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『犬とハサミは使いよう』(二次創作・内容1巻まで)


「ポイントカードをね、始めてみようと思うんだよ」

 東京、新稲庭駅の南側、駅前にひっそりとたたずむ書店がある。
 昨今においてはやや珍しい、個人商店の本屋を営む大黒柱がそう言った。

「ポイントカードを始めるとか、今更なんで?」
「それはこれからの世のニーズを考えてだねぇ……」
「お姉ちゃん、そこの茶ぁ取って」
「ほいほい。あ、私今日はタマゴかけご飯にしよーっと」
「いいわねそれ。やっぱご飯にタマゴは最強だわ」
「ちょっとアンタ達、最近卵高いのよ。醤油だけでガマンなさい」」
「お母さんケーチ」
「ケーチ」
「貧乏を憎みなさい、娘たちよ」

 本田家の母は娘たちに告げた。

「将来は結婚するなら、毎朝タマゴかけご飯に、味付け海苔と梅干しをセットで出せる男を捕まえるのよ、優しいだけのヘタレ男とか、どうせ将来はメタボ、ややハゲになるんだから論外よ。
 だいたい、本人は商才があると思っていろいろ考えてるんだけど、まず思考が二十年も古臭い上に、間違いなく的外れだから。駅前という立地条件は悪くないのに、本人物件が売り上げ低迷ついでに倦怠気だからね。んで、ポイントカードがなんだって、オラァン?」

 どこにでもある、一家だんらんの食事風景だった。八畳ほどの居間に置かれたテーブル席には、父である本田文夫が座る。彼はたぷたぷしたアゴを揺らして青ざめており、向かいには手刀で雑誌を分断する人間裁断機の異名を持つ、妻の葉子がいる。

「ま、ポイントカード導入するのはいいとしてさー、あぁいうのって、最近はどっかの連盟に加入しなきゃなんないんでしょ?」
「場合によっちゃ、専用のレジ丸ごとレンタルする必要あるし、維持費もかかるよねー」

 夫婦の両左右に座った姉妹、桜と弥生も口々に告げた。表向きは母親を援護しつつも、できるだけ父の面子も立てる辺りは如才ない姉妹だった。

「いやいや、レジのリ―スなんて必要ないよ。べつにどこかの連盟に加入するつもりもないし」
「じゃあポイントカード作れないじゃん」
「ん? 作れるだろカードぐらい?」

 文夫が言う。表情はどこか困惑気味で、娘たちの言葉を予想していなかったようだ。本人の理解が追いついてない。あきらかな祖語がある。

「最近は『わぁど』とか『えくせる』があるじゃないか。年賀状を作るのに利用してる『ぷりんたァ』を使って、自分たちでデザインすれば出来ると思うんだ。スタンプの方も予算を抑えるために、百均のを買えばいいしね」

 父は言った。ナイスアイディアだろ。ハイカラだろ。と言わんばかりにアゴをゆらした。

「……お姉ちゃん、今って西暦何年だっけ?」
「……原作の一巻が発売したのが2011年だよ……」
「ハイカラって死語?」
「わかんにゃぴ。でもペル○ナ4で、その言葉がにわか復活したのは知ってる」
「メギド○オンでございます。ゴールデンは面白かったね」
「絶賛5をプレイ中だよ」

 娘二人が絶句して、口からぽろりとご飯つぶを取りこぼすついでに、原作設定をメタり始めた。妻の葉子だけは、何もかも最初から分かっていたようで、ため息すらもらさずに黙々と箸を進めた。

「だから言ったでしょ。アンタらのお父さんのセンスは20年……30年は古いんだっつの。さっさとご飯食べちゃいなさい。遅刻するわよ」

 おだやかな朝の日常だった。

『東京近郊は、今日は一日よく晴れるでしょう』

 部屋にあるテレビのアナウンサーが言った。去年に年末のセールで買い換えた薄型の液晶テレビは、まさに大型電気店加盟のポイントを全額支払って購入したものだが、父はその事をすっかり忘れている。

 最近のテレビって、ビデオデッキが付いてないんだね。
 あとリモコンのボタンが多すぎてわからないよ。
 録画ってどうやるの。番組一覧が見たいから、お母さん新聞取って。

 本田書店の大黒柱は東京の人にしては珍しく、恰幅の良さも相まって、実にのんびりした性格だった。

ーー

 本田書店は駅近くに店を構えている。さほど離れてない場所に超難関校と揶揄される進学校があり、参考書や問題集が比較的売れる。

 一番の売り上げはやはり、学生を中心に好まれるマンガやライトノベルだった。けれど売れ筋のある本は、都内の大型書店に客を持っていかれてしまう。学生客らは休日、遊びにでかけた先で本を買うからだ。

 新刊がでれば入れ替えはするものの、店のスペースを始め棚数にも限りがあるので、客からの予約を含め、仕入れる数はかなり限られるのが現実だ。

 出版不況は叫ばれて久しいが、実際のところ、元々日本では「マンガ」を含めた書籍が〝異常に売れすぎていた〟。

 本を読み書きするのは、世界全国に存在する人間共通の文化だが、先代らの芸術や美術、あるいは思想を含めた概念を「安価な娯楽」にして世に浸透させたのは、日本人だけと言っていい。

 個人の突出した才能が、出版業界の最盛に大きな影響を及ぼした。
 島国でありながら、かつては紙の消費量が世界一位であった事からもそのことが窺える。 
 だから言ってしまえば「紙上に娯楽を表現し、それを流通させる」という産業が、日本という国では元々突出して高かったのだ。

 けれど、右肩上がりに伸びた隆盛がひとまず落ち着き、さらに情報の発信源がネットに移り始めたところで「出版不況」が口にされた。

 「紙の特権」が衰退し始めたことも相まって、近年ではますます顕著になった。ネット販売の利便さは当然ながら、電子書籍への抵抗も緩和されつつあり、少なくとも個人商店の本屋が経営を続けるのは難しくなっている。

 本田書店も例外ではなかった。しかし店主は世の事情にたいへん疎く、あるまじき事に手作りの「ポイントカード」ならぬ「スタンプカード」を夜なべで自作して悦に入っていた。

 500円でスタンプ一個。
 20個押したら、500円の割引なんてどうだろう?

 妻の葉子は無言でミドルキックを放ってきた。以降、何も文句を言ってこないので、たぶんオッケーなんだと解釈した。ついでに娘の二人も口を効いてくれない。さすが今時の子は理解が早い。

 ただ不思議なことに、翌日から大黒柱のご飯だけが用意されなくなった。仕方ないので食パンを焼いた。家族の三人は和食なのに、自分だけパンにジャムを塗っている。

 一家四人の中で、文夫だけが違う朝食である。

 妻に早めの健忘症が訪れているのかもしれない。心配になって「最近物忘れとか大丈夫?」と尋ねてみたら、こめかみのところに青筋が立った気がしたが、やはり返事がこない。

 娘がぽつりと「お父さんってある意味、超ポジティブだよね」と呟いた。後でポジティブを辞書で調べると、生きる事に前向きだと書いてあった。久々に褒められた。チョー嬉しい。
 
 そんなわけで、いよいよ本田書店も「ポイントカード」を導入した。
 レジカウンター横には、百均で購入した『商売繁盛』のハイカラな木札が置かれている。それに追加して、お手製のボードに「ポイントカードはじめました」と、目立つように赤の油性マジックペンを書いて置いた。

「うん、良いなコレ」

 文夫はうなずいた。せっかくだから、家のカメラで写真を撮った。彼の撮る写真は、常にピントがズレていた。

ーー

 本田文夫が、手作りの「ポイントカード」を始めたのは、実は理由がある。その事を妻も娘も知っていた。

「やっぱり、今年から来るようになったあのお客さんの為なのかな」
「でしょ、ほんとお人よしなんだから、お父さんは」

 春は出会いと別れの季節だと言われている。新入生や新社会人になった人々が新しい環境に移る。

 大きな店では毎日大勢のお客さんが訪れる。来客する人々の顔ぶれが少々変わったところで、それに気づけというのは無理がある。

 けれど店の規模が小さくなってくると、顔なじみの客というのは増えるものだ。頻繁にやって来るお客の顔は覚えるし、ある日を境に姿を見せなくなれば「なにかあったのかな」と心配になったりする。

 その時に初めて記憶を遡り、季節が春であったなら、新しい土地へ越したのだろうと、そんな風に思ってしまうこともあるのだ。

 本人と直接に言葉を交わさずとも、一期一会の出会いがある。
 それは、初めて手にした本の手触りに少し似ている。
 ふとした際に、自然と思いだしてしまう様なところもそうだった。

 そして今年もまた一人。
 店に訪れなくなるような事がおきれば、事あるごとにその姿を思い出してしまうような常連客が訪れたのだ。

ーー

 カランカラン、カララン。

 本田書店の自動扉は開閉した時に音がなる。新刊の小説を並べた棚をを整理していた文夫はすぐに気づき、そちらに顔を向けた。

「オッチャン! 秋山忍の新刊届いてる!?」
 
 目が合うなり言ってきた。文夫が「いらっしゃいませ」を口にするより早く食い入るように尋ねてきた。

「『大罪シリーズ』の新刊、今日発売だったよな!?」

 学生服を着た青年は、いつも駆け足気味に本田書店にやってくる。自動ドアを潜った時点ですでに赤ら顔だ。瞳は爛々と輝いている。古典的な例えをするならば、ショーケースに入ったバイオリンに憧れる少年。

 しかしもっと現実的に例えるならば、「ハッハッハッ!」と舌を伸ばして、これからご褒美を得ることを期待する雑種犬に似ている。

「春海君、いらっしゃい。新刊でてるよ」
「くぅー! この日をどれだけ待ち望んだか! 俺昨日、興奮して寝られなかったよ!」

 今年の春から顔を見せるようになった常連客は、晴海和人といった。近くにある超難関の進学校の制服を着ている。文夫が何気なく店にかかった時計を見ると、針の短針は11時を指していた。

 本日はお日柄もよく、平日である。

「晴海君、学校は?」
「あー、早退して抜け出してきた、気がする」
「気がする?」
「いやぁ、俺も正直あんま覚えてなくってさぁ。今日はいよいよ、大罪シリーズの新刊が読めるんだって、ずっとそればっかり考えてたんだよ。んで気付いたらいつのまにか外歩いてた。早足で」
「青春だなぁ」

 おたがいに「あっはっは」と笑い合う。

 離れた場所で作業をしていた葉子は「ヘンな薬でもやってんのかお前らは……」と内心疑い、警察に通報しようかなと考えた。しかしスルーした。善意ではない。

 晴海和人は現役の高校一年生でありながら、本田書店の数少ない常連客だ。現在ではもっとも売り上げに貢献している「活字中毒者(おとくいさま)」の一人でもある。

 万引き犯ならいざ知らず、春海を警察に引き渡す道理はない。学業をサボって制服を着たまま、夢遊病のようにフラフラ外を走っているのは問題かもしれないが、まだ若いんだから大丈夫でしょ。という判断。
 夫に関してはあきらめている。いろいろと。

「春海君、大罪シリーズの新刊取ってあるよ。タイトルは『暴食』だったかな」
「そうそう。有名な七つの大罪をモチーフにしたシリーズな。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、んで今日発売されたのが、暴食」
「ということは、最終巻は色欲だよね。最後はストレートな恋愛物になるのかもしれないね」
「んー、どうかな。秋山忍に関してそれはないような……いや、どんな結末であれ、あの人が書く本は最高に面白いのは間違いないんだけどさ。なんていうか、変幻自在な作家じゃん、秋山忍って」
「あぁ、それは分かるねぇ。だけど僕の予想だと、あの作者は結構若いと思うよ。確かプロフィールを公開してないんじゃなかったっけ」
「そうそう。今時珍しい完全な覆面作家だよ。複数の新人賞でデビューして以来、詳細不明。ネットだと60を超えてるっていう意見もみるけど、確かに人生経験が豊富っていうか、千差万別の趣味嗜好や特技を持った人間が、老若男女そろって出て来る辺り、その意見も分かるんだよなー」

 まったくの息継ぎなしに語り尽くす。
 実に嬉しそうに、それこそ「信者」の物言いで、彼は秋山忍という作家の覆われたベールに関して自論を口にした。

「でも俺もオッチャンと同じ意見だよ。理屈じゃないんだけど、なんか若い気がする。あとたぶん女性」

 文夫が「うんうん」と、こちらも嬉しそうにうなずいた。
 作者によって描かれた物語。本と呼ばれる媒体を共有した読者らによる、私的な意見の邂逅だ。

 感想を自身の内に秘めているのも良いかもしれないが、やはり誰かと言葉を交わしたところで、それはより輝くものに変わる。

 なにより文夫が好ましく感じているのは、晴海という青年は「イマドキの若者」にしては、好き嫌いの指針によるブレ幅がないことだ。

 特に『本』に関しては、本当に「本ならなんでも好きだ!」という類の、お手本のような読者であり、活字中毒者である。

 とはいえ、一般の高校生以上にかなりの冊数を読んでいるので「これが今の流行なんだな」という視点と理解もきちんと持ちあわせている。
 その上で晴海は「本ならなんでも好きだ!」と言ってのける。実際に雑食よろしく、それが本ならば、あるいは活字という媒体で出来た物ならば、すべてに目を通して「好きだ!」と言ってのけるのだ。

 ある種の才能を持った完全無欠の『読者』である。
 あるいは、思考の偏った変態ともいえる。

 現代の言葉で表現するなら「残念な人間」が適切だろう。
 そういう人間が表向き大成することは稀だ。しかし「残念な人間」が数多くいないと、その業界もまた衰退する。残念なことに。

 文夫は「残念な人間」の一人だ。本人も薄ぼんやりとその自覚はあるようなないような気がする。けれど彼はやはり「本が好きな残念な人間同士」が好きだし、残念でない妻と娘がいてくれるので、人生にあまり不満を持ったことはない。ミドルキックされた脇腹がちょっと痛いが、それもまた愛だろう。たぶん。きっと。おそらく。割と。

「あれ? オッチャン、ポイントカードなんて始めたの?」
「さすがだ晴海君。気づいたようだね。うちでもついに、最新のサービスを始めることにしたんだよ」

 予約用の棚から大罪シリーズの新刊を掴みながら振り返り、店主がニヤリと笑った。

「500円買う毎にスタンプ1つ。20個貯まったら、500円サービスだよ」
「つーことは、1万円で500円も割引? オッチャン、この店大丈夫かよ」

 今年から常連客になった高校生男子は遠慮なく告げた。店があまり繁盛してない様子は理解してるらしく、その原因に「店主のオッチャン」が起因しているのも見抜いているらしかった。
 
「でも春海君は、親元離れて一人暮らしなんだろう。あまり自由になるおこづかいとか無いんじゃないかな」
「そんなこともないけど。図書館とかも利用してるしさ」

 春海の家族は岡山の方に転勤していた。彼の話によれば、例の進学校に合格できたら、東京に残っても良いという条件だったらしい。

 そして今は東京の中でも、元々住んでいた実家からは大分距離のある安アパートで一人暮らしをはじめたようだ。進学の際に、中学時代の友達とも、ほとんど別々になったらしい。

 どうして東京に残りたかったのか、そんなに一人暮らしがしたかったのかと聞けば、晴海は言った。

 ――だって東京って、本の発売が一日早いだろ。
 岡山に行ったら、本の発売が一日遅れる。それは耐えられない。

 普通の感性を持つ大多数の人間には、それは理解されない。
 仕事ならばまだ理解を持つ者もいただろうが、単に趣味が読書というだけの高校生が「地方よりも新刊が一日早く読めるから」という理由で、超難関といわれる高校に受験してまで残りたがるのは普通はない。

 元から頭が良かったのならともかく、両親もまさか合格できるとは思っていなかったから、そんな条件を出したに違いなかった。つまり晴海和人という青年は、いっそ清々しいまでの『活字バカ』だったのだ。

 そんな晴海和人が今年から一人暮らしをはじめた。高校の授業をサボってまで通う先は、個人で商いを行う「本田書店」だった。

 大きな店には、毎日大勢のお客がやってくる。店員は上司から接客に携わる「業務」をきちんと教わるが、特定の客と深く交流する間柄、友達のような関係にはならない。

 贔屓してると映れば、店の評判が落ちるかもしれないからだ。悪いことではない。あくまでも「店員と客」という平等な関係を保っていると呼べる。むしろそちらが商いとしては「普通の感覚」に近いだろう。

 本田書店は小さな店だ。毎日やってくる客はお世辞にも多くない。
 言い変えれば「たった一人の客」のために、なにか出来ることはないかと考えることもできる。

 その考えの結果が、ピントがややズレていても、まぁ致し方なし。
 本気を出せば、熊さえ奢る妻のミドルキック一発で命に別状なく済んだのだから幸いといえた。

「晴海君、せっかくだから、うちのポイントカードを使ってみないかい。今なら無料で会員になれるよ」
「将来は有料になる予定があるんだ?」
「これから会員になりたい人が殺到する予定だからね。会員が増えたら年間費用をもらう分、特典も増やしていこうと思ってるんだよ」
「へぇ、具体的にはどんなの?」
「写真を撮れるサービスをね、始めようかなと」
「……写真?」

 晴海が首を傾げた。自他ともに認める、無類の本好きのバカではあるが、それ以外の感覚は割と普通だった。

「ほら、大きな書店になると、作者の色紙とか飾ってあるだろう」
「あるね。○○書店さんへとか入ってるの」
「それを参考にしてね。うちでは写真を撮ろうと思ったんだ」
「……作者近影的な?」
「いや、常連になったお客さんの写真をね、額縁に入れて飾るんだよ」
「オッチャン……それは、なくね? ヘタしたら遺影じゃん?」

 晴海は想像してみた。一見のお客が店に訪れてみたら、見知らぬ人たちのモノクロ写真が並んでいる光景を。しかもすべて目立つ場所に飾られていて、その中には自分の笑顔の写真もあるのだ。ピンボケ気味で。

「――ちょっと貴方、後で裏の倉庫いいかしら? いいわね?」

 話を聞いていたらしい妻の葉子が、笑顔で言葉を挟んできた。
 言い方が完全に「テメェ後で屋上な。逃げたらシメっぞ」だった。
 
「ん、わかったよ」

 亭主の方は完全に気づいてない。普通に仕事だと思っている。客である晴海の方が察しが早く「ご愁傷様です」とか言っていた。

「えーと、オッチャン、そのサービスはともかく、とりあえず本買っていいかな? 早く読みたくてたまらないんだよ」
「よし分かった。最初のポイントは二倍だよ」
「わかった会員になるから。オッチャンはもうちょい、身の安全を考えてくれよ。俺の心臓に悪いから」
「よしきた。それじゃ税込みで1165円だね。さらにオマケしてスタンプを一個増やそうじゃないか」
「ぴったり持ってきてるよ。あと出血大サービスは程々にしといてくれよな……文字通りの意味で」
「謙虚だねぇ、若いのに」

 「あっはっは」と笑う。晴海の方は半笑いだった。
 本田書店の店主はレジを開き、いつも通り会計を行った。本を紙袋に入れて「ありがとうございました」と添えて渡す。

 それから二つ折りの「本田書店ポイントカード」を取り出した。
 苦手なパソコン作業で作った、四角く縁取られたマス目の内に、小学生が使うような花丸のスタンプを、ポンポンと続けて押す。
 
「はいどうぞ。今後もごひいきに」
「ありがと、オッチャン。早速読んでくるぜ!」

 家に帰って読むのすら待ちきれない。といった感じだった。
 実際すぐ近くの喫茶店で本を読んで「まだ消化不足」とばかりに本田書店を往復する事もある。根っからの活字中毒だ。
 
 カラカラ、カラン。

 大好きな作家の本を、一生の宝物のように抱えた高校生が店を後にする。

「あ、しまったな」

 その背中を見送ってから、店主は気がついた。

「スタンプカード、名前を入れるところを作ってなかったか」

 新しい物を作る必要ができたら、名前と会員番号を追加した欄を増やさなきゃ。そう思ってから、妻に呼び出しを受けていたのを思い出して裏の倉庫に向かった。

ーー

 その後、本田書店の「ポイントカード」は、何人かの客の手に渡ることになった。「会員費は無料ですぐに作れますよ」と口にすると「じゃあ入ります」と二つ返事がくる。
 そして手製の紙を取り出し、ポンポンとスタンプを押していくと、ちょっと意外そうな顔をされた。人によっては「なんだか懐かしいですね」と言われたりした。

 文夫の感覚では好評に違いなかったが、再びやってきたはずのお客は「ポイントカード」を忘れていたり、二度目は「いいです」と断られることが多かった。
 それよりも最近では、現金以外の方法で支払いは出来ませんかと尋ねられる機会が増えた。そんな方法があるはずもない。きっと一種のジャパニーズジョークなのだろう。小粋に受け流した。

「あっはっは。万引きはいけませんよ、お客さん」

 後にアマゾネス葉子から、ゲージを100%消費し、かつ1ラウンドで一回のみを限定されているような超必殺技を受けて一週間寝込むことになった。妻は冗談が通じないから困る。

 そんなわけで「ポイントカード」を毎回利用してくれるのは、活字バカの高校生だけだった。毎月かなりの金額を店に落としているので、スタンプはとっくに溜まっている。だが遠慮して使わないのか、いまだに「500円割引」を利用した客は皆無だ。

 ただ流石に申し訳ないので、無料で写真撮影のサービスをやってみた。ちょうど妻と娘の三人がいたので、一緒に晴海を撮った。後で三人から「明日からこなくなったらどうすんの?」と言われたが理由が分からない。アットホームな職場を演出できて良いと思ったのに。
 あと写真はやっぱりピンボケで、店に飾るのを三人共に反対されたので、裏の倉庫に飾っておくことにした。

 ただ結局は杞憂だったようで、活字バカの青年は変わることなくやってきた。最近の話題はもっぱら『大罪』シリーズの最終巻にあたるはずの『色欲』が出ないことだ。
 ただその間にも、秋山忍の別シリーズの著作は絶えず出版された。その度に興奮して店にやってきては、手に入れた本を嬉しそうに抱えて近くの喫茶店まで駆け込んでいく。
 コーヒーの味が変わったのかもしれないと期待し、文夫も久しぶりに店に寄ってみた。相変わらずの不味さだった。

 実に変わりない日々だった。激的な変化には良くも悪くも恵まれず、かといって特別な不満に思えることもない。
 ついでに出版業界は厳しいのだという感想ばかりが届いたが、元より細々と生計を立てる文夫には、そのどれもが今ひとつピンと来ないままだった。
  
 例年と変わらず、新しい季節が来れば、数少ない客の少しが去る。反していくらか立ち寄ってみた客の何人かが根付く。

 本田文夫にとって自分の店はもちろん思い入れがある。特別なものだという自覚もある。けれど同時に訪れる客にとっては「いくらでも代替えの効く本屋なのだから」という想いもある。

 だから少し、この小さな店を特別扱いしてくれたことが嬉しかった。
 年齢は離れていれど、同じ話題を持てるのが純粋に嬉しかった。


 本が好きなやつに、悪いやつはいない。


 それは一笑に付される考え方だ。冗談にだって受け取れる。しかし同士と呼べる相手がいなくなれば、誰もがぽっかり、己の胸に穴が開くような気持ちになるだろう。その気持ちが分かるだろう。
 

 だから、死んではいけないのだ。


 まったくもって唐突に。何の前触れもなく突然に。
 ありふれた日常からいなくなるべきではない。


 事実は小説より『忌』なり。


 そんな出来事は、望むべき者らで共有すれば良い話である。


『――次のニュースです。本日正午過ぎ、東京都内にある喫茶店で、猟銃が発砲される事件が発生しました。この事件で現場にいた男子高校生一名が犠牲となり、先ほど死亡が確認されました。被害者の名前は晴海和人さんで…………』

 店の裏手にある倉庫。在庫用の本が積まれた片隅には、まぎれもなく遺影になってしまった

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