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いくひ誌。【1911~1920】

※日々、イビツにゆがみ、まがって、折れて、ぎこちない。


1911:【東京五輪】
2020年の東京五輪に向けて、スポーツモノのコンテンツが増加傾向にある。これは小説やマンガだけでなく、映画やゲーム業界もその方向で開発を進めているはずだ。たとえば近未来のオリンピックでは、身体を機械化した身体障がい者たちが、五体満足な選手たちよりも超人的なパフォーマンスを発揮しているかもしれない。そうしたSFチックな世界を舞台にした物語は需要があるのではないか、と見込んでいるが、いかがだろう。また、ストリート発祥の比較的新しいスポーツが五輪の競技として続々と新種目化されている。そうした若い世代から注目される競技にスポットを当てた作品は、これから増えていくことが予想される(五輪種目ではないが、たとえば鬼ごっこ発祥のチェイスタグ。空手とマーシャルアーツの組み合わさったトリッキング。中国独楽に似たディアボロや、サッカーのリフティングのみを扱うフリースタイルフットボール、同じくフリースタイルバスケも若者たちのあいだに浸透しはじめている。エクストリームけん玉なるものすら存在する。また、2019年3月現在すでに、パルクールや、乗馬、マラソン、ロードレース、ボクシングを題材にした小説が新しく出版されている)。これらスポーツモノの反動で、身体を駆使しない競技にもスポットが当たっていくだろうことが想像できる。頭脳競技と呼べばそれらしい。たとえば、ゲーム(eスポーツ)バトル。即興絵描きバトル。即興ピアノバトル。即興コイン積みバトル。クラッキングバトル。怪盗バトル。犯罪バトル。古今東西怪物バトル。ともかく、競技の要素を主軸に組みこんだ作品が増加していくだろうとここに予測しておくものである。これはいくひしさんが何年も前から見込んでいた方向性で、スポーツモノかつバトル要素ありの小説はいくつかの作品として仕上げている。もっとも、こうした市場の動向に、需要者たちがどこまで追従するかは、不確定だ。現状、あまり目立った成果はあがってないように見受けられるが、今後、市場がどのように動いていくのか、眺めていこうと思う。


1912:【えーん、縁、円】
やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるな。なんだかさいきん、ほかのいくひしさんが妙に分析ちっくなことをのたまきはじめたのじゃが、みなのものはお気づきでござるか。はあはあ。なるほどなるほど。読んでいないからわからないときたでござるか。読んで!!! いくひしさんはさいきん、分析ちっくなことをのたまきはじめたのでござるよ。もうそういうことにして話をすすめさせてもらうでござる。そうは言うてもですよいくひしさん、もとからあなた、偉そうなことのたまいていたでしょ、なんてどこからともなく聞こえてきそうな気配がしないでもないでござるが、これにはさすがのいくひしさんも二の句が継げないでござる。いまさらでござるな。たしかにそのとおりでござる。一理あるでござる。ともあれ、いくひしさんはじぶんを棚に上げるのがたいへん上手でござるから、ひょーいと素知らぬ顔で、偉そうなことを抜かすでござる。たとえば「売れるためには」とか「埋没しないためには」とか「上達するためには」とか「新しいことを目指そう」とか、そういう喉ごし爽やかな物言いをちかごろのいくひしさんはしがちでござる。でもべつだん「売れなきゃいけない」とか「埋もれてはいけない」とか「上達しなきゃいけない」とか「新しくないと価値がない」とか、そういうことを主張したいわけではないでござるよ。極論でござるが、何かをなさなきゃいけないとか、何かをつくらなきゃいけないとか、まったくそんなことはないでござる。何もしたくないなら何もしないことを目指したって構わないでござる。あなたのご自由でござる。最低限、ほかのひとの自由を脅かさないように、邪魔をしないように、お互いに譲り合いながら配慮しつつ、死ぬまでの時間をつぶしていけばよいでござる。いくひしさんはただ、いろんな考え方や解釈をして、遊んでいるだけでござる。言葉遊びでござる。文芸でござる。矛盾を見つけては、それを埋めていくパズルをしているでござる。いくひしさんの言うことなんて真に受けてはいけないでござるよ。再三言っているでござるが、いくひしさんの並べた文章にはどこかに誤解があるでござる。正確ではないでござる。論理の飛躍から、仮定の仮定まで、勘違いから錯覚と、よりどりみどりに、いろとりどりでござる。ミスのオンパレードでござる。誤謬のバーゲンセールでござる。みなのものにはぜひとも、反論して遊ぶ方法を試してほしいでござる。いくひしさんの並べた文章に、それは違うんじゃないの、と反論したり、反発したり、反証から、判例まで、たくさんの例外を見つけては見繕ってほしいでござる。そうしたらそれはいくひしさんにはない視点となって、あなただけの視点となって、そうしてなんだかんだして、いつかのどこかでいくひしさんに新しいパズルのピースを拾わせるでござる。もちろん、いくひしさんの並べた文章をもとにしなくたって構わないでござる。何も生みださなくたってよいでござる。ただそうは言っても、うーんそうでござるな、たとえばいくひしさんがこの世界に刻んだわずかばかりの影響が、回り回って、いくひしさんに返ってきたとしたら、それがいくひしさんにとってわくわくするものであったなら、それはもうもう、これ以上ないほどに愉快なことでござるよ。孤独が嫌いではないいくひしさんであっても、孤独じゃないのもよいかもね、と思える瞬間になるでござる。ともあれ、そんなご褒美はなかなかないからよいのかもしれないでござるから、無理をしてまでそうしてほしいとは望んでいないでござる。偶然の巡り合わせだからこそ楽しいでござる。いくひしさんはべつに誰かに何かを伝えたり、訴えたりしたいわけではないでござる。こういう考え方や解釈の仕方もありますね、と見つけたり拾ったりしたから並べているだけでござる。コレクションでござる。お遊びでござる。おこちゃまがどろんこ遊びをしたり、積み木で遊んでいるのと変わらないでござる。あなたはいま、何をして遊んでいるでござるか? 遊んではいないでござるか? あなたが楽しそうにしていたら、いくひしさんも興味が湧くかもしれないでござる。邪魔をしないように遠くから眺めるでござる。やっぱりおもしろそうと思ったら、かってに真似して、いくひしさんも遊ぶでござる。一人遊びでござる。お遊戯でござる。でもそのときはきっと、一人であっても、独りではないでござる。そういうものが、いくひしにとっての繋がりでござる。だいじにしたいと思える縁でござる。回り回って、円でござる。結んで開いて、なにかしらの手を打って、そうしてまた結んで。やや、これは童謡でござるよ。しまったでござる。動揺したでござる。宴もたけなわでござる~。


1913:【落し物】
落し物をよく拾う。移動手段が徒歩と自転車なので、地面に目を落としている頻度が高いようだ。よって物が落ちていると目が留まる。きょうも行きに時計を拾い、帰りに新品の500ミリペットボトルコーラを拾った。冬は手袋やマフラーやニット帽がよく落ちており、そういうときは見えやすく雨に濡れにくい場所に置きなおしたりする。定期入れや学生証、財布や携帯電話などはさすがに交番に届けるが、落とし主が見つかったときに「届けましたよと知らせてもらうか否か」の選択をいつもNOにしているので、その後にどうなったのかはいつも知らないままだ。交番に届けでた者には、拾い物の一割をもらい受ける権利があり、これもまた受け取るか否かを選択できる。めんどうなので、いつも「受け取らない」にしている。そういうことを記す書類があるのだ。道路の立て看板や、標識が倒れていたりしたのを交番に知らせたこともある。そのときは住所から職業、生年月日から連絡先まで根掘り葉掘り訊かれて、あまりよい気分ではなかった(落し物のときと違い、専用の書類がないようだ)。器物破損した犯人かもしれないので、そのような対応をしたのだろう。解からないでもないが、こんなことならもう知らせるのはやめよう、と思ってしまった。やや高圧的に感じたわけだが、相手の警察官が真剣に仕事をしていただけ、とも言えるので、湧いた不満は呑みこむべきなのかもしれない。愚痴っぽくなってしまった。車に轢かれて死んでいる猫やハクビシン、カラスなども稀に見かける。猫などは年に二回くらいは遭遇する。本来なら保健所に連絡すべきなのだろうけれども、めんどうなので、これもいくひしさんはコンビニの袋を手につけて、死体を掴みとり、くるっと手袋を裏返す感覚で、回収する。その後、近くに森林があれば、そこに穴を掘って埋める。ひょっとしたらこれは何か法律で禁じられている行為かもしれないので、褒められた行いではないが、放っておくのもなんだかな、と思ってしまうのだ。本来なら放っておいても自然に還るのに、アスファルトがあるせいで、それも適わない。死体を避けるように走り抜けていく車は数あれど、誰もどうにかしようとはしないのだ。放っておいたらいずれ擦り林檎みたいに道路と一体化してしまうかもしれない。なんだかなぁ、とやっぱり思ってしまうのだ。生きた猫を抱きあげたり、掴んだり、撫でたりしてもどうも思わないのに、死んでいるだけでぞっとするものが湧く。コンビニの袋越しであっても、死体には死体の感触があるのだ。くたっと垂れた首のすわらなさは、腕にずっしりとくる。いまのところいくひしさんが見かけた猫の死体は、すべて野良猫だ。首輪をしていないからそうと判断している。話は変わるが、完全自動運転車が一般公道を走るようになったとき、猫や動物への対応がどのようにシステム化されるのか、興味深い。人間の場合は回避すべしとの判断がなされるだろうけれども、相手が獣であったならば、回避することで車内の人間が危険に晒される確率が高くなる。きっと轢き殺すように判断がなされるのではないか、と想像しているけれども、どうなるだろう。機械の利点は悩まないところだが、悩まない分、人間には非情に映るのだ。ともすれば、それが恐怖を呼び起こすこともあるだろう。このさきの社会では、守るべきモノと犠牲にすべきモノの線引きが、これまで以上に厳密になされていくことが予想される。ひょっとしたらある条件下では、いくひしさんやあなたが「犠牲にすべきモノ」と判断されるかも分からない。或いはすでに、機械ではなく人間の判断によってそのようなシステム下に我々が置かれていても不自然ではない。合理を突き詰めたシステムが社会に運用されている以上、こうした線引きは、可視化されていないだけで、そこかしこに存在しているのだ。視えないものは視ようとしなければ、そこに存在しないのと同じだが、我々はそれでも、存在しない存在と干渉しあっている。搾取もそのイチ形態にすぎない。たとえばそれは、落し物を目にしたとき、それを見なかったフリをするのと原理上、区別はつかない。ないものは存在しない。しかし、車がそう判断しても、猫は車に轢かれ得るのだ。巨大なシステムのもとでは、人間もまた例外ではない。


1914:【欠陥品】
ここ数日、あたまのなかに浮かんだ文章で、はっ、としたのが「弱者の味方してりゃ楽だもんな」というセリフで、誰が誰に言ったのかは判らないのですが、ちまちまと脳裡に浮かんだり、沈んだりを繰りかえしていて、いまシャワーを浴びながらすこし煮詰めてみたところ、「思考の目的はおおむね楽になりたいから、ではありませんか」というところに落ち着きまして、「楽になりたいことの何が問題ですか」と反論してみたところ、「問題はねぇけどな、でもまあ考えてもみろよ、それの行き着くとこぁ『楽になりたきゃ死ねばいい』になっちまうんじゃねぇのかよ」といった反駁を得まして、なるほどだったらそれもありなんじゃないの、と合点するよりほかなく、「死ぬ以外に楽になる術がないのなら死ぬのもありだと思いますし、死にたいと望むことが生きたいと望むこととほとんど同じ意味を持つことも往々にしてあるものではないでしょうか」と言ったところ、「それは『死にたい」と言うよきゃ、どっちかと言やあ、『変わりたい』だろうな」との言葉をいただいたので、ふんふん、と一拍置いてから、「つまるところ弱者の味方というのは、他者の抱く『変わりたい欲求』の肯定であり、後押しなのかもしれませんね」と応じたところ、「たしかにな」と首肯をいただき、「応援するだけなら楽だよなそりゃ。じぶんが変わるわけじゃねぇんだからよ」と皮肉っぽく返されたので、「否定よりかはマシじゃないですか、否定はどうあっても相手に変わることを強いるんですから、望むと望まぬとに拘わらず」と同じく嫌味ったらしい口吻で対抗すると、「ということはだ」とようやく話をまとめに入ったらしく、「そのままでいいよ、つって一見まるっと受け入れたかのような物言いで、変わりたいと思う欲動を相手から奪うような思考こそが、いっちゃん厄介で邪悪なのかもな」とそれっぽい箴言で会話は結ばれてしまいました。つまるところ、どんなときであれ、このままでよいはずはないのです。どれほど豊かで、安全な社会が築かれようと、生命という我々そのものが欠陥の塊なのですから。変わりつづけることですら、一定の期間変わらないことが、変化の一つとなるわけですから、どんなときであれ、何かしらの変化を帯びつづけてしまう以上、変化せずに済む理想形へと到達すべく、やはりというべきか、変化しつづけなければならないのでしょう。おいおい、そりゃホントかよ。こうしてまた矛盾回廊に迷い込み、さまよっているうちに、はっとする言葉がどこからともなく浮かんでくるのです。


1915:【デマの是非】
(きょうもきょうとて偉そうなことを言います。なんの根拠もない口から出まかせであるので気をつけてください)なぜデマがいけないのか、には大別して二つの理由がある。一つは、誤った前提で判断を行うと、高確率で解決には結びつかずに問題をこじれさせたり、新たな問題を誘発させたりと、好ましくない結果が導かれるためだ。しかしながら、ときおり、正しい前提よりもデマのほうが効率よく望ましい結果を生むことがある。この場合、結果よければすべてよし、としてしまってよいだろうか。いくひしは、よろしくない、と考える。デマを用いることで効率的に望んだ成果があがると見做されれば、デマを手段として取り入れる者が増加する。そうなれば、世のなかに誤った前提が氾濫し、そのうち何が正しく、何が正しくないのかすら判らない社会ができてしまう。これは「なぜズルがいけないのか」と同じ結論に結びつく。つまり、みながそれをやりはじめてしまっては、長期的に安定した秩序が築かれなくなるためだ。目のまえの利を追求するがあまり、全体の市場そのものが崩壊してしまった例はさいきんでもどこかで耳にしたことのあるような話だ。だからこそ、世のなかには「正しいとされること」とそうでない「わるいとされること」があるのだ。効率はよいもののみながそれに走ってしまうと無秩序化する策を禁じるべく、社会は個人に「枷」をはめる。だが、この「枷」は飽くまで、社会が求めた安定のための縛りであり、必ずしも社会の安定が個人のしあわせと結びつくわけではない。もっと言えば、社会の安定がいったい何を示すのかは時代によって変わっていくし、そのときどきの権力者たちの気分によっても左右される。自由を縛る枷を外そうと抗えば、権力組織によって罰せられる。たとえその枷に、合理的で正当な役割などがなくとも、いちどはめられてしまえば、それを外すことは至難だ。枷はまたの名を、教育や法律、常識や規則と呼ぶ。枷に抗うことが至難なときや、正確な情報での訴えが不当に却下される場合など、そうしたときにはデマのような「ズル」が有効な武器になることもある。ただし、これは革命に暴力がつきまとうのと同じように、なるべく使わないほうがよい、もろ刃の剣と呼べる。目的を達成するために理想を手放せば、二度と理想は手に入らなくなるだろう。なぜ目的を達しなければならないのかをまずは思いだしたほうが好ましい。理想に追いつきたいがため、ではなかったか。同様にして、デマのような歪んだ現実を他者に植えつける真似は、避けたほうが身のためではないだろうか。しかしながら、ときには事実ではない誇張した表現によって、世に問いたいことがでてくることもあるだろう、そうした気持ちが分からないわけではない。単なる真実では耳を貸してくれない者たちにどうしても耳を傾けてほしいとき、何かを訴えかけたいときには、デマは有効な拡声器となり得る。だからこそ人類は、物語を虚構として楽しむ文化を絶やさずにきたのかもしれない。物語もデマもどちらも虚構であり、嘘っぱちである。だが、デマは忌避され、物語は甘受される。この違いはなにかと言えば、正々堂々と虚構である旨を告げているか否かにあるだろう。ノンフィクションという例外はあるものの、ノンフィクションはそこに描かれた出来事が事実とかけ離れていれば、物語としての資格を失い、デマと同じ土俵に落とされる。物語は堂々と胸を張って虚構である旨を告げなければならない。デマは社会にとって有害であるかもしれないが、物語であれば問題ない。小説にしてもよいし、漫画にしてもよい。演劇に仕立てあげても、アニメにしたところで、問題はない。ただしそれが物語である以上、真実として扱ってはいけない。堂々と虚構である旨を告げるがよい。構造的にデマと物語に差異はない。ただし、その発表の仕方、包装(放送)の仕方が大きく異なる。繰りかえすが、何かを表現したいとき、世に問いたいときには、真実であると嘯く行為には慎重になったほうが好ましい。もし疑いの余地があるのならば、その旨を示すがよい。堂々と虚構であると告げればよいのだ。もっとも、虚構であるからといって「何を言ってもいい」との免罪符を得られるわけではないのだが。


1916:【病まないプロはない?】
ちょっと前まで、それこそ二十年くらい前までなら、物語をつむぎつづけたければプロを目指したほうが効率がよいとの理屈が成立したかもしれないけれども、いまはもはや逆であって、物語をつむぎつづけたければプロにだけはなるな、みたいになりつつあるのは皮肉というよりも悲劇だなぁ、と純粋に思うのだよね。命を燃やすようなものでしょう。だいじょうぶなんでしょうか。出版社と関わってよい思いをした作家よりも、筆を折らざるを得なくなるほどに心身ともに病んでしまった作家のほうがはるかに多くはないでしょうか。よろしくないなぁ、と思います。趣味でつづけたほうがよほど長く創作活動をつづけられるのでは? もっとも、病んではいけない、身体を壊してはいけない、なんてこともないとは思います。失う選択肢と、得られる報酬を、ときおりでよいので天秤にかけましょう。


1917:【下手になるとは】
いくひしは下手になることがない。なぜなら上手かったためしがないからだ。何をおそれる必要があるだろう。目のまえの無限を、世界を、拾い集めていこう。


1918:【バグ・無駄・余白】
無駄な余白が進化を加速させる。DNAは転写時のバグが因子となって進化を促す。また、余白があることで、傷を受ける確率を減らし、同時に不測の事態に備えるための材料になったり、作業場になったり、新たな機能の土壌になったりする。ただし、余白にも限りがあり、傷を修復する機能も永遠に働くわけではない。農作をすれば土地がやせてしまうように、細胞も同じく時間と共に消耗する。癌は寿命が延びたことと相関関係にあり、細胞は癌化しないために早期の死を機能として備えている。寿命が延びればそれだけ細胞は分裂しつづけ、そのたびにゲノムを幾重にもコピーしつづける。そうして身体は徐々に余白を失い、やがて損傷と修復のバランスが決定的に崩れた段階で、総体の死へと向かう。長寿と癌の発生率に相関関係があるのと同様に、余白の多寡と進化にも相関関係があり、同時に余白の有無と崩壊にも何らかの関係性が見え隠れしている。創作におかれては、余白を遊び、と言い換えても成立する考え方であろう。


1919:【オリジナルもしょせんは二次創作】
人格を有した神を信じてはいないが、この世界が一つの作品のように感じることはある。そういう意味ではどんな創作物も、この世界の二次創作である。神なるものの作品があるのだから、それを利用しない手はない。むろん、使わずに真にオリジナルな世界を構築できるならばそれもよいだろうが、誰かに理解されることを期待しないほうがよさそうではある。神はきっと誰より孤独だ。


1920:【うれぴー><】
井迫(isako)さんが新作を更新してくれていた。うれぴー>< ここで読めます【https://kakuyomu.jp/works/1177354054888713805/episodes/1177354054888713811】 あとこっちでも【https://novel.daysneo.com/works/8801804350fdcdd662832fb8fcc628b4.html】 noveldaysというWEB小説投稿サイトの超短編コンテストに応募されているんですね。受賞してほしいです。出版社は井迫(isako)さんを世に推しだすべきです。だしてほしいです。紙の本でほしい~、書店さんで井迫(isako)さんの本買いたい~>< よろしくおねがいします!!!


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参照:いくひ誌。【1521~1530】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886723646

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