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字数を廻る「難題」

字数で論文の質は決まらないのだと、
指導教授が言っていた。

推敲し、要約し、真に書くべき内容だけを、書かなくてはならない。
ただ自分の書きたいように書くな、
丸山眞男の論文のように、濃縮された内容を目指せ、と。

それに対して私は「御尤も」と頷いた。
丸山氏の文面から窺える、艶やかな思考とその深みに心打たれ、どうしたらこんな風に書けるかと、想像した。

それから、息が止まりそうなほど、綿密に施される添削指導と、
回を追うごとに変貌し、短くなる自身の論文と付き合うこと1年半。

出来上がったものを後から読めば、情報量の圧縮加減に、思わず血圧が上がり、頭痛がしてくるほどだった。

だからこそ思う。
文字の数は、それが織りなす文章に含まれる情報量とは関係ない。例を挙げるなら、五七五の俳句が、無窮の世界を詠えることは、とても有名な話である。

書き手の意図によってか、または偶然に。
もしくは読者によって読み解かれ、感ぜられる「内容」は、どれも全く同じものであるはずがない。

それが文章の本質であると理解されても尚、字数という制限が、社会で受容されるのは何故か?

書き手に綴られた瞬間から、
様々な意味と内容を持ちうる文章の”奔放さ”。
しかし、その”儘ならなさ”まで、支配できるとしたら? 

そんな書き手の欲求が、ルールの存続を望んでいるのではないだろうか。

現代文学の父、ジェイムズ・ジョイスに感謝しつつ、

昨今は、「書きたいように書く」ことが、手段であれ場であれ、ある程度可能な時代なのかもしれない。
国家元首でさえ、立場に伴う責任や後先を考えずに、"思ったまま"を口走る世の中なのだ。


書き手自身が、より大きな「書く自由」を行使する。

この自由の果ては、では何処にあるのか。それはとどのつまり、彼が紡いだ文章そのものが持つ、「意味の自由」との折衝にあるのではないだろうか。そしてこの折衝点としての、字数制限。そういうことならば、安易に疎かには出来ないルールである。

穏当は言わないまでも、解釈の余地が限りなくゼロに近い、無機質なルールには違いない。これがあることで、生まれる言葉遊びもあるだろう。
文章技巧の発展にも、このルールは大いに貢献している。

読書中の
ケヴィン・バーミンガム著、小林玲子訳『ユリシーズを燃やせ』

訳本で、訳の方にこんなに心が躍る経験は、今までしたことがない。初めて、ファンレターを書こうと本気で検討中である。

原文を読むのと、訳本を読むのとでは、
読み込む相手が少なくとも一人、増えることになる。訳者の方が読まれたように語られるのを、耳を澄ませて”聴く”、という感覚。

この伝聞形式は、とても良いものに出会うと、こうも楽しくて仕方がないのだと知った。Счастье!

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