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いくひ誌。【531~540】

※日々のゆらぎを断絶し、できた亀裂で夢をみる。


531:【孤独同盟】
信者も読者も支援者もいらない。同志だけがほしい。仲間ではない。誰よりさきにおまえをつぶす。そういう殺意をそそぎつづけられる存在がほしい。ライバルとのちがいは、互いに目指すべきものがちがうことだ。我々は同志だ。慣れあえはしない。慣れることはない。ゆえに終わりは訪れない。


532:【失笑】
いらないとか、だけがほしいとか、選べるほどあなたに選択肢があるのかって話。笑っちゃうよね、まずは手に入れてみせなって。最低でも読者と理解者はいなきゃだよ。できるの?


533:【使いどころがない名言】
「許そう。ただし死んでくれ」


534:【使いどころしかない名言】
「許さん。ただし生きてくれ」


535:【ヘタ】
いまやってることのすべてはヘタさをヤスリでごしごし擦る作業なんだよなぁ。もっとマシなものを磨きたい。


536:【結果】
結果がすべてだとは思う。他方で、いつ、どの時点での結果なのかは大いに留意すべき点だ。いつだって成功していたいが、しかし失敗を経なければ実らない成果もある。だいじなのは失敗をすることでも、常に成功することでもない。失敗をコントロールすることだ。


537:【はきちがい】
じぶんの生みだした成果物を誇りに思うのはいい。世の中には誇れるものがそれくらいしかないと言ってもいい。ひいては、じぶんが行っている何かの属性を誇りに思うのは筋違いに感じる。どこか歪んで映る。たとえば小説だ。じぶんがつむぎだした小説を誇りに思うのはいい。しかし、小説をつむいでいる行為を誇ってしまっては何かがズレて感じられる。これはあらゆる仕事に当てはまる法則だと思う。何をしているかではない。何を生みだすのかだ。しかし、成果が目に映る範囲、感じられる範囲にないところで実ることもある。たとえば教育がいい例だ。教育の影響は、その場にかぎらず、その後、教育を施された者の人生がついえるまで連綿と引き継がれていく。成果となるか失敗になるか、それを測るのは困難だ。もっとも、基本的に教育とはじぶんで生みだすものではない。ゆえに、それを誇りに思うのは本質的におかしいのかもしれない。誇りを必要とせずともやりつづけられる。先生と呼ばれる仕事の多くは、そこのところに欠かせない核のようなものを感じる。ただし、小説家と詐欺師は除く。


538:【うーん】
客観的にじぶんのことを見れてますよ、理解できてますよ、というスタンスをとりつつルサンチマンからの何かを批判しようとするとどうにもこうにもおまぬけな文章になる。おまぬけだと自覚できてるときはそれなりにおもしろくなるが、そうでないとただのおまぬけな文章だ。ところでこれはおまぬけな文章ですか、おまは足りてますか? 抜けてませんか?


539:【饒舌】
饒舌で何事にも臆さない、そういうそぶりをみせているとき、いくひしの内面はズタボロなの。雑巾を万力で百回しぼったあとで、さらに百回しぼったくらいのズタボロ具合、さいわいなのはいくらズタボロになってもなくならないこと。ちぎれた切れ端が散らばって、細かく内面を汚していく。いっそなくなってしまえばいい。思えば思うほど饒舌で何事にも臆さない捨て身のこころがにゅるりと顔を覗かせる。


540:【いくひし】
いくひしは誰でもないしどこにでもいる、あなたでもあるし、あなたではない。ふとした瞬間にさびしくなるとき、くるしくなるとき、何ともなく誰かを傷つけたくなるとき、或いは傷つけたかったのだと気づいたとき、手遅れかもしれないし、間に合うかもしれない、葛藤の狭間にはいつもいくひしがおり、いくひしをいくひしと認識したとき、すでにそこにいくひしはいない。そういう存在、それは善ではない。深淵を覗く者の背を押し、深淵へと引きずりこませようとする魔の手に似ている、同時にそれを認知したとき、あなたのもとにいくひしはいない。そういう存在、それは悪ではない。否、善であり、かつ悪でもある。それは、そういう曖昧なもの、名を、いくひし。

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