手紙、あるいは記号の羅列に込められた情動

@isako

手紙、あるいは記号の羅列に込められた情動

 三垣みがきさんから手紙が届いた。それは真っ白な角封筒に入れられて、僕の部屋の文机ふづくえの上に置いてあった。彼女は本の読みすぎか、普段の会話から文語的な表現と敬語を多用していたので、その手紙はまるで彼女自身がその場にいて言葉を紡ぎながら話しているような錯覚さえ味あわせるものだった。

 手紙の内容は要約して「会いたい」の一語であり、その可愛らしい桜のイラストでデザインされた便箋びんせん十枚にぎっしりと詰め込まれた文字の羅列は、彼女の僕に対する愛をなんとか言葉のかたちに象らせたものだということがわかる。彼女の手紙の中に記されたものはすべて、彼女自身の言葉も、源氏物語からの引用も、フロイト流の深層心理解析を彼女自身の恋心に差し向けたクレイジーな試みも、すべてが僕への愛に収斂しゅうれんするようになっていた。

 文学作品としての様相さえ見せているその便箋を一度流して読んで、今度はインスタント・コーヒーを飲みながらじっくりと目を通した。そのあと寝て、朝起きて顔を洗ってから三度目の読みに入って、それを終わらせた時のは午前十時を少し回ったころだった。事実上、一限の講義を放棄したことになる。仕方ないことだった。ただでさえ本を読むのが遅い僕にとって、便箋十枚というのは朝にさっと読むものとしてはヘヴィに過ぎる。


 結果から言って、僕も彼女に会いたいと思った。でもどうして会えることができるだろう。彼女は三年前に、すなわち僕らが高校二年生だったあの秋に、事故で死んでしまったというのに。


 当時僕たちは日本の2010年代という奇妙な時代の、イノセントな、あるいはイノセントであろうとしている子供たちだった。彼女も僕も「関わりをもたない」ことに強く関心を寄せていた。そういう人間は僕たちの周りには少なかった。きっといたことにはいたはずなんだろうけども、結局僕たちの観測にはとどまらないものだった。僕たちはたまたま互いを知り合って、傷を舐めあう醜い獣のような関係に陥った。自分がどうしてそんなことになったのかさえわからない、さかしく愚かな子供たちは身を寄せ合った。今からすれば、とてもロマンティックだとは思えない。ただ少なくとも当時の僕は、その関係がいいものだと考えていた。特別な感じがしたし、なんといっても彼女は僕の好みの外見をしていた。

 僕たちは自分の中の矛盾に目をつむって、二人で時間を過ごした。人間を排して生きていても、やはり僕たちはつながりを必要としていた。そのことを認めたくない僕たちには、互いの欺瞞ぎまんから目を逸らしてくれる人間が必要だった。自分がどこに立っているのか、何を見て、何を話しているのかさえ分かっていない子供たちが二人で寄り添ったとき、それが奇妙な関係として拘束されるのは、珍しいことではないと思う。あの関係がどういう意味であのとき僕たちを救ったのか、あるいは暗いところに押しやっていたのか、本当のところは今になっても分からない。

 僕らの関係は高校一年生の冬に始まり、次の年の秋に終わった。それは彼女の死をもって終了した。その日僕らはいつものように放課後を共有された時間として過ごして、そして来るべき時に別れの挨拶をした。「また明日」そう言って、僕らはそれぞれ別の方向にある家路を歩みだした。僕が家に着いた頃、彼女は自分の家の目の前で軽自動車に腰骨の全体と背骨の一部を打ち砕かれ、また子宮を含めたいくつかの内臓を破裂させた。搬送先の病院で彼女の死亡は確認された。

 翌日の朝になって、僕はそれを担任教師から聞かされた。通夜には担任教師とクラスの女子生徒が数名、参列したらしい。僕はとても行けなかった。誰かが僕に行けと言ったけども、僕は行けなかった。とにかくそれは不可能なことだった。

 それからの一年間たっぷりを、僕は彼女の死に慣れるのに使い果たした。あのときの僕にとってなにか有効なものがあったとしたら、それは長い時間しかなかった。長い時間同じ場所を歩き続けた。薄暗い部屋で同じ思考を繰り返して、ようやくなんとか戻ってくることができた。でもそれは、彼女が死んでしまう前と同じ場所に戻ってきたというわけではない。その場所は完全に失われてしまっている。もうどのようにしても取り返しつかない場所なのだ。あるいはどこかに似たようなところがあるのかもしれないけど、彼女がいた場所はもうない。三垣遥みがきはるかが僕に与えてくれた時間と空気は更新をやめて、死の世界で停止している。

 僕は新しい僕になって生きるしかなかった。外から見たとき、相変わらず僕は陰鬱いんうつ薄弱はくじゃくな、気味の悪い子供でしかなかったのだろうけど、僕は変わらざるを得なかった。僕は彼女がいない世界に生きることを自身に要請した。今に至るまで、やはり全然うまくやれてはいないし不作法で全く洗練されていないくたびれたやり方でしか物事を進められないわけだけど、僕は生きている。生きることを選び続けられている。それは軌道を確保し始めていた。僕はあの日からひどく損なって、あるいは失いかけていたそれを、生きることに対してそれに恒常的であろうと志向するだけ精神を、今では少しずつ自分の中で保つことができていた。


 だからこそ今度の手紙は致命的ちめいてきだった。死者は僕を呼んでいた。

 彼女は、生前には一度も使わなかった、性欲の美化表現だと斬り捨てて嫌悪さえしていたあの心のプロセスについて、ふんだんな語彙ごいと、豊かに湧き出す地下水のような教養を以てごく主観的にそれを語っていた。あれだけの量の文章を僕に三度も読ませるのだから彼女の文章が相当のものだというのは間違いない。僕は彼女と共に彼女の愛に触れ、それを細やかに眺め、醜いところと美しいところの両方を確認した。

 このラヴレターを読んでいると、当然僕自身の過去の感情についても思い出されるものがある。正直に言って、僕は高校生の頃に彼女に恋愛感情を抱いていた。十五歳の孤独な少年が、ああいうかたちで女の子に出会って、その子に恋をしないわけがない。僕はその気持ちを吐き出すことは一切なかったし、素振りさえも見せないつもりで過ごした。彼女もやはり、僕に対して友だち以上のものを見せることしなかった。僕は彼女のことが好きだったけど、その気持ちは言葉にしても行く先のないものだった。当時の僕たちにとって、恋愛は空想の辻褄つじつま合わせみたいなものでしかなかった。運命のひと、みたいなものは絶対どこにもいない。世の中で恋愛に浸っているのは、目を覆い隠された哀れな人々でしかないとまで考えていた。あるいは性欲の美化表現だと。

 彼女はそれに気付いていた。今度の手紙のなかで、彼女はそう記していた。彼女自身、当時は僕のそうした心情に気付いてからは、どう振舞うべきが迷ったのだという。彼女は、僕に対して明らかな恋の感情を抱いていたわけではなかったが、それでも、実のところ悪い気はしなかったのだと教えてくれた。怖いとは思ったし、不思議にも思ったけれど、それでも少し楽しい気分にはなった、と。「やはり私たちの間をして通貨のように交わされていたあのいくつかの観念を覆すわけにはいきませんでした。それを、冗談のかたちだとしても、暴露したりあるいは暗黙のうちに示すことをすれば、おそらく伊藤くんはもう、私を友だちとして見てくれなかっただろうし、私も友だちにそんなひどいことをする気はとてもならなかったのです。どこか人々に忘れ去られた静かな場所にそっと置かれた何かのしるしのようにして、私たちのこころの深いところで、私たちを温めてくれるものであるほうがいいと思ったのです。」彼女はそう書いていた。このことを当時の僕が聞いたとしたら、どれだけ救われただろうかと思うと、苦い笑いしか浮かばない。当然のように、僕はあのころ、三垣さんに嫌われたり、飽きられたりすることをひどく恐れていたからだ。


 手紙にはあの頃の彼女の心情、とくに僕には語られなかったいくつかのことも記されていた。それらは、まったく僕にも覚えのないものもあったし、あるいは、僕が長らく彼女に関して不思議に、謎であるとまで思っていたような隠蔽された事実についての答え合わせになるものもあった。手紙は確かに、長らくやりとりを交わしていなかった大切な友人から届いた愉快な手紙としての意味もあった。僕はそれを読んで、ときには笑い、ときには沈黙した。

 だがそれでも、僕はこの手紙を致命的なものだと考えた。それはもちろん僕にとって致命的だという意味になる。なんてったってあの三垣さんが、僕への愛を告白して(それをこんな長大な叙情詩じょじょうしにするなんてどれだけいじらしいことだろう)そして僕を呼んでいる。彼女は僕を呼んでいた。あなたと一緒にいたい、そう言っている。彼女は全部分かっている。分かったうえで言っている。自分がいまどこにいて、どうあるのか。それを知った上で自分を選んでほしいと言っている。

 こんなに、こんなにもすさまじいことが起きるだなんて。僕は彼女と僕の関係は、あの悲惨な事故で終りだと思っていた。あとは優しくも哀れなあれらの時間が、ただ思い出として僕のなかでときおり顔を覗かせるくらいだろう、そのようにしか思っていなかった。終わっていたと思っていたのは僕だけだった。僕が勝手に、それらを過去に押しやっただけだった。彼女は戻ってきたのだ。そして最後の願い、あるいは祈りを込めてこの手紙を書いた。彼女の中で立ちのぼった想いが、どのような時間のなかで生まれたものなのか、僕には想像もつかない。彼女もそれは書かなかった。きっと彼女自身にもそれは分からないのだろう。

 あの時のように、あの子供の頃のように僕たちはもう一度身を寄せ合うべきなのだろうか。彼女が僕を必要としていて、そして僕が彼女を必要としていたあの時代に、僕たちは戻るべきなのだろうか。僕は彼女に応えてあげるべきなのだろうか。誰かが、否、僕たちが決めたそのルールに従って、僕は彼女を拒否すべきなのだろうか。

 僕は考えた。考えすぎるほどに考えて、それでも、どうすべきなのかはやはり分からなかった。


 僕は一晩をまるきり使い、返事の手紙を書いた。彼女のものに負けないくらい長い手紙になった。なんてったって僕たちの間には、もう三年間もの断絶があったのだから、彼女に知らせたいことがたくさんあるのは当然だった。彼女と同じように、白い角封筒にそれを入れて封をした。そのあと、僕は眠った。疲れていたようだった。夢も見ないほどに、深く眠った。起きたのはその日の夕暮れで、部屋はくらあかね色に染まっていた。ふと気付くと、書き終えたはずの手紙が消えていた。いくら探しても、もうそれは見つからなかった。同じように、彼女からの手紙もどこかに失せていた。それら二つの手紙は、もう曖昧にしか内容を思い出せないくらいに、長い手紙だった。      


〈終〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

手紙、あるいは記号の羅列に込められた情動 @isako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ