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いくひ誌。【1851~1860】

※日々、火薬の量が増えていく、着火したときがおそろしい。


1851:【張り合いがない】
「他人からの承認がなきゃなにもできねぇ雑魚に興味はない。弱さから目を逸らし、強者のフリをする有象無象にもうんざりだ。弱いなら弱いなりに、その弱さを貫けよ。誤魔化すな、偽るな、他人の評価を着飾るな。やめたきゃやめりゃいい。死にたきゃ死ねばいい。喚きたけりゃ喚けばいいが、「好きなことをして生きろ」なんて無責任な言葉を他人にのたまく真似はすんじゃねぇ。言いたきゃ言えばいいが、したらまっさきに、てめぇのだいじな人間の手足をもいで、てめぇの目のまえで殺してから、生きたままてめぇの臓物ですごろくすんぞ。思慮の足りねぇ人間が衝動だけで生きてやがる世のなかすら想像できねぇやろうは痛い目を見ればいい。理屈を武器に威張り腐ってるやろうどもにゃあ、制御不能な暴力をのしをつけて返しゃあいい。懸命なのは弱者だけだ。おのれの弱さから目を逸らすな。他人の弱さにつけこむな」


1852:【どうどう】
まんちゃん自意識暴走してない? だいじょうぶ? ちょっと落ち着こうか。北海道のコーヒー豆でコーヒーでも淹れてあげよう。おいしぃよー。どことなーく、堆肥の匂いただようコーヒー豆だけども、ちょっぴり濃いめに淹れてあげよう。ついでにとっておきのチョコレートもつけてあげちゃう。おいしぃよー。それからそれから、「違国日記」でも読み返そうか。きのう買ってきた「ロジカとラッカセイ2巻」もおもしろかったよ。1巻から読み直すのもありじゃないかな。そいで、紀伊カンナさんの「春風のエトランゼ」もいかが? あなた好きでしょ。気持ちがざわざわしたときは好きなものを摂取するといいよ。そうしよ、そうしよ。きょうはもうおやすみ。好きなご本を枕元に並べて、起きたら寝ぼけまなこのまま、ぬくぬくのおふとんのなかでそれを読んで、よい日を迎えるなんてどう? いい気しない? するでしょ、するでしょ。よしよし、なかなか。まんちゃんあなた、気づいてないかもだけど、じぶんで言うほど独りじゃないよ。孤独が好きだなんてうそっぱちでしょ、つよがってるだけだよね。ホントに独りが好きだとしても、仲良くしたいってホントはずっと思ってるんでしょ。素直なまんちゃんのほうが、もっと好きだなぁ。やさしくなりたいならまずはじぶんにやさしくしましょ。愛せないのはしかたないけど、好きじゃないならないなりに、やさしくするのがだいじでしょ。そういうものになりたいんじゃなかったの? まんちゃんにしか分からないけど、分からなくてもできるでしょ。


1853:【あーあーあー】
きこえなーい。


1854:【天才編集者?】
すでに多くの者に影響力のある著名人に本を書かせるのも編集者の一つのスキルだとは思うが、著名人の本でしかヒットをだせない編集者を天才と評価するのは妙に思える。どちらかと言えば便利屋にちかいだろう。便利屋と編集者とでどちらが社会的に有用かはまたべつの話になっていくが、埋もれた才能を発掘できない編集者に編集者としての存在価値はないといくひしは考えている(作品をつくらない作家に作家としての存在価値がないのと同じように)。そして現状、編集者は存在しなくなりつつあると考えているが、さてどうなっていくだろう(いくひしの考えでは、これまで編集者が担っていた役割をこのさきの時代では作家が肩代わりしていくようになると想像している。作り手に回れない編集者は淘汰されていくだろう。作家もまた同様に、編集者のスキルを身につけられないと筆を折らざるを得なくなっていくのではないだろうかと踏んでいる)。


1855:【まえがきについて】
いくひしの周りで小説を読んでいる人間は三人もいない。いたとしても「あんたまだライトノベル読んでんの?」みたいな謎のマウントをとられる。好きなものを読めばいいと思うし、一つの本をジャンルやレーベルでくくって判断するような姿勢は、いったいあなたは小説から何を読み取り学んできたのですか、と逆マウントをとりたくもなる。言ったところで得るものはないので、おもしろいですよ、とだけ答えている。すこし話を掘り下げてみたところ、伊坂幸太郎や乙一、桜庭一樹などの小説はライトノベルではなく一般文芸であるそうだ。いくひしの感覚ではいずれもライトノベルである(文体が軽いので。この基準だと中村文則の小説もライトノベルだ。ちなみにいくひしは、「ラノベ」と「ライトノベル」とでまた分けて考えている。端的に、漫画にして映えるのがラノベである。むろん例外もある)。何を以ってライトノベルだと判断しているのかは人に寄りけりであるだろう。ホラーやミステリィ、SFなど、ジャンルのくくりでも同じことが言える。物語そのものの本質とはほとんど無関係と言っていいだろう。もっと言えば、そうした安易なレッテルが物語の本質をくもらせているとも呼べる。商業として広く人々に売らなければならないので、そうした画一的なレッテルを貼らざるを得ないのだ。どうにかならないものか、といくひしさんは自作紹介文ではいつも頭を悩ませる。そこで辿り着いた解決策の一つが、物語の雰囲気からは程遠い、中身にもほとんど言及しない紹介文を並べることであった。いくひしさんの自作紹介文こと「まえがき」は、本編とほとんど関係がない。読むか読まないかを決める判断材料にはならない文章を並べている。ないほうが読まれる確率があがるかもしれないくらいだが、いくひしの「まえがき」を忌避するような読者にはとくべつ読まれたいとも思わないので、ふるいにかけるつもりで、並べている。いくひしはプロではないので読者なら誰でもいいわけではない。自作紹介文だけでも集めれば七万字くらいになるので、いずれ「まえがき集」として電子書籍化しようと思っている。


1856:【人間ってそういうとこあるよね】
今週はすこし出力あげちゃったので、疲れ気味でした。夜はパスタの日が多いです。1キログラムのパスタが250円で買えるのはうれしい。あとはマスカットの香りのする紅茶を飲んでいて、はぁ~、となります。癒されます。さいきんはすこし前まで苦手だった曲をたくさん聴いています。もうすこし詳しく言うと、むかし好きで、でも苦手になって、でもやっぱりときどき聴くくらいなら好きかもなぁ、みたいな感じです。要するに好きなのです。でも毎日聴きたいわけじゃないのです。でもでも、よくよく考えてみたら毎日聴きたい曲というのもめったにあるものではありません。あったと思っても、いざ毎日聴いてみるとやっぱり飽きてしまいます。人間万事そういうところがありますよね。あれだけ好きだって言ってくれたのに、ほかにもっと好きなひとができたからなんて一方的に突きつけやがって。なぁんて怒ってみたけど恋人なんていたことありません。怒ってみたかっただけです。ありますよね。なにかあって怒るというよりも、怒りたいから、理由を探しちゃうみたいな。一事が万事というか、いくひし万事そういう感じです。ああきょうのいくひしさんはぷりぷりしてるなーと感じたら、それはいくひしさんが単に八つ当たりできる相手を探しているだけだと思います。いくひしさんが虚仮下ろしたり、非難したり、否定したり、苦言を呈していたりしても、相手がわるいことはとっても稀です。たびたび繰り返し言っていることですが、いくひしさんの言うことを真に受けてはいけませんよ。いくひしさんはいろんな考え方を日々、あーでもない、こーでもないと並べがちですが、一貫しているのは、真に受けてはいけませんよ、ということだけです。ですからこの、真に受けてはいけませんよ、という言葉も真に受けてはいけませんよ。というこの言葉も、なんて言っていたらキリがありませんから、ひとまず、真に受けないことを真に受けるくらいの素直さはあってもよい気がします。真に受けないことイコール否定するではないですからね。理解するための一歩として真に受けないことは欠かせないと思います。本当にそうなのかな?と疑問することを覚えましょう。この「いくひ誌。」にはたくさんのいくひしさんが登場しますが、いずれのいくひしさんも、「本当にそうなのかな?」と疑問しているところでは共通しているような気がします。一人の人間につき一つの考え方、なんて制限はありません。一面的な姿を見てそのひとのすべてだと理解した気になるのも、もったいない話です。きょうのいくひしさんはいつになく知った口を叩きますね。偉そうなことを言いたい気分だったのかもしれません。人間ってそういうところがありますよね。


1857:【読書ってむつかしい】
たくさん本を読むと文章力がつく、というのは傾向としてたしかにあると思われる。いっぽうで、本をたくさん読んだ者ほど文章力が高いわけではない点には留意しておいて損はないだろう。もし本を読んだ数の多さで文章力の高さが決まるのならば、のきなみ編集者は小説家よりも小説が上手だということになってしまう。読書についてすこし考えてみよう。本は何を読むかよりも、どのように読むかのほうがたいせつだ。高尚な本ほど良質な糧となり、そうでないものは読むまでもない、というわけではない。そんなことを言ってしまったら絵本を読む価値はなくなってしまう。むろんそんなはずはない。絵本だろうと漫画だろうと小学生の日記からでも得るものはあり、得られないときは何を読んでも得られない。それが読書の基本的な性質であるだろう。繰りかえしになるが、どのように読むかによって、本から得られる体験や知見には差異が生じる。言ってしまえば、何冊読むかよりも、読んだ本から何を考え、それを日々の生活にどのように活かしたか、のほうがよほど重要だ。読書の醍醐味のほんとんどすべてが、そこに収斂されると言っても過言ではない。日々の生活に何も活かせなかったとしても、日々の生活からでは得られない知見を得られたと実感できたならば、それで充分である。実感も一つの体験だ。知らないことを知った、という体験は、日々の生活において、どんな些細なことからでも学ぶチカラを育んでくれる。知らないことが書かれていた、と気づけるくらいに考えながら本を読み進めないことには、そうした体験は得られない。ただ文字を目でなぞるだけならコピー機のほうがよほど得意だ。何冊コピーしたかで読書の価値を測ることはできない。ふしぎなことに、読書を重ねていくと、あるときから、日々の生活そのものが読書のようなものだと感じられるようになってくる。文脈は脈絡となって、因果の筋を結びつける。事象と事象は見えない糸で結ばれており、そうした糸は表層からは窺い知れないようになっている。しかし、読み解くことはできるようだ。正しく読み解けることは極めて稀だが、こじつけでも、推し測ることはできる。本は読者の数だけ世界を展開するが、それら無数の世界は、同時に、ある枠組みに限定され、収斂する。ある者は気づくが、ある者は気づかなかった文脈の背景が、世界と世界の差異として顕現し、あなたの読書の価値を規定する。この世界には、読むための何かがあちらこちらに悠然と漂っている。そして読もうと目を凝らすたびに、それら何かはあなたの目のまえに扉となって現れる。世界を読み解こうと意識することと読書のあいだに大きな差異はない。あなたが向き合うからこそ生じる新しい世界への扉は、あなたが物語を読み解こうと文章に触れるたびに、自ずとあなたの目のまえに現れる。よりたくさんの扉を開けた者だけが、つぎなる扉を創りだすことができる。それはけっして、本を読んだ数の多さによって規定されるわけではない。扉を開けることができるのは、読み解く意思を持ち、世界と向き合おうとした者だけだ。世界と向き合おうとした者だけが、新しい扉を創りだすことができる。読書とは、世界と向き合うことだ。そして、つぎなる扉の創造であり、世界と世界の拡張である。扉を開けることなく、閉じた本に、「読書」の言葉は似合わない。本に目を通すだけなら簡単だ。しかし、読書はかくもむつかしい。


1858:【有利と無理と不利、どれも百合で韻が踏める】
1月27日のきょうは22500文字の短編をつくりました。女のひとしかでてこないので、ジャンルは百合になる気もするし、ならない気もします。主人公とヒロインの感情の揺らぎに焦点をあてていないので、百合としては弱いつくりとなっています。ヒロインそっちのけで物語が進むのはジャンルによっては致命的な瑕疵となりますから、悩みながらつくりました(おいしければなんでもよいといくひしさんは思っておりますが、世の読者の方々の大半は、ハンバーグが食べたいときにカレーがでてくると、なんだぁ、とがっくりくるようです)。また、口数のすくないキャラをヒロインや主人公にする場合でも同様に、作り手としては、むつかしいな、と感じています。自作のキャラクターがどれも似たり寄ったりなのもどうにかしたいな、と考えています。新しい人格をつくることを最優先課題として掲げています。人格とは、他者との関わりあいによって生じる波形の乱れである、と思いつきですが、そのような傾向にあるといくひしさんは思います。あと今回つくってみて改めて思ったのは、小説は飽くまで主人公の周りの人間関係を描くことで、間接的に主人公の内面を浮き彫りにする手法に特化した媒体だ、ということです。主人公はじぶんのことをなるべくしゃべらないほうが、いくひし好みになるなぁ、と思いました。なかなか自作に反映できないので、余計に憧れるのかもしれません。他者は自己を映す鏡、を地で貫くのが小説という技法なのかもしれません。とはいえ、自己を客観視し、じぶんを他者として扱う小説にもおもしろい作品はありますから、いちがいにどれが正解だとは言えないのですが。一つずつ試していくしかありません。そう言えばことしの方針として百合とSFを極力つくらないようにしようとこの「いくひ誌。」でも並べたような、並べなかったような気がしますが、さっそく破ってしまいました。その方針の影響で、百合とも山のものともつかない物語になってしまったのかもしれません。それがよいかわるいかはあとになってからでしか判らないことではありますが、いずれにせよどんな方針を立てるのかは、その後の行動にすくなくない影響を与えるようです。あなどらず、投げやりにならず、真剣に、遊びながら、一つ一つ目のまえのことに集中しつつ、脳みその奥のほうではじぶんから遠く離れた世界に目を向けていたいものですね。欲張りですか? 欲張りでした。本日のいくひしまんでした。


1859:【事実の羅列は卑下ではない】
小説における上手い下手がよく分からない。ただ、好きな文体は確実にあって、流し読みしてもなんとなく話の流れを追えるくらいに文字の一つ一つを、その物語に最適な配置で、旋律と律動を奏でながらつむいでいる小説は、本当に好きだなぁ、となる。そこにきて、ではじぶんの小説がどうなのか、となると、読みなおすたびに、あーもう見たくなーい、となる。なんだこのデコボコは!?ってなる。かなしい。自虐ってよくないよってよく聞く箴言だから反抗して自虐してみたけど、事実を並べるのは卑下だとは思わないから、自作を読むと毎回毎回、うがーとなります、と明かしてみた。満足したことなんて一度もない。楽しくなんてない。過去を振り返ったときに、あのときは楽しかったかもな、と錯覚するだけで、なんでこんな無駄なことしてるんじゃろ、って小説をつくってないときは、つくってるときのじぶんが分からなくなる。でもなんとなく、やっぱり物語がつくりたくなる。頭のなかに自動的に浮かぶ「あれ」や「これ」を掴みどころのないままにせず、じぶんの五感で再認識できるように出力したい。追体験したい。確認したい。そこにあるのに触れられないもどかしさがあり、じぶんだけに見えていて、気になって仕方ないのに、誰にもそれを教えることも、知ってもらうこともできない違和感がある。それを悔しさと言っても、大きな差はない。ことしで小説をつくりはじめて十周年のいくひしさんだが、果たして初期のころより上手になっているのか。じぶん以外のひとに「あれ」や「これ」を差しだして、ああそれね、と言ってもらえるくらいに、頭のなかの「あれ」や「それ」を、よりらしいままで出力できているだろうか。何もかもが分からないまま、暗中模索を貫き、突き抜け、ここまできてしまった。費やした時間に見合ったナニカを積み重ねてこられただろうか。小説と出会っていなかったころのいくひしに、いくひしの小説を差しだし、おのずから読み進めてくれるだろうか。不安しかない。ただ、それが嘆かわしいことだとは思っていない。嫌だとも思わない。完璧からはほど遠く、理想ははるかかなたに、ちいさく光を灯している。残りの人生をそそいだところで、その光に追いつくことはできそうにない。とはいえ、死ぬまでには、せめて距離だけでも縮めたいものである。すこしでも。一歩でも多く。しかし問題は、歩を進めるごとに理想が姿を変え、その光をよりつよく、より遠くから放つようになることだ。果たしてひとは、加速度的に遠のいていく理想に迫ることができるものだろうか。追いつづけるかぎり不可能であるように思われてならない。ひるがえっては、理想に追いつく最善の策とは、理想を追い求めるのをやめることかもしれない。もっとも歩を止めたところで、掴みとれる保証はどこにもなく、理想は消えてなくなるだけなのかもしれないが。(そもそもを言えば、上手い下手は、背が高い低い、と同じ相対的な評価だ。視点がどこにあり、どこを向いているのかで、上手も下手になる。極論、上を向いている者にとって最下層とはじぶんのいる地点であろう。どれほど高みにのぼっても、真に頂点に立たぬかぎり、最下層から抜けだすことは適わない。ただし、下を向けば、いつでもじぶんが頂点だ。上手下手と考えること自体が不毛なのかもしれない)


1860:【うれしい】
じぶんの作品が評価されるよりも、いくひしが好きなひとや作品が評価されるほうが何十倍もうれしい。よいものがちゃんと評価される。うれしい。好きなものがほかのひとから見ても尊いものに映る。孤独じゃないんだ、と感じられる数少ないひととき。孤独じゃないのもわるくないと思える、ステキ。


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参照:いくひ誌。【1171~1180】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885324162

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