春と紙ヒコーキとラランドがめちゃくちゃ良くて最近かなり心の深いところにきてます。YouTubeに根ざした人達だから芸能界の文脈ではない自分達の笑いをやってるんですよね。
2組とも大学のサークルの仲間であり、芸人になろうとしたのではなくて、仲良い人との暮らしの延長に芸人の生活があった人達。
テレビスタッフさんやスポンサーの意向に影響されない、関心向くままに自分達の形を変えない笑いが良きです。
童貞だってクズだって親と仲悪くたっていいんてすよね。胸張ってれば。
やっぱり自分の文章を書こうと思えてます。文学は崇高なものだと考えてる人多い気がしてます。そのため文学をやろうと自分の形を変えてしまう人が多い気がします。でも少なくとも私の中では何かに倣って崇高なものを、きちんとしたものを書こうは違うと感じてます。
文学とはこうあるべきではなくて、私の作品って文学だったんだ、です。文学としてどうか、崇高かどうか、良い作品かなんて評価する側が後々決めればいい。令和の文学がどんなものか実はまだ誰も知らないんですよ。
最近は特に誰かの文学の真似じゃなくて私の作品書こうとしてます。
具体的には読者に向かって歌えばいいんだと思います。一緒に踊ろうとしたらいいんだと思います。崇高じゃなくてもひょっとしたら文学じゃなくても、私の書くものを読んでくれる人と文字を通して楽しく過ごしたいです。その経験がなんだったのかはお互い老けて暇になってから言葉にしましょう。
なので真剣にふざけてます。ドラキュラという作品ではラランドの「お母さんヒス構文」を拝借してます。ヒス構文書くの楽しいぃ。もし良ければお読みください。
https://kakuyomu.jp/works/16818093081973867036