※日々、嫌なやつになっていく。
1901:【さびしくないんですか?】
そんなに他人から嫌われていて、無関心で、孤独なのに、いくしさんはさびしくないんですか、という声が聞こえてきた気がしたので、お答えします。まず第一に、こんないくひしさんにもたまにですが、関心を寄せてくれる方がいらっしゃいます。もうそれだけでうれしいです。ありがとうございます。それから、やっぱり、ときどきはさびしいです。うわーん、となります。でも、その、うわーん、ってなってるじぶんが嫌いではありません。悲劇の主人公みたいで、ほどよく酔えます。それから、いくひしさんは、人付き合いがないと何もなせない、みたいな現代社会の「オリみたいな風習(ダブルミーニング)」をどうにかしたい、と思っているので、まずはその例外を築いていきたいな、と思って、こうして孤独ごっこをやっています。大きな組織の一部の誰かに選ばれなくとも、インターネット内の影響力ある誰かにピックアップされなくとも、作者として注目されずとも、多くの読者に称賛されずとも、ただただ作品のよさだけで、波長の合うあなたと出会えるだけでも、いわゆる成功者と並ぶくらいの成果をあげられますよ、と示したいがために、こうして孤独ごっこをやっています(成果とは何を示すのか、でまたいくつかの解釈ができてしまいますが)。さびしいとか、反応がないとか、評価されないとか、そういうのは全部織り込み済みで、そこを外れようとは端から思っていないのです。だから、「さびしくはないんですか」という質問はそもそもおかしくて、さびしくてもよいんですよ、それが当たり前でよくないですか、と問いたいのです。さびしいことの何が不満なのですか? いちど言語化してみてください。それからもちろん、さびしいのはぜったいに何が何でもやだやだ、という方もいらっしゃると思います。そういう方は、さびしくならないようにどうにか環境や手法を変えていくしかないでしょう。それを責めるつもりも、非難するつもりもありません。ただ、きっとそういう方は、何をしてもどこかで虚しさを感じ、さびしさを感じるのではないでしょうか。考えてみてください、すくなくともいくひしさんよりは、現状、さびしくない環境が整っていませんか? さびしさは主観なので、同じ環境でもさびしさを感じたり、感じなかったり、これは個人でもそうですね、ときと場合によって、そのつど、感じ方は変わっていくと思います。ですが、いくひしさんよりかは、いろいろと評価されたり、話題にされたり、反応をもらったりしているのではないですか? もしいくひしさん並に成果物を発表して、それでもいくひしさんより反応がないですよ、という方がいらっしゃったら、きっとその方は天才なので、そのまま突き抜けてほしいと思います。いくひしさんはあなたを尊敬します。すごいと思います。ぜひ、孤独に負けずに、孤独と仲良くしながら、あなたの世界をこの世界に刻みこんでほしいと思います。いくひしさんはその境地までは、まだ辿りつけそうにありませんが、いずれその境地に立ちたいと思っています。まだ見ぬあなたに出会えるように。その確率をすこしでもあげられるように。孤独を手放さぬままに、物語をつむいでいこうと思います。もういちど繰りかえしておきましょう。さびしくないんですか、との問いかけには、さびしいことの何が不満ですか、と問い返したいと思います。(ともすれば、さびしいからこそこうしてあーだこーだと表現を発しているのかもしれません。だとしても、否、だからこそと言うべきでしょうか、情熱よりもさびしさはよい燃料である気がしています)
1902:【信頼のおけない語り手】
孤独が嫌いではないいくひしさんではあるけれども、誤解されたくないのは、孤独になりましょう、と謳っているわけではない点だ。とりたてて、孤独はいいぞー、と訴えたいわけではない。ただ、無理をしてまでいまそばにある「さびしいの想い」をどうにかしようともがく必要がありますか、と問いかけてはいるのだね。さびしくない環境があるのなら、それはそれですばらしいと思うのだ。反面、もしさびしさに押しつぶされそうになったり、どうにかしなくちゃ、と焦燥感に駆られているのならば、まずは、「さびしいの想い」はそこまで邪険にすべきものではありませんよ、ということを認めてみてはいかがだろう。「さびしいの想い」を、孤独を打ち消すために使うのではなく、もっとほかのことに有効活用すれば、きっとそれは途切れることのないエネルギィとして、あなたを動かしつづけるのではないだろうか。じっさいにやってみなければわからないことではあるけれども、すくなくとも「さびしいの想い」を否定するだけでは、エネルギィは対消滅して、あなたの身体からはきっとプスプスと煙が立ちのぼるだけで終わってしまうだろう。それを形容して、くすぶる、とひとは呼ぶのではないだろうか。くすぶるのもときにはわるくはないかもしれないけれども、やっぱり円滑に動けたほうが、何かと便利な気もするが、あなたはどう考えるだろう。あいまいな物言いばかりになってしまうけれども、この世には断言できることなど何もないのだよ。むろん、この言葉もまた断言にたるほどの信憑性はないのだがね。いくひしさんも、ためし、ためし、試行錯誤の日々なのだ。
1903:【来月から】
去年から予告していたとおり、2019年3月の9日くらいからしばらく、この「いくひ誌。」の更新をお休みします。再開は4月を目途に立てていますが、ひょっとしたらもうすこしはやいかもしれません。2週間から1か月くらいでしょうか。「いくひ誌。」自体はまいにち書き溜めているでしょうから、再開したら、まとめて更新しようと思います。
1904:【ことしは】
きょねんは毎日3000字を目安に物語をつむいできましたけれども、ことしは2000字減らして、一日の平均を1000字に減らしています。文芸以外にもやりたいことが増えたので、一日の上限を低く設定しなおしました。しばらくはこの状態がつづくことと思います。無理せず、楽しく、やりたくないことはしない方針です。趣味ですからね。のほほんとつづけていこうと思います。
1905:【環境ではなく、どう過ごすのか】
ちいさなコミュニティの輪ができると必ず、そこに馴染めない者、或いは馴染まないように線引きして過ごす者などが現れる。コミュニティを主軸に眺めると、馴染まない者は外部の者であり、評価の対象にないから、身分や地位が低く感じられる。じっさいにそういう者は、コミュニティ内の人間たちからは相手にされなかったり、不当に扱われたりする。だが、客観的に眺めたときには、おおむね、コミュニティに馴染まないでいる者のほうが実力が高かったり、スキルが高かったりする(割合としては六割くらいかな)。(長期的に単独で活動している者の場合は)ほぼ例外がないのがふしぎなくらいで、コミュニティの大きさに関わりなく、これは観察される法則だ。おそらくは、コミュニティに属さずとも活動できる実力者しか、独りで活動しつづけることができないのだろう。生存バイアスと呼ばれるものだ。だから、コミュニティに属さなければつよくなれる、スキルがつく、といった単純な話ではない。これはフリーランスにも言える道理だ。フリーランスになれば自由になれるのではない。自由になれるだけの実力のある者がフリーランスでやっていけるだけの話なのだ。多くの者は、コミュニティや組織に属したほうが生存しやすいし、長く活動していけるはずだ。もっとも、いくひしの周りにあるコミュニティなど、たいして強固な組織ではないから、のきなみ五年や十年で瓦解する。コミュニティのリーダーみたいな人間がいなくなったり、その人間の信頼がなくなると、かってに崩壊してしまうのだ。内部分裂と呼ぶのか、自然消滅と呼ぶのかは分からない。ただ、コミュニティに属さずに黙々と活動していた者のほうが、長くその業界で活動しつづけているのは、おもしろい傾向だな、と前々から思っていた(必ずしも表立って活躍しているわけではないが)。これはいくひしが接触できるごくごく狭い範囲のコミュニティの話であるから、一般化はできないし、劣悪な環境ですなぁ、と話半分に聞き流してほしい話ではあるのだが、コミュニティに属したことで安心してしまって、せっかく切磋琢磨できる環境であるはずなのに、生ぬるい空気に浸ってしまい、けっきょく長続きしない者たちを千人単位で見てきたので(統計と言えるほどの数ではないが)、そういう界隈もあるのだな、と思っていれば、同じような轍を踏まずに済むのではないだろうか。単にいくひしの周囲に、健全なコミュニティや機能的な組織がないだけの話ではあるのだが。
1906:【恋愛経験ゼロ%】
いくひしはなー! むかしなー! 魔女に出会ってなー! 好きなひとからはぜったいに好かれない呪いをかけれちゃったのー! ちょっといじわるしちゃったからー! 好きだったのにー! 魔女のことー! 呪い関係ないやーん!
1907:【ほーん】
好きなひとからだけなん? てかいくひしさんのこと好きなひととか、え、どっかいます? 呪いとか関係ないですやん。
1908:【うるせーー!】
ぶっとばす!!!!!!!!
1909:【不遇の理由】
実力があるのに評価されない、日の目を見ない、といった者に共通するのは、不遇であることに明確な理由が見当たらない点である。これは、何か特定の理由がないことが、却って欠点として周囲の者たちに視えてしまうという人間の心理現象が引き金となっている。たとえば、ものすごく美味しいカレーを出すレストランがあったとする。食べたひとは、これだけ美味しいカレーなのになぜこんなに繁盛していないのだろう、と気になる。そして、何か理由があるに違いない、と考え、カレーの美味さとは関係のない妄想によって、その店を低く評価してしまうのである。この負の連鎖によって、実力があったり、スキルがあったりしても、正当に評価されない、といった不遇が引き起こり得る。問題は、多くの者が、それそのもののよさで成果物を評価しない点にある。言い換えれば、多くの者は審美眼を持ちあわせてなどいない。なんとなく、よさそうだなぁ、よいと評価されているのだなぁ、といった周りの空気感で物事を判断している。これはある分野のスペシャリストであっても、ほかの分野に関して門外漢であれば、容易に引き起こり得る人間の脆弱性と言ってよい。誰もが何かに対しては、他者の評価を基準とし、あいまいで不当な評価をくだしている。評価をくだす、という行為そのものが不当だと言ってしまっても、この場合は的外れではない。評価をくださない、保留にする、という判断こそが正当である場合のほうが世のなかには多いはずだ。そして、そうした評価の保留という行為は、可視化されないために、多くのよりよい成果物や、容易には価値をはかれない代物が埋もれていくといった悪循環が生まれる。こうした悪循環や不遇を脱するためには、他者からの高評価を、たとえ誇張や演出であったとしても成果物に付与する必然性がでてくる。おおむね近代経済、ことコンテンツ業界においてはこの原理にのっとって営まれているし、マスメディが発展した要因の一つにもなっている。宣伝や広告がことこれほど莫大な利益をあげているのも、多くの者がじぶんで物の良し悪しを測れないためだ。先にも述べたが、これはどうしようもない。人間は不完全な生き物であるから(生き物は総じて不完全だから、と言い換えてもよいが)、社会的に信頼のおける者の判断を基準にしたいと欲するのは合理的ではある。問題は、信頼のおける者や組織の判断が、どこまで正しいのか、にある。宣伝や広告につきまとう誇張や演出は、原理的には詐欺との区別がつきにくい。どこまでならよく、どこからが偽装になるのかは漠然としており、広い範囲にわたって、グレーゾーンが層をなしている。むろん、違法となる基準は存在するが、物事の良し悪しなどしょせんは個人の主観でしかない。任意のカレーを「おいしい」と評価する者を百人集め、その百人の感想を集めれば、顧客の十割が「おいしい」と評価したカレーです、と宣伝できてしまえる。スーパーに行って商品を見渡してみればよい。こうした広告が世にまかり通ってはいないだろうか。当社調べ、当社比較、と謳っていたときに、いったいどんな調査をしたのかが不明ならば、たいして信用のおける調査ではないだろう。だが世の顧客の多くは(いくひしも例外ではないが)、そうした信憑性の定かではない情報を元に、商品の良し悪しを事前に判断し、購入するか否かを決めている。ほかの商品を買って比較しないことには、真実、その商品がよいものか否かは判断つかない。だが、高額な商品ほど、比較するのはむつかしい。よほど大きな瑕疵がなければ(もしくは高性能でなければ)、それが本当によいものかどうか、質のわるいものかどうかは分からない。これは価格だけでなく、消費コストの高い商品でも同様の現象が起こり得る。たとえば小説などは、読み終えるまでのコストが、ほかの媒体よりも比較的高い。よって、すでに読んだ者たちの感想や、信頼のおける組織からの推薦が、読むための動機になり得る確率が高い。そして、そうした他者からの後押しのない小説は、世の多くの作品群に埋もれていくのが道理である。埋もれるか否かは、作品の良し悪しとじつのところ、あまり関係がない。良作でも埋もれてしまうのが現実だ。埋もれたくないと欲するのならば、まずは、他者からの評価を集めるのが先決だ。ただし、飽くまで成果物に「瑕疵のない状態」で発表しなければならない。良作である必要はないが、欠点だけはないほうがよろしい。これからの時代は、一点突破型よりも、だいたいすべての項目で及第点、といった多様性の含みを有したものがコンスタントに売れるようになっていくだろう(これは平均的で平凡な作品、という意味ではない。あらゆるジャンルが含まれていながらに、すべての要素が及第点、という意味だ。さっこんの流行としてこうした作品がヒットしつつある。ポジショントークになってしまうかもしれないが、これはいくひしの提唱する多重構造と矛盾しない)。また、埋もれないためには、なるべく多くの作品を、定期的に、かつ長期間にわたって発表していくのが効果的だ。と、いうよりも、ほとんどそれが最善策だと言ってしまってよい。巷に溢れる、さまざまな手法や広報戦略は、基本的には、ヒットさせるための確率をあげるための小手先の策でしかなく、本質的には、可能なかぎりたくさんの作品を、瑕疵のない状態で、かつ飽きられないような工夫を取り入れながら、長きにわたって、周期的に発表していくことが要求される。しかしこれはAIやロボットが得意とする資質でもあり、差別化を図りたくば、そこに新規性を取りいれねばならない。つまるところ、目指すところは、新しさなのだ。組み合わせの妙と言い換えてもよい(※1)。不遇を理由に、これまでになかった組み合わせを試すことを避けるのは、早計な判断である。小手先の策に時間と労力をかけるのは得策とは呼べない。もっとも、しないよりかはマシであるのは言を俟つまでもない。ともあれ、優先すべき事項を見誤らずにいたいものである。目指すべき境地をお忘れなく。(※1:組み合わせのパターンを総当り的に試すのはAIの得意とする分野ではあるけれども、組み合わせる素材がデータ上にないものは組み合わせることはできないので、「これまでになかった素材を取り入れる作業」がこれからのクリエイター各位には求められていくことが想像できる)
1910:【むずくない?】
初めてスマホでツイッターやってみたけど、むずくない? PCの100分の1くらいのスピードでしか観られんのだけど。リツイート一個するのに十分くらいかかる。みんなよくスマホでやれるね。すごい。(わざわざほかのひとのアカウントを覗きにいくのが面倒だから、みんなほかのひとのをフォローするのだなぁ、と腑に落ちた。でもそれはそれで、メディア欄だけ見たいときとかどうしてるんだろ。ひょっとしていくひしが思うよりずっとみんなはほかのひとのアカウントとか興味ないのかな。なぞ~)(いくひしさんはね、お気に入りのアカウントとかしょっちゅう覗きにいくんだけど、ツイッターってそういうふうに使うものではなかったりするのかな。なぞ~)(ほかのいくひしさんたちはツイッターとかSNSってどうやってんのかな。なぞ~)
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参照:いくひ誌。【81~90】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881332081