※日々は量産されし時間の反復であり、日常は定型されし時間の軌跡である、なるべくつつましく岩のうえで、無限の組み合わせに思いを馳せよう、それを日々と呼べるまでには無限に時間の経過がいる。
541:【圧縮】
かつてのいくひしなら四万字は費やしただろう短編を二万字でつくろうとしているのだが、思った以上に難航している、分量で言ったら二日でつくれるはずが、うまくいかにゃい。ダメで元々と割り切ってまずは結ぼう。
542:【朝陽と夕陽の差異の境に】
Rilla Force - Swank
543:【人権】
犯罪者にだって人権はある。しかし、罪を犯していない人々でも人権を蔑ろにされているとしか思えない扱いや境遇におかれている者はすくなくない。そういった人々への人権を尊重できないままで、なぜ犯罪者の人権を尊重しなければならないのか。さいきん、このロジックで一見すると罪があるように映る人々がいっせいに集中業火で焼かれる現象が目につく。SNSを利用した集団糾弾などもその類型だ。まず忘れてはならないのは、この国では基本的人権の尊重を保障すると憲法に明記されている点だ。例外があってはならないのに、保障されていないと見做すほかない人々がいる、まず以ってそこが大きな間違いであり、問題である。第二に、その人物に付与される属性にかぎらず、人権は保障されなくてはならない。あいつが保障されて、なぜ私が保障されないのか、だったらあいつも私と同じ目に遭うべきだ。これは一見正当性があるように映ることもあるが、まず考えるべきは、彼らがそうなのだから私もそうあるべきだ、である。裁判では基本的にこの考え方が適用される。類例の判決がある、よってこの裁判もそれ以上の賠償は不当である、といったロジックだ。人間はじぶんだけ損害を被ることを潔しとしない生き物である。じぶんより相手のほうが得をする、そうしたとき、じぶんも損をするが相手はもっと損をする道を選びがちである。しかし重要なのは、トータルで社会の利益が増える行動選択をひとりひとりが意識することだ。それをぜったいの指標にする必要はない。ときにはじぶんの利益を優先することも必要だろう、そうでなければ自己を保存できないからだ。しかし、そうしたときであっても、じぶんはじぶんの利益を優先したのだとする認識は持っておいたほうが、より多くの者たちにとって好ましい。そうした自覚は、社会をよりよい方向に動かす原動力になる。私はなぜこれを書いているのか。まったく躊躇することなく自利を追求し、なんらしっぺ返しを受けずに恩恵をうけつづける成功者の足を引っ張りたいからである。
544:【あ】
「あ」を表現するならば「あ」と書けばいい。わざわざ「しゃくとり虫が腹這いになったときのように一画目はよこに短く線を置き、さらにしゃくとり虫の頭を切断するがごとく軌道にてゆるやかな涙の軌跡を描くとともに、しゃくとり虫が糞を落とした具合に三画目は何もない空間から二画目の涙の消失する境界を目がけて一気に駆け抜ける、急旋回――とんぼ返りをし、一画目に触れぬように三画目の始点を経由し、みたび涙の消失現場へと回帰すると見せかけて、尻すぼみに筆を擱く。この一連の流れによって生じる三つの線の複合体を『あ』と呼ぶ」なんて長ったらしく書かんでもよろしい。しかし書いてもよろしいのが文芸の懐のふかいところである。
545:【うわーん】
わし、へた! 生きるのが!
546:【はぁ~?】
生きるの「も」だろ、調子ノんな。
547:【認める】
じぶんを信じるのと同じくらい、じぶんは間違っているのだと認めることは重要だ。間違っている、しかしつづけなくてはならない。なぜならぼくがやらなければこの道のさきがどこに繋がっているのか、誰にも分からないままだからだ。
548:【知層】
人間の知能の差異はこれからますます大きくなっていく。経済格差より大きな問題だ。知能格差と経済格差はしかし、ニワトリとタマゴの関係であり、双方が双方の格差をひろげる要因になっている。問題なのは、知能や経済の格差がひろがると、貧富のあいだで文化的隔たりができる点だ。そこには知能の層だけ社会があり、知能の層だけ文化がある。常識はその文化圏にて通用する共有概念であり、ひとたびそとに出れば、それは理不尽な押しつけや不合理な行いに見られるようになる。格差が大きくなればなるほどこの隔たりは、けっして混じりあうことのできない境界線として根強く形成されていく。人種間のちがいよりもこれからさきの社会では、知能格差が人と人との関わりを根本から阻害する。極論、オオカミに育てられた少女はある年齢を越えてしまうともうにどと人間として生活できなくなる。あべこべに、高度に複雑化し、収斂し、超越した知能は、他人と小石を見分ける動機付けを行えなくなる。神にとって人間と雑草にちがいを求めるのは困難だ。或いは、すべては異なっているという点で同一だと呼べてしまう。同様の認識不協和が、知能の格差にも当てはまる。いっぽうから見れば相手は獣であり、もういっぽうから見れば相手は宇宙人である。解り合えと言うほうが土台無理な話だ。しかし、その土台を我々は崩していかねばならない。オオカミ少女とて人間に育てられれば人間として成長できた、宇宙人とてオオカミに育てられれば人間にすらなれなかった。人間は、たった一人では人間にはなれない。或いは、環境というたったひとつのちがいにより、人間はオオカミにも宇宙人にもなり得る。我々は産まれたときから人間ではない。人間の枠組みは常に補強され、瓦解され、その外郭を変化させつづけている。我々はいま、人間か。問うべきはしかし、そうではない。我々は、人間にならねばならないのか? 答えは、なりたいと思える人間像を我々が我々の手でつくりだしていかねばならない、である。いまこの世界に、人間はまだひとりたりとも誕生してはいない。
549:【ちかい】
バブルが弾ける日はちかい。感覚としては三年以内、はやければ半年以内にその兆候が見てとれるようになる。SNSを通じた承認欲求の充足は、ソシャゲの課金と似た構造を伴っている。熱が冷めたとき、そこに残るのは記憶でも成果でもない。履歴である(SNSへのネタ集めに走った時点で、そこから得られる体験や視野はしぜんと乏しくなってしまう。なにかを創造している者はまだマシだが、その行動原理がSNSでの評価集めになってしまうと、これもまた創作としての何かが乏しくなる。また、つぎつぎと埋もれていく過去の栄光ほどむなしいものは世に珍しい。そのむなしさに耐えられる者はみなが思うよりずっとすくない)。人は過去に学ぶ生き物だ。うえの世代の失態ほどすなおに受けとめる傾向にある。モノよりコトの時代と呼ばれて久しいが、これよりさき、コトより実りの時代に突入する。それは他人の評価とは関係のない、人生の実りである。
550:【誓い】
したいようにしてほしい、モノみたいにしてほしい、手入れはじぶんでできるから、あなたの手をわずらわせたりはしないから、傷ついてもかってに治るし、残った傷跡はなんだかすこし紋様みたい、見せびらかして歩きたい、あなただけのものだって、いっぱいつけて、あなたの手元にあった証を。いらなくなってもそばに置いて、もしかしたら何かの役にはたつかもしれない、あなたが死にたくなったとき、ぼくが代わりに死んでもいいし、あなたの代わりにたくさん掃除をしてもいい、見捨てないで、見捨てないで、捨てるならいっそ、ちいさくちいさく刻んでほしい、見えないくらいにちいさくなって、あなたの穴から吸いこまれたい、あなたの周りに浮遊したい。したいようにしてほしい、モノみたいにしてほしい。でもいちばんは、あなたの一部になっていたい、爪に、髪に、分泌液に、汚物だけはでもやめてほしい、あれはいらないものの象徴だから。残らずぜんぶたいらげる、役にたつでしょ、捨てないで。