※日々、自我をいくつも棚にあげ、おろされることなくカビていく。
1891:【この小説家がすごい】
井迫(isako)さんという小説家さんの小説がとてもおもしろかったです。
ここ(
https://kakuyomu.jp/users/isako/works)や、ここ(
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10674421)で読めます。なかでもとくに好みだったのは、「人間のあなたはいつか、人間の私を食べる(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886809000)」です。つぎに「さらば愛しのインスタント・ヌードル(
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888231433)」も好みの作風でした。まだまだこうした才能が世のなかにはたくさん埋もれていると思います。より多く出会えるように、目を配っていこうと思います。誰のためでもなく、いくひしのために。単純に、おもしろい物語を一つでも多く読みたいのです。よりじぶん好みの物語を求めていこうと思います。井迫さん、おもしろい物語をありがとうございます。新作もこころよりお待ちしております。
1892:【ヨル、ごっくん】
拾った子猫が化け猫だった。名前はヨルと名付けた。ヨルは新月の夜になると決まって、トラとみまがう巨体に膨らみ、目玉が十も増え、牙は下あごを貫き、口を開けば、内蔵が見えるほどに大きく裂ける。こうなった姿のヨルは市販のキャットフードでは物足りないらしく、活きのよい生餌を欲しがる。具体的には、最初の夜には私の身体にアザをつくりつづける男、それは母の恋人だったのだが、を丸呑みにしたし、つぎの新月の日には、私を売った母ごと、私の身体をオモチャにしようとした男たちをつぎつぎにぺろりと平らげた。ヨルの牙はとてもよく人体を貫いた。人間が団子のようにヨルの牙に連なる様子を見て、私は思わず、おいしそう、と思ったほどだ。私はヨルと共に家をでた。誰もいなくなった家では生きていけないし、(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888596866)
1893:【つみきあそび】
やあやあ、いくひしさんだ。久しぶりでござるな。みなのものは健やかな日々をすごせているでござるか。いくひしさんは健やかの意味がよく解からず、いま検索しているでござる。ふんふん。なるほどなるほど。いくひしさんは「すこやか」と読んでいたでござるが、「すくよか」と読むらしいでござる。意味は、すくすく育つ様子、丈夫であること、とあるでござる。健やかな日々といった場合は、順調にまいにちやりたいことがやれています、といったニュアンスになるかもしれないでござる。さいきんのいくひしさんはちょっと疲れ気味でござる。季節の変わり目はだいたいいつもこうでござるから、異常ではないでござる。こういうときの対処法はたくさん寝ることと、ちゃんとお肉を食べることでござる。いくひしさんは万年タンパク質不足でござるから、ちゃんとお肉を食べないとダメなのでござる。でも納豆やお豆腐は好きなので、植物性タンパク質はとっているでござる。でも鳥のから揚げを食べたくなるでござる。にんにくで味付けがしてあるのがよいでござる。表面がパリパリになっているとさいのこうでござる。もうお気づきの方もあるかもわからないでござるが、そうでござる。きょうもきょうとて何も並べることがない日でござる。なんもなーい。いくひしさんの人生みたいでござるな。なんもなーい。でもなんもないのって、いくない? なんもなくても生きていける。こんなにすばらしいことってないと思うでござるよ。いくひしさんは日々なんもないだけでなく自己肯定感までもが、かぎりなくゼロにちかいでござるから、生きててごめんなさいってなるけれども、そんなゴミカスないくひしさんでも生きててよい社会なのでござる。すばらしいでござる。うれしいでござる。こんないくひしさんでものほほんとまいにち好きなことをしつつ生きてよいのだから、あなただってもちろん好きなことをしつつ生きてよいでござる。いくひしさんよりもはるかに世のなかの役にたっているし、ひとのためになっているでござる。もちろん役にたたなくたって、ひとのためにならなくたって、生きていてよいのでござる。日々を楽しんでよいでござる。いくひしさんが太鼓判を捺しちゃうでござる。なんもない日々でござるが、並べようとしたらこうして文字を並べられるでござる。誰にも読まれない文章でござるが、それでも並べてよいでござる。稚拙な文章でなにがわるいでござるか? 並べたいことを並べればよいでござる。並べたくないことだって並べてよいでござる。好きに並べちゃえばよいでござる。積み木遊びといっしょでござる。たくさんのブロックがあるでござる。組み合わせは無限大でござる。
1894:【クズである由来】
いくひしさんはクズなので、SNSなどで、「ほかの人間にどう思われようと気にするな、好きなことをしよう」みたいなことをのたまいている人間を見ると、このひとだいじょうぶかな? と心配になってしまう。そんなこと言ってると、おまえのもっともたいせつな人間を拉致して、手足もいで、おまえの晩飯にまぜて食わせたあとで、おまえのことも生きたまま解体するぞこのー、と内なるいくひしさんがおもむろに屈伸をはじめるので、どうどう、となだめるのにすこしばかし手間を取る。あまり思慮の足りないことを主張するものではない。あなたがたよりはるかに思慮の足りない人間が聞いているかもしれない可能性くらいは考慮しておいたほうが身のためだ。
1895:【ぺこぺこ】
年上というだけで礼儀を尽くしてくれる若い子たちが周りに多いので、なんだか申しわけなくて、できるだけ目立ずに、邪魔にならないように、彼ら彼女らの輪を乱さずに、好きなように和気あいあいと交流してほしいと望んでいる。いくひしは誰にでもぺこぺこするし、社会人、大学生、小学生といった年齢や世代によってとくに接し方を変えたりはしない。卑下するわけではなく、単なる事実として羅列するが、いくひしは学歴がないし、社会的身分も低いし、資本があるわけでも実績があるわけでもないから、じぶんより年下のコたちに比べてでは何が秀でているのか、というと、年齢以外にはなく、その年齢にしたところで単に長く生きているだけであって、それはむしろプラスでもマイナスでもない誰の足元にも伸びる影みたいなものだから、それを以って何かが秀でているなんてとてもではないが言えないし、思えない。実力にしたところで、どんな分野でもいくひしはほかのひとよりも何かを体得するのに三倍は時間と労力がかかるから、ほとほと若いコたちの伸び白には、驚きと憧れを禁じ得ない。かといって、ほかのコたちに教えを乞うたり、輪のなかに入りたいとは思わないのだが。
1896:【暗がりで二人】
「やっぱり当分出られそうもありませんね」「うむ。しかし扉は頑丈だ。やつらもここまでは侵入できまい」「先生はやけに落ち着いてますね。あんなバケモノに追われて、息一つ乱してませんし、なんだかまるでアイツらの正体でも知ってるみたいで」「知識の有無と、冷静さは関係なかろう」「先生はすぐ細かいことにつっかかりますね。はあ。これからどうしましょう。せっかく脱出できるかと思ったのにそとにはアイツらがうじゃうじゃいますし」「しばらく籠城することになるだろうな。とはいえここは研究所の植物園だ。空気や水に困ることはなかろう」「でも明かりが点かないのはひどいですよ」「電源が供給されておらんのだ、仕方あるまい」「先生はここでどんな研究をされていたのですか」「わしはまだ呼ばれて日が浅いからな。なにを、と言えるほど詳しくは知らんよ。ただ、ざっと見て回った印象としては、わしの専門の応用的研究と呼んで差し支えはなかろう」「ひょっとして、ないとは思いますけど、そとのあのバケモノと関係があったりは」「あるだろうな」「あるんですね。やっぱりか。だと思ったんですよ。どうりでねぇ。はぁ」「わしに呆れられてもな。わしはまだ何も(つづきはこちら→
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888606570)
1897:【できることは多いほうがいい】
器用貧乏が欠点として解釈される世のなかだが、基本的にできることは多いほうがよい。SNSなどでたびたび目にする箴言の一つに、「できることは一つでいい、得意なことを伸ばそう」みたいな主張がある。否定する気はないし、そういう側面が利点となることもあるだろう。人間の身体は同時にいくつものことをできるようにはつくられていないから、何かを極めるには一つずつこなすほうが効率がよい、と判断するのは一見すれば理に適っているように映る。しかし本当に一つの特技を突き詰めていくことでその道を極める結果に繋がるだろうか。いささか疑わしい臭いがしないでもない。まず以って、「何か一つの分野のスペシャリストになろう」との主張は、誰かを駒として使う側の理屈だ。性能のよい労働力を揃えたいから、精鋭になりなさい、と言っているだけで、ではその当の本人が「何か一つだけに特化した人材か」と言えば、案外なんでも器用にこなす多才な人物である確率が高くはないだろうか。器用貧乏と呼ばれてしまう人物の多くは、おおむねそれほど器用ではない。多方面の分野でいずれも八割方の能力を発揮できていると本人は自己評価しているつもりでも、じっさいには六割以下、へたをすれば素人レベルを脱し切れていない事例もすくなくはない。往々にしてそうだと言ってしまっても言い過ぎではないだろう。人間の性質として、自己評価が甘くなる、というのは心理学の分野ではたびたび報告されている統計だ。器用貧乏とは単に、飽き性の言い換えでしかないのかもしれない。真実に、さまざまな分野の技術を八割のレベルで修得していれば、おおかた、どんな分野でも頭角を現し、または重宝される逸材となるはずだ。AIやロボットなど、人間以外の労働力が一般化していくことが予想されるこれからの社会情勢において、多様な技術を習得しているオールラウンダーは、一点突破型の人材よりも、活躍の場を広げていくと想像するものである。べつの見方をすれば、何かを一つでも極めるにしても、ただその分野にのみ注力していてはいずれ壁にぶつかることになる。目のまえの隘路を打開するためには、ほかの分野の技術や知見を足掛かりにしなければならないだろう。ともすれば器用貧乏とは、修得した技術や知見を統合したり、組み合わせたりと、新しい視点や技術を編みだそうとしていない状態を呼ぶのかもしれない。宝の持ち腐れである。せっかく手にした素材があるのだから、好きなように、じぶんだけの世界を編めばよい。誰も踏み入れたことのない世界を切り拓けば、ただそれだけで、一点突破の逸材になれるし、世界一の称号が手に入る。得意な分野を伸ばすことも、さまざまな技術を身につけるのも、どちらもけっきょくのところ行き着く境地は同じなのかもしれない。いずれにせよ、できることは多いほうがよい。さまざまな素材のなかで、使うものと使わないものを、つど、選んでいけばよいのではないか。できないのか、それともやらないだけなのか。この差は、字面から感じられる差異よりもずっと大きい。
1898:【性差よりも好き嫌い】
性差よりも個人差のほうが大きくなったと感じる世のなかであるから、百合とBLも、いくひしにとっては大差ない(男女の物語であっても同じ)。当人たちが自身の性別をどのように認識しているか(或いはしていないのか)、のほうが生物学的性差よりも物語にとっては重要だし、かといって読者にとっては性自認(もしくは性的指向)がどうこうよりも見た目が男か女かのほうが重要であるらしいから、その辺、はやく時代が進んでくれるとやりやすいなぁ、と思っている。性別ってそんなに重要ですか? 社会から要請され、押しつけられている女性性や男性性などの、「女とはこういうもの」「男とはこういうもの」といった虚像にまどわされすぎではありませんか? もはやいくひし、ショートショートなら主人公の性別とか断定しなくていいやってなってきちゃいました。主人公の性別よりも、何を好きで何を嫌いか、のほうがよっぽどだいじですからね。まあ、おのおの、時代の変化を感じ取りつつ、感性を拡張していきましょう。べつに拡張しなくてもよいですけれども。
1899:【天才か天災か】
いくひしさんはオシャレでないことで有名だ(どこ界隈で?)。同じTシャツを三十枚くらい買い揃えては着まわしているし、下着もぜんぶ同じ柄だ。デニムも基本は気に入ったサイズと型のものをまとめ買いするし、かといってとくべつ思い入れがあるわけではないから、次回からはとりあえず安くて地味なものを買う習性がある。小物は、ニット帽が十数個あり、そとを出歩くときはだいたい同じ色と柄のを被っている。ゆいいつ靴だけは拘りがあるようでとくになく、履きやすくて地味な柄なら、文句はない。一万円以上はだしたくないので、安ければ安いほどよく、メーカーやブランドにもとくに頓着はない。とはいえ、履くのは基本的にスニーカーなので、有名スポーツメーカーのものを購入することが多い。気に入った靴は色違いのを二組買うこともしばしばだ。むかしから柄物が苦手で、いまでも服飾は無地でないと落ち着かない。絵や文字が描いてある服は一着も持っていない。原色が心地よい。黒が好き。次点で紺色か緑色で、白や黄色となると縁遠い。赤はあまり好みではないけれども、茶色と間違って買ってしまうことがある。青色は好きだけれども似合わないので、お預けにすることが多い。かといってほかの色が似合っているのかどうかは分からないので、単に気分ではないというだけな気もする。ともかくとしてオシャレでないことだけは確かだ。オシャレをすることがダサいとすら思っている節がある。ダサいままでかっこよいほうがかっこいい気がする。かといっていくひしさんがかっこいいかというとまったくぜんぜんそんなことは皆目微塵もないので、ダサいままダサいだけであるから、ファッションなるものについて考えたくはない日々である。この「いくひ誌。」ではこれまでいくひしさんの外見について語ることを避けてきたきらいがあったけれども、もちろんそれは意図してそうしてきたのであるのだけれども、さすがに並べることもなくなってきてしまったし、ときにはこういうらしくない記事も並べてみるかな、と思い立ったが吉日、気息奄々、うんうんうなりながら並べてみたものの、どっこい、こういうのを差して「手抜き」と評する者もあるところにはあると聞き及ぶ。なるほど。オシャレに手を抜くだけで飽きたらず、文章にまで手を抜くとはさすがは実力をダサないいくひしさん、まさにダサいの称号に似つかわしいくらいのいやしさである。「ダサない」と「ダサい」ではナが抜けているではないか、手抜きどころかナ抜きではないか、とつまらない言葉遊びに興じながら、いったいいくひしさんの腹黒さときたらない、黒いのはあんたのTシャツだけにしときなさいよ、と言いたくなるほどのドス黒さ、まさにあんたはタヌキだね、なんてうまいこと言おうとしてスベって転んで、アイタタタ、恥じを掻くのはごめんだよ、とここぞとばかりにたぬき寝入りにふけりましては、念入りに寝入りをいたしまして、「ダサい」に「ね」を入れまして、「ダサいね」からさらに「た」を抜きまして、「”サいね」となったところで、「”」を「点」と変換しまして、はい、いかがでしょう。いくひしまんさんは「点サいね」と相成り申して、もう一声、わかりやすくひらがなに開きましょう、開き直っちゃいましょうかね。「てんさいね」とこうなるわけでございます。強引でしたか? 強引でしたね。久々にオチをつけようとしたらこのとおり、まずはおまえが落ち着けとやさしくなだめられたいうだつのあがらぬいくひしさんでございます、と願望を漏らして、本日の「いくひ誌。」とさせてくダサいな。オシャレというかダジャレでしたね。
1900:【優秀なひとはSNSをやらない】
いくひしの観察できる範囲で、優秀で実績をあげているひとほどSNSを利用していない確率が高い。ほぼ十割と言っていい。例外として誰にも知られずにひっそりやってる可能性もあるので、ほぼ、とつけたが、優秀なひとほどSNSを、とりわけツイッターをやっていないのはおもしろい傾向だな、と思った。単純にそんな暇がないのだろう。当然といえば当然だ。SNSを利用して得られる報酬とその時間をほかのことに回して得られる報酬とでは、比べものにならないほど、SNSから得られる報酬がすくないと感じるはずだ。フォロワー数の多寡は関係ない。単に、情報だけならその筋の専門家に聞けばいいし、それだけの交友関係があるようだ。また宣伝や広報というのは基本的に、売れていない者、何かを売りたいと欲している者がすることであり、端から売れている者や在庫を抱えていない者にとっては宣伝や広報をする必要がない。これもまた単純な理屈だ。現にSNSヘビーユーザーであっても仕事が煮詰まったり順調になりはじめるとSNSに登場する頻度が減る。SNSをやっている暇がないのだ。そしておそらく、彼ら彼女らがいそがしくなった理由にSNSを利用していた過去はあまり関係がない。SNSを利用していなくとも、遅かれ早かれ、彼ら彼女らは同じような成果をあげていたはずだ。もちろんSNSを利用していたからこそ結ばれた成果もあるかもしれない。ただし、そうした成果は逆説的に、SNSがなければあげられない成果、というもろ刃の剣じみているので、端から期待しないほうがよろしいのではないか、と感じるが、あなたはどう考えるだろう。いくひしはSNSをやりたくない人間だし、現に雑用係に任せてしまっているので、何かを言えた義理はないのだが、眺める分には有益だと感じるいっぽうで、じぶんで更新する必要はまったくないな、と感じている。それでも利用を停止しないのは、すっぱいぶどうにならないようにするためだ。じっさいにやってみて、やっぱりSNSダメじゃん、となるのと、やらずにあーだこーだ、言っているのとでは、検証の観点からいって説得力がまるで違う。もっと言えば、一回くらいバズってみて、やっぱりバズってもほとんど影響ないじゃん、むしろ損だわぁ、といくひしの考えの実証を得たい思いもあるので、その可能性を失くさないために、いやいやながらつづけている(いくひしの基本的な考えとしては、バズッたら負けだ)。繰りかえしになるが、眺める分には得難い情報や作品が無料で楽しめるので、SNSそのものを否定しているわけではない。ただ、自ら参加し、何か情報を発信することが有益かと言えば、みなが言うよりもはるかに報酬はすくないのではないですか、との疑念は、日々ますます募っていくいくひしさんなのであった。優秀なひとはSNSを利用しない。とはいえ、SNSを利用しない「いくひしのような凡人」のほうがずっと多いだろうから、SNSをやめたところで優秀な人間になれるわけではない点には顧慮しておいて損はないだろう。現実はSNSを利用したりしなかったりする程度の選択で好転するほど単純ではないのである。
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参照:いくひ誌。【891~900】
https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884437686