幼い頃自分は、いわゆる「キレやすい」子どもだった。
確かに理由はある。
理不尽な暴力や悪意に晒され、何も感じない、という訳にはいかない。
しかし何より、返す言葉を知らなかった。
語彙も無ければ、経験もない。
何が何だかわからないが、ワーッ!!となる。
頭の中が、色水のバケツをひっくり返したように、赤一色に染まる。
その時の記憶も、曖昧になる。
自分の身体が、自分のものではないようになる。
これではいけない、このままでは危うい。
皮膚が腫れたように熱を持つのは、血が熱いから。
心臓が時限爆弾のようにカチカチ言って膨らみ、額から汗が噴き出す。
今損なわれようとしているのは、自分自身だと気付いた。
口から牙を抜くことが出来なくても、噛み付く被害を最小限に。
まるで言葉の学習は、手製の轡を自身の口にあてがうようなものだった。
荒げた呼吸のリズムを取り戻し、冷静になること。
周囲と自分との間に意識的な「中立」域を設け、
それら一切を客観的に見られるようになるまで、
まずは自身を押さえつけておくこと。
その上でようやく言葉を、理性を繰って、自身の有り様を語ることを”許す”。
そうした”技術”を身に着けて、それでも足りない部分はあるけれども、
この「努力」無くして、
自分と社会との間に然るべき接点を見出すことは、不可能だった。
怒りのままに、恐怖のままに
振る舞うことは容易く、だからこそ、それを如何なる言葉に代えて、
もしくは沈黙に代えて、生きることができるのかと問い続ける。
正しさのユクエは、自分の身に返ってきたときに分かるから。
それまではじっくり悩んで、考えていることに時間を使おう。
あらぬものを傷つけるよりは、と選んだ方法が「言葉」ならば
これによって、守りたいと自分が望むものを見つけよう。
研ぎ澄ませば、本当の刃よりも容易く人を傷つけることのできる
凶器の側面は、常に内側=「自分の側」に、引き付けておきたい。
誤って誰かが触れぬように、細心の注意を払って。
それが自分に課せる
唯一のルールのように思う。