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いくひ誌。【1871~1880】

※日々、好きなひとの弱音を見ては、こんなじぶんに励まされてもな、と相手の立場になって、並べた言葉を消していく。


1871:【あーあーあー】
並べることないから即興小説やります。ショートショートで。テーマはふだん使わない言葉を使って、イメージは祖母と孫がなんやかやする話。制限時間は一時間。オチとかなんも考えないで一気呵成につむぎます。


1872:【私のために死んでくれ】
久方ぶりにタイムマシンに乗って、いまは亡き祖母に会いにいった。顔を合わせて早々、おまえは吝嗇(りんしょく)のうえ狭量でいけない、と毀誉褒貶(きよほうへん)の憂き目に遭う。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888433462


1873:【なんもなーい日】
やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりだなぁ。こよいのいくひしさんは、夜食を食べているぞ。ホットケーキを焼いて食べているのだ。でもな。聞いてほしいのだ。ホットケーキのタネにイチゴジャムを混ぜて焼いたら、ぜんぜん膨らまなくて、ぺっちゃんこになっちゃった。いつもはヨーグルトを混ぜていてな、モチモチになるから好きなのじゃが、きょうはなんか失敗しちゃったかもしれないのだ。でも食べてみたら美味しいのだ。甘いものはよいと思うぞ。あとはな。なんじゃろな。んー。そうそう、って言ったみたけどまだなんも思いついてないけど、そうそう。いくひしさんはさいきん、おそとにお出かけするときに水筒を持ち歩くようになってな。蓋がないタイプの、355ミリリットル入るやつでな。上面のつまみをひねると、穴がひらいて、そのままペットボトル飲料を飲むみたいに口をつけて飲めるのだ。これはよいものだ。いくひしさんはたいへん気に入りました。紅茶か白湯を入れて飲んでいるぞ。あとはなんじゃろな。とくに何もなーい。変わり映えのないまいにちだし、インスタ映えのしないまいにちだぞ。そう言えば、いくひしよりちょっと下のコに聞いてみたら、いまはもうフェイスブックは使ってなくて、ツイッターとインスタがメインらしいぞ。ティックトックも観ないらしいぞ。YOUTUBEもそうらしいけれども、動画メインのSNSはきっといまの義務教育世代に普及して発展していくサービスだといくひしさんは解釈しているぞ。中学生なんかには十数秒の動画は人気なんじゃないかなぁ、と思うのだ。ストップモーションみたいに編集して、ちょっとしたCGチックな動画なら、いまの義務教育世代は誰でもつくれる時代なのだ。脳みその回路からして違ってきているので、もはや同じ言語であっても、世代によってはまったく言葉が通じない時代に突入しつつあるといくひしさんは睨んでいるぞ。テクノロジィの発展が、文学の限界を浮き彫りにしつつあるのだな。むつかしい言い回しくらいは、自動で翻訳されるサービスがあると、すこしだけ小説なる媒体の寿命が延びるのではないかな、といくひしさんは思うのだ。長編を短編にまとめちゃったり。もはや同じ言語であってもそうした翻訳が必要な時代になっていくぞ。きっと。たぶん。そうなると思うなぁ。良し悪しは各自で判断してほしいぞ。個人がどう思おうが、時代は時代でかってに進んでいくのだな。いくひしさんは独り遊びが好きだから、このまま、のほほんとやっていこうと思うのだ。みなのものも、あんまり根を詰めないで、のほほんとやっていくのがよいと思うぞ。下手でも人気がなくとも、誰からも認められなくたって、ぜんぜんわるいことではないのだぞ。焦って、息切れして、日々に飽きてしまうのがいちばん避けるべきことだと思うのだ。何かを自由につくれる楽しさを噛みしめていこうではないか。きょうのいくひしさんはそう思ったのだそうな。


1874:【トリアージ】
あらゆる分野に関して門外漢なので以下に並ぶ文章はいくひしの雑な所感である旨をまずは断っておく。みなさんはご存じだろうか。災害や大規模人身事故などが起きたときに、怪我人に対して、治療の優先順位をつける仕組みがあることを。トリアージと呼ばれるものだ。早急に治療しないと死亡してしまう怪我人に対しては赤色のマークをつけ、そうでない怪我人にはそれぞれ異なる色のマークをつける。そして治療を施しても死亡してしまう怪我人(死亡者)に対しては黒色のマークをつける。医師たちはそれらマークを頼りに、治療を優先的に施していく。しかし、怪我人に対して医師の数が足りないこともでてくる。問題なのは、重症の患者ほど治療に時間がかかる点だ。早急に治療をしなくては死亡してしまう患者への医療行為に時間をかけすぎたあまり、本来ならばその時間で助けられたはずのほかの怪我人をみすみす死なせてしまうこともでてくる。災害の規模や治療現場の環境によっては、本来ならば緊急治療者を示す赤色であるはずの患者に、死者を示す黒色のマークをつけなくてはならなくなることもある。もしくは、本来赤色であるはずなのに、最優先で治療を施す必要がない、とワンランク下のマークに判断され、後遺症が重くなることもでてくる。これはその場その場で、判断が異なってくる。むつかしい問題だと思う反面、治療を施せば助かる重症患者に対しては、どんなときであっても死者を示す黒色マークをつけるのは倫理的にも制度的にもないほうが好ましいと感じる。あとから人員が補充され、治療の手に余裕がでたとき、黒色マークをつけられてしまっていたらもう、治療を施される機会すら巡ってこない。重症患者を示す赤色マークにも、二種類あるとよろしいのではないか、と直感としては思うのだ。いますぐ治療しないと死亡してしまう重症患者と、本日中に治療しないと死亡してしまう重症患者とでは、現場の医療体制や規模によっては、双方助かる場合もあるし、片方のみしか助からない場合もでてくる。ときには、双方に死者の判断をくだし、その余った時間で百人を助ける方針をとる場合だってあるだろう。いずれにせよ、医師たちはそのときその場でできることを懸命に判断し、行っている。あとから振り返って、あーだこーだ非難することはできるが、その場にいた医療関係者たちを責めるのはお門違いだろう。重要なのは、同じような局面がふたたび訪れたときに、前回の反省を活かせる仕組みを築いていけるかどうか、だ。近年、国際的に災害の頻度が増加傾向にあるように見受けられる。地球温暖化現象などの気候要因が相関しているのはほぼ間違いないだろう。他国への救援援助が活発化していくと予想される今後の社会情勢において、トリアージの問題はこれから、深刻な国家間の問題に発展しかねない。いまからもういちど、トリアージの仕組みを厳密に検討し直していく時期かもしれない。いくひしが知らないだけですでにそうした動きがあるのかもしれないが、公になっていないのはなぜなのだろう、とふしぎに思っている本日のいくひしまんでした。


1875:【キャラ造形】
これは完全にいくひしの好みの話になるが、小説におけるキャラ造形は、そのキャラクターが何歳でどこで生まれ、誰と出会い、どのように育ち、傷つき、別れ、成熟したのか、或いはしなかったのか、といった克明な側面像など粗末な事項で、だいじなのは、そのキャラクターの魂のカタチだ。側面像は言うなれば器であり、そこにどんな魂をそそぐのかが肝要なのだ。齢十二の少年の肉体に「どんな魂を宿すのか」がだいじなのであり、齢十二の少年という器が、たとえ少女になろうが、老婆になろうが、薄汚い中年であったとしても、そんなのは大した問題ではない。その器にどんな魂が宿っているのか。譲れないのは、ただそれだけだ。器の成分表など極めて些事だと言ってしまっても、いくひしのなかでは一抹の疑念も湧かない。ただ、いくひしがそのように思っているからといって、ではじっさいに些末な事項なのかと言えばそんなことはなく、キャラクター造形において、そのキャラクターの来歴は無視できない規模で物語全体の機微に大きく関わっていく。ただ、その物語において、キャラクターの来歴がいっさい不明であっても、いくひしは過不足なくその物語を楽しめる。反面、克明にそのキャラクターの側面像や来歴が記されていても、魂のカタチが不鮮明であったり、ぼやけていたり、すべてのキャラクターが同一の魂の焼き増しであったりすると、あーもーあらすじだけでいいです、となってしまう。魂、などという形而上学的な代物を俎上に挙げてしまった手前、こう言ってしまうと角が立つかもしれないが、その人物ならではの出力形態に「ある種の法則」が見いだせないと、うーんどうなの、と上手に物語に没入できない。言い換えれば、その人物とほかのキャラクターとのあいだに、ハッキリと区別できる差異があるのか、に目がいきがちだ。単に差異があるだけではなく、それぞれのキャラクターに同じ情報を与えたとして、何度繰り返しても、双方の差異が一致しないのが好ましい。それぞれに異なる魂が宿っているのならば、たとえばパンを食べる場面、犬を撫でる場面、親しいものを失くした場面と、同じ情報を与えたとしても、各場面ごとに、キャラクターたちの差異の開きは変わってくる。否、変わらなければならない。魂が宿るとはそういうことだ。それは不規則に振幅する波を二つ重ねたとき、ある箇所では重なりあい、またある箇所ではかけ離れるのと似ている。いっときとして、同じ差異は生じない。しかしそれぞれに、キャラクターの波形のみを取りだし、眺めてみると、ある種の法則のようなものが見えてくる。一定の傾向のようなものが現れる。それこそが魂のカタチだ。口調や口癖、見た目の特徴などは些末な事項だ。統一する道理がそもそもない。人間は対面する相手によって話し方を変えるし、装いも変わる。母親のまえで晒す人格と、想い人のまえで晒す人格は違う。服装も髪型だって同じではないはずだ。キャラを立てるとは、器の見栄えをよくすることではない。どんな器に入れたとしても、一発で「あのひとだな」と判る魂をかたちづくることだ。たほうで、魂のカタチが分からないような、どんな器に入れても、中身の定まらない魂があってもよい。ただし、そうした不安定な魂ほど、じつはとんでもなく強固に磨かれた、「それしかない」を体現したカタチを帯びているものだ。芯がしっかりしているからこそ、大きく逸脱し、揺らぐことができる。そうした魂をかたちづくるためには、常日頃から、他人を器で判断せずに、どんな魂を有しているのかを見極めようとする姿勢が役に立つ。見た目や、肩書きなどで他者への評価をころころ変えるようでは、魂を見極めることも、ましてや魂をかたちづくることもできないだろう。繰り返しになるが、だいじなのは器ではなく、中身にある魂のカタチだ。なるべくほかに類のない魂を見つけられると、ただそれだけでも上質な小説を一本読んだくらいに目のまえの世界が輝きだす。よい出会いとは、一方的でも充分に魅力的だ。願わくは、あなただけのよき出会いを。そしてよき魂を見逃さぬことを。(ちなみにいくひしは魂の存在を信じていない。飽くまで比喩なので、誤解なきようにお願いします)


1876:【しんよう】
人生のどん底に落ちたことのない人間は信用できないし、どん底に落ちるような人間も信用できない。要は、人間を信用するのは利口ではない(もっとも、利口でなくとも自由に生きていけるのならばそちらのほうがより理想的なのかもしれないが)。


1877:【成果とは】
世のなか結果がすべて、みたいな言説を見かけることがさいきん増えてきた。むかしからある主張の一つではあるけれど、さいきんはコンテンツ業界のとくに編集者界隈で、比較的よくみられる言動だ(ツイッターを眺めていて)。とくべつ反論は湧かない。そのとおりだなぁ、と思う。反面、結果とはいったいいつの時点の成果を言っているのだろう、と疑問にも思う。たとえば書籍は初速と呼ばれる、書店に並んでから一週間の売り上げが重視される。結果と呼ばれるものが、その初速のことを言うのなら、古典と呼ばれるもののすくなからずは、成果をあげていないことになる。死後、作品に価値が見いだされ、後世に多大な影響を遺した作家はそう珍しくはない。ゴッホしかり。宮沢賢治しかり。もちろん生前から評価されていた作家も同じかそれ以上の数いるだろうから、長期的な視野での成果こそが重要だ、なんて主張したいわけではない。ただ、たかだか一週間の売り上げで、成果がどうのこうのと評価を下されるようでは、創作者としては堪ったものではないのではありませんか、と首をひねりたくもなる。一週間が一か月でも、一年でも同じだ。成果と口にしたとき、その内訳にはどのような成分が含まれているのだろう。いったい何を以って成果と呼んでいるのかがあいまいだ。利益をだしているか否かだとすれば、もはや書籍の六割以上は成果をあげていないことになる。本当にそれらすべてが成果をあげていないと見做してしまってよいのですか、と問うてみたい。商業出版にかぎらず、アマチュアの作品にしても同じだ。書籍に限定せずとも構わない。何かしらの創作をしたり研究をしたりと、行動の結果として、あなたがしなければ生じなかった影響の結晶があなたの目のまえに顕現したとして、それはその時点ですでに成果と呼べるものなのではないだろうか。そんなことを言いだしたら、行動には結果がつきまとうものだから、総じての行動はただそれだけで価値があるとの極論に到ってしまうのではないか、と訝しむ方もおられるかもしれない。そのとおりだ。それの何が不満なのですか、とお尋ねしたい。設定した目標に達していないのなら、たとえ成果があっても意味がないとする考えは成立するが、目標に到達していたのならそれで充分ではないだろうか。その目標を設定したのがあなた自身であるのなら、まずは満足する目標を立てれば済む話だ。無謀な目標を立てて、到達できなかった無駄だった、と嘆くようなら、それは行動や成果がダメなのではなく、あなたの見立てが甘いだけである。満足できる目標をまずは立てることが先決だ。同様に、無謀な目標を立てて、利益がでない、などと嘆いているようではとうていビジネスとは言えない。到達可能な目標を掲げ、それをこなせれば利益がでるような仕組みをつくるのがビジネスの基本のはずだ。それで利益がでないのならば、そもそもがビジネスとは呼べない。博打か詐欺である。現状に満足していない者があるならば、成果とは何かをいまいちど考えなおし、満足できるように目標を設定し直すところからはじめてみてはいかがだろう。


1878:【わかんない】
周囲の物質をすべて吸いこみ、降着円盤を失くしたブラックホールは、やがてホーキング放射によって徐々に消滅していく――と、考えられている。もうすこし詳しく言うと、ブラックホールの周囲に存在する反粒子を吸いこむことで、内部に蓄積した重力(圧縮された物質)が徐々に対消滅していく。だが、反粒子は、粒子と対となって発生する。なぜ反粒子のみを吸いこみ、粒子だけを取り逃がしてしまうのだろう。また、ブラックホールは重力が極めて高いので、その周囲では時間の流れが遅くなる。吸いこんだ反粒子が内部で対消滅するあいだに、外部の宇宙空間には、新たに飛来する物質や、重力で引き合い近寄ってくるほかの銀河などが現れるかもしれない。それらすべてを吸い尽くしたとしても、外部では、ブラックホールが吸いこんだ反粒子と対となる「取り逃がした粒子」が結びつきあい、新たな物質として現れるのではないか。もしそれらすら吸いこみ、真実何も吸いこむものがなくなったとして、だとしても、ブラックホール内部の反粒子と粒子は釣りあいがとれるはずだから、物質優位になるはずだ(元々この宇宙では粒子が僅かに多く残り、それが星々をかたちづくった)。なぜブラックホールは対消滅して消えてしまうことになるのだろう。そもそもこの宇宙では、対称性の破れが働くはずだから、反粒子よりも粒子のほうが多く残るはずだ。ブラックホールが消えてなくなるホーキング放射とはいったい何なのか(一時的に対消滅して、ブラックホールの規模が減退するのは理解できるが、熱的死を迎える道理が解からない。だいいち反粒子も粒子と対消滅したところでエネルギィは残るはずだ。まったくの無になるわけではない)。いまいち理解が追いつかない。知識が足りないので、集めていこうと思う。


1879:【運動が苦手】
運動神経がよろしくないので、いくひしさんはスポーツが苦手だ。まず以って手先が器用ではないので、道具を使う競技、たとえばバスケットやバドミントンが上手にこなせない。万年貧血気味なので、体力もなく、すぐに疲れる。筋肉もつきにくい体質で、ふつうのひとの三倍は練習しないと、競技に即した肉体にならない。だからスポーツからはずっと距離を置きつづけてきた人生だ。常人の三倍の鍛錬が欠かせないこの性質は、運動だけでなく、勉学から創作から、果ては私生活まで幅広く反映されている。何かを理解し、修得するまで、おおむね、ひとの三倍時間がかかるから、いくつものことを同時にこなす真似が困難だ。目のまえの一つのことだけでせいいっぱいになってしまう。食事でも同様で、三角食べが未だにできない。一品ずつでないと気持ちよく食べられないのだ。そもそもが一品料理のほうが好ましく、弁当や料亭にでてくるような、お品が小分けにされてでてくる料理が苦手だ。情報処理能力が低いのだ。すぐにパンクしてしまう。記憶力がわるいのが要因の一つだと感じている。短期記憶に難があるようだ。反面、長期記憶、とくにエピソード記憶のほうは、そこそこすこしばかりの信頼を置けていたのが、さいきんになってそれも怪しくなってきた。憶えていたはずのことやものを簡単に忘れてしまう。忘却の資質だけは高いようだ。いっそのこと他人の記憶からも消えてなくなれるとよいのだが。忘れる能力だけでなく、忘れられる能力も欲しいところだ。


1880:【文学はもう死んでいた】
インターネット内での動向を眺めての所感なのじゃが、文章の経済的価値が急激に落ちてきているのは、気になるところではあるな。文章そのものが商品になることはもう、ほとんどない気がしてきたでござる。言ってしまえば、個人の知恵がインターネットの集合知に勝てますか、という話になっていくでござる。これからさき、作家の経済的価値は、インターネットに溢れる無料の情報よりも低くなっていくでござる。いくひしの周りの人間で、先月発表された芥川賞と直木賞の受賞者の名前を言えるひとは皆無でござる。いくひしさんも言えないでござる。本のタイトルなんてますます以って言えるはずもないでござる。TVで話題になるからスゴイ、という時代ではないのでござるな。だってそれを言ったら、天気予報なんて毎日TVでやっているけれども、先週のお天気予想を憶えている人間なんて稀なのだ。芥川賞や直木賞は、あすのお天気予報よりも取るに足らない情報なのでござる(お天気予報はむしろ社会的に価値の高い情報だからこそ、世に有り触れていて、相対的に価値がさがっているでござる。この相対的に価値がさがる原理が、文章にも当てはまるでござる)。野球のナイター中継みたいに、あと数年もしたら報道すらされなくなるのではないかなぁ、といくひしさんは睨んでいるでござる。話題性重視の賞になんの意義があるでござるか。賞そのものが話題にされなくなってきたから、受賞作の話題性に頼るようになってきたでござる。風前の灯というやつでござる。ともすれば、イタチの最後っ屁でござる。芥川賞や直木賞がそうである時点で、ほかの文学賞や新人賞も知れたことでござる。小説そのものの真価よりも、誰がそれをつくったかのほうが重視される世のなかでござる。アホくさいでござる。春画で有名な浮世絵師は、あー、北斎でござる。いまの時代に、北斎やゴッホや宮沢賢治や中島敦は生まれないでござる。見る目のないやつばっかりでござる。でもそれがわるいことだとは思っていないでござる。見る目のないなかで、また新たに、見る目がよい、という基準が再定義されて、新しい文化が育まれていくでござる。要するに、既存の価値観で計ろうとするから、見る目がないままで、廃れていくいっぽうなのでござる。滅びるものは滅びるし、残るものは残るでござる。あがくだけ無駄でござる。好きなだけあがけばよいでござる。あがくことすら楽しめばよいでござる。あらがうだけあらがって、楽しむだけ楽しんで、そしてかってに滅びるがよいでござる。いくひしさんの知ったことではないのでござる。ひとはみないずれ死ぬでござる。同じことでござる。


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参照:いくひ誌。【1091~1100】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885018153

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