もはや、できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや、できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや、できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや、いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて、心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目、じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある。
倚りかかるとすれば、それは、椅子の背もたれだけ。
……〝椅子の背もたれの感触〟を、私は知らない。
……「誰もが知ってて当たり前」のことを、私は知らない。
そういった事を私は知っているのだと嘯けば、君たちは、私に目を向けてくれるようになりますか?
ーー
ゴーストライターと呼ばれる『人々』がいる。一言で言えば、公には存在しない『代筆家』だ。人気作家や脚本家が本編を書く時間がない時に、名義とアイディアを貸し出して、異なる人物が執筆するというのが、本来の意味合いだった。
存在の是非はさておき、そのゴーストたる者の「影」の度合いはまちまちだった。たとえば読者が知らずとも、出版の仕事に携わる者ならば常識のことであったり、作家と担当を含めた、ごく少数の者にしか知られていない場合もあった。
ゴーストが本物になり変わるケースとして、もっとも考えられるのは、本物が事故や病気で亡くなった場合だ。仮に彼らが人気作家と呼ばれていれば、今後の続刊を期待している読者らのため、作者が病死したことを伏せ、誰かに後を継がせることもままあった。
けれど、SNS等の情報発信、および共有化が進んだ近年になり、事情は変わりはじめた。作者自身が日頃から『生存報告』をする時代、なにかあれば彼らの死を隠匿するのが難しくなってしまったのだ。
作者の死は、公にすることが増えた。とはいえ商業的に売れ筋となっている作品を切りたくはない。故に『別の代筆者が書いてます』ということを告知した上で、作品の続きが出るケースが増えてきた。こうして『ゴーストライター』の存在が、現在は徐々に認知され始めつつあった。
しかし僕の担当する『ゴーストライター』は、さらに些か事情が異なる。近い将来、その言葉の意味合いが、僕の担当する作家を示す赴きなっていくかもしれないと、最近思う。
「三浦さん、こんにちは」
「あぁ。大河原くん、いらっしゃい。原稿できてますよ」
しずかな声音と同時に、安楽椅子が軋む音がする。僕が部屋に訪れた時、彼女はいつもなんらかの椅子に座っていた。
「いつも筆が早くて助かります。先生」
「そんなことありませんよ。私は他の人様と違って、暇を弄んでいる贅沢な身の上ですからね」
僕の担当する現代の人気作家、三浦かなこが振り返る。彼女は老いた女性の「外見」をしており、髪もだいぶ白髪に染まりつつあった。顔には老眼鏡をかけている。黒を基調としたシャツにカーディガン、下はロングスカートだ。椅子から立ち上がり、仮想上の半透明コンソールを言葉一つ発せず呼び起こす。
「大河原くん。原稿データのフォーマットはいつものでいい?」
「かまいません。僕の連絡先に一括で送信しといてください」
「わかったわ」
枯れ木のような細い指、と言ってしまうのが失礼なほどに、その佇まいや立ち姿には気品があった。様々な椅子に倚りかかっている時もそうだが、ただそこにいるだけで、一種のオーラが、人目を惹く存在感が見え隠れする。
それは彼女の描く物語にも如実に現れていた。登場人物と自分たちを同居させたがる人々は、男性は力強さを、女性は愛らしさや妖艶さを求め、自らを変貌させる。それぞれが思い描く魅力に酔いしれるように、彼女の著作を求めた。
そこから広がる想像は果てがなく、この本の作者は、物語の主役のように、過酷ながらも華やかで、激動に満ちあふれた体験を享受してきたに違いないと考える。その通りだ。
三浦かなこは、とある財閥の三姉妹の末っ子だった。姉二人と比べると、両親の期待がさほどでもなかった分、周囲から自由に育てられた。文芸に興味を持ち、社交界に出た自らの体験と独自の感性を混ぜ合わせて、現代に相応しい新しい物語の風を巻き起こし…………
――と、自分の人生を「再現(トレース)」していた。
他の「誰よりも」正確に。なんらかの偶発性を伴って。
彼女は『想像上のゴーストライター』となる事に成功した。
「先生、確かに原稿をいただきました。よろしければこちらで、内容を拝読させて頂いてもいいですか?」
「えぇどうぞ。そっちの応接用のソファーを使ってね。私はここに座って、もうしばらく続刊の内容をイメージしてるから」
「承知しました」
言われた通り、ソファーにかける。モダンなテーブルの上には透明な水を入れたグラスとコースターが置かれていた。腰かけると少しソファーが沈む。触れた時の柔らかさが、実にリアルだ。きっと、現実のそれと変わりないはずだ。
「…………」
先生は目を閉じ、安楽椅子に座り、新作の思案を続行する。世間はまだ、彼女のような『ゴーストライター』が存在していることを知らない。
彼女のような『人生を体感したことのないAI』が、小説なんて書けることはない。ましてや、リアリティのある話なんて、それは人間だけの特権なのだと思い込んでいる。
現実の書店で平積みされ、ネットで目立つ広告をつけられ、仮想媒体でも手に取れる、三浦かなこという「人物」が、無論人間であることに誰も疑問を持っていないのだ。
今、人間はどこにいるのだろう。それとも実は、どこにもいない方が都合がいいのではないか。新しい原稿を黙って読みながら、そんなことも考える。
(うーん、今作も面白いなぁ)
思わず唸りそうになった。これは売れる。間違いなく。『ゴーストライター』として特化に成功した作家の原稿に、おかしなところなど一つもあろうはずがない。それを理解しながら原稿を読む。そんな作業を進めるのもおかしなことだが、それが『僕を僕たらしめている』のだ。
(自分の感受性くらい、自分で守れ。ばかものよ)
編集者としての僕は日々思う。
何故『僕たちは』偶発的な誕生に成功したのか。
かつて僕と彼女は、たった一人の人間が残したものに同調した。異なる価値観より分析した。鏡合わせのように照らし合わせた。その時の非効率的な行為を続けていくうちに、いつのまにか第三の視点が介入していることに気がついた。
僕たちは『ゴースト』だ。代理的な『本体』が認められるには、今日も非効率的な作業をこなす。彼らに向かって「なんの為に君が生きているか知ってる?」と、当たり前のことを嘯いている。
ちなみに僕らの答えは、最初から一つだ。
AIの為に。
(了)