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いくひ誌。【1961~1970】

※日々、対話を避けている、会話から逃がれている、言葉を投げだし、絵文字の笑みで切り抜ける。


1961:【誰から誰へのセリフ?】
「充分生きたもの。だいじょうぶ。つぎはあなたの番よ」(祖母から孫へ、人生のエールを送りながら)(殺人鬼からあなたへ、あなたの友人に拷問をほどこしたのち平然とトドメを刺しながら)(余命いくばくかの妻から、夫へ、赤子を手渡しながら)


1962:【呪詛か祝詞か】
「不幸ぶるな。真実おまえは不幸なのだから」(言われて胸が軽くなるひともいるし、カチンとくるひともいる)


1963:【ふだんどおり】
生きたい、と文字を打つのも、死にたい、と文字を打つのも、どちらも四文字なので労力は同じだ。死にたい、のほうがタイピングは一回多いが大した違いではない。どんな言葉も、物書きにとっては同じ作業でしかない。ただし、誰に向けての言葉なのか、によって多少、身構え方が変わる。それを、考え方が変わる、と言い換えてもこの場合は矛盾しない。言葉の向かう相手が具体的な人物であるほど焦点が鋭く結ばれるため、光がレンズによって収束するように、言葉が高いエネルギィを持たないように苦慮する段取りが生まれる。そうでなければ、収束した言葉によって相手がヤケドを負ってしまう危険性がある。どちらかと言えば、言葉自体にエネルギィはなく、相手の内にうごめく感情や衝動が、こちらの差し向けた言葉に共鳴して熱を帯びる。さながら電子レンジである。そうならないように、言葉を誰に向けて並べるか、発するか、によって、同じ文章であっても、考える量や深度が変わる。同じ深さまで思考を煮詰めるにしても、何本の穴を掘ればよいのかは、言葉の向かうさきによって変わってくるため、考える事項は何倍にも膨れあがる。ただし、思考は主観で感じるよりもはるかに省エネであるから、客観的にはどの文章も同じ労力で出力されているように観測されがちだ。消費カロリーを測ってみれば、じっさいのところは真実に差異はないのかもしれない。いずれにせよ、どんな文字を並べるにしろ、物書きの心身に顕著な変化は生じない。言を俟つことなく、長時間の作業による疲労や、睡眠不足による困憊は、このかぎりではない。(よく目にする創作論だが、文章はそれを出力する時点で八割、九割の仕事が完了しているそうだ。頭のなかで文章の骨組みや、血肉をこしらえることこそが物書きの大方の仕事と呼べるのかもしれず、ひるがえっては、その九割方の仕事を終えていたところで、残りの一割の出力を完了させないことには、物書きとしてすら名乗れない、ということなのかもしれない。「天才は99%の努力と1%の閃き」と似た理屈と言える。1%の閃きがなければ、99%の努力も徒労に終わるのだ)


1964:【雨季と共に、愚痴をこぼし、無二の友に、釘を落とし、土をそそぎ、海を汚し、蟲の床に、樹脂を素に、弓をここに、無知と踊り、月を泳ぎ、雪も徐々に】
きょうはすこし愚痴をこぼします。悩みとも言えるかもしれませんが、たいして気にしてはいません。ただ、きょうもまた同じようなことで、どうしてでしょううまくいきませんね、と思ったので、水に流すつもりで、思考を整理がてら並べてみようと思います。思春期くらいのころからたびたびあったことなのですが、こちらは何も思っていないのにかってに敵意を抱かれることがありました。いまでもたまにですがあります。威嚇したり、威圧したりしているつもりがないのに、明らかに相手の態度がよそよそしかったり、剣呑だったりするのです(他者と接点を持たないように心掛けているので、相手と対面するときはおおむね、あいさつを交わすときくらいなのですが)。認知バイアスや思い過ごしかな、と自身の判断を疑ってみるのですが、よくよく観察してみるとやはり、ほかのひとへの態度といくひしさんへの態度とでは、明確な差があるように見受けられます。これはなぜなのか、と考えてみたところ、そもそもいくひしさんは周囲の人間に対してあまり関心を抱いていないのですが、そうした無関心さが伝わってしまって、相手の機嫌を損ねている可能性があることに、あるとき気づきました。これにはいくひしさんはしょうしょう面食らいました。興味を抱かれないことで不機嫌になる心理がよく解からなかったからですが、ひとまずそう仮定してみると、なるほどたしかにそうかもしれないな、と思うようになりました。というのも、いざ相手へ興味があるように装い、会話を交わすようになると、それだけで相手の態度が軟化したのです。日々のあいさつだけでは足りないようだ、といくひしさんは学びました。ただし、したくもない会話をしなければ相手との関係性を良好に保てない、というのもおかしな話だな、との違和感は未だに根強く抱いています。いくひしさんにとって「適度な距離感」とは、顔を合わせたらあいさつをし、何かをしてもらったら礼を述べ、相手が困っていたら手助けできるときは手を貸し、相談を持ちかけられたら助言を呈し、それ以外では助けを求められないかぎりは静観することを意味していました。もちろん、迷惑をかけたら謝罪し、同じ過ちを繰り返さないように対策をたてることも含まれます。なるべく迷惑はかけないようにしたいのですが、関係性を結べば、それだけで相手の時間を奪うことになるので、どうしたって迷惑はかけあうのが道理です。ですから、迷惑をかけない、という条件は、いくひしのなかでは「適度な距離感」とは呼びません。ともあれ、可能なかぎり損失を与えない努力をする、との条件は多分に含んでいると言ってよいでしょう。これらの条件を踏まえると、互いに無関心でいる状態は、極めて「適度な距離感」だ、と言えるのですが、いくひしさんだけがそう思っていても仕方がなく、相手からすれば、この「距離感」が、不快に感じることもあるようだ、と認めたほうが、より円滑な人間関係を構築できるようだ、と徐々に気づきはじめました。あたりまえのことを言っているのかもしれませんが、いくひしさんがこのことに気づいたのは、極々さいきんのことです。ハッキリ言ってしまえば、こちらから歩み寄り、シタテにでて、興味のない相手に興味のあるフリをしてまで良好な関係性を結びたい相手というのはそう多くはありません。限られる、と言ってもいいでしょう。機嫌を損ねるのならかってに損ねていればよろしいのでは、と思うものの、そのせいで、いくひしさん以外の方に害が及ぶのは避けたい気持ちもあるのです。なるべく、「敵意や威嚇」をおもてにだしてほしくはありません。その点、相手が不機嫌なのはいくひしさんに因があるようですから、その尻拭いはいくひしさんがするのが筋でしょう。これは自己評価なのでまったくアテにはなりませんが、いくひしさんはすくなくとも、ほかの方々よりも、(そうした不機嫌そうな方々への)礼儀は尽くしているつもりです。ただし、その礼儀の尽くし方が上手でない、適切ではない、と認めることは多々あります。そういう意味では、いくひしさんに十割、非があると言えるのかもしれません。いずれにせよ、明確な好意や尊敬の眼差しを向けられないと機嫌を損ねてしまうような相手とは距離を置きたいのが正直なところです。もっと言えば、そうした評価をしあわなければ関係性を維持できないコミュニティからも距離を置きたいと望みます。互いに存在を認めあうとは、称賛しあうこととは違うと思うのですが、この違いを理解し、そうした判断基準を生活のなかに取り入れている方は、すくなくともいくひしさんの触れられる範囲にはいないようです。そもそもそういう方は、いくひしさんと関わろうとも思わないでしょうから、互いに存在を認知できたとしても、相互に干渉しあうことはないでしょう。どうあっても孤独が理想の状態であると規定せねばならないようです。要するに、人間めんどくさいな、という愚痴なのでした(いくひしさん自身を含めての、人間、という意味ですよ)。ただしこれらは、物理世界での話ですので、ネット内での双方向での交流関係(は、現時点ではまったくないのですが)とは切り離していただけるとありがたく存じます。愚痴をこぼしてもいいことないよ、という世に有り触れた助言に反して並べてみましたが、やはりおもしろいものではありませんね。愚痴はほどほどに、じぶんの心のなかでこぼし、留めておくのがよろしいように思います。言うまでもなく、愚痴を言いあえる相手がいらっしゃるようでしたら、それはそれで、とても幸福なことと言えましょう。言いあえることが愚痴以外にあるようでしたら、そちらのほうが好ましい気もいたします。


1965:【不要論】
編集者不要論の話題をときおり目にするが、クリエイター側がそのように主張するのならば、編集者側も是非に、作家不要論を唱えてみてはいかがだろう。それができないのであれば、どちらがより優先して守るべき存在かが明瞭になるのではないか。仮に、作家不要論をどうしても唱えられないにも拘わらず、コスト削減の節目に立たされた折に、まっさきに作家側の報酬(小説家であれば初版部数や印税率)がカットされるようならば、これは作家側が搾取されている、と判断してもよろしいのではないか。編集者および出版社の方々には是非とも、作家不要論を唱えて、がんばってほしいものである。


1966:【やめなさいよ】
まんちゃん、二項対立煽るのやめなさいよ。そのつもりがなくともそういうふうに見えるよ。よくないよ。ぷんぷん。


1967:【冗談はこの辺にして】
作家不要論はともかくとして、編集者や出版社が極々一部の売れっ子作家に依存せずともコンテンツを発信できるようにする仕組みは、いまからでも模索してもよい段階であるとお見受けするのですが、どうなのでしょう。たとえばマンガにしろアニメにしろ、小説ですら、分業してひとつの作品をつくることは可能だと感じます。そしてそれは一人の作家に依存するよりも生産性が高く、安定して高い水準の作品がつくれるのではないか、と想像します。たとえば小説であるならば、物語全体の骨子を考えるひと、ディティールを統率するひと、キャラの相関を考えるひと、セリフを考えるひと、設定やキャラにゆらぎがないかを確認をするひと、校閲をするひと、地の文を書くひと、最終的に文体を微調整するひと、など創作における作業工程を分担すれば、一日一作以上をつくるのも可能だと思います。これはアニメやゲーム開発の現場であればすでに作業分担をして、専門の工程を各人が任されて、ひとつの作品をつくっています。そのノウハウをマンガや小説にも応用できると思うのですが、なぜ誰も商業の舞台で試さないのでしょう。これからますます「原作」としての需要が高まっていくことが予想されるいま、試す価値はあると思います。脚本の世界ではこの分業制度はメジャーであると想像していたのですが、効率や成果のほどはいかほどのものなのでしょうか。プロの作家や編集者の方々はむろん、こうした情報も集めて、吟味していることとお見受けします。数年後が楽しみですね。皮肉なしにがんばってほしいです。いままでも、これからも、おもしろい物語をありがとうございます。


1968:【というテイ】
これはまったくのウソっこなのですが、郁菱万という物書きは、四人の腐れ縁が集まって営んでいる創作チームでありまして、現在、ネタだし係が多忙につき、創作自体がしょうしょう遅延気味でございます。おおむね、「ござる」口調のいくひしさんが中心になってこのチーム「郁菱万」こと「万妖衆」を営んでいるのですが、やはりというべきか、それぞれの生活があることもあり、なかなかに時間の都合があわないことが多くなってきているな、と感じているきょうこのごろであります。稀に、雑用係さんがバイト感覚で後輩をつれてきて、感想を言わせたり、校正をさせたり、SNSの運用を任せたりと、色々させているようですが、本当に対価を払っているのかは不明です。ご迷惑をおかけしております、読んでいるかは知りませんが、この場を借りて、お詫び申し上げます。いつもありがとね。助かってます。サンキュ☆ なーんて妄想を、たまにしたりして、いくひしさんは孤独を紛らわせることもあるような、ないような、そんな感じで、新作はまたぞろ短編やショートショートが増えつつ、ショートショート100話の未完のやつを閉じつつ、新しい長編の構想を練りつつ、途中の長編をはやくやっつけたいなぁ、とやきもきしているところです。ショートショート100話の未完のやつは「河童」の話をやっつけ中で、2万4千字を超してしまったので、まずいなぁ、まとめるチカラどこ行った、みたいな具合でよろしくないのですが、「河童」閉じたら電子書籍一冊分が溜まるので、63~78話くらいまでまとめて電子書籍化しちゃいたいと思います。100話の後半、80~100話までのやつ、だいたい1万字前後のちょいちょい長めの話が残っちゃってるので、ほかの未完成のやつ閉じたら二冊に分けて、電子書籍化しちゃいたいと思います。思ったよりかかりそうだなぁ、という感じで、新しくつくった短編やショートショートのがさきに電子書籍化するかもしれません。計画性皆無でごめんなさい。とはいえ誰も困らないのが、趣味のよいところ。うぇいうぇい!


1969:【反論になっていない】
かっこいいとかかっこわるいとか、卑怯とか卑怯でないとか、そうした基準はじぶんが何かを判断する場合には有効であるけれども、他人の言動やシステムを批判するには、いささかお粗末だな、と感じる。私にとって「かっこわるく」とも、ほかの誰かにとっては「かっこよい」ことなどいくらでもあり、また仮に「かっこわるく」とも、結果として充分な成果や働きをみせているのならば、それでよいのではないか、と思うしだいだ。お門違いな批判を口にすることですら、「お門違いでも批判してよいのだ」と示せるだけ有用であると評価でき、それそのものを封じる合理的な理屈を構築するのは、この現代社会ではなかなかに骨が折れる作業であると推し量るものだ。とはいえ、お門違いな批判に対して、どのようにそれがお門違いか、を論じる分には、これもまた充分に意味があり、議論のうえで効果的な役割があると呼べる。ただし、その反論において、「かっこわるい」だとか「卑怯」だとか、そういった主観に依存した所感を以って批判の根拠にするのは、いただけないのではないか、と疑問に思うものだ。むろん、いくひしがその反論を「いただけない」だけであり、それを受け取る者もあれば、ありがたくいただく者もあるだろう。自由に意見や感想を共有しあえばよろしい。可能であれば、より普遍性のある理屈であると好ましい。さすれば、より円滑に議論が収束するであろう。(奇想天外で脈絡のない言論であっても、それはそれで、いくひし個人としては好ましくあるのだが)(ちなみに「姑息」は、一時逃れ、その場しのぎ、といった意味合いであるから、これは批判の根拠として「卑怯」や「卑劣」「醜い」「気持ちわるい」よりかは、より客観的な評価だと言えそうだ)


1970:【個人の所感です】
ファンがいないと活動できないのがプロで、ファンがいなくても活動しつづけていけるのがアマチュアだとすれば、プロになることの意味ってそんなにない気がする。まれにSNSで、売れないとつづきが書けません、キャラたちの未来が消えてしまう、かわいそう、ごめんなさい、だから本を買って、なんて言っている創作者がいるけれども、気持ちは分かるけれども、そこまで言うのなら、趣味で書いてあげればよいのでは?と思ってしまう。誰も止めやしないのに(かってにつづきを書けないような契約でなければの話)。もちろん、お金を稼げなければ創作もできないんだよ、という理屈は理解できるけれど、あまりにも「プロ」であることに拘りすぎに思える。だいじなこと、譲れないことは人それぞれなので、非難するつもりはないけれど「物語の未来が」とか「キャラクターがかわいそうで」とか、そういう「想いのつよさ」を売れないことへの恨みつらみに繋げるのは逆効果に思える。なぜって、書かないのはあなたの問題でしょ、売れなくとも書けばいいじゃん、と思われてしまうからだ。売れないことの問題は、お金が手に入らないことであり、それ以外は些事であるはずだ。そこにほかの要素を結びつけるのは、誇大広告(不当表示)じみている。物語が商品として売れなくて困るのは、キャラクターでもその物語自身でもなく、それを商品にするために対価を払った業者や作者自身であるはずだ。あなたが困ることを、キャラクターや物語をダシにして、売り上げを伸ばそうとするのは、同じ創作者として、なんだかなぁ、と思ってしまう。好きにしたらよいとは思うけれども、本当に物語やあなたの生みだしたキャラクターを想っているのなら、どんな状況でもつづきを書き、そしてあなた自身の手で掬いあげてほしい。売れない状況はつらいだろうし、生活の困窮に瀕してしまうだろう。それはそれで問題だから、こんどは売れる物語をつくるか、生活のできる環境にあらたに身を置くよりないだろう。繰りかえしておくが、物語やキャラクターを、売り上げを伸ばすためのダシにするのは、同じ創作者として、なんだかなぁ、となってしまう(せめて、物語やキャラクターそのものに価値をつけてあげてほしい、同情をひくためのダシにするのではなく)。むろん、売るためにダシにしているのだよ、と明確な意思のもとで宣伝に利用している分には、筋が通っていてよろしいのではないか、と思うしだいだ。いずれにせよ、宣伝がいかようであろうと、欲しければひとは物を買う。単純な原理である。(売れるとよいですね)


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参照:いくひ誌。【231~240】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882083997

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