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いくひ誌。【1971~1980】

※日々、非力で無力な蟻のように、群れない一匹の蟻のように。


1971:【石油はどうせ燃やされるだけ】
埋もれた期間が長ければ長いほど、ただの虫の死骸も、化石になったり、石油になったりするんだよ。中途半端に露出するから分解されて、塵となる。人知れず、腐らず、空気に触れずに埋もれていよう。化石になったからってどうなるわけでもないけれど。


1972:【めったやたらにでたらめ】
短編や掌編をつくる上で意識しているのは、リアリティレベルをどこに設定するのか、だ。いくひしはだいたいおおざっぱに三層まで意識している。真ん中が「映画やマンガなどの一般化されている虚構」の層であり、上にいくほど、現実の日常にちかくなり、下層にいくほど、あり得ない度が高くなっていく。つまり、層のてっぺんがいくひし自身の日常であり、最下層が、いくひしにとって物語にもならないほど破たんした世界観ということになる。長編でもむろんこれらの層は意識するけれど、おおむね失敗したくないので、真ん中の層のなかであーだこーだと選んでいる。だからこそ、短編や掌編では、真ん中の層からずれた、上や下の層を意識して編むことが多い。言い換えれば、映画っぽくもなく、マンガっぽくもなく、かといって文学っぽくもないリアリティラインを探っている。すべてを組みこんでみたりもするのだが、いまいちぱっとしない。日常に寄せすぎると物語に起伏がなく、無駄に描写だけが長くなり、かといって破天荒にしすぎると、何がなんだか分からなくなる。だから、抽象度が高くなる下層ほど、具体的な比喩を多用しがちで、一見すると、上層のリアリティレベルであるような読み味になる。興味深い現象である。なんて書いているけれど本当はまったくこんなことは意識していないし、層がどうたらなんて考えたこともなかった。これくらいのウソはつらつらと口から出まかせでいくらでも並べられるのだが、ときおり、ウソとは言い切れない文章になっていたりするので、偶然ってこわ、と思ったりする。いくひしさんの並べる文章は九割九分、ハッタリであり、しったかであり、勘違いに、錯誤であるから、真に受けてはいけない。まーたトンチンカンなこと言ってら、と笑うのが正しい読み方であるので、くれぐれも真面目に耳を傾けないように。文章だから耳ではなく目を落とさないように、ではないのかとの苦情が入りそうだが、目を落としたら痛いし、たいへんだ。視線をそそぐ程度にとどめておくのがよろしかろう。むろん、読まずにいるのが利口であるのは、言うまでもない。え、読んじゃったの? ありがとー。


1973:【ねむねむ】
眠たすぎる、身体が重すぎる、と思ったら特大低気圧が上空に迫っていたらしい。SNSを眺めていると、低気圧だと身体の調子が崩れやすいんだよねー、みたいなつぶやきを比較的目にする機会があるのだけれど(絵描きさんに多い印象)、ひょっとしたらいくひしもそういう体質なのかもしれぬ。きょうはもうダメだー。いつもダメだけど、きょうはもういちだんと「睡眠が趣味です!」と言いたくなる日だな。寝ちゃいたいな。寝ちゃおうかな。寝ちゃおう、寝ちゃおう。おやすみー。(ただの日記になっちゃった)


1974:【むつかしい】
マンガの文脈で小説をつくるのが、さいきんとみにむつかしい、と感じるようになってきた。いまのマンガはとくに、物語の圧縮の仕方が小説に比べて尋常ではないので、参考にする分には重宝しているけれども、あまり囚われないようにしなくては、と軽い敗北感を味わいつつ、すこし距離をとっているきょうこのごろである。「いまのマンガは」なんて言い方をしてしまったけれど、ドラえもんの作者「藤子F不二雄」の短編集などは、小説にすれば長編になるのではないか、と思うほどに、圧縮されており、学び甲斐のあること山の如しである。あべこべに、小説はなかなか圧縮の具合が芳しくなく、もっと文脈を破壊するような作品がぽんぽんでてきてもよいのではないかなぁ、と好みの物語を探している最中である。以前にも述べたかもしれないが、「乙一」と「恒川光太郎」の名は短編の名手として、文学史の平成の欄に載るだろう。お二人とも圧縮という点では、群を抜いている。とはいえ、ほかの短編の名手を読んでいないだけなのかもしれず、探せば素晴らしい作家はもっといるのだろう。ただし、いくひしの好みに合致するかは定かではない。とりあえず、長編小説を読むのが苦になってきた感が拭えない。誤魔化せなくなってきたので白状すると、小説、あんまり楽しくないかもしれない。つくるのも読むのも、以前より確実に量が落ちてきている。ゆえに、読みたいと思える物語や作者に出会えることは、ありがたいことである。いくひしのために、などとおこがましいことを言うつもりはないけれども、つくれる者は、つむげるものがあるうちにつむぎ、世に放ってくれるとうれしく思うしだいだ。(つくるの楽しくなくてもつくれてしまうのが、いくひしさんなのだ。スランプにはスランプにしかつくれない物語があり、未熟には未熟であるうちにしかつくれない物語がある。どうあっても「いましかつくれない物語」になるのだから、つくらない、という選択肢はないのだ。なぜなら、もったいないので)


1975:【今月の予定】
2019年4月11日です。こんげつ中に、短編集を二冊電子書籍化する予定です。未完だった「河童の話」が2万7000字でひとまず脱稿し、これによりショートショート100話の残り、63~77話を一冊にまとめることができます。10万字ですかね。78~100話は、未完の話を閉じたあとで、また改めて電子書籍化します。ショートショート100話のほかに新作のショートショートが9万字ほど溜まってきたので(カクヨムの「零こんま。」にて掲載済み)、これも一冊にまとめて電子書籍化します。「千物語(銅)」と「千物語(茶)」になります。「千物語」と銘打っているものはすべて短編集ですので、シリーズではないので、お間違いないようにお願いします。けっこう、シリーズなのかな、と勘違いしやすいタイトルなので、まずったなぁ、とネイミングセンスのなさを噛みしめています。センスがないといえば、千物語は短編集なのですが、ジャンルがまぜこぜで、テーマも統一していません。もしいくひしが編集者だったら、センスない編集者として大ブーイングだと思います。たとえば百合作品だけでまとめたり、SFで統一したりしたほうが、読み手からすれば、お求めやすいのかな、と想像します。ただいくひしさんは本を売りたいわけではないので(アマゾンキンドル電子書籍はゼロ円での刊行ができません、できるものならゼロ円にしたい)、そこのところ、じぶんのわがままを優先しています。というのも、読者さまには好きなジャンル以外のものにも触れてほしいなぁ、と考えていて、いくひしさんが「百合×ファンタジー」とか「BL×ミステリー」とか「SF×ホラー×ラブストーリー」とか、そういうジャンルをまたいだ物語をつくりがちなのも、そこら辺のわがままが関係していない、とは言わせません(誰にしゃべってるの?)。ともかくとして、きょうでひとまず二冊分の分量に区切りがつくので、推敲したあとで、前書きなどを準備しつつ、表紙をつくり、電子書籍としての体裁を整えようと思います。二週間もあれば充分でしょう。郁菱万の電子書籍すべての無料キャンペーンが5月に予定されているようですから、そのときに新刊も無料で配布しようと思います。それまでにもう一冊くらい電子書籍化できるかな、と目論んでいます。ただ、きょねん一日3000字だった上限をことしは1000文字にさげているので、この調子で、あまり無理をせず、淡々と日々をすごしていこうと思います。あと、なんだか紙の値段が高騰しているというニュースを目にしたのですが、気になるところです。値段によっては、10月のコミティアは見送るかもしれません。誰が困るでもないと思うので、無理なく、やりたいことをやりたいときにやっていこうと思います。以上です。


1976:【バイアスは自覚するのがむつかしい】
性差を強調して、固定化して解釈しがちなことをジェンダーバイアスと呼ぶのであれば、百合に「男の娘」や「女装男子」が登場することを嫌悪する風潮はまさにジェンダーバイアスだと呼べると思うのだけど、その辺、ジェンダーバイアスを疑問視していながら、百合は女の子同士の関係性でなくてはならない(つまり、男性は絶対に排除すべき)、といった固定観念を脱し切れていないひとを見ると、ジェンダーバイアスのバイアスとはなんたるかを観察できて、なかなか興味深いな、と思う本日のいくひしさんなのであった。言い換えれば、ジェンダーバイアスを排していけば、BLも百合も、異性愛の恋愛物語もすべて同じくくりに収斂(または拡張)していく。もちろん、分類するための基準は残るだろうが、それは哺乳類や果物といった外から当てはめた枠組みでしかなく、それそのものの本質ではない(ちなみに、いくひしさんはこの感覚で物語をつくっている。むろん、性差を強調したキャラクターもぜんぜん抵抗なく物語に登場させる。ジェンダーバイアスに囚われない、というのは、生物学的性差や文化的性差を否定することではないからだ)。似た問題として、SFに魔法がでてきたからといってSFでなくなるわけではないと思うのだが、あなたはどうお考えになられるであろう。(ファンタジーもまた同様に、物理法則とかけ離れた世界観であろうと任意の事象に数段階さかのぼれる因果関係が設定されているのならば、それはSFと呼んで差し支えないと思うしだいだ。SFの側面があるからといって即座に、ではファンタジーでなくなるのか、と言えばそれは否であり、この場合、SFでありファンタジーである、は矛盾しない。言うまでもなく、いくひしさんがどう思おうと、あなたが百合だと思えばそれが百合であり、SFであり、ファンタジーだ。ご自由に解釈すればよろしかろう。いくひしさんがミステリーだと思うものを誰かに「それはミステリーではない」と否定されたとしても、べつだん、いくひしさんは困らない。ジャンルやカテゴリーとはその程度の、あやふやなものなのだ。厳密に定義しようとしたところで、境界線は極限に向かい、いつでも揺らぎを帯びている)


1977:【差別的な人間です】
いくひしさんは偏見まみれで、差別的な人間だ。これは否定するのがむつかしい。哀しいことである。自身の偏見や差別意識に気づくたびに、どうすればよいだろう、と立ち止まってしまう。すべてを均一に等しい存在だと見做せばよいのだろうか。しかし、すべてが等しく同じような存在だと見做すのは、差別以上の危うさが漂って感じられてならないのだが、みなのものはどうお考えであられるだろう。こうして問うことができるのもまた、私とあなたのあいだに差別があるからなのかもしれない。


1978:【恋愛偏差値が3】
さいきん見かけて「ん?」となった文章があります。「恋愛感情と性欲を履き違える」です。やっぱり「ん?」となってしまいます。恋愛感情と性欲って別物なんですか? これは純粋な疑問で「ん?」となっているので、本当に誰かに訊ねたいのですが、性欲抜きの恋愛感情とはどんなものなのでしょう。成立するのですか。想像できません。いくひしさんが単に性欲魔人で勘違いベイベーなだけなのでしょうか。生殖行為に及びたい、相手の身体に触れたい、遺伝子を交換したい、存在を一体化したい、融合したい、いっしょになりたい、これらすべて性欲から生じた衝動や欲求ではないのでしょうか。性欲なしでも成立する感情は、むしろ憎悪だとか敵意だとか、そういったものな気がするのですが、違うのでしょうか。愛情と恋愛感情の違いもよく解かりません。愛情の一種が恋愛感情であると見做していたのですが、これもまた違うのかもしれません。性欲を帯びた愛情が恋愛感情だ、と言っても、いくひしさんの解釈では大きな齟齬は生まれません。ただし、百パーセント性欲のみであると、これは恋愛感情だとは言いにくいです。食欲百パーセントと扱いとしては同じです。どんな欲求であれ、相手のことを思い、尊重する意思がなければ、これは愛情を伴わないので、愛情に内包されるかたちで分類される恋愛感情でもなくなる道理です。ともあれ、性欲なしに恋愛感情は成立しないように思います。何か間違っていますか? 誰か教えてほしいです。


1979:【怒りは表明すべきもの】
怒りは表明すべきもので、発散すべきものではない。すくなくとも近代において、怒りの発散は暴言や暴力と区別がつかない。怒りを堪える義務はないが、せめてなぜ怒っているのかを、冷静に言葉で伝える努力はそそいだほうが身のためである。怒りを表明することの意義は、もうにどと同じような怒りを抱かずに済むようにと、何かしらの対応や対策をたててもらうように他者や組織に働きかけることにあるはずだ。つまり、どんなにじぶんが被害者であろうと、他者にお願いをする立場なのだ。相手に礼儀を尽くすのは、円滑な交渉を進めるうえでは定石であろう。考えてみれば、怒りと恨みのあいだに明確な差はないように思える。怒りを堪えつづけるとやがて恨みへと変質する。恨みは怨念となり、因縁となって、人生を狂わせる。だとすると、恨みがそうであるように、怒りは相手にぶつけた時点で、途切れることのない不毛な雪合戦と化すだろう。こだまとなって、怒りは相互に入り乱れ、敵を傷つけ、味方陣営をも傷つける。怒りは表明すべきもので、発散すべきものではない。平たく言ってしまえば、言い方に気をつけましょう、というおもしろくもなんともない結論に結びつく。だが、言い方一つで、諍いの種をばらまきもするし、解決への道のりを一歩進みもする。私はこれこれこういう理由により損害を受けております、と伝えるのと、うるせぇ殺す、と吐き捨てるのとでは、相手の受け取り方も、反応も変わってくる。この「いくひ誌。」を読んでいれば実感される方もおられよう。反感を買うだけの物言いをしがちないくひしさんを反面教師とし、まずは怒りの表明の仕方から工夫してみるのはいかがであろう。もちろん、怒りを必ず表明しなければならない、といった決まりはない。鎮められるものなら、鎮めてしまうのが好ましい。怒りを抱かずとも、理不尽を察知し、闘うことはできるはずだ。理想論ではあるものの、そこを目指してもバチはあたるまい。(本日の、おまえが言うな、でした)


1980:【ねんぴょう】
いくひしの年表つくりたいな。どの作品がいつつくられたか一覧にするの。ちなみに処女作は2009年で、「16ビートのゆくえ」や「おしっこに行ってきます」とかは2011年につくった。八年前とかびっくりする。古びない作品をつくりたいな、と思ってつくってたけど、どうなんじゃろ。やっぱり八年の時間の流れは物語を風化させちゃってるのかな。「群れなさぬ蟻」や「息の根にうるおいを。」が2013年のやつで、二代目いくひしさんになってからつくった初めての作品だから、すこし作風が変わってるけど、やっぱり引き継いでるとこもあるから、いくひしさんだなぁってなってくれるとうれしいな。なんじゃろな。年表つくりたいな。でもめんどうじゃな。あとでやろーって言って、忘れちゃうやつっぽいな。きょうはグダグダしてしまったから、あしたはウダウダしよっかな。年表つくりたいな。予定に入れておくとするかな。


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参照:いくひ誌。【1911~1920】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888683213

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