お仕事の休憩時間に、推敲せず、ざかざかざか。
HRナビの「九里さん」のインタビューを読みました。ソード・アート・オンラインで有名な「川原礫」先生ですが、まだ個人HPがネット小説の全盛期だったころ、SAOのテキストを、リアルタイムでわくわくしながら読んでいました。
今でも「九里さんってすごいなー」と思うことの一つに、未来を予測する力が強すぎるというか、自分が知識や経験として知っていて、なおかつ好きなジャンルの媒体が、10年後、20年後にどうなっているのか。その予想が現代において、割とニアピンでブッ刺さっている事にあります。
まずSAOの世界『アインクラッド』は、ナーヴギアと呼ばれるハードウェア、頭にすっぽり被るヘルメットの様な装置を用いてログインします。
特殊な電磁波をだして、脳が「視覚情報」として取得する情報に、ダイレクトでゲーム映像を上書きして、さも現実であるような体験を……というのは、実にイメージしやすいですし、そこからデスゲームが発生し、1万人以上が死んだ大事件となった世界を、10代のリアル高校生がクリアして英雄になる。というのも、大勢の人々が望む要素であり、魅力的に映る要因でしょう。
わたしもその一人でした。ただ、それ以上に当時から印象に残ったのが、九里さんが想定する「SAO」の世界観です。
すなわちVRMMOが本格化する以前、世間ではなにが起きていたか。SAOの前歴には、日本のゲームセンター、アミューズメントパークで、VR対戦ゲームが先に流行として訪れていた。という内容の一節が、舞台背景の序章に組み込まれているんですね。
ですからSAOの世界、わたし達の現実から限りなく近い未来の日本で、高校生のキリト君が生きている社会では、ゲームセンターに対戦型VRゲームが稼働されるのが先なのです。
筐体はとても大きくて、プレイ料金は一回500円。ものすごい割高だけど、コアな大人のオタク共が遊ぶことでサービスが維持されているのを、普通の高校生のキリト君は「大人はいいなー」とか指くわえて見てるわけです。萌えるな。
ただもちろん、世界中のゲーマーが本当に望んているのは、家庭でできるRPGゲームでした。もっと言えば、現実とはべつの世界があって、目標となるストーリーがあり、プレイヤーの一人となって自由に冒険できる。そんなありふれた王道ゲームでした。
しかしそれが実現する
次世代機が発売するのは、まだまだ先だろう。
世間がそう思っていたところ、翌年にあっさり実現して、先行αテストを開いたのが、一人の天才科学者オタク、茅場晶彦です。
彼のストライクゾーンは、仕事と研究に人生を捧げ、行き遅れかけた妙齢の女性です。こういう女性を虜にする男は悪い奴に違いないので、注意が必要でしょう。それはともかく。
わたしが「SAO」を好む理由は、ストーリーやキャラクターもそうなのですが、なによりこの『地続きの設定』が大好きなんです。
SAOを実現した世界、および人間や社会背景の一部には、未来の予想とはいえ、オタクを取り巻くエンタメ情勢の描写に、繊細なディティールがあり、各種要素にも説得力が存在します。
そして今になって驚愕するのが、
これの初稿が「2002年」であるということ。
2018年の現在では、VRゲーム機がソニーから発売されていますが、まだ実験段階といえるべき状態で、RPGは存在していません。
東京をはじめとしたテーマパークの一部では、VR筐体が稼働され、試遊可能です。
VRMMOは鋭意開発中で、そのαテストは未定です。しかし世界のどこかで、茅場に近しい人物が現れたら、とつぜんテスター募集が始まる可能性があります。少なくとも、ゼロではない。
そして「SAO」の裏テーマには、ユイちゃんを始めとした「AI」や、そのAIや人間的意識の向こう側にある、システムに依存しない、理解を超越にした〝なにか〟が求められます。
こちらの現実、2018年もAI研究は盛んで、2045年には起こるという特異点の存在が示唆されています。この技術的特異点が彼によって提唱されたのが、2005年なんですね。まだ誰も、そんな事が起きるなんて信じてさえいなかった。
トラックに撥ねられ異世界転生しました。あるいは〝不思議な力〟が作用して転移しました。というファンタジーとは、どこか違う。
うっかり殺人ゲームに参加させられるかもしれない。情弱乙。というリスクはあるものの、普通に人知れずVRの田舎で、AIの娘から「パパママ大好きー!」とか言われながら、もう一生ひきこもりでいいわね。という余生を暮らせる未来図が、べつだん痛い妄想でもなんでもなく実現してしまう可能性がある。
その他、ドラクエやFF、ペルソナといった有名なRPG、当時、各種の少年マンガで流行していたファンタジーのような『理想的な舞台』だけを先に配置されてあるのとも違う。と感じたのです。
より正確に言うなれば、今日から限りなく近い、何十年か後に、実際に〝それ〟が起きる可能性がある。
わたしの中で「SAO」の魅力はそこにあります。好きな理由を詳細にあげだすと、いずれ黒歴史の二次創作がたっぷり詰まった、お年玉で買ったUSBメモリ(2GB9980円)に行き着くので、この辺りで逃走します。
*
改めて「SAO」の未来図SUGEEEを語ります。信者です。
当時、九里さんのHPでの書下ろし。
本編から独立した短編の中に、こういうのがあります。
「町のNPCを囮にして、彼らを犠牲にして、ボスを倒そうぜ」
キリト君の友人には、クラインという、気の良い親友ポジのおっさんがいらっしゃいます。
彼が言うには、この層のボスの攻撃力はそこまでではないが、とにかく硬くてタフ。プレイヤーが町の中へ逃げ込めば、エリア外になって追ってはこれず帰っていくが、ゲームのシステム上、ボスが元の場所へ戻ったと判断されると、HPが全回復してしまう。倒せんという事です。
まともにやれば、ジリ貧で負けます。もしかしたら勝てるかもしれないけど、一度の敗北は現実の死に繋がるため、リスクが高い。それにもしかすると、HPバーが赤くなれば、本気モードになって行動パターンが変わるかもしれない。あるある(製作者・消費者両方の笑み)。
だから、再戦のため、相手の行動パターンを熟知する事を想定した上でのリスク排除も兼ねて『死なないNPC』を、町の内と外を隔てる場所ギリギリに集めよう。そしてボスの攻撃が届く位置に立たせ、自分たちプレイヤーは、回復し様子を見つつ、ボスを倒そうぜ。という旨の提案を行うのです。
当時のわたしは、クラインの意見を、素直に「理に適っている」と思いました。しかしキリト君は言うのです。
「そんなことは、絶対にできない」
「は?」
「なんで?」
今でもあの時、クラインとリンクしたのを覚えています。
「なんでや。キリの字よぉ」
「NPCだって、生きているからだよ」
「……………………は?」
それまで「キリト君信者」だったわたしですが、正直、なんか俺の嫁がおかしなこと言いだしたぞ……と思いました。
「いやいやいや、キリの字よぉ。NPCは生きてないだろ? あいつらは現実のプレイヤーがログインしてないのは当たり前だし、なにより、【HPがゼロになっても、また同じNPCとして生き返る】んだぜ?」
「そんな事はない。いや……【システムとしてはそうなんだけど】。それでも、俺は嫌だ。もしも、NPCが自分の過失で死んでしまったとしたら、それは仕方のないことだと思う事もできるけれど、自分から率先して【NPCを犠牲にしてゲームクリア】したところで、それを俺は認めることはできない」
「……なんだ、そりゃ? お前だって、攻略派の一人だろ? 効率とか、優先順位とかを考えりゃ、NPCを犠牲にこのフロアをクリアすることが、当面一番大事なことだってのは、わかってるはずだろ?」
「それは、確かにそうなんだけどさ。クラインの言ってることはもっともだ。わかる。だけど俺は【NPCを犠牲にクリアする】という方向には反対する」
「――――いいぜ。そこまで言うんだったら、NPCを犠牲にクリアしないで済む方法を考えてみろ。ただし期限をつける。その期限を超えたら、俺の提案する作戦を実行し、お前にも参加してもらう。異論はねぇな?」
「わかった。ありがとう、クライン」
二次創作っぽくなりましたが、あらすじ、概要としてはこうです。その後、キリト君の作戦で、ボスは無事【NPCを犠牲にせず倒す】ことになるわけですが……それは読んでのお楽しみ。
レアな限定版の書下ろしやったしな(どや顔の小声)
レアな限定版の事実はさておき(だいじなことなので)当時は、わたしの感情はそのまま、クラインのものでした。そして今考えてみても、クラインの言ってることは間違ってない。理解できないとは言っても、きちんと期限付きで、彼の意志を尊重したことも含めて、正しい。
さすがは風林火山のギルマスです。
伊達に社会人やってねぇぜ、おっさん。(褒めてます)
そして今なら、キリト君の言ってることも同時に分かるのです。
たとえ現実に肉体が無かろうと、仮想現実でふたたび同じ姿を纏った姿に戻ろうとも、「NPC=AI」を尊重し、彼らの人権や存在証明を行うには、彼らが【犠牲になっても構わない】という発想を、まずは人間側が捨てないといけない、いけなくなる日が来るかもしれない。
これは、ただの精神論のみならず、今おとずれようとしている、現実の文明がこれ以上進歩するために必要な【近未来の新しい道徳観念】であるとも感じます。
責任の所在、今、あなたが人間であることの証明。
どうやって今を生きていくか。母親という肉体の中から産まれた人間と、最先端科学の粋をきっかけに誕生する知能生命体との違いは何か。さらにはそこから派生する〝なにか〟と、さらに区別するにはどうするか。
二種族以上の生命を、どこを、なにを、境としてわけていくのか。
一般的なクライン、当時のわたしの意見を代表格とすれば、利益や効率を単純に優先すれば【同じ形として再生可能であるから、犠牲にできるものは犠牲にして、それ以外を守る】となるでしょう。
ただ、キリト君のいうように。
たとえそれで【ゲームをクリア】しても、本当に【ゲームクリア】以外の称号は発生しない。と、ごく最近になって思ったのです。
君たちはどう生きるか。という本が、ぶあーっと飛ぶように売れていますし、これからは【ゲーム】をした上での【ゲームクリア】以外の称号を得るといった手段が、共通の普遍認識として取り沙汰されてくるかなと。
ちな、2000年における「セカイ系」の再来だから、それ系が売れるという話も耳にしますが、残念ながら当時と違って、承認欲求を認める方法自体は多様化して存在していますから、それは「的外れ」です。
価値観の要は、個とセカイ。ではなく、個×n
nには【より大きな数値】が入ります。
なので茅場明彦の言うように【ゲームスタート】を代償に、4万人以上の命を握った先に〝なにか〟を得る方法もあると思います。
1万人を殺した人間の行き着く先の〝なにか〟と、人間のように振舞うNPCを「殺したくない」と言った先にある〝なにか〟は、べつの未来なのかもしれないし、あるいは重なるかもしれない。
正しい部分と悪い部分、部分的な成功と失敗を折り合わせて、それもまた、歴史になっていくのかもしれない。
最近AI関連のみならず、様々なニュースを見て、そんなことを思います。そしてその度に「囮にしたくない。犠牲にしたくない。NPCだからって、殺したくない」と言った、キリの字の顔が浮かぶわけです。重症か。重症だな。
まとまりがなくなってきたけれど、結局言いたかったことは
九里さんの未来視っぷりが、改めて、ちょっとヤバい。
それにしてもメディアへの露出増えたね。なにか来るかな。