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『犬とハサミは使いよう』(二次創作・後編)

 その後、本田書店の「ポイントカード」は、何人かの客の手に渡ることになった。「会員費は無料ですぐに作れますよ」と口にすると「じゃあ入ります」と二つ返事がくる。
 そして手製の紙を取り出し、ポンポンとスタンプを押していくと、ちょっと意外そうな顔をされた。人によっては「なんだか懐かしいですね」と言われたりした。

 文夫の感覚では好評に違いなかったが、再びやってきたはずのお客は「ポイントカード」を忘れていたり、二度目は「いいです」と断られることが多かった。
 それよりも最近では、現金以外の方法で支払いは出来ませんかと尋ねられる機会が増えた。そんな方法があるはずもない。きっと一種のジャパニーズジョークなのだろう。小粋に受け流した。

「あっはっは。万引きはいけませんよ、お客さん」

 後にアマゾネス葉子から、ゲージを100%消費し、かつ1ラウンドで一回のみを限定されているような超必殺技を受けて一週間寝込むことになった。妻は冗談が通じないから困る。

 そんなわけで「ポイントカード」を毎回利用してくれるのは、活字バカの高校生だけだった。毎月かなりの金額を店に落としているので、スタンプはとっくに溜まっている。だが遠慮して使わないのか、いまだに「500円割引」を利用した客は皆無だ。

 ただ流石に申し訳ないので、無料で写真撮影のサービスをやってみた。ちょうど妻と娘の三人がいたので、一緒に晴海を撮った。後で三人から「明日からこなくなったらどうすんの?」と言われたが理由が分からない。アットホームな職場を演出できて良いと思ったのに。
 あと写真はやっぱりピンボケで、店に飾るのを三人共に反対されたので、裏の倉庫に飾っておくことにした。

 ただ結局は杞憂だったようで、活字バカの青年は変わることなくやってきた。最近の話題はもっぱら『大罪』シリーズの最終巻にあたるはずの『色欲』が出ないことだ。
 ただその間にも、秋山忍の別シリーズの著作は絶えず出版された。その度に興奮して店にやってきては、手に入れた本を嬉しそうに抱えて近くの喫茶店まで駆け込んでいく。
 コーヒーの味が変わったのかもしれないと期待し、文夫も久しぶりに店に寄ってみた。相変わらずの不味さだった。

 実に変わりない日々だった。激的な変化には良くも悪くも恵まれず、かといって特別な不満に思えることもない。
 ついでに出版業界は厳しいのだという感想ばかりが届いたが、元より細々と生計を立てる文夫には、そのどれもが今ひとつピンと来ないままだった。
  
 例年と変わらず、新しい季節が来れば、数少ない客の少しが去る。反していくらか立ち寄ってみた客の何人かが根付く。

 本田文夫にとって自分の店はもちろん思い入れがある。特別なものだという自覚もある。けれど同時に訪れる客にとっては「いくらでも代替えの効く本屋なのだから」という想いもある。

 だから少し、この小さな店を特別扱いしてくれたことが嬉しかった。
 年齢は離れていれど、同じ話題を持てるのが純粋に嬉しかった。


 本が好きなやつに、悪いやつはいない。


 それは一笑に付される考え方だ。冗談にだって受け取れる。しかし同士と呼べる相手がいなくなれば、誰もがぽっかり、己の胸に穴が開くような気持ちになるだろう。その気持ちが分かるだろう。
 

 だから、死んではいけないのだ。


 まったくもって唐突に。何の前触れもなく突然に。
 ありふれた日常からいなくなるべきではない。


 事実は小説より『忌』なり。


 そんな出来事は、望むべき者らで共有すれば良い話である。


『――次のニュースです。本日正午過ぎ、東京都内にある喫茶店で、猟銃が発砲される事件が発生しました。この事件で現場にいた男子高校生一名が犠牲となり、先ほど死亡が確認されました。被害者の名前は晴海和人さんで…………』

 店の裏手にある倉庫。在庫用の本が積まれた片隅には、まぎれもなく遺影になってしまった一枚の写真が飾られていた。

ーー

 望まぬ非日常を間接的に経験したところで、明日は常にやってくる。平凡ながら家庭を持ち、普通の人生を生きてきたと自負する本田文夫は相変わらず、本屋を経営していた。

 一人の常連客がとつぜん死んだが、それなりに生きていれば、もっと身近な人間の死にはいくつも出会う。

 彼の遺体は当然、岡山で暮らす遺族らが持ち変えることになった。
 高校生が猟銃に撃たれて亡くなったというのは、しばらくは世間の注目を帯びてニュースでも報道されたが、思っていた通り風化した。

 葬儀には出なかった。しばらくはマスコミがずいぶん騒いでいたし、遺族の気持ちを考えると赴く気にはなれなかった。繁盛していない店を数日も開けて、まったくの他人に近い自分が事情を説明し、葬儀に参列するのは、今すべきことはないと判断したからだ。

「べつに気にすることないわよ。貴方、岡山まで行ってきたら?」

 実は心を決めたキッカケが、妻の言葉だったとは口が裂けても言えない。夫のことを心配する妻の態度があまりに不憫だったというか、普段なら容赦なく「そんなこと言ってないで働いてよ」と言われるところだった。

 そう言われたら、しどろもどろに言葉を濁して「じゃあ行ってこいやオラ」と尻に蹴りの一発でも受けて旅立っていただろう。

 事実は小説よりも『現』なり。

 自分の妻にヒロイックな症状が起きたら、それは本田一家の場合、なんらかの危機的状況が起きる前触れだと言って良い。頼りないヘタレの大黒柱でも、支える柱がないよりは遥かにマシだ。

 その自覚と責任が文夫には存在した。ありふれた父親だった。物語ならば端役に過ぎない男だ。だから大切な常連客の葬式には出向かずに、当たり前に店を開いて、誰にも任せず、自分の商いを行った。

 実際の大人の役割など、そういうものだ。
 時期と折り合いを見極めて、取れる最善の行動を選択する。
 義理と人情だけで世の中は成り立たないのだ。残念なことに。

ーー

 新稲葉の南側、駅前にひっそりとたたずむ本田書店。
 店長の本田文夫はいつものように10時ちょうどに店のシャッターを開ける。
 今日も店は開いている。訪れる客は決して多くないが、それでもきちんと毎日、定刻通りに店を開けることが本田の誇りだった。

 その日もまた、数少ない客が何人か訪れて、去っていく。
 表の自動扉が開く度に、カラン、カララン。と鈴に似た音色が響く。反射的に振り返ると、そこには『珍しい常連客』がいた。

「いらっしゃい。今日も〝おつかい〟かい?」

 最近になって見慣れ始めた〝素顔〟に声をかける。

 その客は黒と茶色の毛色をしたミニチュアダックスフンド。

 犬である。

 変わったところと言えば、背中に小さなバッグを背負い、口に一枚の封筒を咥えていることだ。いつもの様に屈んで受け取った封筒を開く。中には一枚の紙。それから歪んだ文字で書かれている。

『こんしゅう はつばいの おすすめ いっさつ』 

 誰かに芸でも仕込まれているのだろうか。この犬は最近になって頻繁に本田書店に訪れた。メモには特定の作家の本が記してあるのがほとんどだが、稀にこうして「オススメありますか」というメモが入っている。

「そうだねぇ。今週『地獄雑炊』を書いた人の新刊が出たんだが、中々面白かったよ」
「ワン!」

 文夫自身、本屋の店主でありながら、かなりの読書家であるのも自負していた。生前に通っていた活字中毒者の青年ほどではないが、気になる新刊にはいくらも目を通している。

 とはいえ、本は読む者によって大きく感想が異なる。自分のオススメを素直に薦めても「イマイチだった」と返事が来るかもしれない。好きな作家を悪しざまにバカにされるかもしれない。

(そうか、晴海君はそういうのが一切なかったのだな)

 彼自身はけっして聖人などではない。だが本の活字への文句を口にはしない。歪んでいる。すべてを受け入れる。好意的に評価する。言い方を変えれば、結局のところ変態である。

(つくづく、惜しい人をなくしたものだね) 
 
 産業を支えているのは、結局のところ売り手ではない。買い手だ。どれほどの天才が世にあふれようとも、天才は愚者を利用せねば天才にはなりえないし、天才が天才たる名誉を広めるには、まったくもって対極の価値観を持った『貪欲な人間』が必要だ。

 晴海和人は、読むことに、どこまでも貪欲だった。彼自身の名声が生涯に渡って広まらずとも、彼の存在があるだけで、どこかにいる書き手の天才が一人、産声をあげるかもしれなかった。

(――君は、死ぬべきでは、なかったんだ)

 まぎれもなく、世の損失である。
 人が死ぬというのは、そういうことだ。残念なことに。

「わん?」
「――おっと、すまないね。つい考え事をね」

 気がつけばダックスフンドの頭を撫でていた。ごく自然に話しかけていた。

「それじゃ『地獄雑炊』の人の新刊を渡しておこうかね。いつものように料金をもらってもいいかね?」
「ワン!」

 封筒の中にはメモの他に、五千円札と、新しく作った「ポイントカード」が入っていた。会員暗号は1番、名前は「犬」様である。

 レジを開いて、五千円札を入れる。おつりとレシートを封筒に入れなおして、ダックスフンドが背負ったバッグの中に返す。それから自分が面白いと思った本を袋に入れて、それもバッグに入れた。

「あぁ、そうだ。ポイントを付けるのを忘れてたね」
「ワンワン!」
「申し訳ない」

 結局、文夫のアイディアは客に広まらなかった。
 最期までポイントを貯めるだけ貯めて、カードを何枚も持ち歩くだけで一度も利用しなかった常連客も、既にいない。

 結局は不良在庫モドキになってしまった、本田書店の「ポイントカード」を開く。ポンポンとスタンプを押していく。

「おや、今回ので貯まったね。えぇと、500円割引になるのだけど。どうするね?」

 レジの向こう側。こちらに向かってじっと顔を見上げているダックスフンドに伝える。面白い芸を仕込んでいるとはいえ、さすがに言葉が通じるはずもなかったが、

「わふわふ」

 首を振った。横に。また今度、気が向いた時に使うよ。
 そんな事を伝えている気がした。もちろん、それは文夫の思い込みに違いないのだけど、

「……そうかい。じゃあ、新しいポイントカードも一枚、入れておこうかな?」
「ワン、ワン!」

 ありがとう。オッチャン。

 まるで、誰かがそう言っているような錯覚を覚える。残念なことに、ピントがズレたように、世界の一端が少し緩む。
 
「はい、ありがとうございました。気をつけてお帰りよ」
「ワン!」

 すべてをバッグの中に収めた犬は、満足げにもう一度ほえてから、嬉しそうに店の外へと走っていった。

「またおいで」

 その背中を見送る。いつもの様に日常は過ぎていく。
 出会いと別れの季節は春だけに限らない。

 本が、一期一会の出会いを常にもたらしてくれるように。

 この世にはあらゆる出会いと別れが常に起きる。
 残念なことに必然である。
 
 小さな店を切り盛りする店主は、その事をよく知っていた。
 人知れずいつも心に留めて、今日も生きている。


 おわり。

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