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いくひ誌。【1881~1890】

※日々、飽きないオモチャを探している。


1881:【雨のような雪の日は】
玄関をでると雨のような雪が舞っていた。雪はきらきらとまたたくことなく、夜にまぎれる。地面にはさざ波のような光沢が浮かんでおり、濡れたアスファルトのほうがよほどキレイで、このまま積もらずにいればよいのにと、白くまばらな夜を思う。光の波から波へと渡って歩きながら、何ともなくそらを見上げる。そらを見ると、いつも彼女のことを考える。彼女はこれと違うそらを見上げているのだろうか、と。もちろん遠く離れた彼女が私と同じようにそらを見上げているとはかぎらない。ただ、きょうだけは、同じそらを見上げているのだろう、と確信を持って言えた。彼女とは幼いころに出会い、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888505911


1882:【リファラ】
リファラは父の形見だった。父はそれを自身の祖父、すなわち僕にとっての曽祖父から譲り受けたそうだ。リファラは旧式の汎用性AIで、第一世代と呼ばれる「AIのイヴ」みたいな存在だ。もちろんかつては、リファラ以外にもたくさんの第一世代がいて、人類を破滅の道から救いだした。いまでこそAIは専用の物理ボディを自身の所有者から与えられ、人類の隣人としてそこかしこを出歩いている。リファラのように手のひらサイズの板に閉じこめられてなどいないし、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888527979


1883:【大言を体現】
伝えたいことなど何もないけれど、伝わってくれたらまあまあうれしい、と思うことはあって、それは何かと言うと、「実力がなくとも」「友達がいなくとも」「誰かに選ばれなくとも」「大勢に称賛されなくとも」「ひとにうらやましがられるような実績や来歴がなくとも」「学歴がなくとも」「頭がよろしくなくとも」「記憶力が低くとも」「計算ができなくとも」「性格がわるくとも」「何もかもがヘタクソであっても」何かを好きで、なんとなーくつづけているだけでも、それなりの日々を送れるし、たまにはご褒美みたいないいこともありますよ、という例を、いくひしさんから感じとってもらえたら、まあまあ、恥も醜聞もかなぐり捨てて晒してきた甲斐があったかな、と過去のいくひしさんを褒めてつかわしたい気持ちが湧くようで、そうでもないな。誰かに何かが伝わろうが、伝わらなかろうが、いくひしさんには関係のないことだ。ただ、いくひしさんは性格が非常によろしくないので、宝くじを買うような感覚でいろいろと手を打っている。当たっても当たらなくともいくひしさんは得しかしない。つまるところ、お遊びなのだ。いままでは縛りプレイをしてきたので、これからはすこしばかり枷を外していこうと思う。いくひしさんにとって他人から無視される日々なんてものは、 昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏そのものだ。どちらかと言えば、何をしても他人の反応を気にせずにいられる境地は、非常に心地よいと評価している。


1884:【創作中一覧】
現在創作中の未完一覧です。「傷と夏(中編)」「かってに死んでBAD(長編)」「雷獣、そらに昇る(長編)」「文学キラー(中編)」「サバイバルなIF(長編)」「満天の涙をあなたに(短編)」「悪魔ばらい(短編)」「ミスティと裏切り者(短編)」「仮想に懸想する獣は恋に狂う(短編)」「やどかり(短編)」「霊感なしの礼儀なし(短編)」「白夜獣(短編)」「悪の味方(短編)」「ジッパーは噛みあわない(短編)」「ホールマン(短編)」短編はだいたい一万字~二万字前後で、中編は四万字~六万字、長編は九万字以上です。ショートショートは数に入れていません。ほかにもつくりたいものがたくさんあって、短編にまとめられそうなものはどんどん短編にしてつくっていこうと思います。長編は物語のネタのおもしろさというよりも、構造をどのようなカタチで編めるのか、のほうが重要なので、立体的な構造になりそうなものだけを長編にしていこうと計画を立てています。ちなみにさいきん、海外ドラマ「スーツ」のシーズン7を観はじめたのですが、圧巻です。さすがです。多重構造ものとしてほかの物語群の一歩も二歩も先んじていると感じています。物語のネタがどうこうというよりも、構造がすばらしい。圧縮の仕方などは参考のしがいはなはだしく思います。


1885:【パブリックドメイン】
どうやったらパブリックドメインになるんだろ。著作権放棄しますって宣言するだけでいいのかな。さっさと脳内からっぽにして、全作フリー素材にしちゃいたい。著作権放棄した場合って、他人がかってに著作権を主張できないようなルールになってるのかだけ気になる(独占されないルールになっているのかということ)。もしだいじょうぶなら、いますぐにでも全作パブリックドメインにしていきたい。ただし、企業の利用は禁じる方向で。可能かどうか、調べていこうと思う。


1886:【クリエイティブ・コモンズ・ライセンス】
検索してざっと(五分くらい)眺めてみた感じだと、パブリックドメインは著作人格権以外の権利のいっさいを放棄しないとなれないみたいないので、いくひしの求めている環境を築くのには向かないみたいだ。企業の利用を制限するには、著作権そのものを放棄してはいけない。となると、広義の二次利用を許容する「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」なるものを標榜すればよいらしい。現状、いくひしが行っている原作フリー素材とほとんど変わらない。ちなみにことし二〇一九年はいくひしが小説をつくりはじめてちょうど十周年なので、この期にすべての自作をフリー素材にしていきたい。十月のコミティアにて同人誌を無料配布する予定なので、そこら辺を目途に、計画を練っておく(どうあってもいくひしが損をしないかを吟味するという意味)。十年か五年単位で新作のほうも順次、フリー素材にしていこうと思う。誤解されたくないので注釈を挿しておくと、企業の利用を制限するのは出版業界の息の根を止めたいとかそういう邪心からではない(え、そんなふうには思わなかった? あなた心が清らかですね)。著作権法が改正され、五十年から七十年に延長されることになった。インターネット上における著作物への規制もこれからますます厳しくなっていくことが予想される。そうしたなかで、これからさきの作家は、自作を世に広めるためには否応なく、自作の二次利用を可能とする方向に舵を取らざるを得ない。つまり、これまでは暗黙の了解で許容されていた、「布教活動」が作家のファンですら善意で行えなくなる(或いは萎縮せざるを得なくなる)。そして、二次利用の許容が一般化した社会において、コンテンツ提供企業はますます、「IP化した作品」を拾いあげればいいだけのハイエナに成り下がる懸念がある(企業が何もせずとも、需要のあるコンテンツは自ずとメディアミックスが展開されていく)。大きく育った果実を収穫するだけでは、この国の創作土壌はすぐに干上がり、今後、すばらしい作家は登場しにくくなるだろう。資本のある者が、湖の底に沈んだ豊潤な土壌をすくいあげ、湖全体に養分を循環させねばならない。そうした回路を損なわせないために、芽がでてから拾いあげる、といった姑息な手口がまかりとおらぬように、フリー素材化した作品において企業の利用を制限しておく必然性がある(ただし、個人がアマゾンなど大手企業の物流サービスを利用する分にはこの限りではない)。このさき何十年と創作をつづけていくことが確定的な創作家において、いずれ芽がでてから、などと浅ましい考えを発掘者たちが巡らせぬよう、フリー素材化したものに関しては企業の利用を禁じたほうがよろしいと考える(また、企業が商品化することでせっかくフリー素材だったものが独占される懸念がある)。ほかの創作者各位におかれては、自らの判断で、自作の権利の在り方を煮詰めてみるのがよろしかろう。たとえば、もし企業に拾われることを夢見るのならば、その可能性を捨てないことが第一だ。いくひしさんの真似をしては損をすることになるだろう。もっとも、過去、いくども繰り返し述べているように、いくひしさんはビジネスを目的に創作をしていない。だからこの手法でいくひしさんが損をすることはないのである。十年後、二十年後、いくひしさんの著作が千作を超えたときに何が起きるのか、或いは起きないのか――いまから楽しみである。最後にもういちどだけ念を押しておくが、いくひしさんがこうした策を弄するのは、けっして、出版業界の息の根を止めたいとかそういう邪心からではない。断じて!


1887:【まだやってるの?】
ビジネスを目的にしているとか、プロだからとか、お金を稼ぐためとか言っていた小説家たちはもう引退したのかな? そろそろ辞めどきではありませんか? というかプロの作家はもっと出版社にいろいろ要求していいと思うんですよね。主導権握られすぎではありませんか? そして印税制度もどんどん変えていったほうがいいと思います。初版印税なしが基本で、重版かかってから印税か、もしくは重版ごとに出版独占権を期間限定で売る方向に契約内容を変えていくのが好ましいと感じます(重版がかからなければ違約金を払ってもらうようにし、なおかつ電子書籍の印税は作家側が十割もしくは九割いただくようにすればよろしいのではないでしょうか)。自分たちの利益を守るために出版社をつぶす気ですか、と意見を伺いたいですね。ほんと、プロとは名ばかりですか?と言いたいです。もっと要求して改善していってほしいです。これからでてくる新しい才能をつぶす気ですか?


1888:【うは】
まんちゃん言いたい放題やな。やっと本性あらわしよったか。まあ、背中刺されんようにだけ注意したってな。まんちゃんおらんでもべつに構へんけど、おちょくる相手おらんようになるんは嫌やからな。


1889:【デスノートって知ってる?】
ここ数年、SNSの炎上騒ぎを眺めているとマンガ「デスノート」を連想する機会が増えた(デスノートは、死神のノートを手にした高校生が、よりよい社会を目指すために悪人に死を与えていくマンガだ。主人公は正義のために死神のノートを使うが、やがて自身の正義のために悪人以外にも死を与えるようになっていく)。ここ数年、毎月のように政治家や著名人が炎上している。単に問題があって話題になっているだけでなく、デマが発端の炎上もすくなくない。マスメディアに取り上げられたデマを信じ、非のない人物を大勢で責めたて、のちのち誤解だったと判ったときには、非のない人物は大きな損益を被っていた、なんて事態が毎月のように目につく。集団リンチさながらである。現代人はみな死神のノートを手にしている。気に食わない相手の本名よろしく、瑕疵を見つけては、すかさずノートに書き込み、死を与える。手軽に同士を集い、低リスクで誰かを滅多打ちにできるSNSはまさにデスノートと言えよう。情報媒体にデマを載せるマスメディアや個人に非があるのは論を俟たないが、それを信じ、あまつさえ傷があるというだけで正義の鉄槌をくだしてもいいと思いあがっている個人の複合体は、じつに悪意に満ちていると感じる。まず忘れてはならない前提として、いち個人に誰かを裁く権利などはない点が挙げられる。仮に真実、相手に過失があったとしても、それを理由に私刑を加えてはいけない。この国には法があり、警察がいて、裁判所がある。罪はそうしたシステムによって裁かれるべきであり、もっと言えば、それですら人を裁くわけではないのだ。デマだろうが真実だろうが、見知らぬ誰かに死角から石を投げつけるような真似はそもそも善なる行いではなく、ましてや正義などでもない(実名であればいいなどということもむろんない。正々堂々と人を傷つけるのならば、それもまた悪質だ)。石を投じるのならばせめて、個人ではなくシステムの穴に目がけてみてはいかがだろう。あなたの投げた石が、ひょっとしたらその穴にうまくハマり、塞ぐこともあるかもわからない。念頭におくべきは、あなたの触れた情報の真偽ではなく、あなたが得た情報をもとにあなたがどのような行動をとるかである。デスノートを手にしたあなたはいつだってキラになり得る。現に、キラになっている個人がインターネット上には無数に溢れているのがいまの社会だ。いくひしですら例外ではない。安全地帯から石を投じ、誰かを傷つけ、溜飲を下げるような真似は、いずれキラと同じ境遇に身をやつす布石となるだろう。デスノートは一つきりではない。みな同じように手にしている。キラのゆいいつの失敗が何かを考えてみよう。どうなれば「デスノート」という物語ははじまらず、主人公はキラにならずに済んだのか。マンガ「デスノート」を未読の方でも考えつく答えがあるはずだ。すでにあなたの目のまえにはデスノートが落ちている。しかしあなたはきっとまだ手にしてはいないはずだ。死神のノートなど拾わずに、握った石を手放せば、SNSは、単なる情報共有ツールとして、あなたと他者を繋ぐ、よりより縁として機能する。自分が手放しても、一方的にノートに名前を書かれるかもしれないとの不安を拭えない方があるならば、そもそも「デスノート」の舞台に登場しなければよい。SNSに参加しなければならない、なんて義務はない。デスノートの跋扈する世界になぞ飛びこまずにいられる日々を目指したいものである。


1890:【損をしない生き方】
いくひしさんには影響力がない。まず以って人望がないし、いわゆる人脈もない。友人はただの一人もいないが、知り合いだけは無駄に多い。だからインターネットのなかでは、そうした知人と遭遇しないように細心の注意を払っている。話が逸れた。影響力を持たないいくひしさんだが、それで損をしたことは一度もない。むしろ、いくひしさんに影響力がないせいで機会損失を被っている者のほうが多いはずだ。いくひしさんがツイッターやこの「いくひ誌。」で、このひとすごいなー、この作品はいいものだなー、と思って「いいね!」ととりあげたとき、いくひしさんに影響力があれば、それはそのまま、その人物や成果物の宣伝となる。べつに、いくひしさんにとっては、その「いいね!」に宣伝効果があろうがなかろうが、ブロッコリーにマヨネーズをかけるか胡麻ドレッシングをかけるかの違いしかない。ただ、いくひしさんに影響力があれば、いくひしさんの好きな作品はもっとはやくに芽がでているだろうになー、と思うことはある。世に埋もれた才能――言い換えれば、これまでになかった新しい組み合わせに目を留めている確率がむかしからほかの者たちよりも高かった。多くの者たちの気づかない違和感が目に付きやすいようだ。それらは滅多にないがゆえに得難く、加えてすでにあるものの組み合わせであるから再現性がある。再現性があり、得難いものは人から人へと伝わりやすい。いくひしさんがそう自負しているというよりも、あれいいよねーと言ったときに同意を得られずとも、そう遠くないうちに評価されたり、世界一になったりする。世界の流行になることもしばしばだ。むろん、いくひしさんがスゴイのではなく、いくひしさんにも判るくらいに異色の存在がいくひしさんの触れられる範囲に溢れている現代がスゴイのである。とはいえ、変化の流れを視ていれば気づきそうなものを、案外、みなには視えていないようだ、ということを本を読みはじめたころから自覚するようになった。いくひしさんは基本的に、成功しても失敗してもどちらでも得をするような生き方を選択している。たとえばいくひしさんが何かの賞に応募して落選したとしても、それで損をするのはいくひしさんではない。いくひしさんに損をさせようといじわるをする人間がいたとして、それで損をするのもまたいくひしさんではないのだ。なぜかは解からないが、どうにも、いくひしさんは何を選択しても得をするし、いくひしさんを蔑ろにした人たちはみな例外なく落ちぶれていく(※1)。だからいくひしさんはなるべく、他人と関わらないようにしている。みんなが可哀そうだからだ。陰からこっそり応援するだけで、とくに何かをしようとは思わない。どの道、何をしても、いくひしさんは得をするからだ。たほうで、単に損をしていることから目を逸らしているだけでは?との解釈も成り立つが、その解釈をして得をするのは誰ですか? (※1:エントロピー増大の法則からして矛盾せず、言ってしまえばひとはみな死ぬので、いくひしさんの認識に関係なくみな落ちぶれるのは当然。こうした言葉のトリックに惑わされないようにしましょう)


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参照:いくひ誌。【1771~1780】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887843365

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