくひしさんは思うでござる。だから、絶対に乗り越えられない壁は乗り越えなくてよいでござる。ただ、それを挟んでいたとしても、互いに、壁越しに、手をあわせて、ぬくもりを感じ合うくらいのことはしてもよいし、できると思うでござる。でもでも、こういうことをいくひしさんが真剣に唱えると、はん、って鼻で笑って、ほかのいくひしさんたちは鼻をつまむでござる。臭いこと言ってる~、のジェスチャーでござる。口で言って! いくひしさんはぷりぷりでござる。怒ってばかりだから疲れるのかなぁ、と思って、きょうはもうお休みでござる。もう知らないでござる。ほかのいくひしさんたちにがんばってもらうでござる。しばらくまた引きこもるでござる。みなのものも無理はしないようにするでござるよ。ではまた、でござる~。


1956:【趣味を増やそうと思って】
文芸以外にも趣味を持っていたほうがよいのではないか、と思いたち、増やすことにした。絵はいちど挫折しており、これは除外しておく。ハッキリ言って、絵が描けるのは才能だ。描けない人間もいることを知ってほしい。そしていくひしさんがツイッターでよくリツイートやファボをしている絵描きさんは、みな例外なく才能があり、独自性があり、将来性があるので、くじけずに絵を描きつづけてほしい。無責任なことを言っていることを承知で、しかし、すくなくともいくひしさんにそう思わせるだけの何かがあるのだということは知っておいてほしい(というこの主張自体がいくひしさんのわがままではあるが。べつだん、知らなくてもよいのが本当のところだ。だが知ってほしい、と押しつけがましく主張してしまうところに、わがままたるゆえんが窺える)。閑話休題。新しい趣味を探したい。趣味であるから、これはもう、本気で死ぬまでつづけられるものがよい。これまでにいくひしさんには片手で数えられる程度の趣味があった。飽き性で根気のないいくひしさんであるから、数年で辞めてしまうのが通例であったが、新しく趣味を見つけるたびに、継続年数は伸び、いまでは最長十五年の趣味がある。文芸はおそらくそれより長くなるだろうから、つぎにはじめる趣味はそれ以上になるはずだ。もういちど述べておくが、絵はいちど挫折したので除外する(ひと月もたなかった)。作曲には前から興味があったが、これは機材がないとむつかしい気がしている。できるだけ何もない状態でも研鑽を積めるものがよろしい。文芸はしかしPCがないと、いくひしさんは創作できないので、PCくらいはあってもよいかもしれないけれども、PCに触れられない状態でも文芸は、構想を練ることができるため、手ぶらでも何かしら進捗できるものがよい。つまるところ、イメージが物を言う分野がよろしいのだ。だがそうしてみると、案外、世のなかの趣味になり得る事象を連ねてみれば、総じて、イメージが基盤にあり、すべてがすべて創作の分野であると言えそうだ。人間の営みはイメージによって培われている、と言っても過言ではない気がしてくるほどである。否、事実そうなのかもしれない。いかん、いかん。話が脱線した。趣味である。新しき趣味を見つけるのだ。何がよいだろう。お金がかからないのも条件として加えたい。しからば、料理は除外される。動画も、機材を揃えるのにそれなりの出費が伴う。否、趣味に金銭をかけたくない、というのは、そもそも矛盾していないか、というところまで考えて、うやむやになるのが常である。今宵も、新しい趣味を見つけることはできそうにない。ひょっとすると探して見つかるようなものではないのかもしれない。趣味もまた出会いなのだ。人と人とがそうであるように、人生それ自体がそうであるように、そして物語がそうであるように。趣味もまた出会いなくして、見つかるものではないのかもしれない。定かではない。しかし今宵はまだ、見つかりそうにない。否、見つからないだろう。それだけが確かである。(とどのつまり新しい趣味など、いまはまだ、それほどにほしくはないのだ)


1957:【短所】
まんちゃんや、偉そうなこと言うのやめなさい。やめたほうがいいよ、ではなく、やめなさい。


1958:【長所】
偉そうなこと言っても言わんくてもいくひしさんには価値がないので、やめてもやめなくても同じことだと思うんだけど、なに? マイナスになるとでも? こんなことで? はぁ? どんだけじぶんの言葉に自信持ってんの、見てるひとがいるとでも? これ読んで不快になる人物が現れるとでも? ちゃんちゃらおかしいんだけど。そのポジティブさだけは見習いたいものだね。いくひしさん、あんたに言ってんの。ほかの誰にでもなくね。


1959:【遠吠え】
鏡に向かってバカと言う。鏡の奥からバカと言われて泣くバカがいる。あんたたちがまいにち飽きもせずハッチャケてる寸劇って、要はそういうことでしょ? バカなの? マゾなの? なんなの?


1960:【うるさいもう聞きたくない】
目的がねぇからそうやって自罰なのか自虐なのか卑下なのか見栄なのか知んねぇけどよ、つまんねぇ言葉ばっかつむいで、膿んで、荒んで、病んで、ぐちぐち他人をひがんで、ねたんで、恨んで、うらやんで、いってぇそれで何が残るってんだかよ。まあどうでもいいけどな、いくひし、おめぇがどうなろうと知ったこっちゃねぇし、苦労すんのも、骨折んのも、てめぇのケツ拭くのも、つむじのさきから足の裏までテメェだろって、まあ、んなこと言うまでもねぇんだけどよ。言ったところでどうなるとも思えねぇし、いい加減、かっこつけんのもかしこぶんのも、偉ぶんのも、ワルぶんのも、どれもこれもが逆効果ってか、悪党かって感じで、やめるにしろ遅すぎるんだよなぁ、もはや。詰んでるってか、死んでるってか、生きながらにして息してねぇじゃん、陸ながらにして深海じゃんみたいなさ、そういうの分かるか? 偉ぶるどころか、選ぶYOU愚か、みたいなライム刻むより、まずはテメェはテメェのライフに見合う問いを見つけろって、それが先決だろって、これもまた言うまでもねぇってか、YOUはでも偉れぇってか。そこまでして目立ちたいもんかねぇ、下々を見下し、見上げられ、崇められ、たてまつられ、ほめそやされて、いってぇ何が残んだか。はいはい。好きにしたらいいんじゃないですか。俺にゃあ関係ねぇからよ。おめぇにゃ目的がねぇからよ、そうやって自罰だか自虐だか卑下なのか見栄なのか知んねぇけどよ、だからふにゃふにゃと芯がねぇんじゃないんですかってな。おいちゃんは思うわけですよ。ねぇ、いくひしさん。聞いてます?


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参照:いくひ誌。【951~960】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884575825

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