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「好きなものを作っていいよ」ということ。


 これは重い言葉だ。類するものを安易に使わぬ方が良い。
 安易に使う者がいたら、むしろ疑って良い。

「好きなものを作っていい」というのは、今日は好きなものを頼みなよ。ここは私が奢るから。と同じ意味合いだと思っている。

 要は「私が責任を取って君を守るから、この間は自由にしなさい」ということだ。誰かが責任を肩代わりしてくれるなら、確かに「好きなもの」を作ることができるだろう。

 ただし中には「好きにやったんだから責任は自分で取れよ。こちらは一切面倒を見ないぞ」という赴きの場合が度々あったりする。

 このニュアンスの差が最近よく問題になっていると感じる。どちらの意味合いが正しいのか、相互理解が行われていれば良い。だが実際は「好きなものを作っていいよ」と言っておけば、クリエイティブな活動をしてる者は無条件に喜び、自然と良いものが産みだされ、多様性は維持される。などと純粋に思っている人間は意外と多い。

 他人の才能に期待するのは勝手だけど、何も考えず「好きなものを作っていいよ」とだけ発言し、いざ自分の思い通りにいかないことが起きれば、作品に口をだし、ひいては本人にまで「無責任な奴だ」と文句を言ったりもする。

 依頼側も悪いが、言葉を譜面そのまま受け取り、安易に了解してしまった側にも責任はある。ただ、こういう場合は往々にして、仕事を受けた側が弱い立場にあることが多く、ひっそりと、人知れず壊れてしまうケースが非常に多い。

 クリエイティブな人間というのは『光』であり、束縛されない自由な創作というのも同様に『無限の可能性』をもつ――と大抵のメディアはそのように発信するが、反して上述したような内容は基本的に出てこない。
 これらの『闇』は、今後も社会問題として取り上げられることはないだろう。何故ならば「普通の仕事をしていれば良かった」で片がつくからだ。

 「好きなものを作っていい」は、もはや【劇毒】になりつつある。普通に生きられた人たちが、普通に惑い、責任を持ったような錯覚に陥り、壊れる。発信媒体が無料で拡散される様になった現代において、壊れるクリエイターは、今後も増え続けるだろう。しかもそれらは、けっして表にでることはない。

 愚においては毒となり、智においては薬となる。わたしは幸いにも、自らの言葉が【劇毒】であると理解した上で「好きなものを作れ」と口にする大人の下にいる。実践を兼ねた勉強をしている。

 時間は有限ではなく、自らの意志が、時間を有限にする。
 良い人たちの下で、限られた内に完成されたものを作りあげる。

 それが、わたしの「好きなものづくり」である。


 2017/07/12

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