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いくひ誌。【1981~1990】

※日々、アダムとイブを見届ける。


1981:【見切り発車】
いっつも思うのが、この「いくひ誌。」をつむぐ労力を掌編についやしてたら、単純計算で1981個の掌編がつくれてたんだよね。もしつくってたらいくひし、いまごろ掌編の神になってただろうなぁ。いまからでも遅くないから、まいにち一作つくろっかな。百文字でいいからまいにち一作。いけるとこまでやってみるか。


1982:【超短編1『すこし思い過ごし濃いコーヒー』】
インスタントコーヒーを飲んでいたら、テーブル上の小瓶がカタコトと揺れだした。コーヒーの粉末が半分ほど入っているだけなのだが、目を凝らしてみると、もぞもぞと蠢いている。もぐらが土から顔をだす間際を彷彿とさせる。小瓶を手に取り、砂時計よろしく、さかさまにしたり、横に倒したりして、蓋を開けることなく中身を探る。何かいる。目を瞠ったつぎの瞬間、手に大きな力が加わり、小瓶を落としてしまった。小瓶のなかに潜んでいたものが激しく身じろいだらしかった。床一面にコーヒー粉末が散らばるが、そこに何かしらの姿は確認できなかった。小瓶を手放してしまう間際、褐色の粉末を波のように舞いあげる、ちいさくも大きな尾びれを目にしていた。しかし、いちど冷静になると、思い過ごしであるかのような気がし、床を掃除し終えるころにはもう、小瓶がかってに動いたことすら、じぶんの描いた妄想にしか思えなかった。席に戻り、一息つく。すっかり冷めたコーヒーを口に含むと、のけぞるほど苦かった。粉末を入れすぎた憶えはない。粉末のほうでかってにカップに飛びこまないかぎりは自動的に味が濃くなる事態はあり得ないので、きっとこれも疲労からくる思い過ごしだ。苦いのカタマリは気つけ代わりに飲み干した。ちゃぷん。胃のなかで何かが跳ねた気がしたが、きっとこれも思い過ごしに違いない。


1983:【ぜんぜん足りない】
ウィキペディアで調べてみたら多作の小説家だと4000点もつくったひとがいるみたいなんだな。2000点くらいじゃ神とは呼べないな。仙人くらいだな。ならいくひしはいま、小学生くらいなんだな。幼稚園児かもしれん。赤ちゃんくらいだったら、仙人よりも伸び白あるからうれしいんだけどな。中途半端に育ってしまったんだな。あと十年生きるとして、まいにち三作つくったら10000点つくれるんだな。文字数に拘らなかったらいけるけど、多作であることの意味って小説創作AIがでてきたらなくなるから、質重視のほうがよいのかもしれないな。多作であることの意味って、やっぱりよいものや珍しい組み合わせ、新しい発想が確率的に得やすいってことだと思うんだな。だから多作は飽くまで必要条件で、十分条件ではないんだな。多作を誇ったら創作家として終わりだと思うんだな。過去に縛られてるってことだからな。まずは目のまえの、あたまのなかの、いくひしにしか視えてない、掴めないモヤモヤを見逃さないようにしなくちゃなんだな。よそ見してる余裕はないのだ。(でもよそ見する余裕がなきゃダメなんだな。むつかしいな。右を見ながら左を見るみたいな矛盾だな。鏡が欲しくなるな)


1984:【超短編2『表裏遺体』】
大学で知り合った男と意気投合して、しばらく遊んでるうちにすっかり仲良くなってしまった。こういうのを友達と呼ぶのかもしれない。明るく、誰とでも打ちとける性格の男であるが、一つだけ受け入れにくい欠点があった。端的に言ってしまえば、虚言癖がある。霊感とは違うんだけど、と彼は言うが、要するに幽霊や死者の思念が見えるそうだ。アホくさい。一笑に伏すのは俺ばかりで、ほかの連中は彼の誠実な性格からか、それとも説得力のある物言い、それはたとえば、どこどこの何々には近づかないほうがいいだの、ここはたぶん事故があった場所だねだの、極めつけは友人宅のアパートやマンションへ足を運んでは、何階の何号室は事故物件だ、などと言い並べる。あまりに具体的であるから検索するのは簡単で、いざ調べてみると彼の言動は検索結果と一致する。しかし、検索できるのならば前以って調べることもできるわけで、知っていることを頬被りをして「霊が視えるから」と言い添えれば、彼の人徳をして、疑うよりも信じるほうが身のためだと判断する者は後を絶たない。俺と同様に疑いの目をそそいでいた者たちまで、しばらくすると、ひょっとしたら本当かもしれない、などと言いだした。人気者の完璧超人を口わるく言うただ一人のひねくれ者として俺は、非難の目に晒されている。しかし、俺には断言できた。彼には霊感のような特殊能力は備わっていない。なぜだ、と訊かれると困るので、表向きは断言しないが、すくなくとも彼はいちども俺に対して、霊の存在を指摘したことはなかった。きょうもいっしょに飯を食ったが、談笑して終わった。楽しい時間だった。しかし俺はきのうも女を一人犯して殺している。どの遺体もまだ部屋に転がしたままだ。乾燥させてから、湖に捨てる。あとでまとめて処理する予定だった。或いは、彼には真実、死者の何かしらが視えていて、俺の裏の顔も知っているのかもしれなかったが、それを黙っている彼の胸中を推し量れば、初めて結んだ友情のことのほか篤い信頼関係には感謝をしておくべきなのかもしれない。とはいえ、女を玩具扱いするようなクズだと知って縁を切らずにいるような男を初めての友人に迎えるには、いくら俺でも躊躇する。だからここは一つ、完璧超人のような彼にも欠点があり、虚言癖があるのだと判断するのが正解だ。部屋の遺体をすべて処理したあくる日、俺は彼を誘った。「きょうは俺ん家で飲むべ」「や。遠慮しとくよ」「んでだよ、せっかく部屋きれいにしたのによ。前に来たいつってたじゃん」「おまえん家はだって」彼は何でもないように白い歯を覗かせる。「やけに賑やかで、うるさそうだ」


1985:【超短編3『ヌクレさんの落度』】
世のなかを動かすのは技術とエネルギィだ、とヌクレさんは言った。自身の長髪を三つ編みに結いながら、「言い換えれば『術』と『熱』ってことになる」と続ける。「技術には、ある性質が組みこまれている。『技術それそのものを蓄積する術を磨き、指数関数的に発展する性質』だ。この性質を正しく機能させために社会は膨大なエネルギィを必要とし、さらにそのエネルギィ効率をよくするために技術が使われる」イタチゴッコですね、と僕が言うと、ヌクレさんは髪留めを口に咥え、いふぁにも、と間抜けな相槌を打つ。「相乗効果でどこまでも肥大化していく。理屈のうえではね」よし、と髪を結い終えてから、「技術とエネルギィはしかし等価ではない」と補足する。「エネルギィがさきで、技術はそのあとに副次的に発生する余熱みたいなもんだ。ただ、その余熱が新たな素材に着火すると爆発的にエネルギィを生みだし、また副次的な余熱を周囲にばらまきもする」「燃える素材さえあればじゃあ、その連鎖はとまりませんね」「いかにも。つまり、技術とエネルギィのほかに周囲には燃えるための素材、或いは副次的に発生した余熱を媒介する素材が必要となる」「それは社会で言うところのなんですか? システムとか? あっ、設備とかですかね」「人だよ」ヌクレさんは気にいらなかったのか、せっかく結った三つ編みを解いた。ヌクレさんの匂いが鼻をかすめる。「言うなれば人とは、技術を蓄えるタンクであり、エネルギィを媒介する素材だ。そして労働とはすなわち、エネルギィを生むための化学反応であり、ここでもまた副次的に技術が生まれ、エネルギィと共に媒介される。より技術を溜めこんだ器ほど、媒介率が高いため、社会からは重宝される」つまりはお金持ちになれる。「でもですよヌクレさん。経営者は必ずしも労働者よりあたまがいいとは限らないのでは? 技術者のほうが専門知識が高いなんてことざらだと思うんですけど」「あたまがいい、の定義によるな。だいいち、技術と知識は同じではない。技術には知識が含まれるが、知識だけでは技術には結びつかない。高い専門知識を持っていてもそれを技術として使える環境がなければ宝の持ち腐れだ。その点、経営者は知識を技術へ昇華するための術を有している。だから組織を運営していける。同様に、同じ環境のなかであっても知識をたらふく蓄えていようが、技術を発揮できない労働者の価値は相対的に低くなる。最低限の知識で最大限の技術を発揮できる者のほうが、労働者としては格上だ。それはたとえば、どんなに成果が乏しかろうが成果さえあげていれば、技術のひとつも使えこなせない評論家きどりに比べたらいくぶんマシなのと同じ話だ」「うー、なんだか耳が痛くて、同意したくない話ですね」「好きにしろ。おまえの同意に物事の本質を変えるだけの作用はない」「ヌクレさんはいちいち辛辣ですよ。僕じゃなきゃとっくにヘコたれてますよ、気丈な僕に感謝してください」「厚かましいなおまえ。ヘコたれないんだろ。問題がどこにある?」「皮肉が通じない!」「まあ何にせよ、このさき社会はかつてないほど知識を共有し、技術を発展させ、それを使いこなせる環境を整えていくだろう」「つまり、エネルギィは増大していくと?」「加速度的にな。ただし、その前段階では、技術を蓄える器を揃えておかねばならない。大量の媒体が不可欠なわけだ」「人口増加はでは、人類にとって隘路ではなく、むしろ享受すべき現象ですね」「増加できればな。単純な話として、増殖すべき土地が足りない。エネルギィや技術を媒介するために人が必要なわけだが、その人が増えるには、物理的な空間が入り用だ。しかし、地上は有限であり、ちょっとやそっとでは増幅できない」「問題ですね」「じつは案外にそうでもない。人とは器だ。視点を変えれば、器さえあればそれが人である必要はないわけだ。そして人類がたかだか半世紀でことこれほど社会を発展させたのは」「インターネットがあったからですね」「いかにも。知識を共有するための技術を向上させつづけてきたからだ。そこには文字や書籍も含まれる。いわば、インターフェイス全般が社会を加速度的に発展させた。さながら情報爆発だ」「人工知能もそうですね」「いまでは、それらそのものが人に代わって知識を蓄え、そして道具としての側面を持ち、技術そのものとして台頭しはじめている」「それはえっと、つまり、道具が知識を使いこなし、技術に昇華できるようになってきた、ということですか」「現になっているからな。考えてもみろ、携帯型メディア端末は初期のころは、通話機としての側面しか持っていなかった。それが二十年も経たぬ間に、アプリよろしく外部ソフトを起動させるための憑代と化した」「さながらシャーマンですね」「言い得て妙だ。外部の機能をいくつも宿すための憑代、まさにシャーマンだ。携帯型メディア端末は、それそのものが道具であると共に、ほかの道具の機能をその身に宿し、使いこなす器として、技術を社会に顕現させている」「でも操作しているのは人間ですよ」「いまはな。人間のやっていることは、ある環境下において任意の場面で端末を起動しているだけだ。たとえば、道に迷って地図を起動する。これはナビが発達したいまでは、迷う前の段階ですでに目的地が設定され、迷うことなく地図を展開してもらっている。人間が行う作業は、技術の発展と共に徐々になくなり、機械が代替するようになっていく。そしてすでにそうなっているのが現状だ。なぜかと言えば、知識の蓄積が人間ではなく、機械のほうへと依存しはじめているからだ。知識が技術を生む。そして技術はエネルギィを生み、さらに技術を発展させる」「そこにいまはもう、人間の入りこむ余地がなくなってきているのですね」「人口などだから増加せずとも構わないのだよ。それはつまり、人間などいなくともこのさき、そう遠くない未来、知識は蓄積されつづけ、技術へと昇華し、発展し、エネルギィを生み、それらエネルギィは情報を媒介するための素材へと引き継がれ、さらなる情報が集積されていく。繰りかえすが、この回路にもはや人間は必要ない」「でもですよヌクレさん。ヌクレさんの話じゃまるで、僕たち人間が情報を蓄積するために存在しているみたいじゃないですか、でもでもじっさいは違うじゃないですか。人間がいるから情報が蓄積されるのであって、情報のおかげで人間が誕生したわけではないのでは?」「はて。では逆に訊くが、おまえはなぜ誕生した? 情報の交配によってその肉体が設計されたのではないのか。おまえをかたちづくる大元はなんだ? 生物は、生命とは、情報の羅列でできているわけではないと、おまえはそう考えるのか? ただの石ころとおまえとの違いはなんだ? おまえの身体を構成する物質と、おまえ自身とでは何が違う。なぜおまえは、おまえとして存在していて、なぜ死んだあとには、おまえはおまえとして存在できない。そこにはただ一点、より外部の、雑多な情報を、ある一定の規則によって蓄積できるか否かの差異があるだけではないのか。処理できるか否か、ただそれだけではないのか。情報がおまえをおまえとして規定している。より正確には、情報を蓄積し、蓄積した情報を処理し、処理した情報を外部へと媒介できることこそが、生命体を生命として規定し、ただの物質と分け隔てている。おまえはしかし、そうは考えていないようだな」「でも、だとして、だったらもうすでにコンピューターは生命体としての枠組みを得てるってことに」「なってはいけないか? むしろなぜおまえはそのことに疑問を抱く。否定する要素がどこにある。これまでの生命の定義と矛盾するから? そんなものは何の理由にもなっていない。それくらい、いくらおまえであっても理解できるだろう。人間が情報を生むのではない。情報が人間を生んだのだ。そして世界は情報に溢れており、そこかしこに、情報の引継ぎが行われ、ミクロに、そしてマクロに、生命体の枠組みを、階層的に入り組ませている。もし仮に人類がほかの惑星へと移住し、地球のような自然環境を再現したとすれば、これは地球がよその星へと情報を媒介したと見做して、齟齬はない。つまりそのとき、地球は明確に、生命体としての枠組みを得るのだ。だがそれを我々人類の視点で実感するのは至難だろう。だが我々の認識に関係なく、細菌はそこかしこで増殖を繰り返し、我々の白血球は、外部ウィルスを撃退する」ヌクレさんはくるりと椅子を回転させ、背中をこちらに向けた。ん、と言って髪を束ねると、僕に三つ編みにするよう命じる。僕は無言でそれに応え、夜の溶けこんだような彼女の髪を、ジグザグと交互に編みこんでいく。「これも技術と呼べますか」「立派な技術だ。誇るがよい」「いい加減に憶えてくださいよ。技術の継承ができなきゃ僕は生命体失格です」「知識としては解しているのだ。しかしこればかりはどうにもな」飄々と口にするヌクレさんの肩を叩き、できましたよ、と手鏡を渡す。「じょうできじょうでき、褒めてつかわす」「つかわさなくてよいです。あ、こら。ほどかないでくださいね」ヌクレさんは三つ編みをもてあそぶ。できたてほやほやの肉まんをじっくり観察するような手つきだ。「もうきょうは編んであげませんからね」「案ずるな。情報はこうしてほれ」彼女はジグザグと交差する螺旋の構造物に頬づりをする。「編みこまれているからな」


1986:【もってまわった言い回し】
真剣勝負の場でいちどでもジャッジをする側に立ったことのある者なら、数人の審査員による判定がいかにあいまいで、不公平で、一定でないかを知っているはずだ。テストの採点のようにはいかない。明確な基準が仮に規定されていたならば、そもそも審査員など必要ない。誰であっても採点できるからだ。したがって、あいまいで、不公平で、結果がいつでも一定でない競技において、審査員が配備される。ここで注視したいのは、審査員に審美眼など備わっていない点だ。しかし、何かしらの判定をくださねばならないとき、そのくだされた結果に不平が飛んできづらい人物が審査員として抜擢される。権力のある者の判断ならば、たとえ何かおかしいと感じても、批判するのは心理的抵抗が大きい。違和感を覚えても見て見ぬ振りをして、審査員の判定を鵜呑みにする者たちが多い理由の最たるものだ。権威主義に、日和見主義と言えばそれらしい。そして審査員側も、そのことを意識的無意識的にかかわらず、承知している。暗黙の了解か、あるいは身体に馴染んだ習性のようなものかもしれない。いずれにせよ、審査員の判定など、恣意的で、独善的で、その場しのぎの茶番である。サイコロを振ったほうがまだ確率的に平等である点で、公平だ。ジャッジの判定には偏りがある。その偏りが、何かしらの明確な基準において生じているのならば審査の役割として機能していると見做せるが、さきにも述べたとおり、そうした基準があるのならば審査員は必ずしもスペシャリストである必要はなくなる。そうでなく、個人の主観による「なんとなくこっち」といった趣味嗜好であるならば、これはもう、独裁となんら変わらないと言ってよい。しかし、表現の世界において、こうした独裁がじつに卑近にまかりとおっている事実は、思いのほか周知されていないように見受けられる。表現とはそもそも独善的で、独創的で、ゆえに独裁なのだ、と言われてみれば、なるほどそうかもしれない、と煙にまかれそうになるが、独創と独善は関係なかろうし、独善と独裁もまた乖離している。繋がりは薄く、独善であることに必然性はないし、独裁ともなれば、非難の的となってしかるべきである。いずれにせよ、「公平なジャッジ」とはじつに矛盾した物言いであり、裁判ですらこの事実から逃れることはむつかしい。公平性を担保するために必要な段取りが、明確で厳密な審査基準ではなく、権力の向上にある現代社会は、皮肉の例としてもってこいである。回り回って悪循環となり、ジャッジをする意味とは、権力をおすそ分けするための器の選定である、と言ってしまっても、ここではいささかの齟齬も生まれない。真実の追求と言いつつも、判定の基準が過去の判例である時点で、真実は遠のくばかりだ。いまはいまであり、過去は過去である。私の事件を彼らの事件と結びつける道理があるだろうか? 過去がこうだったから、では今回もこれで、との判定をくだされるのが、言ってしまえば刑事事件における裁判である。民事はもっと恣意的で、独善的で、独裁的だ。多少、言い過ぎの気はあるが、法律は万能ではないし、真実ではない点は承知していて損はないはずだ。白黒つけること以上に、双方の関係性を洗いだし、さまざまな観点から相互作用を洗いだす作業のほうがよほど有意義だと思うのだが、ことはそう単純ではなく、複雑であるがゆえに面倒であり、白黒つけたがる人間の心理には一定の理解を示すのに躊躇はない。とはいえ、それは単なる怠慢であると指弾されても言い逃れはできないのである。


1987:【超短編4『ふしぎで、ぶきみな木』】
飼っていたハムスターが死んだ。書店のまえでペットショップの店員が店頭販売していたハムスターで、チューインガム一個よりも安い値段で投げ売りされていた。値段の割によく生き、よく食べ、わたしのおやつ代の半分をひまわりの種に化けさせた前科があるが、こうして死んでしまうと生きているときよりも愛くるしく思える手前、失われた命の尊さを思わずにはいられない。ゴミに捨ててしまうのはさすがのわたしも忍びないので、骸は庭に埋めてあげることにした。祖母が亡くなってからは草が生え放題の庭は、こぶし大の穴を掘るのにも苦労しそうで、どうせ引っこ抜くなら手間は同じだとばかりに、背の低い木を根こそぎ、うんとこしょどっこいしょ、した。地面には穴ぼこが開く。わたしはそこにぬいぐるみのような愛くるしいハムスターの死体を放りこみ、上から土をかぶすことなく、うんとこしょどっこいしょ、したばかりの背の低い木をそこに戻した。土と根っこのサンドウィッチやぁ。不謹慎な独白を内心で唱えつつ、永眠にはできたベッドだ、と愛くるしいハムスターの死体に別れを告げた。と、そこで、いまさらながら、墓石代わりとなった背の低い木に目がいく。幹はくるっと一回転しており、輪っかが一つできている。葉はすべてくるくる丸まり、葉巻かぜんまいじみている。見たことのない植物だ。祖母には生前、海外へと足を運んでは、得体のしれない代物を買い集めてくる習性があった。ひょっとしたらこれもその一つかもしれない。庭を見渡すが、同種の植物は見当たらない。貴重な植物だったら面倒なので、念のために母に訊ねるが、知らないしべつに構わないわよ、と引っこ抜いてしまったことへのお咎めはなかった。「どうせ来月、業者さんに来てもらうんだし」伸び放題の雑草を根絶やしにすべく、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889267212


1988:【まとめるちからがない】
超短編と銘打っておきながら、四作目にしてはやくも一作7000文字を超してしまった。よろしくない。通例であるなら、このまま一万字が珍しくなくなって、二万字、四万字、六万字と増えていって、またぞろつくりかけがたくさんできてしまうパテーンだねキミ。一日1000文字の上限って話もどこいった。掌編は掌編、短編は短編、長編なら長編で、きちんとその物語にあった分量でつくれるようにならなくちゃだよキミ。わかったかい。はーい。返事がよすぎる。わかってないパテーンでしょキミ。


1989:【超短編5『ジャンパーは脱ぎ捨てて』】
その日、ぼくは超能力を身につけた。瞬間移動だ。会社に遅刻しそうになり、遮断機の下りた踏切をくぐったところで、意識が飛んだ。つぎの瞬間、ぼくは目的地であるところの職場のロッカールームに佇んでいた。「おう。はやいな」上司が現れ、ぼくのとなりで着替えだす。遅刻どころか、誰より早く職場に着いていた。時計はちょうど、ぼくが遮断機をくぐってから八秒後を示していた。どう考えても瞬間移動だ。ぼくは興奮しながら仕事をこなし、昼休みにちょっとした遠出を試みた。どうせなら証人がほしい。ぼくの勘違いではなく、妄想でもなく、たしかな現実として瞬間移動ができるのだと証明するために目撃者を用意した。もちろん、こんなことを頼んだところで、上司に告げ口されて、人事評価がマイナスにされてしまう。あたまがおかしくなったと判断されてはたまったものではないので、こちらの事情は話さずに、会話中にとつぜん飛んでみることにした。相手は以前、仕事のミスをぼくになすりつけた同期で、すこしばかりやり返したい気持ちが募っていた。ぼくが目のまえで消えたら、さぞかし腰を抜かすだろう。その顔をじかに見られないのは不満だが、まずは実行してしまうことにした。どうせなら、どこまで遠くに行けるかを試してみるのもよいだろう。思い、異国の地を片っ端から念じてみることにした。いざやってみると、同期の憎たらしい顔を最後に、ぼくは一発目で、南国の密林に飛んでいた。暑い。こんどは南極をイメージする。即座にぼくは(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889276712


1990:【一文で要約できる物語がいい物語?】
要約できるようなものをわざわざ物語にするんじゃありません。


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参照:いくひ誌。【1391~1400】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886277035

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