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いくひ誌。【1861~1870】

※日々、悪意を呑みこみ、小さく固め、この身を歯牙にもかけぬ有象無象にいつか撃ちこむ弾丸とする、墓穴は二つと言わず、掘りうるだけ掘り進めている。


1861:【いくひしの場合】
生きるってすばらしい。自由ってすばらしい。社会ってすばらしい。人はすばらしい。健康で、痛みはなく、空腹はつづかず、四肢は自在に動き、好きなときに水を飲み、お湯を浴び、そして血を流す不安におびえずに済む。これらすべて、他者からの許可なく、承認なく、一方的に保障され、与えられている。これがしあわせでなく、なにがしあわせ?


1862:【折り合いがつかない】
みなはどのようにして内なる悪意と折り合いをつけているのだろう。他人を蹂躙することへの欲求と快感にどのように抗っているのか。端からそんなものを持ち合わせていない、との反論が聞こえてきそうだが、そうした反論を思いつき、あまつさえ相手に投じたくなる時点で、相手を蹂躙することへの欲求に抗えていないと呼べる。悪意とはその根底に、自己保存の本能を備えている。じぶんなる個を守ろうとする生命の基本構造が、人類に、悪意を抱かせる。自身にとっての危険となりそうなものやことを排除しようとする欲求が、悪意として顕現する。悪意のなかには、じぶんにとって好ましいものやことを庇護しようとする選別思想も含まれる。ときにそれは愛と呼ばれ、社会的に尊ばれる。しかし、庇護しようとするとき、明確にそこには、排除対象が存在する。何かを守るとき、そこには邪魔なものがある。守りたいものがあり、邪魔なものがあるのか、それとも邪魔なものがあるから守りたくなるのかは、時と場合によるだろう。どちらかいっぽうだけが独立して存在することは原理的にあり得ないと言えそうだ。いずれにせよ、善意や愛というものは、悪意の別名にすぎず、言い換えれば、悪意とは善意や愛の別名にすぎないのだ。何かを愛そうとするとき、自身のなかに優先順位ができ、それまでなかった境界が引かれ、守るべきものとそうでないもの、排除すべきものが無意識のうちから仕分けられていく。或いは、敵愾心を燃やすとき、無意識のうちから優先して守りたいと欲する何かが自身の内在に根付いている。そうしたことを自覚するとき、もしくは自覚しようとするとき、必然的に、内なる悪意に呑みこまれそうになる。否、悪意に呑みこまれ、行動の総じてが悪意によって衝き動かされているのではないか、との疑念を拭えなくなる。折り合いがつかない。他人を圧倒し、ねじ伏せる快楽を知っているがあまり、或いは他人を傷つけ、損ない、優位にたつことの愉悦を知っているがあまり、それとも奪われ、見下され、蔑ろにされたときの屈辱を知っているがあまり、他人と関わろうとする意思そのものの根源には悪意が巣食っているように感じられてならない。他人の尊厳を優先するならば、他者と関わらないことがもっとも合理的なのではないか。それは拒むという意味ではない。率先して関わらない、という意味だ。奪うことなく、損なうことなく、何かを与えることもなく、ただいっぽうてきに、奪われ、損なわれ、与えられる存在になる以外に、悪意を抱かずに済む方法はないのかもしれない。人であるとは悪意を抱きつづけることであり、悪意なくして生はなく、しかしその生に衝き動かされるばかりでは人とは呼べず、ならば人のカタチを模したままの中身のないハリボテとなり、あるがままの物質のように、人のカタチを成したナニカになるほかに、悪意を切り離す術はないのではないか。なぜ悪意を抱いてはいけないのだろう。なぜみなは悪意を抱いたまま、何食わぬ顔で生きつづけていられるのだろう。なぜあなた方は、悪意をまき散らしながら、他人の悪意ばかりを禁ずるのだろう。悪意を抱く自由を守れと、多様性を謳う者たちもまた、ひどく悪意にまみれている。悪意は悪意だ、抱いてよい道理があるだろうか。生きることは悪だ。悪である自覚はあるか。内なる悪は内に秘めたまま、他者の悪を浴びていく。善とはただその自虐にあるのみか?


1863:【おばか】
やあやあ、いくひしさんだ。きょうはひっさびさにひとと雑談をしたぞ。なんかアプリのゲームでクイズやパズルを解くのだが、数学っぽいのをやらせてもらったが、ぜんぜんできなくてびっくりしたぞ。でもほかのひとは割とすらすら解いていて、えーいくひしめっちゃバカじゃん、って目が点になってしまった。相手のひとたちをたくさん褒めて、「みんなが頭よすぎるんだ、いくひしはバカじゃない」と思いこむことでショックを和らげたぞ。でもぜんぜん嫌な感じがしなくて、むしろおもしろかったぞ。いくひしさんはおばかさんだけども、いくひしさんの周りのひとたちがみんな頭がよいので、助かっているぞ。いくひしさんみたいなおばかさんでも存在していてもいい環境はとてもうれしいと思うのだ。とってもよいと思う。たいへんありがとうございます、だぞ。それはそうと、八年前からそれなりに挨拶をかわしていたらしい相手の顔も名前も憶えていなかったことが発覚してショックだったぞ。相手の方はちゃんといくひしのことを憶えてくれていたのに(週に一度は会うのだから憶えているのがふつうなのだけれども)、いくひしは相手のひとがよそから来たひとだと思いこんでいて、名前も未だに憶えていないし、たぶんこれまでにもきっと同じように、初めましてですよね、みたいにしゃべっていたことがあって、たいへん失礼なことを、と申しわけなく思っているぞ。いくひしは他人を、そのひとの見た目のシルエットや動きで憶えているので、体型が変わったり、服装や髪形が違ったり、これまであった癖が直っていたりすると、初めましてのひとに見えてしまうぞ。街を歩いていて挨拶をされても、相手が誰だか分からないことが多いので、日中に人混みを出歩きたくなくなってしまうぞ。愚痴っぽくなってきたのでこの辺でやめておくぞ。それが賢いおとなの嗜みというものだ。でも最後に一つだけ言っておくと、いくひしさんはあんぽんたんでかなしいです。もっと、すこしでも、できれば、バチが当たらないかぎり、望んでもおこがましくないのなら、ぜひとも賢くなりたいです。でも努力したくはないから、みんながもっと賢くなって、いくひしさんが落ちこまないように、それとなくフォローしてくれると助かるな。いつまでも赤ちゃんでいたい本日のいくひしまんでした。ばぶー。


1864:【2月1日】
日付け変わっての2月1日です。もはやこの記事がいつの分の「いくひ誌。」なのかがあいまいになってきました。前日の分を並べているのか、翌日の分を並べているのか、はたまた朝いちばんの更新なのか、ひとまず2月1日分として、きょうは並べてしまいます。2018年の8月からはじめたツイッターのほうをきょうからお休みして、半年後の8月ごろからまたすこしずつ再開していきたいな、と思っています。そのあいだ完全に停止してしまおうとも思ったのですが、せっかくSNSという場があるのですから、BOTで自作の宣伝くらいを回していてもいいかな、と考えを改めました。ウィルスを他者に感染させたければ確率の問題として、まずは大勢の人間の行きかう場所に散布しておくのが定石です。寄生虫ならば、まずは大型の動物ではなく、小型の小動物や昆虫に寄生して、餌として大型動物の体内に入ることで、意中の宿主に辿り着くわけですから、SNSという水場に寄生虫の種を撒いておくのは寄生生物の生存戦略としては正攻法と呼べるでしょう。というわけで、いくひしは活用をお休みしますが、8月ごろまでは雑用係に運用を任せることにしました。たまーに、この「いくひ誌。」にも記事を書いてもらっています。ほかにもう二人ほど推敲係や資金調達係などがいるのですが、いずれご紹介することがあるかもわかりません。もちろんすべていくひしです。多重人格ゴッコです。というテイです。というテイです。創作活動のほうは、いまは新作を進めつつ、きょねん実施した毎日更新ショートショートでつくりかけのまま放置してあったのものを順次結んでいます。2月9日にキンドル電子書籍の無料配布キャンペーンを行う予定なので、それまでにもう一冊、短編集「千物語」シリーズを電子書籍化しておきたいなぁ、とぼんやり考えています。分量は四冊くらい溜まっているのですが(たとえばインスタhttps://www.instagram.com/stand_ant_complex/のほうで連載中のものや、まだ電子書籍化していないショートショートなど)、毎日更新SSの原稿はつくった順に並べたいので、つくりかけのものがあるとなかなか電子書籍化しにくいな、と顔をしかめてしまいます。おそらく、ショートショートだけでもつくりかけのものを閉じれば、もう一冊分の文字数が溜まってしまう気がします。2万字超えの物語がいくつかあるので、そうなります。さいきん身体の調子がよろしくないので(調子が狂うほどに活動できているという意味では快調とも呼べますが)、無理せず進めていきたいと思います。ことしは歴史と数学を勉強したいです。ちょっと前に経済と医学を勉強するぞ、なんて並べておりましたが、日々やりたいことがコロコロ変わります。そして消え失せないので、溜まっていくいっぽうです。どうしていくひしの身体は一つきりなのでしょう。身体は分裂できませんから、人格を分散していくよりないと考えております。その分、性能が落ちては意味がないので、なんとかそれぞれ独自に育っていってほしいと他力本願ではありますが、願っております。とはいえ、こうして願ういくひしもまた、ほかのいくひしからこぼれ落ちた分散型の素子の一つでしかないわけですから、なかなかどうしておもしろくはありません。大元のいくひしさんはいったいどこで何をしているのでしょう。いずれすべてのいくひしを統合してもらえるとうれしく思います。


1865:【私は私なのか】
私は本当のじぶんを知らない。そんなものがまずあるのかすら茫洋としており、掴みどころがなく、だからじぶんのことを文章にするのがとても苦手だ。じぶんのことを仔細に羅列しようとすると混乱する。本名を手書きで書くといつも違和感がある。私は私なのか、私とは何か、を問答無用で突きつけられる心地がする。対人する相手から見た「私」と、私の認める「私」は違う。彼の意識する「私」と、彼女の見る「私」も同じではない。もはや「私」などこの世に存在せず、あるのは無数の解釈ばかりだ。私が認識する「私」も同様であり、空腹のさなかにある私が抱く「私」と、子猫に触れているときの「私」とでは、もはや他人としか思えないほどの性質の差が顕わになる。その差を実感できるのは私が「私」であるから、そういう意味では、統計的に振れ幅の限定された人格の揺らぎ、感情のグラフの示す総体こそが私を「私」と定めるのかもしれず、ひるがえっては、私のそとにいる無数の他者から見た無数の【私たち】が、私をひとつの個として錬成し、雛型に押しこめ、揺るぎない揺らぎを与えているのかもしれない。しかし、純然たる事実として【私たち】は「私」でも私でもない。なぜ人は確固たる自我がこの身に宿りつづけている神秘を信じられるのだろう。これを並べ終え、コーヒーをすすった私はもう私ですらないのかもしれないのに。


1866:【ライオンは生まれながらにして】
努力なんてするだけ無駄というか、いかに努力をせずに済むかを考えられない人間は、何をやっても中途半端に終わる。ライオンは身体を鍛えなくたって、生まれながらにして百獣の王だ。生まれついての才も質もないのなら、素質で勝とうとするだけバカを見る。ライオンに素手で挑めば死ぬだけだ。罠を仕掛けてこそ人間だ。工夫を凝らすほかに、ライオンを仕留める術はない。罠であれば生け捕りだって充分可能だ。余裕こそが勝者の証だ。努力はするな。工夫をしろ。いくひし、聞いてるか。おまえに言うとんねんぞ。


1867:【指図は受けん】
努力がなんとか言ってるけど、それだとまるでいくひしさんが努力してるみたいに聞こえる。端から努力なんてしてないんだけど。努力してもしなくとも、いくひしさんはいくひしさんだ。やりたいようにやる。それにライオンだって、動物園で飼われてたら野生のライオンには勝てないんじゃない。どんな環境で生きてくかってのが、すでになんらかの努力って呼べる気もするよ。まあ、弱くても生きていける、ってのがすでに強者の証なのかも知らんけど。見方の問題になってくるな。けっきょく何を目的にするかって話か。つまらんな。くだらんし。努力も工夫もしーらんぴ。そっちが言うところの努力や工夫って、要するに、「俺がいいと認めるものをつくれ」って話でしょ。いくひしさんがやってるのはお遊びだ。仕事じゃないんだよ。底の抜けたがらんどうを埋めるんだ。あんたの工夫で真似できるか。


1868:【否定しているわけではない】
たとえば、「座ってばかりいると体力がなくなるよ」と言ったとする。「たまには外を歩いたほうがいいんじゃない」と考えを伝えたとして、それは座ることを否定していることになるのだろうか。ならないだろう。座るのもよいけれど、適度に身体を動かしたほうが、長期的に見れば、したいことがより精度高くできるようになるのではないですか、と言っているだけだ。この「いくひ誌。」に並べてあるいくひしの偉そうな文章の多くは、軒並みこの文法にのっとっている。何かを否定しているわけではない。むしろ全体を通しての文脈は、何事も全否定しないほうがよろしくはないですか、と全否定の否定をしている。だから否定をしていない、とは言えないが、おおむね否定しているわけではない、と言っても間違ってはいない。ややこしい言い方になっていますか? 何かを正しいと思い、それのみに注視し、尽力してしまうと、いざ間違っていたり、微妙な誤謬が潜んでいたりすると、途端に何かが狂いだす。ときおり本当に正しいのか、とみずからの足跡を振りかえり、また望遠鏡を取りだして、目指すべき指針を見詰め直すのもわるくはない。目のまえの境地が蜃気楼でないことを定期的に確かめるのは、真に辿り着くべき境地へとつづく道を見極めるのに一役買う。一見すればそれは道のテイを成してはいないかもしれない。しかし、真に新しい道とはいつでも、最初に踏み入った者のあとに築かれるものだ。道とは、人々が行きかうことができて初めて道となる。なればこそ、蜃気楼を追ってばかりいては、たとえそれに追いつき掴みとったところで、道をつくることは適わない。誰もが辿れる道でありながら、到達困難な場所へとつづく道であるとよい。肩書きは不要だ。他者からの評価も必要ない。道さえあればよい。あとは、どこを目指すのか、が肝要だ。何を目指すのかによって、そのひとの道のカタチも変わっていく。ひょっとしたら道ではなくエレベーターになるかもしれない。目的地さえ定まっていれば、もはや道である必要もない。指針がだいじだ、という話をしてみたが、かといって、何かを目指さない者を否定しているわけではない。何も目指さない、というのも一つの指針だ。同時に、もっとも険しく到達困難な境地であるかも分からない。いずれにせよ、道とは通るためのものだ。たまには後続する者のことを考えよう。道しるべを残しておくとよい。或いは、命綱を。そして注意書きを。


1869:【無駄な時間を過ごそう】
社会に貢献したくないし、人の役に立ちたくないと豪語しきりのいくひしさんだが、かといって社会の恩恵を拒む潔さも持ち合わせておらず、よって誰とも繋がらずに生きていくことはできない。誰かと繋がることの意味は、ほぼ十割、いくひしさんにとっては利を得るためだ。じぶんのためだし、利益のためだ。それはあるときはお金かもしれないし、物かもしれない。サービスかもしれないし、快楽かもしれない。感動でもいいし、感情でもいい。何かしら、それを得てよかった、或いは欲しいと望み、もっともっと、と欲の張るものを手に入れるために人と関わる。重要なのは、けっして人と関わりあいたいわけではない、ということだ。得られる利益が人と関わらずに得られるならそれに越したことはない。なんら特別な話ではないはずだ。自覚していないだけで労働している人間であればまずこの原理に支配されて社会に内在しているし、恋人や友人関係でも同様だ。例外は家族だと言いたいところだが、これもまた利益を得られなくなると破たんする例を数えだしたらいとまがない。利益を得ないことイコール何も得られない状態ではない。何も得られない状態は充分にそれで一つの利として評価できる。利益の反対は損失だ。損失を受けつづけても繋がっていられる関係性があるのならば、それこそが尊ぶべき愛と呼べるものかもしれないが、そんなものを崇め奉るのはハッキリ言って愚かだろう。破滅する未来しか予測できない。むろん、時間をかけて関係性を築いていくことで、利益を享受しあえる関係に発展していくことは可能だろう。ただ、無謀である点からは目を逸らさずにいたほうがよい。あなたの人生の八割がたを費やしても繋ぎ止めたいそれは関係なのか、と考えてみよう。対人関係だけでなくこれは仕事でも同様だ。得ている対価に対して、損失が大きくなってはいないだろうか。失っていく時間や効率は、あなたが得ている対価に見合うものだろうか。これは逆の考え方もできる。あなたの得ている対価は、あなたが失っている時間や可能性に見合う成果をあげているだろうか。理想は、得た報酬がまた新たな報酬を生むことだ。できることの可能性が広がりつづけていく時間を過ごせれば、それは利潤の高い暮らし方だと呼べるだろう。こういう話をすると、利益よりもそのときそのときの気持ちや感情のほうがだいじなときもある、という反論を受けてしまいそうだが、最初に述べたとおり、感情の起伏もまた利益の一つだ。もうすこし突っこんで言えば、もし感情を至福で満たすことのみを利益と規定するのなら、ドラッグを使えば手軽にその報酬は満たされる。しかし、失われる可能性や選択肢が消えるので、その損失に見合った感情がそこにあるのか、についてはよくよく吟味しておいたほうが好ましい。さらに掘り下げて言えば、これはドラッグにかぎらず、SNSやソシャゲにも言える理屈だ。そこに割く労力や時間を、もっとほかのものに費やしたほうがのちのち得られる利益は増える道理だ。SNSをやるな、ソシャゲは悪、と言っているわけではない。得られるものと失う時間を天秤にかけましょう、とこれはそういう単純な話だ。また、短期的には利益として釣りあいがとれていても、ある時期を境に、損失に転換してしまう例はすくなくない。まいにちすこしずつロシア語を勉強していれば、三年後にはロシア文学を原文で読めるまでに言語感覚が拡張されるかもしれない。このとき、もしそのロシア語の勉強に費やした時間をまいにちSNSに費やしてしまっていたとすれば、三年後に得られたはずの成果は気泡に帰すだろう。このたとえでは、ロシア文学を原文で読むことを報酬と設定しているので、SNSをまいにちたくさんやりこむことを報酬とするのなら、努めてロシア語を勉強する必要はない、むしろこの場合はそれこそが損失となる。まとめよう。日々の生活のなかで、何を報酬とし、何を成果とするかをハッキリさせること。利益を拡大させるにはそのことが役にたち、同時に、損失を避けることに繋がる。また、これまで報酬と設定していたものが、本当に報酬になっているのかと、ときおり振り返られると好ましい。得た成果に対して、満足できないのなら、報酬としては不十分だ。何が報酬たり得るのか、と日々の営みの軌道を修正していくとよい。いくひしはこのやり方で、まいにちのように、あのときああしてればなぁ、とたくさん修正して、人生に絶望している。たまには何も考えずに、その場そのときの時間に身を委ねるのも人生に飽きないためには有効なのかもしれない。利益を拡大するためには、利益を追求しない時間も必要だ。


1870:【卵がさき】
無駄な時間を過ごすためには、無駄ではない時間をつくらねばならない。止まるためには動かなければならないのと似ている。失敗するためには挑戦しなければならない。挑戦するためには課題がなければならない。課題は、現状を打破したいと望んだから現れる突破口であり、突破口は、日常に充満した無駄にのみ走るヒビである。ヒビが走って映るならば、現状を無駄だと感じている証左と言えよう。日常がすでに無駄な時間にまみれているのならば、無駄ではない時間をつくらねばならない。無駄ではない時間とは何か。無駄な時間を尊く思える日々のことである。無駄な時間を楽しく思えるように、効率のよい時間を過ごそう。


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参照:いくひ誌。【1571~1580】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886971360

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