誰かに救いを求めることが出来ない時、人が頼るのはいったい何だろうか。
酒や煙草に始まり、”悪徳”と呼ばれるものの大半が、そうした”頼り”の対象であったりする。そんな習慣にのまれてしまうのも、ミイラ取りがミイラになるのも、また有りうるくらいに人は、”救い”に飢えるものかもしれない。
他者を頼れないなら、己に頼るほかなし。
そうして積んだ経験値や演技力、身に着けた技能が自信と呼ばれるものなら、孤独と自信は、背中合わせなのだろう。
頼りたい自分と、頼れる自分。自分自身にだけ、甘い顔をする自分。
“Self-confidence”
嘘の付けない自身相手に、どこまで私は、誠実であれるのか。
毎日、毎秒、まるで審判にかけられているかのような気分で、自らの期待に応えることは、およそ、誰かの期待に応えるより難しい。
だから”自信の無い人”、というのは、それなりに”正しい”のかもしれない。
外を見て、周囲を見回し、誰かの期待や、用意された基準に己をはかることで、やきもきとする。自己完結できない、ということは、終わりの無い不安に苛まれる、ということでもある。
もし叶うなら、ほどほどの不安と自信の間を、"行ったり来たり" できればいい。
「それが幸福か」と尋ねられたら、きっと首を傾げてしまうが、救いの問題は、どのような形でも、きっと最期まで、当人には分からないものだとも、思う。